教会を守るために

聖書箇所;ヨハネの手紙第二1節~13節 メッセージ題目;教会を守るために  本日のメッセージは、私たち教会は何を学び、何を守るべきか、みことばから思い巡らしつつ作成したものです。私たちの教会と、私たちの信仰を守ることを前提に、ともに学びたいと思います。  第一のポイントです。私たちの持つものは、表裏一体の真理と愛です。  1節から3節をお読みします。……私はあなたがたを本当に愛しています! まさしく、ヨハネが愛の使徒と呼ばれるゆえんです。この手紙はヨハネの手紙第二ですが、ヨハネの手紙第一は、そのテーマが「愛」です。「神は愛です」という、聖書をひとことで要約するようなことばも、このヨハネの手紙第一に含まれています。それほどまでに愛を強調するヨハネが、「私はあなたがたを本当に愛しています」というのです。とても説得力のあることばです。  しかし、愛しているのはヨハネだけではありません。「私だけでなく、真理を知っている人々はみな、愛しています」ともヨハネは語ります。真理を知っている人とはだれでしょうか? そもそも、真理とは何でしょうか? 真理とは、自分が真理と思えばそれが真理なのではありません。  真理とは、創造主なるイエスさまご自身と、そのみことばによって示されたものです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」イエスさまはそうおっしゃいました。私たちは信仰によって、イエスさまが道であり、真理であり、いのちであることを受け入れています。ですから、イエスさまというこの真理を持つ者は、教会の兄弟姉妹を、ほんとうに愛するように導かれるのです。  私たちはみことばをお読みするとき、自分の愛のなさ、みことばから遠い現実に、時に悲しまされることがあるでしょう。しかし、それで私たちはさばかれることなど決してありません。私たちはどんなに自分の貧しさを痛感しようと、「愛している」のです。なぜでしょうか? それは、愛なるお方、イエスさまを心の中にお迎えしているからです。  「神は愛です」、そうです。神さまは愛そのもののお方でいらっしゃいます。ですから、愛なる神さまであられるイエスさまを受け入れているならば、その人には、イエスさまの愛で人を愛する可能性が、無限に開かれていくのです。  コインの裏表どちらから見てもコインそのものであることは変わらないように、真理と愛は側面がちがうものであっても、実際は同じものです。それは、イエスさまが真理であり、同時に愛であられるゆえです。私たちは変わらない基準、真理として、神さまとそのみことばなる聖書を受け取り、その神さまとの交わりを通して、またそのみことばに啓示されているとおりに、愛を実際に行うのです。  教会とは、真理と愛が旗印として掲げられているところです。もし私たちが、この世に対して真理を指し示すことができなかったらどうなるでしょうか? 私たちの間に愛がなかったならどうなるでしょうか? 単なる宗教者の集まり、聖書同好会の集まりと何ら変わることがなくなります。私たちは人間的なレベルの宗教をやっているのでもなければ、同好会のレベルのことをやっているのでもありません。この地上にイエスさまの統べ治める、御国を実現すべく召された存在、それが私たちです。  愛というものは神の真理なしには成り立ちません。ここに私たちは、真理の骨組みを私たちの中に確かにするために、聖書の教理を体系的に学ぶ必要が出てくるのです。また、毎日の聖書通読を通して、聖書の真理をわがものとする必要があるのです。それでこそ、私たちにとっての愛はみこころにかなった、確かなものとなります。  逆に、私たちが真理を持っているということは、愛という形で実現することで証明されます。いかに正しいとか、聖書的とされる教理を教会で教えていようとも、愛するという点において落第生となるということは、充分にありえることです。パリサイ人などまさにそういう例です。福音書には、なぜあれだけたくさんパリサイ人の記事が登場するのでしょうか?それは、信仰によって救われた私たちはああではない、などと、安心させるためでは決してありません。私たちも真理を知るあまり、パリサイ人のようになることは充分にある、気をつけなさい、と、警鐘を鳴らしているからと受け取るべきでしょう。私たちに求められているのは、真理によって人をさばく生き方ではありません。真理によって人を愛する生き方です。  私たちは、神は愛であることを証しする生き方をするために、愛と表裏一体の真理を身に着けてまいりたいものです。ともに聖書の真理を学ぶことに、一生懸命になってまいりましょう。  第二のポイントです。私たちのすることは、互いに愛し合うことです。  4節、5節をお読みします。……愛し合う! これが私たちに求められていることです。忘れてはなりません。「愛し『合う』」です。だれかが一方的に愛すれば、それで完結するのではありません。愛し愛される関係の中で、愛がお互いに実践されていく、これが私たちに必要です。   最初は教会は、多くの、愛されることを必要とする人たちに満ちていました。しかし彼らは、「愛し合う」ように導かれました。愛されてばかりでは、教会は成長しませんし、ほんとうの意味での交わりが成り立っているとは言えません。充分に愛を受けた人は、最初はへたくそでも、人を愛する歩みへと踏み出していくことが求められます。そうして、その人は愛する人へと成長します。でも、そういう人は愛されることを卒業するのではなく、ますます愛されるようになるのです。だから、愛する人になることを恐れたり、いやがったりするべきではありません。  すると、ここで私たちは考えるべきことがあります。「愛ってなに?」私たち教会は、これをちゃんと抑えていないとなりません。愛ということばの定義は、人それぞれの解釈に陥ってしまう危険があります。  だからこそ6節のみことばが大事になります。「御父の命令にしたがって歩む」、これが聖書の定義する「愛」なのです。ということは、御父の示された、みことばに従うあらゆる行動を「愛」と呼ぶべきなのです。人間的に愛し愛されるという次元とは、根本的に異なるとさえいえます。だから私たちにとっての愛とは、時に人間的な気持ちよさと距離のあるものであるかもしれません。時にとてもきびしいものです。けれども聖書はそれを「愛」と呼びます。  そして私たちにとって、愛は選択ではありません。神の命令は愛に集約され、また、愛は神の命令です。必ず愛するのです。愛することをしない教会など、看板を下ろさなければなりません。そしてこの愛することとは、御父の命令にしたがって歩むことです。  これは信仰の初歩の方にとっては、かなり厳しい命令になるでしょう。といいますのも、その人のうちには神のみことばはほとんど蓄えられていないから、どのように愛すればいいかわからないからです。だからある程度信仰の経歴のある信徒は、そのような方々が愛する人、すなわちみことばを守り行える人に成長できるように、そばにいて助けてあげる必要があります。これももちろん、愛することです。やがてその関係は、愛し愛し合う関係へと成長します。  さて、私たちは御父の命令にしたがって歩むこと、愛することが神の命令そのものであることを学びました。では、このヨハネの手紙第二では、なぜそのことを強調しているのでしょうか?  そこで第三のポイントです。私たちのすることは、真理と、その上に立つ教会を守り抜くことです。  7節をお読みします。……この時代に顕著に現れてきた異端の特徴です。彼らはもっともなことを言っていると、多くの人がだまされていたようです。なにしろ、神さまというお方は霊であり、目に見えないと刷り込まれているからです。となると、目に見えてこの地上を生きたナザレのイエスは神の子キリストではない、という結論になります。  8節をお読みします。……もし、このような異端についていくならば、それは、使徒たちを中心にこの地上に立て上げた教会、そして教会を教会ならしめる健全な教理を壊すことになります。その健全な教会と教理を立て上げるために、時には殉教もものともせずに努力してきた先人の犠牲が、このような異端によってあれよあれよという間に崩壊するのです。使徒ヨハネは、このような者たちに決して加担しないで、むしろ、愛と真理によって教会を建て上げ、終わりの日に主から豊かな報いを受けられるようにしなさい、と勧めています。  9節をお読みしましょう。……「先を行って」キリストの教えにとどまらない者、つまり、聖書の真理につけ加えて、自分たちこそがほんとうの真理を教えているとうそぶく者は、神を持っていない、つまり、神さまとの交わりもなく、救われてもいない人間であり、そういう者をクリスチャンとか、兄弟姉妹と呼んではならないのです。  ここ数十年で顕著になりましたが、キリスト教大国といわれる韓国には、それまでになかったタイプの異端が発生するようになりました。その派手な活動により、韓国では、プロテスタント人口900万人に対し、そのようなものも含めた異端の人口は、200万人にもなるといいます。それほど、既存の教会から多くの信徒が引きはがされたのです。  彼らが異端なのは、「イエス・キリストが人となって来られたことを告白しない」ことに集約されます。一見すると彼らはイエス·キリストを告白しているようですが、ほんとうのメシアは、その団体をつくった教祖であると教えます。名前はいちいち挙げませんが、それぞれの団体がみな、その最高指導者をあがめる体制になっています。要するに、神の御子イエス·キリストを告白しないという点では同じなのです。それは、イエスさまの十字架によって完全に私たちの罪が赦され、イエスさまの十字架を信じる信仰により私たちが神さまと和解し、神の子どもとなるということを否定することでもあります。  しかし、こんなでたらめを一般信徒が信じるだけのシステムができあがっているのだから、実に恐ろしいことです。これは、教会に入りこんだ工作員のような者が信徒と一定の信頼関係をつくったところから、自分たちの聖書勉強会に誘い、そうしてじっくりマインドコントロールしていく形で実行されていきます。そして気がつくと、信徒は正しい信仰を捨て去り、身も心もカルト宗教的な異端にささげきることになります。  しかし、これははっきり言っておきますが、彼ら異端にはみこころにかなう愛など一切存在しません。いい人に見えたとしたら、それは神の愛を演技でやっているだけです。ほんとうに愛してなどいません。なぜ、彼らのしていることを愛と呼んではならないのでしょうか? それは、今まで見てきたとおり、彼らにはみことばの真理がないからです。しかし、私たちは真理を持っているならば、彼らのそれがまことの愛かどうかを見抜けるだけの霊的感覚を持つことにもなります。恐れないで、みことばを学んでいただきたいのです。  10節、11節には、そのような異端者たちに対する私たち信徒の接し方が書かれています。お読みします。……家に入れてはいけない、あいさつさえしてはいけない、実に厳しいことを書いています。しかし、私たちは普段から、どんな人にも愛を実践するように教えられているはずなのに、と思いますでしょうか?  でも、この場合においては、それはちがうのです。それは、私たちが人々を愛するのは、それがキリストのからだをこの地上に立て上げることだからです。だから、キリストのからだを立て上げるという目的に一切つながらない交わりは、絶対にしてはならないのです。異端者と交わり、彼らの領域を教会内に拡大させるならば、間違いなく、教会は崩壊します。それは交わりと称するものによって、主のみこころを損なうことです。私たちはだれでも彼でも教会に招き入れていいわけではないのは、これではっきりします。彼らはキリストによって愛することなど、絶対にしませんし、またできません。することは自分たちの領域を拡大し、教会を崩壊させることだけです。 私たちはこの教会を愛し、兄弟姉妹を守りたいなら、みことばの真理を学び続けましょう。愛し合いつづけましょう。この日々の歩みを生むことなく続けていくならば、主は終わりの日に、私たちに、「よくやった。よい忠実なしもべたちよ」と言ってくださると信じます。その日を目指して、祈りつつ、励まし合いながら、歩んでまいりましょう。

カインとは私たちである

聖書箇所;創世記4:1~26 メッセージ題目;カインとは私たちである  兄弟の仲はいいに越したことはありません。しかし、聖書を見ると、新約聖書には、同じ弟子の共同体に属したペテロとアンデレ、またヤコブとヨハネのようなケースはありますが、旧約聖書を見ると、だいたいは兄弟仲がうまくいっていないケースが登場します。イサクとイシュマエル、ヤコブとエサウ、ヨセフと10人の兄、ダビデと兄たち……  なんといっても、聖書に最初に登場する兄弟からして、兄弟愛という点で大きな問題を抱えていました。愛し合うべき兄弟の間で起きたのは殺人でした。世界で初めての殺人、それは兄弟の間で起こったのでした。  アベルは羊飼いです。神の民イスラエルの象徴ともいえる人物です。それがゆえなく迫害にあったということも象徴的です。私たちはアベルに肩入れしたくなるでしょう。しかし、今日のメッセージは、アベルではなく、カインのほうにスポットを当ててお語りしたいと思います。と言いますのも、聖書をよく読んでみると、神さまと会話を交わしている記録が聖書にあるのは、アベルではなく、カインのほうです。さらに、カインの記事のほうによほど紙幅が費やされています。私たちはもちろん、アベルから学ぶ者でありますが、罪という問題と闘いながらこの地上を生きていく者として、カインを反面教師として、また、カインに注がれた主のみこころから、学ぶ必要があります。そういうわけで本日のメッセージの中心はカインです。ともに学んでまいりたいと思います。 第一のポイントです。カインは、罪の動機を治められませんでした。 農夫カインと羊飼いアベルの兄弟。彼らはある日、神の御前にささげものをささげることになりました。 これはたいへんなことです。大舞台とさえいえます。普段の彼らのすることは、農夫であり、羊飼いです。しかしこの日ばかりはちがいました。神さまの御前に出て、礼拝をささげるのです。大地であったり、羊たちであったり、そういったものを相手にすることから、神さまへと向かう。どれほど晴れがましい瞬間だったことでしょうか! 礼拝というものは、そのような晴れの舞台です。みなさん、いま私たちのいるこの場所は、晴れの舞台です! 一週間に一度、このように御前に集う時間を大切にしたいものです。 さて、この晴れの舞台に、カインは大地の実りを、アベルは羊の初子の肥えたものを携えてやってきました。そして……神さまが顧みてくださったのは、アベルのささげ物の方でした。カインのには目を留められませんでした。 カインは怒りました。私たちもカインならば、怒るのが当然だと思うでしょうか?しかし、もしそうならば、私たちは少なくとも、3つの心の罪に関わっていることになります。第一に、自分が正しいとする罪、第二に、ほかの人と自分を比較して惨めになる罪、第三に、神さまとアベルに対して腹を立てる罪です。 まず、自分が正しいとする罪から見てみましょう。カインがこの、いけにえを神の御前に持ってきたとき、どのような気分だったでしょうか? 当然これは、神さまに受け入れられるはずだ、どうだ! とばかりの態度だったのではないでしょうか? もしかするとカインは、アベルのことを見下していたかもしれません。聖書、特に旧約聖書を読んでもわかることですが、兄は絶大な権限が与えられています。また、さきほども述べました、イサク、ヤコブ、ヨセフ……いずれも、兄が彼らに対してふさわしくない形で大きな権力をふるおうとしたことを、聖書は問題にしています。ともかく、兄は弟より先に生まれた分、大きな権力をふるいますし、また劣っているからと見下すのは、どうにもならないことです。しかし、アベルのほうが受け入れられた。カインにとって、それはどれほど衝撃的だったことでしょうか。 そこで第二の心の罪、それは、比較して惨めになることです。もし、この礼拝の前に、カインが普段からアベルに対して優越感をいだいていたとしたら、それも比較の問題です。しかし今回の場合は、受け入れられたのはアベルのほうで、カインではありませんでした。そこでカインは、アベルと比較をして怒りに満たされたのです。優越感は変わり、劣等感となりました。この心の罪は、実際の行動で犯す罪へと駆り立てる原因ともなったものです。 カインは、どうすればよかったでしょうか? 礼拝というものを、他者との比較の道具にせず、ただ黙々と自分のささげるべき礼拝をささげていればよかったのです。もし、自分のささげるささげ物が受け入れられないと知ったならば、どこが悪かったのか思い巡らし、悔い改めてふさわしいかたちで礼拝をすればよかったのです。 しかし、カインはそうしませんでした。その結果第三の心の罪、神さまとアベルに対して怒るということをしました。そもそも神さまは、なぜアベルのいけにえを受け入れられたのでしょうか? それは、カインのよりもすぐれていたからです。ヘブル人への手紙11章4節にあるとおりです。 では、どういう点で、アベルのいけにえはすぐれていたのでしょうか? それは、先週学びました、神さまがアダムとエバのはじめからイエスさまのことを予告され、そのしるしとして、獣をほふって皮の衣をつくり、彼らの罪の結果である裸の恥を覆ってくださったことを思い出していただければと思います。生きるものの血が、いのちが流されることにより、罪赦されて神さまと和解すること、アベルはそのことを知っていて、それだからこそ正しいいけにえとして、羊をほふってささげたのでした。ヘブル9章22節もご覧ください。 カインにしてもおそらく、最良のものを持ってきたはずです。しかしこれでは神さまとの和解にふさわしくありません。みこころにかなわないからです。それなのにカインは怒りました。これは、みこころを定めて善悪をさばかれる神さまへの挑戦です。カインがよいと思っても神さまに受け入れられなければ、そこですることは悔い改めることであるはずなのに、あべこべに怒る、これが罪人の性質です。もし、心の中の罪を正しく治めることができないならば、どうなるでしょうか? カインは、どうなりましたでしょうか? 第二のポイントです。カインは、取り返しのつかない罪を犯しました。 彼は、アベルを呼び出して殺しました。大変なことをしてしまいました。しかし、私たちはここで考えないでしょうか? いったい、いけにえが受け入れられなかったくらいで、人殺しなどしてしまうものなのだろうか? しかしそれが、義人に対して罪人の取る態度です。イエスさまはアベルを義人とお呼びになりました。そのような義人に対して迫害を加える者には、容赦ないさばきを加えるとイエスさまは宣言されました。しかし罪人らは、その神さまのみこころを恐れるよりも、自分たちの悪い根性の方を優先させるのでした。 それはまさしく、悪魔に魅入られた者の取る態度です。神さまに祝福されている者、神さまに選ばれている者を見ると、いても立ってもいられなくなり、怒りの刃(やいば)を向けるのです。 もし、私たちが、兄弟姉妹が自分よりも祝福されていると思い込み、あんな人間などいなくなってほしい、などと思うならば、きわめて要注意です。罪は戸口で待ち伏せしています。 私たちはそのような感情になっていることに気づかせていただき、悔い改める必要があります。さもなくば、人にいなくなってほしいというこの悪感情が、とんでもないかたちで現れるかもしれません。 もちろん私たちは、殺人のような大それたことは起こさないかもしれませんが、教会という主のみからだに分裂をもたらしたり、この群れを去っていのちの恵みにあずかるのをやめる人を生み出したりしないともかぎりません。あるいは、分裂しなくても、教会の中に一致できない状態がいつまでも保たれ、主のみからだとしてまことにふさわしくなく、つねにサタンに付け入る隙を与えている無防備な状態になるかもしれません。 そもそも、殺人というものはなぜ問題になるのでしょうか? それは、人間が神のかたちに創造されている以上、殺人とは神のかたちを破壊することだからです。だから、実際に人をあやめ、血を流す行為に及ばなくても、その人の人格を破壊する致命的なことばを投げかけるならば、それは殺人の罪に匹敵することです。イエスさまは何とおっしゃっているでしょうか? マタイ5章22節です。…… 実際に血を流して殺してしまうならば、もうその人はもとに戻りません。取り返しのつかない罪を犯したことになります。だから、先週も少しお話ししたとおり、日本には殺人罪を償わせる制度として、死刑という刑罰があるのです。人の人格を破壊することばをいうことも、これと同じ、さばきを受けることになります。 カインは、まず神さまの問いかけに知らん顔をしました。いざ神さまに呼びかけられたら、知りません、私は弟の番人なのでしょうか、と口答えしました。愛し合うようにと神さまがこの世界に定められた兄弟の関係を、番人などと表現するとはあんまりです。 こんな表現をしたのは、自分は当然兄として弟の上に君臨すべきなのに、神さまがその順番を変えたととらえ、神さまに向かって精いっぱいの皮肉を言い放っているかのようです。さすが、神さまがこの者のいけにえを受け入れなかっただけのことはありました。彼は神さまとの関係が壊れていたのです。その壊れた関係が、兄弟の間にあるべき愛が冷え切り、ついに殺人に至ったことにつながったと言えましょう。 そうです、あらゆる罪は、神さまとの関係が壊れているところから始まります。大それた罪を犯す者は、神さまとの関係がどこかおかしい状態にあるものです。そして、罪から来る報酬は死です。すなわち、まことのいのちなる神さまとの断絶した状態です。これは被造物として、取り返しのつかない状態です。自分ではこの罪を、どうすることもできません。どんなに努力しても、どんなにいい人間になろうとしても、この罪が赦されて永遠のいのちを回復するということなど、絶対にありえないことです。そうです、あらゆる罪は、みな取り返しのつかない状態です。大小にかかわりません。すべては取り返しのつかないものです。その点では、カインも私たちも、大差ない存在です。いえ、もっとはっきり言ってしまえば、カインとは私たちのことです。 こんなカインに、そして私たちに、救いはあるのでしょうか? そこで第三のポイントです。神さまは、取り返しのつかない罪を覆ってくださいました。 神さまは、カインの犯した罪がどんなに大きいか、宣告されました。10節から12節です。……ここではじめて、カインは自分のしたことの重大さに気づかされました。その咎の大きさに圧倒されました。やはり人は、きよい神さまと向き合うことによって、はじめて自分が途方もない罪人であることに気づかされるものです。 しかし、自分の罪の結果におびえるカインに、神さまは守りを与えられました。地上をさすらい歩く者となろうとも、あなたのことはわたしが守る……カインはようやく、神さまとの関係を回復しました。それは、カインが自分の罪を認めたところから、そして神さまが一方的なあわれみによってカインに臨んでくださったから、はじめて可能となったことでした。 カインは結婚して子をもうけ、町をつくりました。そして、そこから生まれていったカインの子孫は、文化を創造する者たちとなりました。遊牧をする者、楽器をつくって演奏する者、青銅器や鉄器をつくる者が生まれました。 ある聖書学者は、神の守りが信じられなくなった者たちがこのような文化をつくった根拠である、と語っていますが、たしかにそういう側面もないとは言えないにせよ、そう言い切れるものでもないでしょう。ここは、そのような堕落した人間たちの間にも創造的な文化が生まれるように主があわれんでくださった、と考えた方がよろしいでしょう。なにしろ、イスラエル、そして今日(こんにち)の教会に至るまで、神の民はみなこの時代に生まれた数々の創造物の恩恵にあずかっているわけです。牧畜もしますし、楽器を奏でて賛美もします。金属の道具も使います。文化は一般恩寵として受け継がれています。 とは言いましても、カインのような負の性質は、5代目の子孫のレメクに受け継がれてしまいました。レメクは殺人をして、妻たちにこんなことを言いました。23節と24節です。 これは、カインを殺す者に七倍の復讐が与えられるならば、俺様に危害を加える者には七十七倍の復讐をしてやるぞ、という、復讐を禁じる神さまのみこころを不遜にもというか、大胆不敵にもというか、完全に真逆に曲解してはばかるところを知らない、傲慢極まる宣言です。カインの蒔いたものは、実に残酷な形で刈り取らなければならなくなったわけです。 私たちもまた、いかに守られているとはいえ、ときに私たちの不従順が生むマイナスの結果に、自分自身も、家族も、教会全体も苦しむことがありえます。神さまは、私たちの言動に対して責任を問われることが時にあるものです。要はそのとき、レメクのようにみこころもなにもあったものではない態度を取らず、素直に悔い改め、神さまの御手を求めることです。 しかし、神さまはこの世界をなおも守ってくださいます。25節、26節をお読みください。……この世界には、義人アベルに代わるセツが生まれ、彼から増え広がった人々から、主の御名によって祈ることが広がりました。 主は、カインの罪によって汚されたこの世界を放っておくことはなさいませんでした。主に属する民を起こし、彼らが主の御名によって祈れば何でもかなえてくださるように、道を備えてくださったのでした。まさしく、神さまのあわれみです。 私たちも、かつてはカインのようであったかもしれません。主を知らなかったゆえに、取り返しのつかない罪を犯したかもしれません。今もなお、罪を犯してしまう自分に落ち込んでしまうかもしれません。しかし神さまは、そのような世界に生きる私たち、罪を犯すことをさも当然のように振る舞う人々に満ちた世界に生きる私たちのことを、なおもあわれんでくださっています。本来カインのようであった私たちを、セツのように、殉教者のたましいを継ぐ者としてつくり変えてくださいました。主の御名によって祈る者へとつくり変えてくださいました。   私たちは、カインのように罪深い自分の性質に目を留めて、自分を呪ってはなりません。私たちの罪はイエスさまの十字架によって完全に贖われました。私たちはイエスさまの御名によって祈り、祈りを聞いていただける者としていただいたのです。私たち自身を振り返る祈りをしたいと思います。聖霊なる神さまに、心を探っていただきましょう。

罪のはじまりは恵みのはじまり

聖書箇所;創世記3:1~24 メッセージ題目;「罪のはじまりは恵みのはじまり」 今日の箇所は、人間の罪のはじまりについて語るのとともに、イエスさまの十字架がなぜ人類に必要だったのか、その根拠となるできごとを記したみことばであり、「原福音」とも呼ばれています。 第一のポイントです。罪は、人の間違った欲望から生まれます。 エバのいるところに、蛇がやってきました。サタンが蛇に身をやつしてやってきたと言えるでしょう。蛇はエバになんと話しかけたでしょうか?……園のどの木からも食べてはならない! 神さまがそう戒められた! でももちろん、嘘に決まっています。神さまは人に、祝福のしるしとして、エデンの園のどんな木からでも思いのままに食べてよい、とおっしゃったのですから、嘘です。 しかし、エバの心は蛇のこのひとことに、激しく動揺しはじめたのでした。エバはたしかに、園の木の実は食べてもよいと語っています。しかしそれに続き、言わずもがなのことを、口を滑らせてしまいます。 このことばをよく見ましょう。「触れてもいけない」などと、神さまが語られなかったことをつけ足しています。「死ぬといけない」などと、あいまいなことを言っています。神さまは「必ず死ぬ」とおっしゃっているのですから、エバのことばはいいかげんです。 エバがこのようにいい加減なことを口走った理由は、いろいろ考えられます。しかし、理由はどうあれ、神さまのみことばにつけ加えたり、みことばを曲げて解釈したり、ということを行なっているわけです。 旧新約聖書の終わりの部分に、神さまはみことばにつけ加える者にみことばどおりの災いをもたらし、みことばから取り除く者にはみことばどおりのいのちの木と聖なる都、すなわち天国の祝福を取り除かれる、と語っていらっしゃいます。このことから私たちは、神さまのみことばにつけ加えたり、取り除いたりしないで、そのまま受け入れることが、まことのいのち、天国に至る道であることを知ることができます。 エバがこのようにみことばを曲げて解釈したということは、いのちなる神さまとの交わりから断ち切られる死の道を自ら備えはじめていた、ということができるでしょう。私たちはどれほど、みことばをそのまま受け入れる必要があるでしょうか! 自分の都合が悪いみことばは受け入れなくてもいい、などと言っている場合ではありません。みことばをそのまま受け入れることは、いのちそのものです。 だから、善悪の知識の木の実を食べるという行為に及ぶのは、神さまのみことばに不従順になることであり、罪以外の何ものでもありません。「死ぬといけない」どころではありません。「死ぬ」のです! 死ぬ。これが人にとって最大のさばきであることは、言うまでもないことです。もちろん、とても大きく議論が分かれるところですが、「死刑」という刑罰が今もなお日本に存在するのは、死によって償うという思想が日本の社会に根を深く下ろしているからでしょう。死をもって償うということの恐ろしさは、ある程度ではありますが、凶悪犯罪を抑止する力になっているはずです。 何が「死ぬ」ということを怖ろしくさせているのでしょうか? それは、被造物である人間ならばどこかで意識している創造主のいのちなる存在を、もはや味わうことができなくなるという、そのことばに表せない恐怖を味わっているからではないでしょうか? だから、イエスさまを信じて永遠のいのちに至る確信を得た人は、もはや死ぬということを恐れなくなるのです。死ぬのが怖いのは、死んで神さまにさばかれ、天国に行けなくなるわが身を思うからでしょう。 しかし、サタンは嘘をつきました。あなたがたは決して死にません。……そもそも人間は、まだ死んだことがないので、死とはどういうものかがわかっていませんでした。しかしそれ以上にエバは、被造物としての限界を超え、神さまのようになれること、すなわち、創造主なる神さまと関係なく善悪の判断の基準を定める存在になることに、大きな憧れをいだきはじめていました。 そんな思いで善悪の知識の木の実を見ると、いかにもそれは「良さそうに」見えました。神さまが「良しとされた」かどうかはもはや関係ありませんでした。もはやこの罪をもたらす存在、死をもたらす存在は、好ましいとしか思えませんでした。それでついに……エバはその木の実を食べてしまいました。 そして、木の実を食べたのはエバだけだったのでしょうか? アダムも食べたのです。テモテへの手紙第一2章14節には、「アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯した」とあります。そうだとすると、アダムはエバなりサタンなりにだまされて木の実を口にしたわけではない、と考えられます。 だからアダムは、だまされてその木の実を食べたのではありません。わかっていて、自分の意志で食べたのです。そうです。アダムは意識して神さまに反抗し、不従順の罪を犯したのでした。なんだ、エバは木の実を食べたけれど、死なないじゃないか、神さまの言っていたことは嘘じゃないか、そんなことも考えたかもしれません。 しかし、彼らはあらぬことに目が開かれました。生めよ、増えよ、という、最大の祝福をもたらす性的な存在を、とても恥ずかしいものととらえるようになりました。いやらしい、という感情が生まれたのです。彼らは、いちじくの葉を綴り合わせて局部を覆うという行動に出ました。そう、罪の結果を自分なりのやり方で覆い隠したのです。みじめにも、根本的な解決に至れないまま罪を抱える。これが、人間の間違った欲望の成れの果てでした。 では、そのような人間の罪はどうなるでしょうか? 第二のポイントにまいります。罪は、神さまによってさばかれます。 こうして罪を抱えたアダムとエバは、ついに神さまと対面せざるを得なくなりました。しかし彼らは、神さまの足音が聞こえるや、園の木の間に身を隠しました。もちろん無駄なことです。神さまは目に見えないお方であり、どこにでもおられます。隠れようと、そこにも神さまはおられます。それなのに人は、逃げたり、隠れたりすればなんとかなる、と思うのです。しかし、どうにもなりません。そのことは自分でよくわかっているはずです。 神さまはすべてご存知です。しかしあえて、神さまは人が自分で何をしたかを悟らせるために、お尋ねになりました。11節です。 ……神さまが何をしたかお尋ねになったならば、人は何をすべきでしょうか? 自分の罪を認め、神さまに悔い改めの告白をするべきでした。ごめんなさい、と言うべきでした。しかしアダムは、何と言ったでしょうか?「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が」くれたから食べた、と言っています。 まるで、罪を犯したのは神さまのせいだと言わんばかりの態度です。なんということでしょうか。そのうえ、エバに罪の責任を着せています。自分の犯した罪の責任を自分の妻に押しつけるとは、アダムはそういう男でした。 それで神さまは、エバにお尋ねになりました。しかしエバの答えはといえば、これも自分の罪を認めることばではありません。「蛇が私を惑わしたのです。」こんどは蛇のせい、サタンのせいにしています。 これが、人が自分の罪の責任を転嫁するパターンです。神さまのせい、人のせい、サタンのせい……しかしこれらはいずれも、自分のせい、と認めて、自分で責任を取る態度ではありません。 しかし、神さまは犯した罪の責任を取らせるお方です。まずは蛇、サタンです。14節と15節です。……サタンは、動物にも劣る存在とされる、というわけです。特に15節は、この女の子孫として生まれるお方、イエス・キリストによってサタンが完全にさばかれることを預言したみことばです。かかとを打つ、これは、サタンがイエスさまを十字架につけるということです。しかし、その死は決定的なものではありません。イエスさまは死から復活されたからです。イエスさまのこの復活により、サタンは、頭が踏み砕かれた蛇のように、完全に息の根を止められました。 そうです、サタンはすでにさばかれました。しかし、頭が砕かれていても、まだからだがうねうね動く蛇のように。完全に死に切ったわけではありません。できれば主の民さえも惑わそうと、いまもなお隙を窺っています。しかし忘れてはなりません。神さまはすでにサタンをさばかれたのです。いたずらに恐れる必要はありません。 神さまは、エバにも宣告を下されました。16節です。子を産むこと、夫婦として生活することが、大きな苦しみになる、というのです。生めよ、増えよ、それは祝福のしるしですが、それが途方もない苦しみを伴うことになってしまったのでした。それは、罪を犯したということの責任を取らされるためです。出産や子育て、また夫婦としての生活には、多くの苦しみが生まれるようになりました。 アダムへの宣告はどうでしょうか。17節から19節です。……それまでは、どこにでもなっている果物を取って食べさえすればよかったのが、雑草も生えてくるような荒れた大地と格闘して、額に汗して土から取れたものを食べる、そうです、労働の苦しみが大いに増し加えられました。 男、という漢字は、田んぼの田に力、と書きます。田んぼの田はもともと水田という意味ではなく、畑、という意味です。畑で力をふるって労する存在、男とはそういう存在であることを、この漢字は言い当てています。今日は労働も多様化しましたが、それでも人にとって、仕事とは苦しいものであるということはむかしも今も同じです。 さらにこの19節の最後、これは何を語っているのでしょうか?「あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。」そうです、死ぬ、ということです。死んで朽ちて、ついには土になる、ということです。 働いて働いて、ついにはむなしくも土に朽ちる最期を迎える。なんというさばきでしょうか。しかし、それもこれも、人が善悪の知識の木の実を口にしたところからすべては始まりました。神さまはそれにふさわしいさばきを下されるのです。神さまは侮られるようなお方ではありません。 しかし、人間はさばかれて、それで終わりではありませんでした。そこで第三のポイント、これがいちばん大事です。罪は、主によって血を流されることで覆われます。 21節をご覧ください。……いったいこの皮の衣は、どうやって作られたのでしょうか? そうです、獣の皮を剥いでです。ということは、獣がアダムとエバの裸を覆うために、ほふられた、殺された、ということを意味します。 その皮の衣は、アダムとエバが作ったのではありません。神さまが手ずからお作りになりました。これは、アダムとエバの裸、つまり罪の結果伴う醜いものを、神さまが直接覆ってくださった、ということです。 アダムとエバは、この醜さを覆うためにいちじくの葉で対処しました。しかしそれは所詮、もはや罪人となってしまった人間の考え出したやり方にすぎません。神さまはそのような人間的な一時しのぎではなく、神さまの方法で罪の醜さを隠されました。それが、生きものの血を流す、という方法でした。 アダムとエバの罪が神さまから隠されるために、生きものが犠牲になる、動物が好きな人は、残酷だ、とおっしゃるかもしれません。でも、ほんとうに残酷なこととは何でしょうか? 人間が永遠に神さまと関係のないまま生きる、そして神さまがそれをお許しになる、そちらの方がよほど残酷です。しかし、それは神さまのみこころではありませんでした。だからこそ神さまは、人が罪を抱えたまま永遠に生きることのないように、人をエデンの園の外に出し、いのちの木の実を取って食べることがないようにされたのでした。 ともかくも、アダムとエバの罪が覆われるために、血が流されたのでした。これは究極的には、イエスさまの十字架の血潮につながることです。私たちはイエスさまが十字架に掛かってくださった、そのことを信じる信仰を聖霊なる神さまによって与えていただいたゆえに、罪が覆われ、永遠のいのちをいただきました。その血潮によって罪を洗いきよめていただきました。神さまはこのすべての人類を救うためのご計画を、すでに最初から備えていてくださったのでした。 罪を犯したなら、そしてその罪が子々孫々遺伝するならば、人間というものは神さまの失敗作なのでしょうか? いいえ、断じてそうではありません。もし人間が失敗作ならば、神さまは愛するひとり子イエスさまを、失敗作のためにその死をもって人間に差し出される、ということがあるでしょうか? 私たち人間は、神さまが実にそのひとり子を与えてくださるほどに、愛してくださる存在です。御子を信じるならばひとりとして滅びません。永遠のいのちが与えられます。どんな罪の中にあったとしても、神さまが赦してくださるのです。私たちは完全な作品です! 私たちは時に、自分が罪人であることを思わざるを得ないことがあるでしょう。理由のわからない苦しみに遭うようなとき、特にそう思うかもしれません。しかし、私たちが苦しみに遭うのは、神のみわざが現れるためです。私たちを赦し、私たちを力づけ、私たちを励ましてくださる神さまは、今なお私たちのそばにいてくださいます。 罪の増し加わるところには、恵みも増し加わりました。このみことばはまことです。まさしく、罪のはじまりは、それを完全に覆ってくださる神さまの恵みのはじまりです。私たちは神さまに立ち帰りましょう。 人は、間違った欲望から罪を犯します。その罪の責任を取ろうとしない人間に、神さまは罪を問われます。しかし、それで終わりではありません。神さまはその罪を、イエスさまの十字架によって赦してくださいます。私たちも信じるならば、赦されます。この恵みを日々味わいましょう。そして、この恵みの喜びがもし内側から湧き上がって来るならば、ためらうことなく、いろいろな方にこの恵みを分かち合ってまいりましょう。もしその方々が信じ受け入れたならば、その方々は永遠のいのちに生きることになります。

天地創造、それは主の愛のみわざ その2

聖書箇所;創世記2章1節~25節 メッセージ題目;天地創造、それは主の愛のみわざ その2 神さまが天地を創造されたという事実を受け入れるとき、私たちは創造者を認め、謙遜にさせられます。そして、創造者のみこころは何であるかを知ろうとし、聖書を熱心に読むようになります。そうすれば素晴らしく用いられる、喜びに満ちた人生を歩んでいくことができます。 さて、今日の箇所は、創世記2章、神さまの最高の被造物である人間の創造について、くわしく書かれている箇所です。 人とはどのような存在か? 私たち人間は自分の存在について、たえず問いかけていますが、みことばから学ぶならば、私たちはそのことを知ることができます。そして、私たちの生きる指針をいただいて、神さまの御目にふさわしい生き方をしていくことができます。ともに学んでまいりたいと思います。 第一のポイントです。神さまは人に、霊的ないのちを与えられました。 7節のみことばをお読みしましょう。……人間の原料は、大地の土です。神さまは霊なるお方なので、物質的な形をお持ちの方ではありません。しかし人間は、物質であるわけです。創造主と被造物のちがいが、ここにも現れています。 人間の原料は土です。このことを知ることは、人を謙遜にさせないでしょうか。もし、神さまに形づくられなかったら、私たちは土の泥のような存在のままです。なんだか得体の知れない存在です。そこに何の「神のかたち」を見いだせるでしょうか。しかし私たちは土のちりにすぎなかったのに、もったいないことに、神さまの御手によって「神のかたち」に仕上げていただいたのです。 神さまのかたちに仕上げていただいたのは、人間だけです。サルの種類は人間に姿かたちが割と似ていますが、彼らは「神のかたち」ではありません。単なる獣、動物です。神さまがご自身のかたちに創造されたのは、ただ、人間だけです。 それだけでしょうか? 神さまはいのちの息を、人間に吹き込まれました。それで人間は生きるものとなったと、みことばは語ります。いのちの息、つまり霊が吹き込まれたと特にみことばが証しする被造物は、これも人間だけです。 神の息吹が吹き込まれている、これぞ、人がほんとうの意味で生きているということです。これは人が霊的な存在にされているということであって、それゆえに人は神さまと交わりを持つことが許されます。神さまとの交わりもなく、神さまのみこころをないがしろにして生きているということは、生きてはいても死んでいるような状態であるということです。 私たちの「生きたい」と願う飢え渇きを満たすことができるのは、いのちの息を吹き込んでくださった神さまだけです。だから私たちは、。朝に夕に、主を求めてまいりましょう。本来創造された主のみこころに忠実になり、いのちの息が吹き込まれた者としてふさわしく主との交わりを持ちつづけるならば、主は必ず私たちを、大いなる祝福へと導き入れてくださいます。 では、その祝福とは何でしょうか? 第二のポイントです。神さまは人に、生活の彩りと戒めをともに与えられました。 9節のみことばをお読みしましょう。あらゆる果樹が実を結びます。16節もお読みしましょう。その果樹から、好きなだけ食べていいというのです! 果物というものは、創造のはじめから人間を養うために神さまがお造りになった、特別な存在です。果物はいろいろな形、いろいろな色をしています。味もさまざまです。 果物は実に不思議なものです。果樹が葉っぱで光合成をし、また土に下ろした根っこから水分と栄養分を取り出し、大きくなり、時が来ると実をつけます。太陽の光には味などなく、果樹も、土も、舌で舐めたらえらいことになります。それなのに、結ぶ実は甘くておいしく、栄養がたっぷりです。神さまはそういうシステムで人間を養われることを良しとされたのです。 神さまはみことばの中で、神さまとの交わりを通して私たちの生活に現れる良い結果のことを、しばしば「実」と表現しています。特に有名なのが、ガラテヤ人への手紙5章22節、23節の「御霊の実」です。これはちょっと読んでみましょう。新約聖書の382ページです。 ……こういう実を結ぶには、それなりの忍耐が必要です。神さまの恵みという光を浴び、水を得るのです。時には風雪に耐えながらも、神さまのみことばという大地に根を下ろしつづける、つまり、揺るぐことのない神さまに拠り頼みつづけなければなりません。ある聖書箇所では、みことばは腹に苦かった、とありますが、土が口にできたものではないが果樹に栄養を供給するように、みことばは時に、口に甘しといえるようなものではない、厳しいものであるかもしれません。しかし、私たちはみことばに根を下ろすことで、養われ、健康に成長するのです。もし、安逸をむさぼり、神さまの恵み以外のものから栄養を得ようとするならば、その結ぶ実はひどいものであり、とても食べられたものではありません。その悪い実のことを、聖書は「肉のわざ」と呼びます。お読みしませんが、19節から21節にリストアップされています。このような悪い実を結び続けるのは、この世の快楽という肥料から栄養を取ることをやめようとしないからです。神の子どもらしく生きるならば、こんなことは早くやめるべきです。 木に代表される植物というものも、数えきれないほどの種類がこの世界には存在します。それは神さまが、私たち人間の生きるこの世界がつまらないものとならないように、かぎりない彩りを与えてくださったゆえと言えるでしょう。そのようなバラエティに富み、そして美しい被造物を見るとき、私たちは創造主なる神さまを認め、その被造物とされていることを覚えて謙遜にさせられるものです。 そう、私たちは被造物です。私たちが被造物であることを、神さまは「善悪を知る知識の木」というものを備えることによって教えてくださいました。これは、神さまの設けられた限界です。神さまが聖である、つまり、神さまは被造物と同じレベルの存在では決してありえないことを、お示しになる「教材」ともいうものでありました。それを食べるとき、あなたは必ず死ぬ。神さまはこの木によって、ご自分が聖なる存在であることを示されたのでした。あなたがもし、わたしのこの命令に背くならば、あなたは必ず死ぬ。 なぜ、従順ということが大事なのでしょうか? それは、従順がいのちだからです。しかしある人は、この従順という考え方に反発をいだきます。それは大きく分けて、2つの理由があるからです。 ひとつは、この世の従順を強いるあらゆる存在は完全ではなく、その存在のもとで従順の生き方をするならば、とても苦しい目に遭う、ということがその理由です。ブラック企業、などということばがありますが、企業の経営者が人に給料、すなわち経済的な安定を提供する代価として、長時間の労働、劣悪な環境のもとに留め置くわけです。従順というものをひどく悪用するケースでしょう。 もうひとつ、人が「従順」を嫌がる理由があるとすれば――こちらの方が深刻ですが――、それは権威に対する反発、自己中心から来るものです。神さまなど認めない、従順な生き方などするものか、自分の好きなように生きてやる……しかしこのように、神さまよりも自分の欲望を優先させる傾向の強い私たちが、神さまに従順に従う道を選ぶならば、それは幸いなことです。しかし私たちはなんと、禁止されていることを見て、自分のことを不自由だと思いたがるのでしょうか! なぜ、自分に与えられた大きな自由、恵みに目を留めようとしないのでしょうか! ここに私たちの自己中心、罪の性質が現れています。私たちはそのような発想から、早く自由になる必要があります。 私たちはぜひとも、「神さまの与えた自由」を基準としながらも、神さまに対する不従順の罪を犯させようとするあらゆる罪に警戒し、従順の歩みを実践していきますようにとお祈りします。それが、いのちの道です。 第三のポイントにまいります。神さまは人に、愛する相手を与えられました。 18節と19節をお読みします。……神さまはまず、鳥や獣をアダムのもとに連れてこられました。それは、人が名前をつけるという、その作業を与えられるためでした。 世界中のあらゆる動物には、名前がつきます。新種が発見されたら、ただちに新しい名前が命名されます。まことに、同じ土から造られた被造物であっても、その被造物の特徴にしたがって名前をつけることができるのは、人間だけです。動物はほかの動物に名前などつけません。これは、人間が、その与えられた知性をもって、動物に代表される被造物を統べ治める存在であることを示しています。ここに神さまが、この地を従えるわざを人間に与えられたことを見ることができます。 人はあらゆる生物に対するネーミングライツを持っていますが、その所有者は神さまです。人間が被造物を従えるということは、その被造物に対して勝手気ままに振る舞っていい、ということではありません。どこまでも創造主なる神さまとの関係で、被造物を管理する必要があります。それが、被造物である人間に与えられた使命です。 これらの被造物はみなわたしのものだ、けれどもあなたがこれを治めるのだ、私がその責任と権限をあなたに与えよう。私たちがこの環境を浪費してはならないのは、それが神さまのものだからです。しかしその一方で、この環境を保護する、というときもまた、それは創造主であり、すべての被造ぶちの持ち主である神さまとの関係において考えていくべきことです。 さて、神さまは人がこの地に増え広がるようにとみこころを定められましたが、男の助け手としてふさわしい動物はいませんでした。 それは、動物にはいのちの息が吹き込まれていない、すなわち神さまと交わりを持つことができる存在ではないことが、その大きな理由といえるでしょう。二人は一体となる、それは、肉的に一体となるということもさることながら、同じひとりの御霊によってひとつとなる、という意味を含みます。最近私は、海外のある国ではペットの犬との結婚が合法化される、などというニュースを見ましたが、とんでもないことです。それがとんでもないということは、アダムのはじめからそうでした。霊のない動物では結婚して助け手にすることなどできないのです。そのため神さまは、人から人をお造りになりました。 アダムはエバを見て、何と告白しましたでしょうか? 23節のみことばです。……ここからわかることは、男性と女性は平等な存在、ということです。心臓にいちばん近いあばら骨から取られ、造られたということがそれを象徴しています。お聞きになった方もいらっしゃると思いますが、頭の骨から取られたならば、女は男より上ということになるでしょう。足の骨から取られたならば、女は男より下ということになるでしょう。そうではなくてあばら骨、まさしく、対等の立場の助け手です。 あばら骨のそばには、いのちを司る心臓や肺があります。私はこのあたりに関しては、個人的に言うべきことがあります。私は中高生のとき、肺を手術するため、両胸のあばら骨の間にメスを入れました。それ以来、そのあたりの皮膚や筋肉の感覚がおかしくなり、30年経った今もそれは治っていません。天気が悪いときは呼吸が苦しくなり、からだ全体に影響が出ます。あばら骨を取らなくてもそうなのだから、いわんやあばら骨を取ったとしたら、それはどれほど苦しいだろうかと思います。 そう、愛するということ、助け合うということに召されているとは、相手が生きるために、あえて苦しむことです。アダムよ、エバにいのちを与えるために、そして、エバと助け合う生き方をするために、苦しみなさい、しかしその苦しみは、喜びだよ、神さまはそうおっしゃっているようです。 24節のみことばを見てみると、そのことが一層はっきりします。……このみことばは一見すると、結婚についての一般的な概念を語っているようですが、このほんとうの意味が、モーセがこのみことばを記して1600年経って、パウロによって明らかにされました。これは、キリストと教会を指したみことばだということです。 男があばら骨を取られて女をいのちに生かす。それは痛みの伴う、苦しいことです。しかし、あたかもそれは、私たち教会に永遠のいのちの喜びを与えるために、十字架の上で傷ついて苦しまれた、イエスさまの苦しみを現しているようです。しかし、もったいないことに、イエスさまは私たちを愛するあまり、喜んでご自身を差し出し、痛みを背負ってくださったのでした。私たちはイエスさまの痛みによって、生きるものとされたのでした。 私たちもまた、愛する人のために苦しむ道を選べるでしょうか? なかなかそうなれない、自己中心の醜い姿を思って落ち込むかもしれません。しかし神さまはそんな私たちであると知ってもなお、イエスさまの十字架によって私たちの罪を完全に取り去ってくださり、神さまの子どもらしく歩ませてくださいます。日々、イエスさまの十字架を思うことです。 私たちは自分には愛がないと思っているようでも、神さまの恵みによって、愛する人になれるのです。愛するためにあえて苦しみを選ぶ、祝福の生き方ができるようになるのです。その約束を握って、祈りつつ歩んでまいりましょう。 神さまは私たち人間に、霊的ないのちの祝福、従順の祝福、愛することの祝福をくださいました。私たちの人生は、あらゆる祝福に満ちています。ただ、創造主なる神さまとの交わりの中で、その祝福のほんとうの意味を知ることができます。ともにこの祝福を味わい、神さまのすばらしさを讃美してまいりましょう。

天地創造、それは主の愛のみわざ

聖書箇所;創世記1:1~31 メッセージ題目;天地創造、それは主の愛のみわざ 私たちの教会は創立以来、創造主の御手によりこの天地万物が形づくられたという、その事実をとても大事にしてきました。その事実を堂々と宣言するもの、それは聖書のみことばです。私たちは聖書のみことばから、神さまについて、この世界について、そして私たち人間について、何を学ぶことができますでしょうか。 今日の本文はおそらく、これまで50年以上にわたる当教会の歴史において、おそらく相当な回数、日曜礼拝の聖書本文になったことと思います。しかし私はといえば、この教会に赴任して5年になりますが、このように日曜礼拝において創世記を1章から学ぶのは、はじめてのことです。 私はこの教会の伝統にしたがって、といいますよりも私が生涯信じ受け入れてきた神学の立場にしたがって、創造の事実を大切にいたしますが、私自身は創造科学の学者ではありません。聖書、特に創世記を創造科学の観点から観察するのは専門の先生方にお任せして、私はみなさまのことを、みことばによって整える働きが委ねられた牧師としての立場から、創造という事実を基礎に、この創世記をはじめからみなさまとともに学んでまいりたいと思います。 今日の本文を、3つのポイントから学びます。第一のポイントです。私たちの信じる神さまは、すべてを創造されたお方だということです。 聖書は、始まりからすごいことが書いてあります。「はじめに神が天と地を創造された」。この世界は偶然にできたとか、進化してできたとか、そんなことはどこにも書いてありません。天と地、水、光、大空、地、海、植物、天体、海洋生物、水生動物、鳥類、家畜、小動物、哺乳類……これらが日を追うごとに、そう、神さまの手によって創造されたわけです。そしてその創造のわざの完成として、人が、男と女が創造されました。 神さまが万物を創造されたということは、何を意味しているのでしょうか? それは、神さまがこの天地万物の主権者であられるということです。 私たちが神さまの御前で被造物であるという事実が突きつけられるとき、私たちの取る道は2つに1つです。謙遜に創造主を認める道と、創造主を認めずに自分勝手に振る舞う道です。 人がもし創造主を認めるならば、その人は謙遜な歩みをすることになります。あらゆる無駄な浪費を慎むことになるでしょう。なぜならばこの世界にあふれるものは、全能なる神さまが持っておられるものであり、人間はそれらの資源を一時的に預けられ、管理する存在にすぎないからです。また、神さまの前にへりくだり、神さまがお定めになった秩序の中で身を低くして生きていくことを選ぶようになるでしょう。しかし、そうではなくて、創造主を認めないならば、その人の歩みはとても驕ったものになります。聖書のみことば、創造主がおられ、その創造主が天地万物をお造りになったと語ることは、そのようなあらゆる罪人に対する大いなる戒めとなります。 全能なる神さまがこの天地万物をお造りになったということは、また、神さまがこの天地万物の持ち主であるということも意味します。創造主がその壮大なみこころを実現する場、それが、私たちの置かれているこの大宇宙であり、地球であるわけです。 この夏、教会学校は、岩手県のキャンプ場、シオン錦秋湖に行ってまいりました。そこで私たちは素晴らしい体験をいたしました。自然の中で遊ぶという経験です。中でも忘れられないのが、星空を観察するという経験です。キャンプ場から数百メートル歩き、なんと、道路の上に一斉に寝そべります。真下から星空を見るわけです。あのようなものを見てしまうと、夜でも煌々と明かりが照らされている住宅街など、なにほどのことがあろうか、ほんとうに、人間は小さいなあ、しかし神さまは何と大きなお方なんだろう、と考えてしまいます。みなさまも機会があれば、ぜひ、晴れ渡る夜空の星たちを眺めていただければと思います。神さまを感じていただく絶好の機会です。 しかし人間はなんと、この世界の主権者である神さまに逆らって生きていることでしょうか。その果てに考え出したものが、進化とか偶然という概念です。これで人間は、万物のあらゆる原理を説明できる気になっています。教育も、マスメディアも、あらゆるものは進化ということを真理また真実として受け入れることが前提となっています。それはしかし、聖書に啓示された創造主、神さまを否定することからすべては始まります。その結果人間はどうなったでしょうか? 自分が何者かということを見失ってしまいました。 ローマ人への手紙1章を読むと、この世界にあふれる被造物を見ると、人は創造主なる神さまを認めざるを得なくなる、しかし、それでも人は、神さまを認めようとしない、その神さまを礼拝する代わりに、被造物や偶像を礼拝するようになった……そのような人間に、神さまは怒りを下され、人がその罪深い性質のまま生きるように放っておかれた……という意味のことが書かれています。この世界はなぜこんなにも、破壊、争い、怒り、憎しみ、淫乱に満ちているのでしょうか? すべては、創造主なる神さまを認めないで、人間がその罪の性質のままに歩むことにあります。 しかし、忘れないでいただきたいことがあります。第二のポイントです。私たちの信じる神さまは、すべての創造のみわざを「良しと見られた」お方です。創造の記述の、それぞれの締めくくりをご覧ください。「神はそれを良しと見られた」とあります。最後の創造の日、第六日目に至っては、何と書いてありますか?「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。」すべての創造のみわざは、神さまの御目から見て、完全だったのです。 完全な世界。神さまがお喜びになっておられる世界。どれほどのものでしょうか。私たちもこの世界を生きていて、そこかしこに創造主なる神さまのみわざを見ることができます。それがどれほど緻密で、すばらしいものであるか。私たち人間も素晴らしい叡智を働かせてあらゆるものをつくり出しますが、究極的なことを言ってしまうと、所詮それは、神さまのみわざの真似をしているだけです。いわんや大自然に目を留めるならば、そのようなわざは逆立ちしても人間にできないことを、ただ認めるだけです。 このみことばはまた、神さまがお認めになることとは、ことごとく、神さまが「良しと見られる」ことであることであるとわかります。神さまは正義をもってこの世界を統べ治めるお方です。というより、神さまがすべての基準なのですから、神さまが良しと見られないことは、すべてが不義、義ではないことと言うほかありません。 だから、私たち人間が生きる基準は、この世界の創造主であり、また持ち主である神さまが「良しと見られる」ことであります。私たちはこの基準を、神さまのみことばである、聖書から知ることができます。この聖書が、「はじめに神が天と地を創造された」と冒頭に記しているとおり、創造主なる神さまを認めるところから、神さまが「良しと見られる」ふさわしい生き方を始めることができるわけです。それこそ聖書が、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」と語るとおりです。若いときから神さまの「良しと見られる」歩みをしていくことができるならば、その人はどれほど神さまに用いられ、また、喜びに満ちた生涯を送ることができるでしょうか! 罪ということばの原語が「ハマルティア」といって、それが「的はずれ」という意味だということは、お聞きになった方も多いと思います。神さまが「良しと見られる」正しい基準を守り行わなければならなかったのに、それを守り行わない、つまり「良しと見られる」基準の的から外れている、これが「罪」です。 法律に反すること、それもたしかに「罪」です。盗みとか、殺人とか。しかし、この場合の「罪」は、神さまが「良しと見られる」基準から外れた、その結果ともいうべきもので、やはりほんとうに問題にすべきは、神さまが「良しと見られる」、そのみこころから外れて生きようとすることです。 神さまが「良しと見られる」かどうかなど、まるで関係ない生き方をする、それもやはり罪です。創造主が「良しと見られている」この世界のあらゆる環境から搾取し、環境を破壊する、そういうことができてしまうのは、神さまのこの「良しと見られた」という視点が、人間から決定的に欠けているためということができるでしょう。しかし神さまは、最後に創造された被造物、人間に対し、どのようなみこころを持っていらっしゃいますでしょうか。 第三のポイントです。私たちの信じる神さまは、最高の被造物として人間を愛してくださるお方です。 第一日目から第六日目までの創造のわざ、その最後に、神さまは人間を創造されました。人間は最高の被造物です。人間だけが、神さまとの交わり、コミュニケーションを持てる存在として創造されました。 すると、それまでの第一日目から第六日目までのあらゆる創造のわざは、何のために行われたのでしょうか? それは、人間が住むのに最高の環境が整えられるためでした。 この整えられた環境の中で、人は創造主なる神さまを喜び、神さまの栄光を現すのです。では、人はどのようにして神さまの栄光を現すのでしょうか? その答えは、28節に書かれているとおりです。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」 地上のあらゆるものを従え、支配する。神さまはその役割をわれわれ人間にお与えになりました。これは、人間が環境を勝手気ままに用いていいということではありません。神さまのみこころがこの地上に行われるように、管理するのです。そのために、生めよ、増えよ、と、神さまは人間に命じられました。まことに、人がこの地に増え広がるのは、大きな祝福のしるしです。みなさん、赤ちゃんが生まれるということは、とてもうれしいことですよね? そうです、それは生めよ、増えよという、主のみこころがまたひとつ実現し、神さまのご栄光がこの地に現れたためです。 愛しているから用いたい! 愛しているからわたしのつくった完全なこの世界に広がってほしい! これが私たち人間に対する、神さまのみこころです。私たちがこの神さまのみこころに忠実に生きるとき、神さまはそのような私たちのことを「良しと見られる」のです。 しかし人間は、神さまが「良しと見られる」歩みをしない道を選びました。それが最初の人、アダムとエバから始まり、すべての人は罪を犯したので、神さまからの栄誉を受けることができない状態となりました。そう、神さまは、このように神さまを認めない歩みをするようになった人間の罪を「良しと見られる」ことはとてもおできにならず、罪をおさばきになるしかありません。 それでも私たち人間は最高の被造物です。神さまが愛してやまない存在です。なによりも「良しと見られる」最高の存在です。神さまはそんな愛する存在をさばきたくはありません。 それで神さまがお選びになった道は、自分勝手な道を歩んでご自身から離れた人間の罪を赦す、究極の「良しと見られる」ことです。イザヤ書53章、4節から11節をお読みします。 これは、十字架の上で死なれた、神の御子イエス・キリストを預言したみことばです。イエスさまはなぜ十字架で死なれたのでしょうか? それは、私たちを神のさばきから救うという、神さまのみこころを成し遂げるためでした。11節のみことばをご覧ください。「彼は自分のたましいの 激しい苦しみのあとを見て、満足する」……そう、満足する、とあります。御父と御子が切り離されるという、このあまりにも激しく苦しいみわざは、神さまがご覧になって「良しと見られた」ことだったのです。このイエスさまの十字架によって罪が赦されたと信じるならば、人は神さまの子どもとされ、永遠のいのちが与えられます。そう、十字架こそ、究極の「良しと見られた」ことです。神さまはそれほど、私たち人間のことを愛してくださったのです。 私たちが生きている世界は、あらゆる罪がはびこっています。環境も破壊されています。私たちはそのような世界を生きることに、時に大きな苦しみを覚えます。しかし神さまは、それでもこのあらゆる被造物を「良しと見ておられる」のです。なぜでしょうか? 最高の被造物、最高の「良しと見ておられる」存在である私たちが、現実に生きている世界だからです。神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。私たちは愛されています。イエスさまを信じる信仰によって罪赦された私たちの生きるこの世界、そしてこの世界に住む人々を、神さまは愛してくださっています。 私たちは何をすべきでしょうか? この世界に、生めよ、増えよ、地を満たせ……主のみこころ、良しと見られることを守り行う、そのわざを広めることで、この地を主の栄光に満たすことです。私たちクリスチャンは、そして私たち教会は、そのために存在します。 私たちは、主の主権を思いましょう。そして、この主権者なる主が、私たちのことを「良しと見られた」、愛しておられる、喜んでおられることをしっかり心に留め、主に用いられる歩みに踏み出してまいりましょう。

イエスさまのなさったこと―祈り、励まし、ケア

聖書箇所;マタイの福音書14:22~36 メッセージ題目;イエスさまのなさったこと―祈り、励まし、ケア 一時期、特にアメリカのクリスチャンの間にはやったグッズに、「WWJD」と書かれた リストバンドがありました。ホワット・ウッド・ジーザス・ドゥ、自分がイエスさまだったらどうするだろうか、という意味です。クリスチャンの歩みがイエスさまにならうものであるならば、私たちは何よりも、イエスさまならばどのように振る舞われるだろうか、そのことを常に考える必要があります。そのために、私たちは何よりも、聖書をお読みする必要があります。 今日の箇所をお読みしますと、イエスさまが、父なる神さまに対して、弟子たちに対して、そして群衆に対して、どのように振る舞われたかが書かれています。私たちはこの箇所から、自分に問いかけられているWWJD、イエスさまならどうするだろうか、その答えをそれぞれの生活に適用していただき、この一週間の歩みに一歩踏み出していただきたいと思います。 第一のWWJDです。イエスさまは父なる神さまに対して、お祈りをされました。 先週も学びましたとおり、イエスさまはこのとき、バプテスマのヨハネの殉教の知らせを聞いて、すぐにでも御父にお祈りされる必要がありました。しかし、群衆をケアしていては、それもかないませんでした。 そのときイエスさまは、群衆のあらゆる必要に応えてくださいました。病気の者をいやしてくださいました。たましいの飢え渇く者にみことばを教えてくださいました。そして、空腹に悩む何万もの群衆を満腹させるという奇蹟を行われました。私たちはそのときお弁当を差し出した少年や、大勢の群衆に食べ物を配った弟子たちのように、奇蹟のために献身すれば用いられるということを、先週のこの時間に学びました。 そしてようやく、この食事を分ける時間は終わりました。イエスさまは弟子たちを舟に乗りこませて先に行かせ、群衆を解散させられました。いよいよ祈りの時間です。イエスさまはお祈りを必要とされていました。イエスさまはおっしゃいました。「わたしと父とは一つです。」それは、父なる神さまとイエスさまがひとつのご存在として、交わりを保っておられたということです。ゆえにイエスさまはどんなに忙しくても、御父の前に出てお祈りする時間を持っておられました。 また、イエスさまのお祈りは真剣なものです。十字架を前にしたゲツセマネの園でのお祈りは、汗が血のしずくのように流れた、と描写されています。どれほど真剣なお祈りだったことでしょうか。このときも、バプテスマのヨハネがむごたらしい殉教の死を遂げたことに、真剣な祈りをささげずにはいられなかったはずです。 しかも時間の経過を見てみましょう。イエスさまは夕方まで山におられたとあります。相当に長い時間、山にお一人でこもられたということです。イエスさまのお祈りは、簡単には終わりませんでした。まさしくイエスさまは、お祈りによって生きられたお方です。父なる神さまとのたえざる交わりの中で、父なる神さまが行われるとおりのみわざを、そのとおりにこの地上において行なっておられたのでした。 もし、私たちが神さまに用いられたいと願うならば、イエスさまのこのようなお祈りの姿は、私たちにとって見習うべきお姿です。私たちが動物と異なる点は、神さまと交わりを持つことのできる「霊」を持っている、ということです。私たちはこの世の人たちと異なり、私たちも神さまによらなければ、ほんとうの意味で生きていくことができないということに気づかせていただいた存在です。私たちの生きる目的はどこまでも、私たちをイエスさまの十字架によって贖ってくださった神さまのご栄光を現すことです。そのためにも、私たちにとっては、お祈りはどうしても必要なものです。お祈りしない、神さまのみこころを聴こうともしない者を、神さまが喜んでお用いになることがあるでしょうか? そこで、私たちがイエスさまにならうお祈りをささげるために、具体的に何ができるかを考えてみたいと思います。私たちは日常生活を営む中で、どこかで必ず、一人で過ごす時間を持っているでしょう。その時間をお祈りに充てるのです。声を出せるならば出した方がいいですが、大きな声を出す必要はありません。ひとりでいる場所で、父なる神さまに語りかけるのです。これは、実践してみることではじめて、その益を体験することができます。 一人でも多くの方に、イエスさまにならう真剣なお祈りを実践していただければと願います。 第二のWWJDです。イエスさまは何をなさったか? イエスさまは弟子たちに対して、成長を促すケアをされました。 弟子たちは舟をこぎ出していました。しかし、何時間漕いでも、向かい風と波のためになかなか前に進むことができませんでした。 この船にはイエスさまが乗っていませんでした。彼らは自分の力で、この大風の中で舟を漕いでいかなければなりませんでした。それは、いかにガリラヤ湖の漁師出身のペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネがこの弟子たちをリードしていたといっても、簡単なことではありませんでした。 イエスさまがいないならば、私たちは自分の力で物事を切り拓いていかなければなりません。このとき弟子たちは、まさにそのような困難を体験していました。しかし、イエスさまがともにおられることを体験するまでは、その道が開かれることはありません。 私たちももちろん、人生を生きるにあたってはそれ相応の努力が必要です。しかし私たちは、みことばとお祈りによってイエスさまの導きをいただくことなしに、何か物事に取り組もうとしてはいないでしょうか? そうなると私たちは、この弟子たちのように、あらゆる逆風や波によって苦しむとき、何の手立てもないということになります。 しかしイエスさまは、夜通し漕ぎつづけた弟子たちのところに、なんとも驚くべきことに、湖の上を歩いていらっしゃいました。弟子たちは肝をつぶしました。幽霊だ! しかしそれはイエスさまでした。しっかりしなさい! わたしだ! 主は私たち神の子どもを、決して離れず、またお見捨てになりません。私たちは困難に立ち向かわなければならないとき、イエスさまが駆けつけて、助けてくださる恵みをいただきます。聖書は、イエスさまのことを、不思議な助言者、と表現しています。大風の湖を渡ってやって来られるイエスさまは不思議です。そのように、不思議なようにして、イエスさまは私たちのところにやってきてくださいます。私たちの味わっている、あらゆる大風と波を越えて来てくださいます。 さて、ここでペテロが、この湖の上のイエスさまに話しかけました。「主よ。あなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください。」この真っ暗で大風が吹き荒れた湖の上で、ペテロはどれほどイエスさまに会いたかったことでしょうか。おお! あなたはほんとうにイエスさまなのですね! 私は早くあなたにお会いしたいから、湖の上を歩いて行かせてください! 果たしてイエスさまは「来なさい」とおっしゃいました。そのことばどおりにペテロが湖へと足を踏み出すと、なんと、ペテロは湖の上を歩きはじめました。驚くべき奇蹟を、ペテロは体験したのでした! ペテロのように、イエスさまを一身に見つめて一歩を踏み出そうとする者には、それ相応の報いをお与えになりました。あなたにも湖の上を歩かせてあげよう。このことによってあなたは、わたしが主であることを知るようになる。イエスさまが主であることを知るならば、私たちは全能なるイエスさまを信じて、イエスさまへと一歩を踏み出せるようになれるはずです。ここに、私たちの信仰が働きます。どのような嵐の中にあっても、イエスさまへと向かっていくならば、私たちは守られます。 しかし、風は相変わらず吹いていました。聖書を見てみますと、ペテロが「強風を見て怖くなり、沈みかけた」とあります。強風というものは体に感じるものであり、それを「見る」とはふつう言いません。しかし、いろいろな訳の聖書を見てみても、これは「強風を見た」というふうに訳されています。 強風を見た、ということは、何を見なかったのでしょうか? イエスさまを見なかったのです。イエスさまよりも、全身をなぎ倒すようにまとわりついてくる風のほうが気になり、恐ろしくなったのでした。その結果、ペテロは湖の上を歩くことができなくなり、おぼれだしました。 イエスさまさえ見えていれば安全なのに、それ以外のリスクに目を留める、そういう弱さを人は持っています。しかしその弱さのゆえに、私たちは溺れてしまうのです。人が絶対立てない湖、迫りくる大風、波……こういう現実的なリスクは、私たちの生活にもたえずついて回るでしょう。そのようなとき、私たちはそれでもイエスさまを見つめられるか、それとも現実的な計算をしてしまうかで、大きく変わってしまいます。 しかし、イエスさまはペテロをつかんで、引き上げられました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」しかし、私たちはペテロを不信仰となじることなどできるでしょうか? このペテロの姿は、私たちの姿です。私たちはイエスさまを見つめているつもりでも、どこかで現実的な計算をしてしまうものです。 しかし私たちは、そんなペテロを引き上げられたイエスさまのお姿にこそ目を留めたいものです。信仰のチャレンジをして、それでも信仰が貫けなかったとしても、イエスさまはそんな私たちの姿勢に責任を取らせるようなことはなさらないお方です。どこまでもご自身の責任において、私たちの手を取って危険から救い出してくださるお方です。 おっちょこちょいのペテロでしたが、それでもわずかでもイエスさまを見つめて、湖の上を歩いて行けました。そのような、少しずつの信仰のチャレンジの積み重ねで、私たちの信仰は深まってまいります。そのチャレンジは私たちが用意するものではありません。主が備えてくださるものです。一歩を踏み出してまいりましょう。 そしてイエスさまが舟にお乗りになると、大風はやみました。弟子たちはイエスさまが神の子であると告白し、礼拝しました。イエスさまがともにおられるならば、私たちはもう、大風のような人生の困難を考えなくていいのです。私たちのすることは、あれこれ考えることではなく、ただひたすら、イエスさまを礼拝することです。 私たちが主の弟子であるならば、イエスさまはそれにふさわしいケアをしてくださり、私たちの信仰が成長するようにしてくださいます。難しいことができなくていいのです。私たちはただ、目の前にはイエスさまだけが見える、イエスさまに向かって進んでいく、私たちの人生の歩みはそうありたいものです。 そして、私たちもお互い、イエスさまだけが見えるように励まし合っていく、そのような歩みをともにできますように、お祈りいたします。 第三のWWJDです。イエスさまは何をなさったか? イエスさまは群衆に対して、ただ愛する働きをされました。 イエスさまのご一行は向こう岸に着かれました。するとそこに、大勢の群衆がやってきて、癒していただいたいと迫りました。イエスさまにはどれほど多くの人が押し寄せたことでしょうか? 着物のふさにでもさわりたいと願う人がいた、ということは、イエスさまは押し寄せる群衆でもうもみくちゃだった、ということです。 イエスさまは、ご自身のもとに来る人たちを拒むことをせず、ただひたすらに愛されました。彼らがいやされたいと願うならば、その願いどおりになさいました。イエスさまはまことに、愛にあふれたお方でした。 私たちにそのような愛はあるか、ということが問われます。ホワット・ウッド・ジーザス・ドゥ、という問いを自分に投げかけるとき、神さまの愛によって自分がほかの人に対して行動しているか、ということが問われないでしょうか? 使徒パウロは弟子のテモテに、終わりの日には困難な日がやってくる、と語りました。その終わりの日の特徴として第一にパウロが挙げたことは、人々は自分だけを愛するようになる、ということでした。要するに、自分のことしか考えない、自分さえよければどうでもいい、そんな考えをする人間ばかりになる、ということです。自分しか愛さない人間ばかりなんて、世も末だ、ということです。 そこで私たちの愛のあり方が問われます。私たちはどれほど、人のために献身すること、犠牲を払うことをお互いの間で強調しているでしょうか? 私たちの愛は、ただ愛されることを願うばかりの初歩的な段階を早く卒業しなければなりません。私たちが神さまに愛されていることをほんとうに知るためには、私たちこそがだれかをとにかく愛することを実践することです。 もちろん、その愛の行いは、だれかに見せていい人に見られたい、などという動機で行なってはなりません。私たちの愛の行いは、日々の主との交わりの中から生まれるものです。 私たちが毎日みことばを読み、お祈りするのは、宗教的に霊的ステージを上げるためでは決してありません。みことばに書かれているとおりを具体的に生活の現場で行うことで、神さまと隣人に対して愛を行うためです。 その愛も、見返りを期待してはなりません。いったいイエスさまは、人々に施しただけの愛の見返りをお受けになったでしょうか? 私たちは、ただ内側からあふれる神の愛によって、人々に愛を具体的に実践していくのみです。 私たちは互いの成長に役立てるように、交わりを保っていますでしょうか? 私たちは愛を実践していますでしょうか? その源となるのは、神さまの御前に一対一で出ていく祈りの時間です。日々この深い祈りを通して、互いの成長のために役立つ行いのできる私たちへと成長させられますように、人々に無償の愛を実践できる私たちへと成長させられますように、主の御名によってお祈りいたします。

奇蹟への献身

聖書箇所;マタイの福音書14章13~21節 メッセージ題目;奇蹟への献身 私たちの礼拝するお方、イエスさまは全能なるお方です。イエスさまが全能であるということを、私たちは聖書のみことばから知り、信じることができます。 イエスさまは実にいろいろな奇蹟をなさいましたが、その奇蹟の中でも、本日お読みした、五つのパンと二匹の魚の奇蹟は、特筆すべきものです。といいますのも、この奇蹟は、四つの福音書、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、すべての福音書に記録されているみわざだからです。イエスさまの復活を別にして、四つの福音書すべてに記録されている奇蹟は、この五つのパンと二匹の魚の奇蹟、これだけです。 しかし、私たちはこの奇蹟について学ぶにあたって、まず覚えておくべきことがあります。それは、イエスさまにとっては、とても大事な人、バプテスマのヨハネを、たいへん不幸な形で失ったという、その背景の中でこの奇蹟が行われたということです。 「刎頚之友」ということばがあります。この親友のためならば首を斬られてもかまわない、という、中国の故事成語です。ヨハネは、イエスさまにとって、刎頚之友となりました。バプテスマのヨハネは、聖書の教えに殉じた人でした。この殉教は、言うなればイエスさまのことばの正しさを証明したということであり、バプテスマのヨハネはほんとうの意味で、イエスさまにとっての「刎頚之友」となってその生涯を果てたのでした。 そしてその殉教が、ヨハネの弟子たちによってイエスさまに知らされました。そのときのイエスさまのお気持ちを考えてみましょう。イエスさまは、ご自身にやがて来たる十字架の死を思われなかったでしょうか。そして、それと同時に、どれほどヨハネの死を悲しまれたことでしょうか。イエスさまには祈りの時間が必要でした。ただちに寂しいところに退かれ、祈りの時間を過ごすことにされました。 しかし、群衆はそんなイエスさまを目ざとく見つけました。イエスさまのそんなお気持ちを知ってか知らずか、イエスさまを放っておきませんでした。ぞろぞろとついてきました。 ここでイエスさまは、ひとつの決断をされました。御父なる神さまのもとに行って一対一の祈りの時間を持つ前に、まず目の前の群衆にみことばを語り、病気の者をいやさなければ……。 イエスさまは、ひとり寂しいところに向かおうと漕ぎ出していた舟を岸辺につけ、群衆をお迎えになりました。 しかし、ここで群衆の気持ちも考えてみましょう。群衆はイエスさまの前に出ることに、どれだけ差し迫っていたことでしょうか? とにかくイエスさまの話を聞きたかった! イエスさまに触れていただいて、いやしていただきたかった! その思いにあふれていました。しかし、彼らはそれで満足するあまり、肝腎のご飯を食べることを忘れていました。 弟子たちの中には、村に行ってめいめいに食べ物を食べさせればよい、群衆を解散させましょうと言う者もいました。しかし、ここに集っているのは男性だけで5000人はいます。近くにあるのが都会でも、そんな大量のパンなどおいそれと調達できるものではありません。いわんや近くにあるのは単なる村里です。何もできません。 しかし、イエスさまはさすがです。ご自身についてくる人たちを、決して飢えさせたままにはされないお方です。イエスさまは彼らに、必要なだけのご飯を分けてあげるという奇蹟を行われました。そうです! イエスさまの手にかかれば、私たちは養われるのです。私たちは安心して、イエスさまについて行っていいのです。イエスさまが必ず、私たちのことをあらゆる面で養ってくださるからです。 私たちは、イエスさまが全能なるお方であることを知っています。また、イエスさまは全能なるお方であると告白します。しかし私たちは心のどこかで、イエスさまよりも、この世の常識のほうを拠り所として、計算しながら信仰生活を送ってはいないでしょうか? 私たちがもし、全能なる神さまのみわざを見たいと願うならば、疑わずに全能なる神さまを全面的に信じ、その信仰を働かせてお祈りする必要があります。 さて、このイエスさまの奇蹟を前にして、三種類の人が登場します。第一は、五つのパンと二匹の魚を差し出した少年、第二は弟子たち、そして第三は、食べて満腹した群衆です。 まず、少年から見てみましょう。マタイの福音書では、食べ物を差し出したのがだれかを明記していませんが、ほかの福音書では「少年」と書いています。 少年は幼い分、充分にこの世の経験を積んでいないかもしれません。しかしはっきりしているのは、それだけ世間ずれしていなくて、イエスさまに対する純粋な信仰を持っている、ということです。 大人になると、いろいろな世間のしがらみによって、とかく発想が窮屈になります。いちばんいけないのは、イエスさまに対する信仰が「理詰め」になることです。しかし、この少年はちがいました。少年にとって、お弁当はもちろん大事です。しかし、このお弁当をもしイエスさまに差し出したならば、みんなのことをいやしてくださっているイエスさまのことだもの、きっと何かしてくださる……そう信じきっていたのでした。 しかし少年は、ただ純真だっただけでしょうか? そうではなかったはずです。少年は、イエスさまと一緒に過ごす時間が、おそらくかなり長くなるのではないか、そうかんがえていたはずです。だからこそ、腹ごしらえができるようにお弁当を持ってくることを忘れなかったのでした。 この少年はイエスさまについていくにあたって、お弁当を忘れなかったように、やるべきことは抜かりなく行なっていました。その備えをしていたという点で、ほかの群衆とはちがっていました。その結果、主に用いられる栄光に浴したのでした。 私たちは常識にとらわれて信仰を働かせないのも困りますが、むやみやたらに無鉄砲なことをしてもいけません。「人事を尽くして天命を待つ」ではありませんが、神さまが人に与えてくださった能力を最大限に生かし、それでも自分の努力ではどうしようもない領域に全能なる神さまが働いてくださるように御手にゆだねる……これでまいりたいものです。 次は弟子を見てみましょう。群衆はどれほどの数だったでしょうか。成人男子だけで5000人いたとありますから、女性ですとか、それこそこのお弁当を差し出した少年を含む、子どもまで入れたらとんでもない数になります。この群衆に、たった12人の弟子で食べ物を配りなさいとイエスさまはおっしゃいました。一人で1000人は担当しなければならない計算です。 しかし、弟子たちはやり遂げました。弟子たちは、イエスさまがパンと魚を信じられないほどに増やされる奇蹟を目撃しただけではありません。このたいへんな働きに、「用いていただく」光栄にあずかったのです。 イエスさまのみわざは、単独で行われるものではありません。いかにイエスさまがパンと魚を増やされたとしても、それを配る人が必要です。イエスさまのみわざは、イエスさまに聴き従う弟子たちによってなされます。主の働きというものは、教会奉仕にしても、伝道にしても、取り組んでいるときに、時に疲れを覚えることもあるかもしれません。しかしそんなとき……この重労働とさえ言える奉仕に取り組んでいた十二弟子を考えてみましょう。彼らの顔を想像してみましょう。彼らは、イエスさまのみわざを今まさに目撃している喜び、イエスさまに今まさに用いていただいている喜びに輝いていたにちがいありません。 イエスさまとともに、イエスさまによって、これが、私たちの信仰生活にとって何よりも大事なことです。この、イエスさまの御前に生きる意識がなければ、私たちの信仰生活はことごとく、人に見せるために行うものにすぎなくなってしまいます。礼拝堂のお掃除をしないとほかの兄弟姉妹の目が気になる、食事の準備や片づけをしないとほかの兄弟姉妹の目が気になる……もちろん、奉仕は大事ですが、イエスさまの御前でする意識を持つのと、ほかの兄弟姉妹の目を気にするのとでは、同じことをしているようで、まったくちがうことをしていることになります。信仰生活とは、人の目を気にして行うものではありません。 イエスさまが私のことを喜んで用いてくださるから、私も喜んで取り組む、主人であるイエスさまの喜びを、この信仰生活によってともに分かち合う、それでこそ私たちは、この十二弟子にならう本物の信仰生活を送っていると言えるのではないでしょうか? みことばは語ります。「受けるより与える方が幸いである。」私たちはとかく、恵みを受けることばかり求めるものです。しかし、主に用いていただくときに味わう喜びは、主から何かを受けるときに味わう喜びとはまた違う、すばらしいものです。用いていただく体験をした人しかその素晴らしさは分かりません。この喜びに、私たちがひとりももれなくあずかれますようにお祈りします。 最後に、群衆を見てみましょう。彼らは、イエスさまが好きでたまりませんでした。イエスさまがお祈りをしようというのに追いかけていき、みことばを聴き、病気を治してもらい、そればかりか、奇蹟のようにご飯を食べさせてもらった……群衆はまさしく、イエスさまを追いかけただけの祝福をいただきました。 しかし、ヨハネの福音書を読んでみますと、この話には続きがあります。イエスさまはこの群衆に対して、あなたがたは食べて満腹したからわたしについてきただけだ、とおっしゃいました。そのおことばにつづけて、ほんとうの食べ物とは、イエスさまご自身のからだ、そして血であるとおっしゃいました。これを口にする者にまことのいのちがあるということです。 もちろん、これは私たち人間を救う、イエスさまの十字架を指して語られたおことばでしたが、このおことばに、群衆はふるいにかけられました。このことばは彼らに難解すぎたのです。あるいは、群衆はこのおことばに、血なまぐささ、野蛮さを感じたのかもしれません。もちろん、その意味を深く尋ねて、さらにイエスさまにしがみつけばよかったのですが、単なる肉的な祝福で満足しようとした群衆は、イエスさまのおことばに、今風の表現でいえば、「引いた」のでした。 残ったのは十二弟子でした。あの何万人もいた群衆はどこに行ってしまったのでしょうか。残ったのはほんとうにわずかな人、しかし、それがイエスさまの方法でした。イエスさまが何を語られようと、イエスさまのおことばにとどまり、分からなければ何度でもイエスさまに教えていただく、それが、群衆と弟子を分けるものです。主に用いられるのは、弟子です。主に用いていただくことに恵みを覚え、感謝できるのは、弟子です。私たちは自分のことを、群衆でいいと思っていますでしょうか、それとも、弟子でありたいと願いますでしょうか? 私たちは、イエスさまのみわざを茫然と眺め、ただ単にイエスさまが神さまであると告白するところにとどまったままでいてはいけません。イエスさまは、ご自身に献身する人を求めていらっしゃいます。お弁当を差し出した少年も、食べ物を配った弟子たちも、共通しているのは、「イエスさまに用いていただいた」ということです。イエスさまに用いていただくということ、これは、イエスさまの奇蹟を体験し、満たされること以上に恵まれること、喜びにあふれることです。 私たちもイエスさまの御手によって用いられる、その恵みをともに体験していきますように、主の御名によってお祈りいたします。

現代のティキコ、それは私たち

聖書箇所;エペソ人への手紙6章21~24節 メッセージ題目;現代のティキコ、それは私たち  暑い夏にぴったりのみことばを、ひとつご紹介します。箴言25章13節のみことばです。……言うべきことを忠実に伝言してくれる人がもしいるならば、それはその人にとってとてもすばらしいことです。    私たちにもそんな人がいるといいですね。パウロにはいました。それが、今日学びます、ティキコという人です。このティキコという人は、それこそ、夏の雪のようにすごい役割を果たしたわけです。夏に行きが味わえるということは、ただ爽快というだけではありません。ありえないようなことです。この、ありえないような恵みをもたらしたティキコについて、そして、このティキコの人となりから学べることを、これから見てまいりたいと思います。    第一に、ティキコはパウロと初代教会をつなぐ人となりました。  ティキコは脇役です。黒子です。しかし、私たちにみことばの教えが届くうえで、大きな役割を果たした人です。21節をご覧ください。……パウロはティキコのことを、主にある忠実な奉仕者であると、わざわざエペソ教会に向けて紹介しています。このティキコがエペソ教会にとって大事な存在であるパウロのことを伝えるということは、それは同時に、このエペソ人への手紙という書簡を言づけされていたことを推測させます。同じようにパウロが書簡の巻末でティキコのことに言及しているものには、コロサイ人への手紙、テトスへの手紙、テモテへの手紙の第二があります。   獄中のパウロが万感の思いをこめて書いた手紙を、パウロの指導してきた教会や弟子に届ける、それは、よほど信頼されていなければできないことです。パウロは獄中という限られた空間の中においても、ティキコがその任を全うできると見抜き、彼にすべてを任せたのでした。その結果、私たちはいまこうして、聖書を手にすることができているわけです。   パウロにしても、獄中ではなくて自由の身であったならば、それだけ人々にみことばを伝えて回り、より効果的に教会や指導者を訓練できたかもしれません。しかし、パウロは福音の正しさを立証する道を歩み続けた結果、こうして獄につながれることになったわけです。こうしてつながれることは、パウロにとっては避けられない道でした。   しかし、パウロは獄につながれようとも、愛をもって育てた教会や指導者を養育する道が残されているかぎり、最善を尽くしました。そのパウロのことばが届くために働いた無名の人、それがティキコでした。   ティキコのしたことは一見すると、パウロのしたことに比べるととても地味なもののように思えるかもしれません。しかし、彼のしたことは、パウロの手紙を忠実に、教会や指導者に送り届けたということです。   パウロの書簡の巻末の部分を見てみると、だれだこれは? というような名前が結構登場します。たとえばローマ書を見てみると、すごいです。プリスカとアキラは使途の働きとか、ほかの箇所に出てきたからまだ知っているとして、エパイネト、マリア、アンドロニコ、ユニア、アンプリアト、ウルバノ、スタキス、アペレ、アリストブロ、ヘロディオン、ナルキソ、トリファイナ、トリフォサ……。   まだまだ続く、ここ以外には出てこない名前が、これでもか、これでもか、と書かれています。しかし、こういう信徒たちがローマ教会を支え、それがこのローマ人への手紙を書く原動力になったと考えるならば、彼ら無名の信徒たちの存在は、実は私たちと関係があることになります。私たちがみことばによって生かされるというとき、その背後にはこのような無名の信徒たちがいたことを、私たちは忘れてしまうそうになりますが、彼らの存在は使徒パウロにとって、かけがえのないものでした。   私たちは、無名であっていいのです。要は、主に用いられるかどうかです。新約聖書、コリント人への手紙4章、1節と2節をお読みください。……パウロは、初代教会の指導者のチームを指して、「神の奥義の管理者」と言っています。その管理者になる資格は「忠実であることと」というわけです。そういう点では、諸教会や指導者に手紙を届けたティキコも立派な初代教会指導者チームの一員であり、パウロが「忠実」と太鼓判を押すだけのことはあるわけです。   有名じゃない、黒子のようだった、しかし忠実だった、そういう人によって、こんにち私たちが手にしているように、神のみことばである聖書を読めていることを、私たちは深く心に留め、そのような人を備えてくださった神さまに感謝をおささげしたいものです。    第二のポイントにまいります。ティキコは現代の働き人のモデルです。 ティキコは、パウロの様子を伝えただけではありません。23節、24節をご覧ください。……この祈りをもって締めくくられるエペソ人への手紙を、過不足なくエペソ教会に届けたことにありました。   ほんとうの働き人は、ほかでもない、みことばをこそ届ける人です。私たちの信仰生活は、たとえ有名ではなかったとしても、忠実にみことばをもって神と人とに仕える、多くの人の支えによって成り立ってきました。中には、名前さえ挙げられない人もいるかもしれません。しかし、そういう日本中、世界中の、あらゆる歴史に存在した有名無名の聖徒たちによって、私たちは支えられてきました。    私たちにもだれか手本になる人がいると思います。それは有名人である必要はありません。要は、私たちにとってのティキコがだれなのかを思い、その人との交わりの中で神さまに育てられることが必要です。   私たちにもだれかそのように、信仰を保つように祈ってくれた人、働きかけてくれた人がいるのではないでしょうか。ちょっと思い巡らしてみましょう。それはだれでしょうか? 有名な牧師のような実力者でなくてもいいのです。無名であっても信仰を支えてくれた、そのような方の存在はどんなにありがたいでしょうか。そういう方々に支えられてキリスト教会は成り立ち、私たちは成長するのです。このような方々を備えてくださった神さまに感謝いたしましょう。    第三のポイントです。ティキコは私たちのモデルです。 このエペソ人への手紙は、「恵みがありますように」ということばで締めくくられています。そうです、だいじなのは恵みです。私たちが救われ、神の子どもとなっていることは、ひとえに神さまの恵みによるものです。私たちが何かいい人であったり、努力をしたりしたからではありません。   エペソ人への手紙の中から、一箇所、だいじなみことばを抜き出すとしたら、どこになるでしょうか。それはおそらく、2章の8節と9節です。お読みしましょう。……これこそがクリスチャンです。恵みのゆえに、信仰によって。神からの賜物。賜物とは、プレゼントです。   私は一時期、トランプをたくさん持っていました。教会の子どもお楽しみ会などでかなり分けましたが、それでも手もとにはまだいくつか残っています。なんでこんなにたくさんトランプがあるのでしょうか? それは、トランプのコレクションが趣味の友人からもらったからです。   このあいだ、山中先生がこちらにいらっしゃったとき、私は山中先生と一緒にその友達に会い、伝道しました。そのとき、恵みということを説明するとき、私はこんなことを言いました。もし君がくれたトランプの値段をいちいち僕が計算して、じゃあ、これだけ払うよ、と、財布からお金を取り出したらどう思うかい。彼は、そんなのはいやだ、と、はっきり言いました。プレゼントにお金で応えてはならないのです。同じことは、救いというものにも言えることで、何かの努力の報酬として救われるのではありません。人は罪人ですから、罪がある以上、何をどうしても聖い神さまのもとには行けません。   神さまは人を愛しているから、さばきたくない。しかし、人には罪がある以上、きよい神さまは罪をさばかなければならない。その神の愛と神の正義を同時に実現したものが、イエスさまの十字架でありました。   このイエスさまの十字架を信じる信仰により、私たちは救いを受け、天国に入れていただけるのです。このプレゼントは、ただ受け取るだけでいいのです。何の努力もいりません。   このような恵みを受け取った者として、その恵みがあるように人のために祈る、また、その恵みのみことばを人に伝える、その働きを担うことは、難しいことではありません。私たちはだれかを愛しているならば、その人に主を信じる恵みがあるように祈るのではないでしょうか? その人が恵みのみことばを受け取れるように、努力できるようになるのではないでしょうか?   私も、講壇から語るメッセージが、難しくなりすぎないようにしなければ、と思います。予告しますが、9月からは創世記を1章から学びます。メッセージの仕方ももっとわかりやすくする取り組みもしていくつもりです。私は有名な牧師などではありませんが、ティキコのように、無名だけれども忠実、これを目指していきたいのです。   みなさんにも励んでいただきたいのです。この水戸第一聖書バプテスト教会という、キリストのからだなる教会を建て上げるために、神さまと人の前に、まず忠実であることを目指していただきたいのです。そのように忠実であるならば、第一コリント4章のみことばのように、神さまは私たちに、みことばの奥義を管理する働き、すなわち、みことばを学び、その学んだことを人々にふさわしく宣べ伝える働きを委ねてくださいます。忠実であることを目指してまいりましょう。   私たちがティキコのようであるために、ティキコのようになるために、しばらく祈りましょう。神さまがティキコの存在を通してこの恵みのみことばをこの地に残してくださったこと、私たちにもティキコのような信仰の先輩、信仰の友を備えてくださり、私たちの信仰を成長させてくださったこと、私たちもまたティキコのようになれるように、忠実さを増し加えてくださいますように、しばらく祈りましょう。

代表戦士に必要なもの、とりなしの祈り

聖書箇所;エペソ人への手紙6:10~20 メッセージ題目;代表戦士に必要なもの、とりなしの祈り だれかが自分のために祈ってくれている。その嬉しさは、私たちならばだれでも感じることではないでしょうか。本日は、昨年のメッセージの復習になりますが、あらためまして、「神の武具」について学び、その前提で、「とりなしの祈り」というものについて学んでまいりたいと思います。 まずは本日のみことばの、10節のみことばをお読みしましょう。……私たちが主によって「強められる」こと、これは「強められなさい」とあるとおり、命令です。しかし、この命令は、自分の力で「強めなさい」と言っていないことがわかります。「強められなさい」なのです。 私たちはなぜ強められる必要があるのでしょうか? そのことが11節、12節で説明されています。お読みします。……ここから分かることは、私たちの戦いが、血肉、つまり、人間を相手にする戦いではない、ということです。そして、悪魔の策略とは何でしょうか? それは教会を無力にすることです。 なにしろ教会というものは、キリストのからだであるわけです。悪魔はイエスさまを十字架につけ、神の国とそれに属するすべての民もろとも滅ぼそうとしました。しかし、イエスさまは復活されました! 悪魔と悪霊どもはもはや、頭が踏み砕かれた蛇も同然になりました。 しかし、敵もさるものです。どっこい、頭が踏み砕かれても、まだ完全に死んだわけではありません。教会に影響を及ぼすだけの力は残っています。よくも、俺様の頭を踏み砕いてくれたな……復讐心に燃えた悪魔は、それ以来2000年にわたって、キリストのからだなる教会を弱体化させるためには、どんな方法でも用いてきました。 教会を悪魔の攻撃から守るためには、霊的リーダーのためにも、あらゆる信徒のためにも、そして自分のためにも祈る必要があります。それが霊的戦いです。とりなしの祈りとは即、悪魔と悪霊を相手にした霊的戦いです。 キリストのからだなる教会は、私たち一人ひとりが形づくっています。ということは、悪魔と悪霊の攻撃は、ほかならぬ、私たち一人ひとりに及ぶことになります。だからこそ私たちは、お互いのことについて具体的に関心を持ち、お互いのために祈る必要があるわけです。また、自分のお祈りの課題を、教会というこの共同体の中で分かち合い、祈ってもらう謙遜さも必要になります。 では、私たちはどのようにして悪魔や悪霊と戦うのでしょうか? 悪魔が何者かを知るのと同時に、私たちがどういう者にされているかを知って、戦いに出て行くのです。 13節をお読みください。……「邪悪な日」、と書いてあります。「邪悪な日」とは、私たちのいま生きているこの時代といえないでしょうか? 神さまはしかし、そんな時代に生きる私たちに、はっきりと使命を与えておられます。そのために私たちは、「神の武具」を身につけます。武具も身につけないで戦うならば、それは死ぬことを意味します。 武具は6つ出てまいります。ともに学び、しっかり武装しましょう。 ①まず14節です。「腰には真理の帯を締め」……帯、要するに「ベルト」です。ベルトをびしっと締めるならば、それだけ装備全体がきっちり身につきます。真理とはつまり、神さまのみことばは真理である、ということですが、このみことばの真理を身につけるならば、それが神の武具という装備全体を引き締める役割をする、ということです。 私たちを引き締めるものは、みことばの真理です。そうでないならば、あっという間に不安に落ち込みます。そこを悪魔は容赦なく狙うのです。私たちが聖書を学ぶ理由は何でしょうか? それは私たちが、まことの真理なるイエスさまを心にお迎えしている者にふさわしく、その真理を身に着け、真理の道を生きるためです。真理がしっかり身についているならば、どんな脅かしがあっても私たちは簡単には揺れ動きません。不安に陥ることもありません。 だからまず何よりも生きる基礎として、私たちは真理を身につけるのです。そのためにみことばをつねに読むのです。 ②次に、「胸には正義の胸当てを着け」……胸当ては、心臓や肺のように、いのちを司る臓器を守ります。ですから、正義がいのちを守るのです。 私たちにとっての正義は、神さまご自身であり、正義の基準は、神さまのみことばです。よく、私たちは「神は愛」と申します。しかしそれは単なる甘やかしとは、根本的に異なるものです。この神さまの愛には、いっさい譲ることのできない神さまの正義、悪を悪として徹底的にさばかれる神さまの正義の裏付けが、厳然として存在します。 その、正義の裏付けに満ちた愛の究極の形、それはイエスさまの十字架です。神さまにそむく罪を犯すことを選んだ人間は、死をもってさばかれることを選んだも同然でした。そうならないと、神さまはもはや、正義ではありえません。しかし神さまは、その罪の罰を、ひとり子イエスさまに負わせられました。イエスさまのあの十字架……ほんとうは私たちこそ、あのようにむごたらしく死んで、神さまに見捨てられて地獄に墜ちるべきだったのです。しかし、その罰をあえて御子イエスさまに負わせられることで神さまは正義を果たされ、私たちを滅びから免れさせて、愛を果たされました。 この愛に裏打ちされた正義こそ、私たちのいのちを守るものです。私たちも心の中にイエスさまをお迎えしている限り、そのように、いのちを捨てていのちを生かす、正義の人になれます。私たちにその力がなくても、神さまが恵みによって、私たちをそのような正義の人に変えてくださいます。これは、素晴らしい祝福の生き方です。 ③次に15節にまいります。「足には平和の福音の備えを履きなさい。」 戦場の土地は、さまざまな姿を見せます。それは岩地であるかもしれませんし、砂地であるかもしれません。草が生い茂っているかもしれません。 低い木々が生えているかもしれません。ぬかるみかもしれません。そのように、どんな場所であるか予測もつかない場所を縦横無尽に駆けるには、きちんと足にフィットし、なお丈夫な靴を履く必要があります。そうすれば、どんな攻撃にも対応でき、どんな攻撃も積極的に仕掛けることができます。戦場の環境によって無意味に傷つくこともありません。 その履物とは、「平和の福音の備え」であるとみことばは語ります。世の中には「福音」ということばがあふれていますが、私たちにとっての福音とはそもそも、イエスさまの十字架によって私たちは神さまと和解させられた、十字架を信じさえすれば私たちは救われて神の子どもとなり、永遠のいのちをいただく。 それには何の努力もいらない! これぞ福音です。平和の君イエスさまによって、神さまと平和を得ることができる……しかし、この福音、よき知らせを告げることには、「準備」がそれなりに必要になります。 私たちはいつでも、人にきちんと福音が語れるように、自分自身を訓練する必要があります。準備をするのです。福音の語り方を練習するだけではありません。私たちはだれに福音を語るのか、そのためにはその人とどんなコミュニケーションをあらかじめ取る必要があるのか、しっかり考える必要があります。ここにも「準備」が必要です。 履物をしっかりはいて戦場に行き、動き回って、福音を必要とする人々のたましいを悪魔の手から奪還する……これぞ霊的戦いであり、非常に奥深く、わくわくするものです。 しかし、私たちはその戦いに実際に出て行くには、それなりのクールな準備をする必要があるわけです。いざ伝道するにあたって、自分の態度やコミュニケーションの取り方には、もしかしたら問題がないか、相手とはどのように会話したら最も心を開かせられるか……また、相手に語る内容にしても、さまざまな側面を持つ福音の中でも、どの要素から順に語ったらよいか、あらゆる準備を普段からしておくことです。そのようにして、縦横無尽に福音を伝えるにふさわしい備えをするのです。 ④では、つづいて16節にまいります。「これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。」……これらすべての上に……つまり、真理と正義、平和の備えによって武装したうえで、信仰を働かせなさい、と語っています。 真理が自分自身を律すること、正義がいのちを守るもの、福音宣教の準備が実際の霊的戦いの備えだとすれば、信仰とは、悪い者の放つ火の矢、つまり悪魔と悪霊の具体的かつ激しい攻撃を見極め、それに合わせて用いるものである、ということがわかります。 矢は鋭くとがっており、これが刺さっただけでも相当なダメージを受け、当たりどころが悪かったらいのちにかかわります。それに火がついていたら、めらめら燃えた状態で刺さるのだから、ただの矢とは比べ物にならないほど、ダメージは大きくなります。火の特徴は、燃え広がる、ダメージを果てしなく大きくする、という点にあります。 この、悪魔の「2段階攻撃」を防ぐもの……それが「信仰」という名の「盾」であります。盾はもちろん、手で持つわけですから、火の矢が飛んで来る方向を見極めて、その方向に向けて盾を差し出せば、火の矢はからだに刺さらず、落とすことができます。悪魔は四方八方から、火の矢を放ってきます。しかし、悪魔の存在と策略が意識できていれば、悪魔と悪霊どもは私たち教会に向けて、いかなる攻撃を具体的に仕掛けてくるか、見抜けるようになります。そのように、敵の攻撃がいかに及ぶかを見極め、その攻撃を防ぐことを可能にするのが、信仰です。勝利のイエスさまがともにおられるという信仰、これこそが、私たちを悪魔のどんな攻撃に対しても勝たせる力です。 ⑤ では17節、「救いのかぶとをかぶり」、かぶととは何でしょうか? 私たちの頭を保護するものです。 旨と同じように、この「頭」というところも、攻撃されれば確実にいのちにかかわります。不測の攻撃を防ぐために、かぶとはいつも頭にかぶって戦う必要があります。 また、古代の戦争は馬に乗って戦うことも多くありましたが、落馬して頭でも打ったら、それこそいのちがありません。兜はそういう点で、頭を守る「ヘルメット」の役割も果たしています。以上のことから言えることは、兜とは、「いのちを守る物」であると言えます。 また、かぶとが覆っている頭とは、人を代表するものです。人は頭にかぶとをかぶれば、すぐにはそれがだれかということは見分けがつきません。かぶととは、その人の人格の象徴である顔を隠すものです。 言い換えるならば、人のいのちを守るにはその人の人格が隠れている必要がある、それを可能にするのが、救いである、というわけです。 私たちのすることは「自分ではなくキリストを現して生きること」、これではないでしょうか? キリストの救いが、私たちの顔、つまりいのち、全人格を覆うのです。そのように、キリストを現して生きることこそ、救いの兜をかぶって霊的戦いに臨む姿勢です。このような私たちにはもはや、悪魔の付け入るすきはありません。 ⑥そして、「御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。」剣は「攻撃」のために用いる武器です。今まで見てきた5つの武具はすべて防御のためのものです。しかし、私たちは攻撃をしない限り、悪魔に勝利することはできません。そのために剣を用いるわけですが、このみことばではその「剣」とは、聖書のみことばであると語っています。 マタイの福音書4章で、イエスさまが公生涯に出て行かれる前、荒れ野で悪魔の試みをお受けになったとき、悪魔のささやきを何によって退けましたか? そう、「みことば」です。しかし、この場面にはミソがあります。悪魔を退けるたびに、イエスさまはみことばを引用しながら、「……と書いてある」と、いちいちお語りになったのです。イエスさまがこのようにみことばを引用して語られたのは、それが私たちクリスチャン、そして教会にとって、正しい悪魔への攻撃の方法であることをお示しになったからでした。 以上、霊的戦いにおける「武具」について見てまいりましたが、その「霊的戦い」において、私たちが何よりもすべきこと、それは「祈り」です。 この「祈り」の中身も、このみことばから見ますと、大きく分けて「聖徒のための祈りの勧め」と「著者パウロのための祈りの要請」に分けられます。 私たちはだれのために祈るのでしょうか? 「聖徒」のためです。みことばは私たち教会のひとりひとりのことを、「聖徒」と呼んでいます。「聖なる者」なのです。なぜならば私たちは、イエスさまの十字架を信じ受け入れたゆえ、すべての罪が赦され、神の子どもとなり、天国に入れられたからです。 しかし、私たちはこうして「聖徒」と呼ばれてはいても、依然として罪を犯すことがやめられません。いえ、罪深い考えそのものをやめることが、できないでいるのです。そのようなひどい罪人であるのは、どうしようもない事実です。しかし、そんな私たちであっても、私たちクリスチャンはお互いのことを、何を基準に見るべきでしょうか? 私たちが互いを見る基準は、人のことを「聖徒」としてくださった神さまです。だからこそ私たちにとって、互いのために祈ることに意味が出てくるのです。その人を「聖徒」としてくださった神さまのために、その人のことを神さまが用いてくださるように……そのように祈ってこそ、私たちのお祈りは、みこころにかなうものとなるわけです。 そればかりか、「すべての聖徒」のために祈れ、とあります。教会という、この共同体のひとりひとりのために祈ることが基本になります。しかし、自分たちの共同体の外にも、主の民、神の家族は存在しているわけです。 そして「どんなときにも……目を覚まして……忍耐の限りを尽くして」……率直にお聞きします。こんな風に祈れますか? 「どんなときにも」ですよ? それも「目を覚まして」ですよ? しかも「忍耐の限りを尽くして」ですよ? 発想を変えましょう。一人でお祈りを引き受けようと思うからいけないのです。大勢のチームを編成して、たくさんのお祈りの時間を積み重ねると考えてはいかがでしょうか。そうすると、祈りの時間はあっという間に積み上がります。 それなら私たちは、何をどうやって祈ればいいでしょうか? 具体的にあれこれ考える前に、聖霊なる神さまの助けによってお祈りする、そこからはじめていただきたいのです。そうすればみなさんは、何を祈るのがみこころかを教えていただけて、確信をもってお祈りできるはずです。 みなさんはもちろん、この礼拝に対しては、一定の重荷をお持ちのことだと思います。 しかし、だからといって、祈りの課題を羅列した「リスト」のようなものを手渡されても、それを見ながら毎日、本腰を入れてお祈りするのは少し厳しくはないでしょうか。もっと率直に言えば、退屈ではないでしょうか。厳しいと思ったり、あるいは退屈だと思ったりするのは、理由があります。それは、「聖霊に助けられて」祈っている確信がないからです。聖霊の助けをいただかないでその「祈りのリスト」を眺めていたって、たましいの通(かよ)ったお祈りなどできるはずもありません。 聖霊に導かれる祈り、神によって聖なる者とされたお互いのための祈り、それを「絶えず目を覚まして根気よく」祈りつづけるには、私たちが1つのキリストのからだであることをしっかり受け止めていること、これがどうしても必要です。私たちはキリストの1つのからだですか? そう思えなくても、みことばがそう言っています。水戸第一聖書バプテスト教会という、この共同体のために重荷を持って祈る私たちとなりますように、そのために、日々聖霊なる神さまの助けをいただく私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。 そして、聖徒を導く教職者のための祈りについて学びます。 言うまでもなく、この「エペソ人への手紙」は、新約聖書を代表する大使徒、パウロが書いたものです。しかし、このエペソ人への手紙を書いたとき、パウロは獄中に幽閉されていました。その足で移動して、福音を伝えて回ることなどできません。あの、女神アルテミスの神殿の門前町、エペソに立てられた教会のことは、パウロとしては気がかりでならなかったでしょう。偶像礼拝をしなければ生きていけないような文化において、壮絶な戦いを体験しているエペソの聖徒たち……彼らへの万感の思いを込めて、このエペソ書は書かれたわけです。 しかし、パウロは彼らに対して、ただ守ってあげるだけの存在として、上から見下ろすようにして接していたわけではありません。いかにエペソ教会が、異教社会にあって立場の弱い群れであったとしても、彼らには自分のためのお祈りを頼んでかまわない……あなたたちは同労者なのです、仲間なのです……なぜならば、彼らもやはり、聖徒、神の民、キリストの同じからだなのだから……。 そのことを前提にして、本文を見てまいりましょう。19節です……。パウロはどんなことを祈ってほしいと頼んでいますか? まず、「語るべきことばが与えられて」、そのようにして「福音の奥義を大胆に知らせることができるように」です。…