八つの幸い その3
聖書箇所;マタイの福音書5章5節 メッセージ題目;八つの幸い その3 ―柔和な者― 「八つの幸い」シリーズも、3回目となりました。この「八つの幸い」の教えは、専門的な用語では「八福の教え」といいます。福は、祝福の「福」です。「残り物には福がある」なんて言いますが、日本人は「福」というものを擬人化して縁起物にしたりします。あの「お多福」なんてそうです。「お多福」を、縮めて「福」などと呼んだりします。 聖書もまた「福」を語ります。この「八福の教え」も、「幸いです」という箇所は、韓国語の聖書では「福あり」と表現します。しかし、日本人が一般的に考える「福」と、聖書の語る「福」は、必ずしも同じものではありません。普通ならば、いやな思いをするとか、苦しむとか、そういうことを「福」の反対と考えるでしょう。しかし聖書は、人はしばしばそういうマイナスの状態に置かれながらも、それでも誰にも奪えない祝福、喜びを体験するという意味のことを語ります。 先週学んだのは「悲しむ者は幸いです」というみことばです。先週のメッセージに補足しますと、この「悲しむ」ということばは、ギリシャ語の表現においては最大級の悲しみを意味します。聖書の原語であるギリシャ語では、悲しみというものはいくつもの段階に分けて表現します。日本語では同じ「悲しみ」でも、ギリシャ語の原典を見れば、その悲しみがどの程度のものかわかるわけです。この、イエスさまの語られた「悲しむ者は幸いです」の「悲しむ」は、最大級の悲しみというわけです。 私たちは何をとても悲しむのでしょうか? 自分のどうしようもない罪深さです。なぜ、罪を悲しむ必要があるのでしょうか? 罪があるままでは、神のみもとに行くことができないからです。神さまに受け入れていただけないからです。しかし神の御子イエスさまは、そのような私たちのことを受け入れてくださいました。私たちの身代わりに十字架にかかってくださり、罪を赦してくださいました。私たちはもはや、罪人ではありません。イエスさまは、罪に悲しんでいた私たちの、その罪に泣いた涙をぬぐってくださり、慰めてくださいます。それゆえに、悲しむ者は幸いなのです。イエスさまだけが与えてくださる、ほんものの慰めを与えていただけるのです。 さあ、それでは、本日のみことばにまいりましょう。イエスさまの三番目のおことばです。「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」「幸福(さいわひ)なるかな、柔和なる者。その人は地を嗣がん。」 素晴らしいおことばです。イエスさまのもとに馳せ参じた群衆は、土地のような財産などこの地上に持っていない人たちばかりだったことでしょう。しかし、そのように生活のただ中で自分の貧しさを思い知るしかなかったような彼らに、もし柔和ならば地を受け継ぎます、とイエスさまは約束してくださったのです。彼ら群衆はどれほど慰められたことでしょうか! そうか! 私たちも柔和ならば、地を受け継ぐのか! さて、そうなりますと、私たちは2つのことを知る必要があります。聖書の語る柔和とは何か? 柔和な人が受け継ぐ「地」とは何か? この2つです。 その2つのものを知るために、まずその前提として、旧約聖書の詩篇のみことばから学んでおきたいと思います。 イエスさまのこのみことばは、イスラエルのたましいともいうべき、旧約聖書の詩篇のみことばを、そのまま語っておられるみことばです。実際に見てみましょう。詩篇37篇です。詩篇37篇は、主に信頼する者と、悪しき者とを対照的に描写した、40節にもわたるやや長い詩です。長いのですべてを細かくは扱いませんが、悪しき者は祝福されず、やがて滅びることを繰り返し述べています。 では、主に信頼する者、すなわち主の側につく者はどうなのでしょうか? 3節から6節をお読みします。……主に信頼し、お従いするならば、主が必ずその人の心の願いをかなえ、成し遂げてくださる、その義、すなわちその主にある正しさを、主の栄光をもって輝かせてくださることを、約束しています。 しかし、願いが叶うまで、私たちはしばらくの忍耐を必要とします。主につく者たちがこの世の底辺で耐え忍んでいる間、神さまに従わない悪しき者が、まるでこの世の祝福を謳歌しているかのように、することなすこと何もかも成功しているのを、私たちは見るようになります。しかしそれでも、私たちはそのような者たちに憤ったり、腹を立てたりしてはならないと、7節、8節のみことばは戒めます。 なぜ、腹を立てるべきではないのでしょうか? それは、やがてその悪しき者はこの地から断ち切られ、主を待ち望む者たちが地を受け継ぐからだと、続く9節は語ります。そして、彼ら悪しき者はいずれこの地から一掃されると、続く10節は語ります。そして11節。ご注目ください。ここに、イエスさまのお語りになったみことばが書かれています。イエスさまの予表とも言えたダビデがこのように語り、それからおよそ1000年のときを経て、イエスさまはこのみことばをお語りになり、また、実現してくださったのでした。 その前提で、イエスさまのお語りになった「地」というものが何かを考えてみましょう。私たちクリスチャンは、この地上で何も持たないようでも、実はすべてのものを持って生きていることに、気づいていますでしょうか? 全能なるイエスさまがともにいらっしゃる、イエスさまが私たちのお祈りをみな聞いてくださるということは、そういうことです。私たちが特に求めないから、すべてのものを持っていること、あたえられていることを意識していないだけです。 いや、私は求めたよ! でも、与えられませんでした! そんなことをおっしゃる方もおられるかもしれません。しかしそれは、神さまがあなたを愛していらっしゃるから、今それを与えたらあなたが神さまから離れ、永遠のいのちの喜びを味わえなくなってしまってはいけない、と、神さまが親心を働かせてくださったからかもしれません。神さまがもし、私たちにほんとうに必要と願っていらっしゃるものならば、それがたとえどんなものであろうとも、イエスさまの御名によってお祈りするならば、与えてくださるのです。 私たちは究極的には、死んでこの地上でのいのちが終わるか、イエスさまが再びこの地上にいらしてこの世が終わるかして、天国に入れられることで、ほんとうの意味で「地を受け継ぎ」ます。天国こそが、私たちの受け継ぐほんとうの地です。 それでは、私たちが現にいま生きているこの地というものを、私たちはどう理解すべきでしょうか? この地、この世は神さまがお造りになり、愛をもって導いていらっしゃる、かけがえのない存在です。しかし、この地に住む人は大多数が、この創造主を認めず、自分勝手な罪の道を歩んでいます。私たちはそのような人々を憐れみこそすれ、けっして、彼らと同じような歩みをして、神さまのみこころを損なうような道に行ってはいけません。私たちは彼らに対し、むしろよい行いをもってキリストの救いのともしびを掲げ、ひとりでも永遠のいのちに導けるようにお祈りする必要があります。私たちにとって実に、この地は、私たちが天国に入るためのまたとない練習の場所と考えるべきでしょう。 そういうわけで、私たちが受け継ぐ「地」は、この世という目に見える「地」の延長線上にある、永遠の天国です。イエスさまを信じたら天国に入れるからと、この世の生活をおろそかにしてはなりません。実に、キリストの語られる「柔和な人」は、この地上において全能なる神さまのご支配を実際に体験し、いついかなるときでも神さまを表して生きるようになる、すばらしい生き方をしてまいります。 さあ、そこで、いよいよ、そのような「地を受け継ぐ人」の条件である、「柔和な者」とはどういう人かを、以下学んでまいりましょう。 日本語で「柔和」というと、ご年配の方は七福神のえべっさんのようなニコニコ顔を連想されるかもしれません。では、聖書の語る「柔和」は何でしょうか? それを知るにはやはり、聖書原語のギリシャ語の意味も合わせて考えるとよろしいです。 まず、ことばそのものの意味からまいりますと、この「柔和な」ということばのギリシャ語、「プラウス」ということばは、「温和な」とか「温順な」という意味です。英語では「ミーク」とか「ジェントル」と訳しています。 しかし、ある英語の訳の聖書を見ると「ハンブル」とあります。「謙遜な」です。つまり、温和、温順であるのと同時に、謙遜であるわけです。ということは、いくら顔がにこにこしていても、腹の中ではどす黒かったりするならば、それは聖書の語る「柔和」とは違うことになります。 聖書は、イエスさまが柔和な方であると語ります。それはイエスさまがこの地上に来られるはるか以前の預言に、すでに語られていたことです。その預言の成就として、イエスさまが立派な馬ではなく、みすぼらしい子ろばに乗ってエルサレムに入城されたわけですが、そのイエスさまのことをそのみことばは「柔和な方」と表現しています。 イエスさまは、ご自身が人々に何をしてくださると語ってくださいましたか? マタイの福音書11章28節から30節をお読みしましょう。……そう、ここでイエスさまは、ご自身は柔和でへりくだっていると語られました。いかにもわたしは神の子だ! さあ、ひれ伏せ! などという態度をとるお方では決してなかったのです。疲れた人、重荷を負った人のことをよく理解し、その苦しさ、つらさに寄り添ってくださるのです。 そんなあなたがたは、わたしの柔和さ、また謙遜に学べば、たましいに安らぎを得て、その苦しみから解放されますよ、と、イエスさまは約束してくださっています。教会という場所で執り行われる礼拝が、その主要な要素として「聖書のお勉強」をする理由が、ここにあります。聖書を学ぶことで人よりもお利口になったと威張るためではありません。日常生活で人から負わされたあらゆるくびき、世のしがらみから、イエスさまのみことばによって解放していただくために、私たちはみことばから学ぶのです。 そこで私たちは、イエスさまの持っておられた柔和さの実態を、よく知る必要があります。 十二弟子を訓練し、この世に神の国を拡大する跡継ぎを育てておられたイエスさまが柔和だったというとき、私たちはその柔和というものが、いわゆる軟弱だったということとは違うことがわかります。弟子たちにふさわしくない点があるならば容赦なく叱り飛ばされました。時には「下がれ、サタン!」などという、震え上がるようなことさえ弟子に向かっておっしゃいました。それでもイエスさまは柔和だったのでしょうか? あるいは、パリサイ人や祭司のような宗教指導者たちに対しては、わざわいだ、と、口を極めてののしり、なぜそうののしるのか、彼らの落ち度を具体的にひとつひとつ挙げていかれたこともありました。彼らの発言を取り上げて、それは聖霊をけがすという、永遠に赦されない罪を犯したのだ、と、一刀両断に断罪されたこともありました。それでもイエスさまは柔和だったのでしょうか? はたまた、エルサレム神殿で動物のいけにえを売ったり献金のための両替をしたりすることで儲けている者たちの、その腰掛や陳列台をひっくり返して彼らを神殿から追い出すなど、大暴れをなさったこともありました。それでもイエスさまは柔和だったのでしょうか? 答えはすべて「イエス」。柔和です。 なぜならば、イエスさまという、神の知恵、神のみこころが受肉してこの世に実現されたお方は、本質的に柔和なお方であると、聖書が語るからです。 ない知恵をしぼる、ということばがありますが、人間はいくら知恵を尽くしても、神の前ではその知恵はないも同然です。イエスさまというお方を通して、神の知恵を教えていただく以外に、私たちはまことの神の知恵を得ることはできないのです。イエスさまというお方から学べば、私たちは神の知恵に到達できます。なぜならば、イエスさまは神の知恵そのものでいらっしゃるからです。 上なる神の御許から下られたイエスさまがどのようなお方かを示しているのが、ヤコブの手紙1章17節のみことばです。……ここに「協調性」ということばが書かれています。ということは、協調性というものが神の知恵であるということになりますが、イエスさまは、人の罪深さに合わせて協調性を発揮なさるお方では決してありません。罪人を理解こそすれ、協調されることなど、決してありえないことです。 それでは、イエスさまの協調された対象は何でしょうか? この「協調性」ということばは、以前の訳の聖書では「温順」と書かれていました。新共同訳では「従順」です。「順」ということばは「従う」という意味があります。そう、イエスさまは、父なる神さまに従順に従われたのです。 御父への従順。イエスさまが語られたときに厳しいおことば、時に荒々しく映る行動は、すべてこれで理解できます。 従順の「従」という字は、「柔らかい」という字を書くこともできます。柔らかく従うのです。御父のおっしゃることは何でもお従いする。御父のみこころだから、イエスさまはいのちをかけて、私たちのことを愛してくださいました。御父のみこころだから、イエスさまはみこころを曲げる者たちには容赦なさいませんでした。御父のみこころだから、イエスさまはどんなにつらくても十字架を背負ってくださいました。 私たちがイエスさまから学ぶべきは、この御父に従順にお従いする上での柔和さです。その御父に対する柔和さを学ぶならば、私たちはたましいに安らぎを得させていただけます。 みことばの語ることに頑なにならず、柔らかく従えるならば、神さまは私たちに、ご自身が王であられる御国を任せてくださいます。どこの王さまが、王様の権威も認めず、命令も聞かないで自分勝手に振る舞う家来のことを信頼して仕事を任せたり、褒美をやったりするでしょうか。 私たちも同じことです。神さまを王様として、おっしゃることには何でも従順にお従いして、みこころの命じるとおりにこの世に愛を示し、よい行いを施していくことで、人々が神さまの御名をほめたたえるようにしていくならば、神さまは私たちに、御国を任せてくださいます。 顔はにこにこしていても腹の中では何を考えているかわからなかったり、軟弱だったりするのを、これからは柔和と呼ばないようにしましょう。柔和ということはどこまでも、神さまとの関係の中で語られるべきものです。 時にその歩みは、神さまに従わない悪い者たちの一時(いっとき)の栄えを眺めさせられて、腹を立てたくなるような、不当な忍耐に満ちたものとなるかもしれません。しかし、そんな私たちのために、御父のみこころに従順に従って十字架を背負ってくださったイエスさまの、その従順を思いましょう。私たちも御父のみこころに従順に従うならば、主は必ず、この世において、そしてのちの世においてはなおさら、だれにも奪えない祝福を与えてくださいます。私たちがみな、この祝福をともに戴くことができますように、主の御名によってお祈りいたします。