みことばを行うこと

聖書箇所;ヤコブの手紙1章19節〜27節 メッセージ題目;「みことばを行うこと」  今日からひと月ぶりにヤコブの手紙の学びに戻る。  ヤコブの手紙は耳の痛いみことばである。旧約聖書の「箴言」に匹敵する耳の痛さであろう。  クリスチャンはつい、こんなことを言ってしまわないだろうか?「イエスさまの十字架によって罪が赦されたのだから、何をしても許される。」しかし、それで済むなら、聖書はこんなに分厚い必要はない。  私たちはもちろん、分厚い聖書のみことばをことごとく守り行うことによって救われるわけではない。しかし、分厚い聖書はまた、私たちがどんなに罪深いか、それゆえに主に徹底して拠り頼まなければならないかを、これでもか、これでもか、と教えている。聖書のみことばは、私たちが主に拠り頼む信仰を持つうえで必要十分なものであり、その中でもヤコブの手紙は、私たちがどれほど、みことばを守り行うべきであるというみこころから外れた罪人なのかを明らかにしている。  そこで今日の本文を読んでみたい。  第一のポイント。みことばは素直に受け入れるべきものである。  19節。語ることや怒ることは、自分から出てくること、自分を現すこと、自分を表現することである。人はだれしもその欲求がある。しかし、その欲求のままに生きていても、神さまのみこころにかなうものとなれるわけではない。一切語ってはいけない、一切怒ってはいけない、というわけではない。しかし、語るのに遅くあれ、怒るのに遅くあれ、というのがみこころである。つまり、語りたい、怒りたい欲望をセーブして振る舞いなさい、ということである。  実際、20節の語るとおりである。怒ることで正義を果たすかのように振る舞う人がいるが、それはふさわしくない。私は先々週シオン錦秋湖で、ある若干ご年配の牧師先生と同じ部屋になっていろいろお話ししたが、先生は以前、気に入らないことがあると信徒の前でも癇癪を起こすことがよくあったそうである。しかし、それはよくないと示され、先生は睡眠をとることを心掛けるようになったという。そうしてこの10年あまり、怒りの感情から解放されるようになったという、示唆に富んだお分かち合いをいただいた。  ヨナ書を見てみると、神とその民イスラエルに敵対する民であるニネベの人々の間にリバイバルが起こったことにヨナが激怒し、すねてしまったという記述が登場する。そんなヨナに神さまは、「あなたは当然のように怒るのか」と問いかけられた。ヨナは、自分が死ぬほど怒るのは当然のことです、と答えている。神さまに敵対する民が祝福されるなんて、神の働き人としては耐えがたい話だろう。しかし、それでは神さまのみこころから外れている。ここはヨナは、神さまのみこころにしたがって感情を従わせていく謙遜さが求められていた。  なぜ、怒るのに遅くあらなければならないのだろうか? それは、神さまが怒るのに遅いお方だと、みことばが語るからである。どれほど、詩篇のみことばは、神さまが怒るのに遅いお方だと繰り返していることだろうか? しかし考えていただきたい。神さまは私たち人間の不従順のゆえに、天から怒りを啓示しておられるお方である。私たち人間は神さまのこの怒りに触れて、すぐにでも滅ぼされるべき存在である。しかしあわれみ豊かな愛なる神さまは、私たちが滅びることをよしとされず、怒りを遅くしていらっしゃる。神さまのその愛を思うならば、私たちは怒るのに遅い神さまのその御姿に似た者として、怒るのに遅くなれるように取り組めるはずである。  そもそも、神さまの怒りはまったく正当なものである。神さまの怒りには一切間違いがなく、人はそれに対して何も言う資格などない。それなのに神さまは怒りを控えて、私たちのことを赦してくださっている。  いわんや私たちの怒りは肉に属するものだから、どれほど怒りを控えなければならないことだろうか? 私たちの怒りなどどんなに言い訳したところで、所詮人の怒りでしかない。そのような怒りを発することは、主の御前にふさわしいとは言えないことである。  さて、それでは、語ることにおいてはどうだろうか? 人は、自分の心のうちにあるものを語ることしかできない。ということは、自分の中にある語るべきものがよいものでないならば、よいことなど語ることができないわけである。そこで私たちに求められる姿勢は、「聞くのに早い」姿勢である。とにかく耳を傾けることが習慣となっているならば、その人は賢くなるし、その分用いられる。  しかし、聞くに早くあることは相当な努力を必要とする。というのも、人は自分が聞きたいものを優先して聞きたがるものだからである。人の陰口、うわさ話。インターネットから流れてくるあらゆる流言飛語。テレビやラジオ、好きな音楽。こういったものが優先してなだれ込んでくると、もっと落ち着いてじっくり、耳を傾けるべきものが聴けなくなってしまう。聞いたことがないだろうか? 洪水のとき、飲み水がない。あふれるばかりの洪水の中に身を置きつづけているならば、ほんとうに身になるものを受け取れなくなってしまう。  そんな私たちのほんとうに聴くべきもの、「聞くには早く」あるべき対象、それは21節の語るとおり、みことばである。神さまは私たちに、みことばを「素直に」受け入れることを求めていらっしゃる。そのためには何をするのか?「すべての汚れやあふれる悪」を捨てなさい、というわけである。  私たちのうちには、汚れや悪がいっぱいである。イエスさまはおっしゃった、人のうちに入るものは人を汚さない、人から出るものが人を汚すのである、実に、私たちのうちには人を汚すけがれ、また悪がいっぱいである。これらの汚れや悪があるかぎり、私たちはみことばを聴こうにも聴けない。  だからまず、私たちのうちにある汚れや悪を捨てて、心をきれいにすることからしなければならない。それが悔い改めということである。自分がどんなに聖い神さまから外れたものかを御前で素直に認め、しかしそのような自分のことを十字架の上で完全に赦してくださったイエスさまの贖いの恵みに感謝し、この愛の神さまが私を愛するゆえに語り掛けてくださるみことばをただ受け入れる。そうするとき、私たちは神さまの愛をさらに深く味わい、救いの恵みに感謝できるようになる。  しかし、みことばを聴くゆえに神さまに感謝するのは結構なのだが、果たしてそれだけで充分だろうか?   そこで第二のポイント。みことばは聞くだけで終わらせてはならないものである。  みことばは聞くだけで終わらせてはならない。このことをこのみことばは、鏡を見る人になぞらえている。ただ鏡をしばらく眺めて、あとになったらそこに映る自分の姿を忘れてしまうようなものだと。  聖書のみことばは人のありのままの姿を映し出す、鏡のようなものである。それに照らされる自分の姿に、私たちはどれほど自分自身というものを悟り、ああ、これではいけない! と思うことだろうか。ところが不思議なことに、聖書を読んでも読んでも、変わるべきところが変わらないということが往々にして起こってくる。それはなぜだろうか? 鏡に映った自分の姿がよくなければ、それを「直す」ということをしないからである。  その「直す」という生き方。それは、鏡を見て、明らかによくないところ、たとえば顔にごみがついていたら取り、髪に寝癖がついていたら櫛を通すように、ちゃんとなるようにする、そのように、みことばに「せよ」と命じられていることを行い、「するな」と戒められていることをしない、その繰り返し、また積み重ねである。  いや、今日はざっとだけど通読箇所の聖書を読んだよ、それで充分じゃん、というようでは、このヤコブの手紙のみことばによれば、「自分を欺いてただ聞くだけの者」になってしまう。みことばは実践してこそ意味がある。  では、みことばを行うにはどうする必要があるだろうか? 25節。自由をもたらす完全な律法を一心に見つめて離れないように。聖書のみことばは私たちを束縛して不自由にするものではない。私たちに自由をもたらすものである。  このみことばをひたすら見つめる生き方をすること。そうすれば私たちは、みことば、またみことばに照らされる私たちの改めるべきところを心に留め、みことばを守り行わなければとなる。  提案したいのは、みことばを毎日お読みすることである。そう聞いてげんなりなさらないように。みことばほど私たちを自由にし、喜びを与えてくれるものはない。毎日少しずつでいい。みなさまのお手元の週報には、QT、そしてマクチェイン式聖書通読の箇所が書いてあるが、これを実践していただきたい。時間がないという方はまずはQTの箇所からだけでもお読みいただきたい。少しずつでいい、まずはみことばを読むことから始めていただきたい。そして、しっかり習慣として定着したら、マクチェイン式聖書通読のほうも並行してトライしていただきたい。  しかし、読んだみことばを行うとはどうすることだろうか? それがわかっていないと、読むには読んでも読んだだけになってしまう。そこで第三のポイント、みことばは「具体的に実践すべき」ものである。  26節には何とあるだろうか? 自分の舌を制御しないものは自分の心を欺いている、とある。何といっても整えられなければならないものは、私たちが口から出すことばである。さきほども語ったとおり、私たちは自分の心の中にあるものを語ることしかできない。したがって、汚いことばを語るならば、その人の心は汚い、言うなれば、その人は汚い、ということになる。  ことばづかいは大事である。みことばには、「下品な冗談を避けなさい」という一節がある。これは冗談が好きな人には、厳しい聖書箇所と映るだろう。しかし、下品な冗談、尾籠な冗談や卑猥な冗談もそうだし、人の外見や障害を笑いものにするなど、良識のある人なら恥ずかしくてとても口にできない。人を馬鹿にすることば、罵倒することばもそうだ。イエスさまはそういうことを言う者は死のさばきを受けるとすらおっしゃっている。ことばづかいをどれほど気をつけなければならないことだろうか。  一般の人でさえ口にするのをためらうのに、クリスチャンを名乗る人でこういうことを口にしてはばからない人は考えたほうがいい。彼らはそれがとがめられたら「何を言うか。自分はその人を神の愛で愛しているからこういうふうに言うんだ。ほかの人たちはことばづかいがきれいでも、愛していないじゃないか」などと開き直るつもりだろう。実際そういう人に私はこれまでのクリスチャン生活をとおしてときどき会ってきた。しかし騙されてはいけない。私たちがキリストの人格に変えられるなら、また、聖霊に満たされるなら、ことばづかいもそれにふさわしく整えられるべきであり、下品な冗談、人を罵倒することばを口にするようでは、その人は神の人として認められない。  そういうわけで私たちが具体的に変えられるべきところは、なによりも、どんなことばを口にするかということである。人をののしることば、人に笑いを強要するような冗談ではなく、神さまをほめたたえることば、隣人を愛してその徳を立てることばを語る。それには、みことばを見つめつづけるしかないが、そのみことばから何を語るべきかを、毎日示していただくこと、また、だれに対してそのことばを語って神の愛をあらわすかを示していただくこと、その積み重ねが大事である。  そして27節のみことば。孤児ややもめが困っているときに世話をする、とある。単に愛することをすればいい、というレベルではない。なぜ彼らなのだろうか? それは、お金や着るものや食べるもの、住むところを提供するように、具体的に愛する行いを実践した分の見返りが到底期待できない人のことこそ、優先的に愛することが、神さまのみこころだからである。  うちの教会を見てみると、社会人の方には医療関係や福祉関係の仕事についている方が目立つ。それは、それだけ社会的に弱いところに置かれている人、優先的にケアされるべき人たちをケアする賜物を神さまが授けておられる人たちのことを、神さまはこの教会に多く置いてくださっている、ということではないだろうか。私たちは私利私欲で働いて自分のために稼ぐことがみこころではないことを、私たちはみことばから日々受け取っている。  しかし、私たちは何をすることがみこころであるかということは、この分厚い聖書、言い換えれば、愛の実践の方法をあらゆる形で示している書物から、毎日少しずつ具体的に学ぶ必要がある。この箇所でいえば、ことばを整えること、孤児や寡婦のケアをすることが示されるわけである。  しかし、このみことばをお読みして、そうだ、ことばを何とかしなくちゃ、社会的に弱い人たちのことをケアしなくちゃ、と思うだけでは、鏡を見てそこから離れたら顔を忘れてしまう人と同じである。  もし、このみことばが示されたならば、5W1Hでいけば(これは「たとえば」の話だからそのとおりに必ずしもしなくていい。でも、このとおりに示されたらしていただきたい)、Why、それは神さまがみことばで命じられたから、Who、私は、When、今週中に、Where、○○という団体に対して、How、献金を○○円送金するという方法で、What、神の愛を実践する、というように適用できるわけである。  ことばでいえば、これもサンプルだが、Why、みこころに反しているから、Who、私は、When、きょう一日、Where、一人でいるときも人前でも、どこにいても、How、○○という口癖をしないように祈りながら、What、悪いことばを口にしない、というふうに。たった一日でいい。その積み重ねで私たちは口癖が変わる、というより、神さまのとの関係が深まり、心のうちにあるものが変わる。  こういうことをするのがQT、クワイエット・タイム、すなわち静かにみことばを黙想する時間である。この時間を毎日持つことを心からお勧めする。聖書本文は何を語っているか、とにかく観察して「傾聴する」、そこから、その日に受け取るべき真理を教えていただく、それを生活に具体的に適用し、実践する。  その適用によい方法は、5W1Hである。なお、この場合の5W1Hにおいて、Who、だれ、は、つねに「私」である。家族であれ、教会の人であれ、みことばをほかの人に適用してはいけない。みことばを聴いて変わるべきは、つねに自分である。  そうして、聴くに早くなる人が、肉に属することばを語るに遅く、また怒るに遅くなる、つまり、みこころにかなう人になり、みこころを実践できる人になる。この祝福を私たちはともにいただいていこう。

日本の教会を元気にする

聖書本文;コリント人への手紙第一9章16節~23節 メッセージ題目;日本の教会を元気にする  聖書の中でも、コリント人への手紙第一は面白い。神さまがお選びになったのは、強い人や賢い人ではなく、弱い人や愚かな人だったというのである。今日は韓国の方が複数いらしているが、私は長年、韓国の教会に身を置いてきた。みなさまご存じのとおり、韓国の教会はとても強い。信徒の数も多く、礼拝堂も大きい。賜物のある信徒もたくさんいる。そんな教会とつい比較してしまう日本の教会を思うものだが、日本の教会は弱いゆえに選ばれたことを、このみことばから受け取り、慰めをいただくものである。  そのコリント教会、ギリシャの商業都市、港湾都市に立てられた教会という性格からして、キリスト信徒にあるまじき罪深さ、弱さの露呈した群れであり、そんな点で日本の教会に似ている。本日の聖書本文、コリント人への手紙第一は、問題の塊のようだったコリント教会で使徒パウロが奮闘する様子がそこかしこに垣間見えるみことばである。しかし、その奮闘、苦闘は、「やらされた」「強いられた」苦しみのような、悲壮感、受け身の態度を感じさせない。むしろパウロは、コリント教会を主の教会らしくさせなくしているあらゆる問題にあえて立ち向かっていくような、積極性、やる気に満ちていて、パウロのその態度は読む者に大いなるチャレンジを与えている。  コリント教会の問題はすごい。問題のデパート、総合商社だ。どのリーダーにつくかを巡っての分派分裂、みことばに対する無理解、そのくせ指導者であるパウロを認めない態度、クリスチャンとして到底ふさわしくない性的な問題、教会内の問題解決を自分たちでしないで教会外の者に任せる訴える情けなさ、聖徒としての権利ばかり主張して弱い人を顧みないこと、リーダーに立つべきではない女性がリーダーの男性を差し置いて権威をふるっていること……こんな群れを牧会するパウロはどれほど大変だったか。  しかし、その中でも今日のみことばは注目に値する。異邦人の地であるコリント、俗的な商業都市、港湾都市であるコリントにパウロが福音を宣べ伝え、教会を形成する、その原動力はどこにあったか、それがこのみことばから見えてくる。  これは、日本の地で教会を形成する私たちにとって必要なみことばである。私たちは基本的に、イエスさまを信じていない人たちに囲まれている。その人たちは悪い人かもしれないし、いい人かもしれない。しかし共通してはっきりしていることは、彼らは一様にイエスさまを信じていない、というより、イエスさまを知らないから、そもそも神の愛によって振る舞うとはどういうことか、一切学んだことも教わったこともなく、したがって神の愛を実践することなど一切できない人たち、ということである。そういう人たちに伍して生きていくことは、狼の中で羊が知恵を総動員して生きることを意味し、それだけに毎日みことばをいただき、お祈りすることが欠かせない。  要するに、彼らのことばばかり心に留めていては、私たちはこの世にこき使われるしもべで終わってしまう。そういう者がこの世に対し、いったい何の影響力を発揮することができるだろうか。せっかく生きているというのに、それではあまりにももったいないではないか。今日の本文で、パウロは奴隷の道を選択した旨語っているが、世にこき使われる不自由な奴隷という意味ではない。世のことばに左右されているなら、世の奴隷となるしかないが、そのようなものは自由ではありえない。  そこで今日のみことばである。私たちは何者なのか。何のために生きているのか。それを今日のみことばから確かめたい。実を言うと、私はこのところ、否が応でもそのことを意識せざるを得ない環境に置かれつづけてきた。先週の保守バプテスト同盟の総会につづくチームワークミーティング、そしてその帰り道に寄った、地元にカフェとして開かれている教会、なによりも、うちの教会を整備するという大事な働きをしてくださったふたりの主のしもべ……こういった方々との交わりをとおして、日本の教会を元気にするために一生懸命になっている聖徒たちの麗しさをあらためて知った。  それなら、私たちはどう生きるべきだろうか……今日はそんな思いを込めて、みことばをお取り次ぎしてまいりたい。あとでお楽しみもあるので、期待して聴いていただきたい。  16節。パウロは誇り高き福音宣教者であり、その誇りを、福音宣教の報酬を払ってやるから言うことを聞けとばかりに接してくる教会員たちに奪われてなるものか、という態度が根底にある。だからパウロは、福音宣教者として当然主張できた報酬を一切受け取らず、自発的に、この問題だらけの群れで仕えつづけた。  パウロがしたことは、教会形成であった。しかし、教会形成とは同時に、福音宣教である。イエスさまを信じれば救われますよ、とキリストを伝え、その人がイエス・キリストを救い主と信じ受け入れてバプテスマを受け、クリスチャンになったならばそれで福音宣教は終わりではない。  教会とはみことばが語りつづけられることによって形づくられるもの、という前提に立つ以上、その教会を立て上げ、形づくる教会形成とは、即、福音宣教である。パウロはその福音宣教において誇り高いプライドを持っていた。しかし彼は同時に、福音を宣べ伝えることは自分の誇りではない、とも告白している。これは矛盾しているようだが、矛盾してはいない。これは、この誇りは主にあっていだくべき誇りであって、パウロという人間個人に帰せられる誇りではない、ということである。  そして神さまはパウロに、福音を宣べ伝える生き方しかお許しにならなかった。その福音宣教に外れた生き方をすることは一切できないことをパウロはわかっていた。だからその召命に忠実に生きるしかなかった。その召命にちょっとでも外れることはわざわいであった。私たちは国道沿いを歩くとき、必ず歩道だけを歩き、車道にははみ出さない。車道にはみ出したらいのちに関わると知っているから、歩道しか歩かない。同じように、神さまの召命以外の道を歩んだらわざわいと知るから歩まない。その召命が、福音宣教である。その道を歩くとポイントが増えるからいいとか、霊的ステージが上がるからいいとかいうことではない。それ以外の道は危険だからとても歩けない、召命に従えば安全だから歩くということである。  17節によれば、パウロにとってのこの福音宣教の働きは、自発的ともいえるし、自発的ではないともいえると告白している。これはどういうことかというと、パウロの働きは神さまがさせてくださるものであり、同時に、パウロがやる気を出して取り組んでいることでもある、ということである。神さまが志を立てさせ、事を行わせてくださる。神さまと人がひとつとなって神の栄光のためのことを推し進める、召命とはそれゆえに素晴らしいものである。  さて、18節を見ると、そんな自分の働きには報いがあると告白している。まるごと読もう。……一瞬、目を疑わなかったか? 無報酬、自分の権利を用いない、これがいったい報いなのか? しかしこれはれっきとした「報い」なのである。それは、この世に属する報いではない。この世に属する報い、たとえば献金であったり、福音伝道者としての名声であったり。また、それに付随して、「エライ」先生として振る舞ったり。そういうものは神さまの御前にはすべてむなしいものである。そういう報いが一切ない、というより、そういう報いからまったく自由である、報いはなにか、神さまご自身。これは最強の報いである。  これは、イエスさまを信じれば病気が何もかも治る、とか、お金持ちになる、とか、人々から尊敬されるようになる、とか、そのような、きわめて底の浅い福音理解の対極にあるものである。いったい、そのような目に見える祝福を求めることは、神の栄光と何の関係があるというのか? 新興宗教のようなご利益を私たちクリスチャンが追求することは果たして神の前にふさわしいことだろうか? もちろん、みこころにかなえばそのような目に見えるものを祝福としてくださることもあろうが、ほんとうの祝福はそのようなものではない。神さまご自身である。私たちが「よくやった、良い忠実なしもべだ。主人の喜びをともに喜んでくれ」との御声を終わりの日に聞きたいなら、求めるべきは、どうかパウロのこの境地に立たせてください、私はあなたさまだけで満足します、どうか用いてください、と、つねに祈ることではないだろうか?  19節の告白を見よう。こんな境地に立てたパウロはどれほど自由だろうか? しかし、パウロは、すべての人の奴隷となったと告白する。これは、人に強いられて奴隷になったのではない。自由人として、神と人の奴隷となる道を選んだという、自由の中での選択である。したがって、この上なく不自由な立場である奴隷ではあっても、パウロはだれよりも自由であった。  それは、ここにあるとおり、「獲得するため」とある。もしパウロが、ユダヤ人という立場にこだわったり、あるいは逆に、異邦人宣教の使徒という立場にこだわったりしていたならば、パウロは自由ではありえない。しかしパウロは、あらゆる立場の人の奴隷に進んでなることによって、だれよりも自由な立場に置かされていたのである。  24節。このパウロの告白はすごい。すべてのことを福音のためにしている。私も言ってみたい。私たちの地上の歩みは、こう言い切れるほどに生きることを目指しつづける歩みである。この境地に達していないからとあきらめてはならない。この生き方を主が完成させてくださることを信じ、主に希望を置いて歩みつづけることである。  パウロはその歩みをすることが、福音の恵みをともに受けることであると告白する。私たちは福音宣教に用いられるならば、この世の何者も与えることのできない喜びを体験する。いや、時には祈っても聞かれないような苦しみのどん底の中に置かれよう。しかし、そこにも主がともにいてくださり、御父の右の御座で私たちのために涙を流してとりなして祈ってくださっていることを知る。いかなるときにも神さまがともにいてくださること、その恵みは、すべてのことを福音のためにすることを目指しつづけることによって味わえるものである。  さて、今日のメッセージのタイトルを、私はなぜ「日本の教会を元気にする」とつけたか? それは、さきほども少し触れたが、「すべてのことを福音のためにして、福音の恵みをともに味わう」方々の姿に触れ、私たちもそうなりたい、私たちも自分の属する日本の教会を元気にする働きに用いられて、祝福と恵みを味わいたい、と思うからである。  先週火曜日と水曜日に岩手県のシオン錦秋湖で行われた、保守バプテスト同盟のチームワークミーティングは、教職者たちのための研修会である。今年のテーマはクリスチャンの「婚活」について、また「J-Venture(保守バプテスト同盟関連の宣教団体)」の働きについてで、まったくちがう2つの働きの紹介だった。しかし、一見するとミスマッチなこの両者に共通するものは、「日本の教会を元気にすること」であった。  「婚活」ということについて、「リベカ」の中西代表、辻副代表、そして「リタマリッジサービス」の津村所長のプレゼンテーションをお聴きした。商売敵が一緒にコラボを組む、なんて、とても面白い。彼らのコンセプトはこういうことである。次世代が育っていれば日本の教会はどんなに元気になっていたか、自分たちの教団教派にこだわりつづけた結果、教会を超えた信徒同士の結婚がうまくいかず、晩婚化が進んだり、日本の教会はとても弱くなってしまったではないか、クリスチャンの婚活サービスは、そんな日本の教会を元気にする、極めて福音宣教志向的なミニストリー。  J-Ventureの宣教師もすごい。教会の牧会だけではない。伝道と弟子訓練のツール開発と普及の働き、メディア宣教、ゴスペル教室やノイズミュージックといった音楽をとおしての宣教、学校の先生……実に多種多様な活動をとおしての福音宣教の働きに、アメリカやカナダからここ数年で何と40もの家庭が献身して日本にやってきた。この働きで確実に日本の教会は元気になっていることを実感した。  帰り道、私は車に乗せてくださった千葉先生という方の牧会する、山形市の「こひつじキリスト教会」に立ち寄り、おいしいコーヒーをごちそうになった。一見すると教会とは思えないようなしゃれたカフェで、ちょい悪おやじのような外見の千葉先生がコーヒーを淹れてもてなしてくださる。こうした働きで確実に山形の教会は元気になっていることを実感した。  そして、先週の木曜日、うちの教会にふたりの韓国の兄弟がいらしてくださった。とにかく日本の教会を元気にしたい情熱に燃えた、賜物がたっぷり与えられた方々である。そのお働きで見ていただきたい、照明も音響も見ちがえるようになった。うちの教会が元気になった。  まず、そのおひとり、「ジョン神谷」さんことチョン・ソンヨン兄は、「エゼルミニストリー」という働きをしていらっしゃる。もともとが有能なビジネスマンであったとともに、音響や演奏や工事などあらゆる賜物をお持ちの方だが、このたび兄弟の献身によって、音響を整えていただき、浴室を直していただいた。まさに教会を元気にする方である。神谷兄の働きは多岐にわたっていて、被災地における物心両面での復興支援、教会の夏のキャンプの企画、格安で光る十字架を礼拝堂に取りつける働きなどなど。最近力を入れているのは、千葉、浦和、八王子といった、首都圏の都市部で若者たちを複数の教会から集め、訓練して賛美集会を運営させる「リズン」という働き。こうして次世代が育てられ、教会は元気になる。その恩恵に私たちの教会もあずかったというわけで、感謝というほかない。  そしてもうひとり、ハン・ジョンソクさん。韓国の一流企業で18年にわたって建設部門を担当し、退職して信徒宣教師として日本とフィリピンの宣教に献身してこられた。ちょっとお証しをしていただこう。  あらゆるしかたでキリストが伝えられている。それによって日本の教会は元気になっている。私たちが疲れて動けなくなっているとき、主は御使いを遣わすようにして、助けてくださる兄弟姉妹を起こし、その働きをもって教会を祝福してくださる。そんな働き人の見返りなく働く献身の歩み、それは祝福の歩みというほかない。  私たちはいつか、元気にならなければ。いや、今からでも歩き出したら、主はそれに見合った力をくださるではないか。列王記第一19章のみことばのように。私たちの旅、神の栄光をあらわしつづける旅路はまだまだ続く。その旅に力を得させてくださる方々の存在ゆえに主に感謝したい。そして、私たちも力を得て、日本の教会を元気にする働きに用いられていこう。受けるより与えるほうが幸い、その祝福をともにいただこう。

ペンテコステと福音宣教

聖書箇所;使徒の働き2:1~4 メッセージ題目;ペンテコステと福音宣教  メッセージのはじめに、ペテロの手紙第一1章8節と9節で、ペテロが聖徒たちに語ったみことばを紹介したい。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。」  イエスさまを見たことはない、そう、ペテロの宣教によってイエスさまを信じた人たちは、イエスさまのお姿を肉眼で見たわけではなく、肉声を耳で聞いたわけではない。しかし、イエスさまを愛しているし、イエスさまを信じている。喜んでいる。それは、信仰を持っているから。信仰によって、たましいが救われているから。  このみことばは、初代教会の信徒たちだけでなく、古今東西、イエスさまを信じている人ならだれにでも当てはまる。もちろん、私たちだってそうではないか。もし、今からみなさまに呼びかける問いに「そのとおりだ」と同意するなら、「アーメン」と言って答えてほしい。私たちはイエスさまを愛しているか? イエスさまを信じているか? イエスさまゆえに喜んでいるか? イエスさまの救いをいただいているか? みんなアーメンではないか。  この、イエスさまへの信仰を得させてくださるお方はだれか? イエスさまを愛させてくださるお方はだれか? それが、聖霊なる神さまである。イエスさまは十字架にかかり、復活され、天に昇られ、いまここには目に見える形ではいらっしゃらない。しかし、イエスさまが天に昇られて、私たちには聖霊なる神さまが送られた。私たちは聖霊さまによって、イエスさまを信じ、救われ、導きをいただいて神のみこころを知ることができるようになった。みこころにお従いして、この地において神の栄光をあらわすことができるようになった。みな、聖霊なる神さまのみわざである。  今日はペンテコステ、聖霊降臨祭である。2000年前、聖霊がお下りになり、キリストのからだなる教会はほんとうに呱呱の声を上げた。この日はそれゆえに、「教会の誕生日」とも言われている。そうだとすると、ペンテコステは、イエスさまのお誕生をお祝いするクリスマス、イエスさまのご復活をお祝いする復活祭と同じように大事な日と言えるのではないだろうか?  そこで今日は、このペンテコステの日に何が起こったかを見てみたい。それは神さまが大いなるみわざを起こされた日であり、この日だけでペテロのメッセージによって3000人ちかくもの人がバプテスマを受け、教会の仲間に加えられた。たいへんなことである。  本日は、この日に起こったできごとの最初の部分、使徒の働き2章1節から4節に記録されている部分から集中的に学んでみたい。1節のみことば。みなは集まっていた。彼らはイエスさまによって立てられた十二弟子を中心とした群れであった。十二弟子のほかに、ヤコブの手紙を書くことになるヤコブ、ユダの手紙を書くことになるユダたち、マリアから生まれたイエスさまの肉の弟である、いわゆる「主の兄弟」たちがいたし、イエスさまにつき従っていた女性たちもいた。そこにはイエスさまの母であるマリアもいた。  彼らは集まって何をしていたのだろうか? 先行する箇所である使徒の働き1章14節によると、いつもともに集まっては祈っていたことがわかる。実は、福音書から通して時系列に従って読んでみると、その前に彼らがお祈りしたという箇所は、ゲツセマネの園の箇所にさかのぼる。イエスさまがゲツセマネの園にペテロ、ヤコブ、ヨハネの弟子のリーダーのトリオを連れていかれたとき、イエスさまは彼らに「祈りなさい」と命じられたのに、彼らは疲れと悲しみで祈れなくなり、眠り込んでしまった。つまり、彼らは祈ることに失敗していたのであった。  しかし、十字架と復活を経た彼らは強くなった。そして今はもうイエスさまは天に昇られてここにはいないが、彼らはひたすら祈った。ゲツセマネの園でひとたび祈ることに失敗した彼らの祈りを成功に導いていたものは、120人ほどの信徒の存在だった。  ここに、ともに祈ることがどんなに大事か、見えてこないだろうか? ここで私は恥ずかしい罪の告白をしたい。私はもともと、早天祈祷を当たり前のようにささげる教会で過ごしてきた。1997年から韓国の神学校で学んだが、神学校は朝5時からの早天祈祷の出席を、会社で使うようなタイムレコーダーで管理していた。所定の出席回数が足りない神学生はどうなるか? 次の学期から寄宿舎にいられなくなる。早い話が、早天祈祷をささげられない神学生はペナルティとして追い出されるわけである。そんなわけで、否が応でも早天祈祷は出なければならない。こういう生活を私は3年つづけた。  その後、仙台の教会で3年、東京の韓国人教会で7年奉仕したが、どちらの教会も早天祈祷は「義務」、「ノルマ」だった。眠いなどといってちょっとでも休んだら、どんな制裁を受けるかわかったものではなかった。そのとき牧師から受ける叱責のことばは、早天祈祷に欠席する私は牧師になるのにふさわしくないというほどの激しいもので、私はそのことばを聞きたくない一心で、どんなに眠くても、どんなに疲れていても、早天祈祷に出席した。  以上合わせて13年の生活をとおして、早天祈祷は当たり前にささげるものという考えが染みついていた。しかしこの13年は言ってみれば、「やらされて」やっていた祈りに過ぎなかった。それを覆すできごとが起こったが、それは私が、この水戸第一聖書バプテスト教会にお招きいただけるかもしれないというお話をいただいたということで、2013年の暮れごろのことだった。それから私はほぼ毎日、家の近所にあった妻と私の派遣教会の早天祈祷に通い、祈りつづけた。おそらくその経験は、私が心から必要に迫られて毎日夜明けの祈りをおささげした、初めての体験だったといえる。そこまで来るのに、神学生になってから実に16年の月日を要した。  そうして私は日本に来たが、年齢にして40代だったそのとき、まるまる40代のほぼ毎日、私は早天祈祷をささげることをしなかった。何度となくチャレンジしようとはしたものの、多分に律法的な発想で、つまりしょせんは肉の発想で早天祈祷をしようとしていたから、肉体の弱さが霊の働きに大勝ちし、眠くてどうにもならなかったというわけだった。  しかし、今年、ペンテコステを前にして3週間の早天祈祷をするように導きをいただくと、私は休まずに毎日、お祈りをささげることができるようになった。それは、オンラインでつなぐことで、たとえ礼拝堂にはいらっしゃらなくても出席してくださる信徒の方と、早天の祈りにおいてつながるという、義務感、サボってはならないという危機感もさることながら、それ以上に、ともに祈る仲間が送られている喜びが、私の朝のお祈りにおいて背中を押したのだった。  事程左様に、祈りにおいては仲間の存在が大事である。私たちはともに集まるということをしていなくても、個人的に祈りの生活をしています、と、たやすく口にしてはいないだろうか? ともに祈ることの力を体験していただきたいが、それはともに集まって祈ることでしか体験できない。本日、特にメッセージのあとで祈りの時間をじっくり持ちたいが、ともに祈る恵みをそこで体験していただきたい。  さて、本文に戻るが、彼らが集まって祈っていると、そこに主のみわざが起こされた。2節。激しい風は列王記第一19章に、主のご臨在の現れとして登場する。その激しい風は岩さえも砕き、バアルの預言者たちに勝利してもなお敗北感に打ちひしがれていたエリヤに、主はご自身のご臨在と御力をお見せになった。そのほかにも旧約聖書にはところどころ、「激しい風」が登場するが、ひとつを除いてみなそれは偉大な主と関係を持っており、その多くは主がさばきを行われるさまをあらわしている。  そう、主が激しい風をもって臨まれるということは、人々にさばき主としてご自身を現されるということである。  ここで私たちは、ペンテコステの日にペテロが聖霊に満たされて語り、人々を悔い改めと信仰に導いたメッセージが、「神が今や主ともキリストともされた(この)イエスを、あなたがた(イスラエルの全家)は十字架につけたのです」(36節)というものだということに注目すべきであり、あなたがたの罪とはイエス・キリストを十字架につけることである、その罪のさばきを免れるにはイエスさまを信じて悔い改めなさい……ペテロの語るメッセージは激しいさばきをもってこの世をさばくさばき主であったが、そこから救われる道は悔い改めてイエスさまを信じ、その御名によってバプテスマを受けることであるとも語った。  さて、激しい風のような響きが家全体を覆ったと思ったら、今度はもっとすごいことが起こった。3節。……舌とは何だろうか? なぜ、聖霊降臨をあらわす炎のようなものを「舌」と言っているのだろうか?   私たちは「舌」というと、どういうイメージを持つだろうか? 「舌つづみ」「舌が肥えている」など、ものを味わうイメージだろうか? あっかんべーと相手を威嚇したり、照れ隠しにペロッと出したりするイメージだろうか? しかし、そういうイメージに左右されるのではなく、聖書が「舌」というものについて何と語っているかを知る必要がある。  今回のメッセージを準備するにあたり、私は聖書に「舌」という表現がどのように登場するか調べてみた。すると、新改訳聖書2017で「舌」と訳された語句が登場する節が、旧約聖書には86節、新約聖書には、今日の箇所を含めて19節登場することがわかった。合わせると105節になる。これはかなり多いのではないだろうか?  意味はいくつかある。ひとつは言うまでもなく、人間、または動物の肉体の器官としての「舌」である。これが旧約にかぎると(聖書解釈のしかた次第で数え方が変わることもあり得るが)8節。しかし、圧倒的に多いのは、「ことばを発する器官」としての「舌」、あるいは「ことば」その者を象徴的に指しての「舌」である。合わせると、旧約で86節のうち77節、新約は本日の箇所を除いた18節のうち実に16節が「ことば」と関係がある。104節のうち93節、実に89パーセント以上、10か所のうちざっと9か所は、舌とはことばを指す。  となると、聖書的文脈から、この使徒の働き2章3節の「舌」、彼ら祈る者たちに臨んだ火のような舌は「ことば」と深い関係があると考えるのが自然である。実際、そのできごとにつづいて、4節にあるとおり、彼らは御霊が語らせるままに語り出した。聖霊とはまさしく、ことばを授けてくださる主である。  ここで、さきほど、舌は舌でも「肉体的器官」と「ことば」のどちらにも分類しなかった2つのみことばを取り上げてみたい。それはイザヤ書5章24節と、同じくイザヤ書30章27節で、そのどちらも、さばき主である主の御怒りをを「火の舌」になぞらえている。5章24節では神の民に対するさばき、30章27節では諸国に対するさばきが宣告されているが、いずれも「火の舌」がさばくとある。  これだけではなぜ、主の御怒りを「火の舌」と表現しているかがわからない。しかし、イザヤ書5章24節に注目しよう。イスラエルが主の御怒りに触れたのは、「彼らが万軍の主のおしえをないがしろにし、イスラエルの聖なる方のことばを侮ったからだ」とある。つまり、このさばきは主のみことばと強い結びつきがあるのである。  さきほども少し触れたが、ペンテコステの日にペテロに授けられたメッセージは、神の子主イエスを十字架につけたイスラエルの民に対する警告のことばである。イエスさまとはどなただろうか? 神のみことばが人となってこの世界に来られたお方である。この方を信じる人には神の子どもとされる特権を与えてくださる。それは、神に反逆することを自ら選ぶゆえに神の御怒りのさばきを受けるにふさわしい私たちを、永遠に救ってくださり、神のものとしてくださる、ということである。  ヨハネの福音書3章16節から18節をお読みしよう。神のみことばはさばきではなく、愛である。しかし、このみことばを侮り、ないがしろにする、すなわちイエスさまを十字架につけるほどの罪人であってもなお、イエスさまに立ち帰ることをしないならば、そういう人は「御子に聞き従わない者」であり、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまるとみことばは語る(ヨハネ3:36)。  彼ら主の弟子たちが、国々からエルサレムに集まった在外ユダヤ人や異邦人からの改宗者たち、そんな五旬節の巡礼者たちそれぞれのいろいろな言語で語ったことは、異口同音に「神の大きなみわざ」であった。それが具体的になんであったかは聖書には書かれていないが、私たちは「神の大きな(最大の)みわざ」は、イエスさまが人となって来られたこと、このイエスさまを信じれば救われて、永遠のいのちをいただく、ということである。  ペンテコステの日に語ったのは、神の大いなるさばきであるとともに、神の大いなる救いであった。私たちの神は愛であるが、甘ったるい愛ばかり語ってもほんとうに伝道したことにはならない。あなたは愛されています、と語るのも結構だが、私たちが神を知るうえでほんとうに知らなければならないことは、私たちは神のみことばである主イエスを無視した罪人、主イエスさまを十字架につけたほどの罪人であり、なんとしてでもそれゆえに受ける罪の罰、死とさばきと滅びという罰から救っていただかなければと必死になること、そうして私たちは、すべての罪の罰を十字架の上で身代わりに背負ってくださるほどに私たちを愛してくださったイエスさまに出会い、イエスさまを受け入れ、永遠に救っていただくのである。  この、世の悪を明らかにされる聖霊をいただいた私たちは、世に対し、人々の罪を明らかにし、そこから救ってくださるイエスさまを、聖霊に満たされて語るべく召されている。十字架にかかられて死なれたが、しかし復活されたイエスさまは、弟子たちにおっしゃったように、私たちにおっしゃっている。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります。」そのとき私たちは火の舌、炎の舌のように燃えることばで、世の罪、人の罪を明らかにすることもあるかもしれない。しかし、その罪から救ってくださるイエスさまの福音も同時に語る。その福音を受け入れた人は、私たちのことばをとおして罪が赦される。  この、人の罪を赦し、永遠のいのちを得させるわざ、これぞ伝道、宣教である。その働きを私たちにさせてくださるお方、そのときどきにそれにふさわしい必要なことばを授けてくださるお方、それが聖霊である。  主よ、遣わしたまえ。語らせたまえ。今日はともに祈ろう。

反面教師の親、模範的な親

聖書箇所;サムエル記第一2章12節~21節 メッセージ題目;反面教師の親、模範的な親  昨日私と妻は、「わたしのかあさん」という映画を観に行ってきた。知的障害を持った親を葛藤を抱えながらも受け入れられるようになるにつれ、成長していく少女の物語である。この作品を見ると、人はたとえ知的障害を持っていようとも素晴らしい存在であり、大きく用いられる、という、勇気づけられるメッセージを受け取れる。何といっても、どんなに母親に対して悲しんだり、怒ったり、呆れたりする娘のことを変わらずに愛しつづける母親の姿にとても感動した。ほんとうに、教会のみなさまにご覧いただきたかった。機会があればぜひご覧いただきたい。  そんな映画の余韻に浸りながら、私は母の日を迎えた。ああ、そういえばうちの母にもしばらく電話していなかったなあ。親孝行しなくちゃなあ。そんなことも思う。今日、母の日に、私たちは親というものについて考えていこう。  聖書は親子関係というものについても扱っているが、今日はその中から、サムエル記第一の最初の部分から学びたい。サムエル第一、それは預言者サムエルと、そのサムエルに油注がれて王となったサウル、そしてダビデについて語るみことばだが、サムエル記第一の最初の部分は、サムエルがどのように生まれ、神の人として立てられ、育てられてきたかを語っている。  その、サムエルの生い立ちに対し、対照的な姿で登場するのが、サムエルの母であるハンナを導いた祭司エリの息子、ホフニとピネハスである。今日の箇所は、神の人として立てられ、育てられながら、あまりに対照的だったこの両者を育てた親の様子から、親というものは主の御目にどのようであることがふさわしいか、特に今日が「母の日」であることから、サムエルの母ハンナの立場に注目して見てみたい。  12節。彼らはよこしまな者たち、とあるが、新改訳聖書の欄外脚注にあるとおり、これは直訳すると「ベリヤアルの子ら」となる。ベリヤアル、とは、「無益な、悪い、役に立たない」という意味であり、したがって彼らは、無益な子、悪い子、役に立たない子、というわけであった。祭司としてハンナとサムエルの親子を霊的に導いた父親エリとはまったくちがう、役立たずの子ども、というわけだった。  なぜ彼らはそのように悪く、無益で、役立たずだったのか? それは「主を知らなかった」ということばに集約されている。別の訳の聖書を読めば「主を知ろうとしなかった」とある。彼らはちゃんと祭司という肩書を持っていた。ハンナとサムエルの親子をりっぱに導けるだけの霊的指導者、エリを父親に持っていた。彼らは主を知り、みことばを学ぶ環境においては最高だった。なのに彼らは学ばなかった。学ぼうとしなかった。  いったい、何が彼らを、主を知ることから遠ざけていたのか? それを説明するのが13節以下のみことばだが、早い話が、彼らは民のささげる肉のいけにえを横取りして、いけにえとして焼き尽くして主にささげることをせず、むさぼり食うことをしていたのだった。  そのことを17節では、彼らホフニとピネハスが「主へのささげ物を侮った」と総括している。これがどれほど大きな罪か想像できるだろうか? いけにえとしてささげる家畜は、初子の最良のものでなければならない。ちょっとでも傷があったり、障害があったりするものは、ささげてはならない。  家畜を飼う者たちとしては、初子、はじめて生まれた子どもたちは、とても愛おしい存在ではないだろうか。しかもその中でも、傷のない完璧なもの……しかし、それを惜しげもなくほふり、焼き尽くすということは、最良のいけにえをどうか主に受け入れていただきたいという、切なる献身の現れである。  いけにえを焼き尽くす炎を見るとき、イスラエルの民は、痛みの伴った献身を果たすことができたことに、心からの感謝を主におささげしたことだろう。主よ、あなたさまはこうして、私の献身を受け入れてくださいました! 感謝します!  それが何か。その肉を焼き尽くすことをしないで、勝手に肉を取って食べるわけである。俺は生の肉を食べるぞ、ということは、焦げて食べられなくなった肉ではなく、少し焼いていかにも香ばしい肉を食べるわけである。いけにえになるのは最良の家畜ですから、それを焼いて食べたらおいしくないわけがない。だが、それは焼き尽くしてささげるものであり、みな主のものである。祭司とは、そのようにして民のささげ物を主にささげる役割をする立場にあるのに、その肉を神さまになり代わって食べようというのだろうか。神さまにささげる最高の礼拝を私利私欲のために横取りしようというのだろうか。  祭司の子は祭司、という、世襲は、残念ながら主に対する敬虔さ、また恐れというものまで伝えてはくれなかったようである。だが、ホフニとピネハスの発言に、とても気になる表現がある。15節を見るとこのようにある。 「人々が脂肪を焼いて煙にしないうちに祭司の子はやって来て、いけにえをささげる人に、「祭司に、その焼く肉を渡しなさい。祭司は煮た肉は受け取りません。生の肉だけです。」と言うので、とあるが、自分たちのことを肩書で「祭司は」と言っていることに、注意が必要である。自分たちのことを肩書で呼ぶなんて、いかにも自分が霊的に特別な存在だとでも言いたいのだろうか。  ホフニとピネハスはエリにとって次世代にあたるが、次世代がしっかり育つ上で、私たち年長の世代の者たちの責任は大きい。反面教師として、ホフニとピネハスの父親であるエリの場合を見てみよう。エリは、ホフニとピネハスがいけにえの肉を横取りしていること、そればかりか、神殿で仕える女性たちに姦淫の罪を働いている、ということを聞いた。だがエリは何と言っているか? 24節。……うわさが悪いから彼らが悪いのか? いや、人のうわさが彼をさばくのではなく、神が彼らをさばく。ホフニとピネハスがそのような罪を犯していることを、神殿の責任者であり、ホフニとピネハスの監督者でありながら普段から見抜けなかったエリにも大きな問題がある。いえ、見抜けなかったどころか、そのようなよこしまな指導者を、エリは親として育ててしまったわけである。  25節のエリのことばを見よう。……確かに、言っていることは正論である。しかしよく見てみよう。何かおかしくはなかろうか? 仲裁に立つ存在はいないわけではない。私たちには仲裁に立つ存在がおられる。それはイエスさまである。イエスさまは十字架にかかってくださり、神と人との仲裁の役割を果たされた。ということは、こんなことを言うエリは、祭司でありながら、キリストが見えていなかったことになる。神に対して人が犯す罪を仲裁される存在であるキリストに出会えなかったならば、祭司である自分自身も罪人ゆえに神の御前にへりくだって出るべきであることがわからなくなってしまう。エリは、子どもたちを救い主に出会わせるという、本来もっともすべきことができていなかったのである。 百歩譲って、この時代はイエスさまが生まれるはるか前の時代だった、だからエリにキリスト理解がなかったのは当然ではないか、と考えてみよう。しかし、それまでの時代にも、救い主キリストを見せた役割をした人はいて、祭司ともあろう者なら、そういう人たちをとおして、救い主キリストが見えていなければならなかったはずである。例えばモーセがそうだった。神を捨てて金の子牛を礼拝した民を滅ぼすとおっしゃった神さまに、いえ、むしろ、私の名前こそいのちの書から消していただきたいと懇願した。それをお聞きになった神さまは、イスラエルを滅ぼし尽くすことをなさらなかった。アブラハムもそうだった。ソドムとゴモラを滅ぼすと告げられた神さまに何度も交渉して、10人の正しい人がいれば滅ぼさないでいただきたい、と条件をつけ、神さまから約束を引き出した。神さまはその祈りに応え、ロトを救われた。 こういうケースを、エリが知らなかったはずがない。しかもモーセやアブラハムの場合は、自分が罪を犯さなかったのに、身代わりとなって神さまに懇願したわけである。エリはどうか。このようにホフニとピネハスを育ててしまったことに対する悔い改めが先立ってしかるべきではないか? その上で、神さまに対して自分自身が、親として、霊的指導者として、仲立ちに立つ祈りをささげるべきではなかったか? みことばがわからなかったという点でも、子どもたちの罪の責任を負おうとしなかったという点でも、エリは親としてふさわしい役割を果たすことができなかった。 ここで、もうひとりの親、サムエルの母、ハンナのケースを見てみよう。 ハンナはエルカナという男性の妻だった。しかし、エルカナにはもうひとり、ペニンナという妻がいて、このペニンナには子どもがいた一方で、ハンナには子どもがいなかった。子どもがいないということはその頃、祝福が臨んでないことと見なされていた。そんなハンナはエルカナに愛されていたが、ハンナのことを、子どもがいないという理由でペニンナはいじめた。 この一家は、毎年1回、主の神殿に参詣することを常としていた。そう、エリの親子が仕えていた神殿である。エルカナの一家は、それほどまでに主に敬虔な家族であったが、ともに主の前にこの家族が出るとき、ハンナは否が応でも、子どものいないわが身の悲しさを思ったことだろう。 ハンナは思いあまって、泣きじゃくって神さまに祈った。まるで酔っ払いのように取り乱して祈った。しかし、その祈りの内容が振るっていた。生まれた子どもを主にささげるというのである。そう、子どもは私のものとしてほしいのではない、あなたのものとして、あなたの必要のために送り出します、というのであった。 そして神さまはハンナの祈りを聴き届けてくださり、子どもを授けてくださった。ハンナは祈って誓願を立てたとおり、サムエルを神さまにささげた。具体的には、祭司エリのもとで、主の献身者、すなわち祭司になるための教育を受けさせた。それも、乳離れしたらすぐにサムエルをエリのもとに住まわせるという徹底ぶりであった。 それでも、ハンナは母親であることをやめたわけではなかった。ハンナは年ごとの神殿における礼拝に赴く際、幼いサムエルのために小さな上着をつくり、持っていってやった。 その小さな上着を縫ってやっているハンナの気持ちを考えてみよう。先週の礼拝で、初穂とは最良のものであると学んだが、サムエルを神殿に送ったということは、ハンナにとって最良の初子のいけにえ、奇蹟をもって応えられたたましいをささげたということである。 その息子とつながれるのは、この母親の祈りをこめて縫い上げた服……それを着ていてくれるならば、母と息子はつながっていられる……どんな気持ちでハンナはこの服をつくったことだろうか。肉親としての息子に対する愛情を注いだという意味もあるが、息子といういけにえをより神さまに受け入れられるにふさわしく整えたという意味もないだろうか? そんなハンナが、じっくりつくり上げた小さな上着を手にして神殿に参詣し、献身者として成長するサムエルを見たら、どんなにうれしかったことだろうか? 私たちの小さなころを思い起こしていただきたい。幼稚園や小学校の名札、体育着には、お母さんがていねいに名前を書いてくれた。そんなお母さんは普段、学校という場所には決して入ることができない。しかし、子どもを人として整えてもらうために、あえて幼稚園なり学校なりに送り出す。子どもの持ち物を親が用意してあげることは、そんな、会えない子どもと親をつなぐ絆のようなものではないか。 そんな親の楽しみにしているもののひとつが、授業参観である。子どもの置かれている現場にまでやってきて、そこで子どもがどのように育てられているか、さらには用いられているかを見ることは、親として大きな喜びというしかない。私は昨日子どもの授業参観に行ってきた。普段、思いを寄せていても決して入れない場所に行ってきたわけである。親として用意してやった制服に身を包んで子どもが授業を受けるさまは、見ていて感動を覚える。先生が生徒たちに課題を出して、それを一斉に解かせるとき、うちの子どもの鉛筆は動いているかな、と見守るのは、なかなかハラハラドキドキの体験である。しかし、こうして学校という現場で育てていただいていることはとても感謝なことだと感じるしかなかった。 幼いサムエルに小さな上着を持っていってやるハンナがその神殿でささげる祈りは、やはりサムエルのことであっただろう。その母の祈りに主はお応えになり、やがてサムエルは全イスラエルをさばくリーダーとなり、果てはダビデ王を立てる神の器となった。 ハンナの熱い祈り、ハンナの献身を主は喜んで受け入れてくださり、サムエルに代わる子どもを授けてくださった。あの、どんなに祈っても子どもが産めず、夫の無理解、もうひとりの妻のいじめに耐えてきたハンナのことを、ついに主は顧みてくださったのだった。 とは言っても、だいじな初子を神さまにささげたという事実に変わりはない。その献身に導かれるのは、実に大きな恵みなしにはできないことである。 サムエルは、エリのような愚鈍な霊的指導者、ホフニとピネハスのようなならず者の先輩に囲まれ、霊的指導者として訓練されるうえで、条件はよくなかった。しかし彼は、すばらしく成長し、神と人とに愛されたとみことばは語る。その背後にはハンナの祈りがあった。  サムエルは、エリが愚鈍な指導者だからとか、父親失格だからといって、霊的な指導を軽んじることをしなかった。語られることばのみを、乳飲み子が乳を慕い求めるように、しっかりいただいて、霊的にすばらしく成長した。彼を神の人にしたのは、母のとりなしの祈り、そして、その祈りの中で育てられた、主ご自身に対する態度だった。  私たちはどうだろうか? エリやホフニやピネハスは、いわば反面教師である。このような霊的な愚鈍さ、むさぼりを、私たちのうちから除き、サムエルのようになりたいものである。そしてハンナのように、私たちキリストにある兄弟姉妹は主にささげられていることを心から認め、お互いが主にささげられている「生きたいけにえ」としてふさわしい生き方ができるように、次世代を育ててまいりたい。母の日、それは次世代の親の役割を果たすべき私たちが、次世代を覚えて祈る日である。  また、母の日は、親という存在をとおして神さまがどんなに私たちひとりひとりに「愛」というものを教えてくださったかを覚える日である。私たちの中には、お母さんは明確な信仰告白をしないままお亡くなりになったという方がおられるかもしれない。いわゆる「毒親」としか思えない母親のもとで不幸な育ち方をしたとしか思えない方もおられるかもしれない。しかし、どんなお母さんであれ、お母さんをとおして神さまがこの世界に生を享けさせてくださり、育ててくださったという事実に変わりはない。それでもお母さんを赦せない人は、その怒りを主の御手に委ねる選択をしていこう。しかし、神さまがお母さんをとおして私たちをここまでにしてくださったという、この恵みに感謝し、世界のお母さんたちが(お父さんたちも!)みこころにかなう人になれるように、次世代を神の子どもとして育てる人になれるように、祈ろう。 https://www.youtube.com/watch?v=0Ay710qiQrc

思い違いをしてはいけません

聖書箇所;ヤコブの手紙1章16節~18節 メッセージ題目;思い違いをしてはいけません  ヤコブの手紙の学びが始まってひと月が過ぎたが、ここまで学んできたみことばの中に、「疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです」ということばがある。これは、自分に何かが与えられるかどうかは、それをくださる神さまに対する信仰、もっと言えば、信頼にかかっていることを説くみことばだが、これは「神さまから何かをいただくにあたって」ということにかぎらず、信仰全般に共通して言えるみことばである。  私たちが信じるべきことは、「神さまは私たちによいものをくださる」ということである。イエスさまはこのことについて、このように説明していらっしゃる。「あなたがたのうちのだれが、自分の子がパンを求めているのに石を与えるでしょうか。魚を求めているのに、蛇を与えるでしょうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。」  神さまは必ず、私たちに良いものを与えてくださる。だから、求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい、と、イエスさまはおっしゃっている。良いものをくださるのは、神さまが私たちのことを愛していらっしゃるからである。私たちは、神さまが愛してくださっているゆえに良いものをくださると知っているから、一生懸命求めるのである。  さて、そこで本日の本文を学んでいこう。まず16節。私たちは「思い違いをしてはいけない」とみことばで注意されている。それは、私たちが「思い違いをしがちな存在である」からである。思い違いをしてしまうならば、私たちは神さまの正しいみこころを受け取れなくなってしまう。そうなると、神さまの愛が正しく受け取れなくなる。  神さまのみこころは、この聖書という書物に過不足なく示されている。この聖書は古今東西、最も読まれてきた書物であり、特に、世界史をリードしてきた欧米における精神的な支柱と言える書物だけに、多くの人に研究されてきた。しかし、聖書をどんなに研究しても、その啓示するイエスさまによる救いに、果たしてどれほどの人がたどり着いただろうか? 特に日本においても、聖書を研究する人は多く、聖書について訳知り顔で解説する書物が数多く発行され、多くの日本人に読まれてきた。しかし、そういう本が普及している割には、肝心の、聖書が伝える福音が日本人に広く伝わっているとは到底言えない状態である。  それはやはり、聖書を解説する人も、その解説をありがたがって読む人たちも、「思い違いをしている」からではないだろうか。自分の考えが中心にあって、それゆえに神さまのみこころを受け入れる余地がない。それで、聖書に啓示されている福音が受け取れないわけである。  いや、それだけではない。このみことばはほんらい、教会に宛てて書かれたものであることを考えるならば、私たちクリスチャンこそ、思い違いのせいでみこころをうけとれなかったことを考える必要がある。考えてみよう。神さまは私たちを愛してくださっているのに、私たちは今まで、どれほど思い違いをしてきて、自分のことを愛してくださっている神さまのみこころを受け取ることができなかったことだろうか? 神さまが変わらずに愛してくださっていることを考えもせずに、ああ、自分なんてだめだ、と考えてみたり、こんな自分に救われる資格なんてない、と自分を責めてみたり。ほんとうに、とんでもない思い違いである。  なぜ、私たちは聖書を読み、聖書を学ぶ必要があるのだろうか? それは、「思い違いをしない」ように、神さまがこの頑なになりがちな私たちを教えてくださる手段、それが、聖書のみことばを通して、神さまが私たちに語りかけてくださることだからである。考えてみよう。学校に来ている子どもたちに、教師たちが一切何も教えなかったら、その子どもたちはどうなってしまうだろうか? 考えなくてもわかることで、子どもたちが教えられてこそなように、私たち神の子どももまた、神さまに教えられてこその存在である。  その点で、私たちの群れを「教会」と呼ぶのは一理がある。「教会」の語源である「エクレシア」は、「呼び出された者」というのが本来の意味で、神さまが私たちのことを世から呼び出されて共同体としてくださったことを意味している。日本語はこの群れに「教会」という訳語を当てた。外から見れば、「せっかくの日曜日に聖書を学んでいる真面目な人たち」というイメージが持たれていることは前にお話ししたが、私たちのしていることは、たとえば定期テストや学校の受験や資格試験に合格するための、いわゆる「勉強」とはちがうと思うだろう。  むしろ、みことばという「糧」をいただく……「糧」というといかにも堅苦しいから言い換えると、みことばという「ごはん」をいただいて成長する、その成長の喜びをともに味わう共同体だから、ごはんをともにいただくことがすなわち「教わる」こと、ゆえに「教会」……いい訳語ではないか。  私たちは教えられることで、思い違いから守られる。思い違いをして、神さまの愛のみこころを間違って受け取り、神さまの愛を受け取れなくしてしまう危険から守られる。今日もこうして、私たちを思い違いから守るべく、神さまがこの共同体においてみことばを伝えてくださることに感謝しよう。  では、何を思い違いしてはならないのだろうか? それは、先週学んだみことば、特に13節を受けていると言えるし、さらに、今日集中して学ぶ17節、18節を指しているといえる。先週の復習のようになるが、13節は、誘惑にあっているとき、神によって誘惑されていると言ってはいけない、と語る。神さまのせいで自分がこんな悪い目にあっている、あなたはそう思うのか、しかしそれはちがう、神さまは悪へと誘惑するようなお方ではない、もしあなたが誘惑にはまっているならば、それはあなたのうちで、誘惑にあって罪を犯したい、欲が存在するからだ、と、みことばは語る。  さて、先週は扱わなかったが、「神によって誘惑されていると『思ってはいけない』」ではない、「言ってはいけない」と語っていることにも注意が必要である。思うのは自分個人の中だけのことで、もちろんそれだけでも、神さまのみこころを誤解しているという点で充分によくないことだが、それを「言う」ということは、教会の中であれ、教会の外であれ、神さまは誘惑する方だ、と「人に伝える」ということである。それは、神さまの愛を疑う不信仰を人々に伝染させることであり、そういう思い違いは教会を病ませるし、また、人々を教会から遠ざけてしまう。私たちは徹底して、神さまは私たちをあえて悪い道に引き込むことをお許しにならない、愛のお方であることを、つねに語りつづける必要がある。  そのように、人を悪の道に誘惑されることのない愛なる神さまだから、という前提で、17節、18節のみことばが続くわけである。17節。このみことばが定義していることは、良いものというのは天におられる父なる神さまがくださるものである、ということである。そのことは2つの側面を持つ。ひとつは、父なる神さまが私たちにくださるものは、良いものしかないということ、もうひとつは、父なる神さま以外のどんな者も、ほんとうに良いものを私たちにもたらすことはない、ということである。もし、私たちが良いものを受け取ることができたならば、その良いものは究極的には、父なる神さまがその人や環境をとおして私たちにくださったものである、ということである。  そのように、神さまが愛のお方だから良いものを私たちにくださる、ということを信じられないのは、そもそも、神さまとはどんなお方かということを勘違いしてしまうからである。  17節を見ると、「父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません」と語っている。このみことばを最初に読んだ十二部族は、イスラエルの民であるという民族的なアイデンティティを保つ一方で、いかんせんユダヤの国外にいる分、その住む土地の宗教的な影響を受けてしまい、変わることのないまことの神さまへの純粋な信仰を保つことに困難を覚えることは避けがたい。  しかし、御父が変わることのないお方だという信仰を保つことに困難を覚えるのが、主の民の末裔たちにして困難だったのならば、いわんや私たち、異邦人から救いをいただいた者は、ますます異教的な神理解らか自分自身をきよく保つことに努める必要がある。神さまが上におられる、天におられるということは、このみことばの説くところだが、その神さまが「移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものは」ないお方だということをまず押さえておかないと、私たちは神さまというお方を見誤り、正しい信仰を持てないことになってしまう。  幼稚園の頃、私は何かいたずらをすると、祖母が決まって私に言ったものだった。「そんなことをすると、お天道様の罰が当たるよ。」祖母がこう言ったとき、家の外では、お天道様ならぬ太陽がぎらぎらしていた記憶がある。この太陽が、目で見ることもできないほどまぶしい太陽が、天から見張っている、という、トラウマのような印象を持ったものだったが、ほどなくして私は、この太陽も数十億年後には寿命を迎えるという、科学の本の解説を読み、とても不安になった。  日本の国旗は「日の丸」、つまり赤く太陽を染め抜いている。たくさんのノーベル賞受賞者を輩出したような、世界的に科学をリードするような国であってもなお、日本は心情的に、というよりも霊的に、お天道様を崇める国と民族である。このヤコブ1章17節のみことばは、そんな私たち日本人が刮目して読むべきみことばである。学校行事の際には日の丸に頭を下げたり、初日の出を拝んだり、星占いを信じたりと、多くの日本人が潜在的に神とあがめる天体というものは、実は創造主なる神さまの御手によるもので、ほんとうに信じるべきは天体という被造物ではなく、天体も含めてすべてを創造された神さまであることを、私たち日本のクリスチャンは徹底して信じる必要がある。私たちはあまりにも、世の霊的な情報に左右されてしまっている。私たちはその分、みことばを学び、日々、神さまはどのようなお方か教えていただく必要がある。そして、みことばの教えるとおりに同意する必要がある。今日のみことばに関して言えば、「父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません」とみことばが語る以上、御父は一切変わることのないお方だと、へりくだって受け入れる必要がある。  18節。この一切変わることのない御父は、私たちに何をしてくださったのだろうか? 私たちを生んでくださった。みこころのままに。真理のことばをもって。私たちがこの世界に生まれたこと、そして、イエスさまを信じるクリスチャンになったことは、神さまのみこころであった。神さまは私たちのことを、真理のみことばによって生んでくださった。私たちは、イエスさまを信じる信仰によって救われると語るみことばが真理であると受け入れている。みことばが真理であることは、変わることのない御父がお定めになったことであり、その真理のみことばを信じ受け入れるように、神さまは私たちのことを導いてくださった。このようにして私たちは救われたのである。  その救いには目的があったとみことばは語る。被造物の初穂にするため。初穂というのは、韓国語の聖書では「最初に結ばれた実」と訳されているが、家畜の初子であれ、最初に結んだ実であれ、それは神さまのものである。だから神さまは、その初物をもってご自身を礼拝するように旧約にお定めになったのである。  しかし、ほんとうの「初穂」とはだれだろうか? コロサイ人への手紙1章15節によれば、それは御子イエスさまである。その、「すべてのものより先に生まれた」まことの初穂、イエス・キリストが、私たちを罪と死から贖い出すまことのいけにえとして御父にささげられたのである。  この、まことの初穂なるイエスさまを信じる信仰を与えられた私たちは、イエスさまを受け入れることにより、私たちもまた初穂、すなわち、神に受け入れられる最高のものにしていただいた。同じ結ぶ実でも、神さまに受け入れられるのと、そうでないのとの違いは天と地の差である。私たちは神さまに受け入れられる、最高のものとされた。それが私たちなのである。  だが、私たちはそういう存在にしていただいたことを教えられてもなお、自分の醜さ、自分の欠け、自分の汚さ、自分の至らなさを覚えて、落ち込んだりしないだろうか?  しかし、そんなとき、私たちは神さまのみことばに目を留めなければならない。「神がきよめた物を、あなたがきよくないと言ってはならない。」本来は「けがれている」とされているものでも、ひとたび神さまがきよめられたならば、それは「きよい」のである。きよいかどうかをお決めになるのは神さまであって、私たちのすることではない。自分に足りないところ、至らないところ、汚いところ、醜いところ、弱いところがあるからと、たやすく「きよくない」などと言ってはならないのである。  とはいっても、私たちは実際のところ、まだまだ「きよくなる」ために成長すべきなのは道める必要があるだろう。私たちはただ、神さまがきよいといってくださる基準、イエスさまの十字架を信じる信仰が与えられていることに感謝して、少しでも神さまのみこころにしたがったきよい生き方ができるように、主の恵みに拠り頼んでいくのである。  今日は主の晩餐にあずかる。それは、主が私たちをきよめてくださった、被造物の初穂にしてくださったことを味わい、感謝するひとときである。主のみからだを口にするなどとんでもない罪人だった私たちが、被造物の初穂という大逆転を体験させられた、主の晩餐とは、その大逆転を体験させられることとも言える。主の晩餐は、私たちが「思い違いしない」ために、今日も守るものであり、また、これからも守りつづけるもの。主の晩餐によって、私たちがまことの初穂であるイエスさまとひとつにされていることを味わい、感謝しよう。

いのちの冠を目指す歩み

聖書箇所;ヤコブの手紙1章12節〜15節 メッセージ題目;「いのちの冠を目指す歩み」  先週紹介した黒人霊歌は「私の試練」という題名である。それが何の試練を意味するかに触れなかったので、お話しするが、歌の冒頭はこのとおり。「ねんねんころり、かわいい赤ちゃん、泣かないで。わかるわね、ママはもうすぐ死んじゃうの。主よ、これはみな私の試練、じきに終わる試練。」また、このように続く。「私の兄弟たちよ、もう遅すぎる、遅すぎるけど、心配しないで。これは私の試練、じきに終わる試練。」  何と悲しい歌なのかと思うが、この、死に際に子守唄を歌って幼子をあやすママは、しかし、悲しいばかりではない。先週お話ししたとおり、信仰は金持ちが金で買って永遠のいのちに至らせるものではないと歌っている。また、冷たいヨルダン川は身を凍らしても心を温めると語ったり、パラダイスのいちばん大きな木はいのちの木だと告白したり、見ている先は天国、永遠のいのちである。幼いわが子を置いて病に苦しみながら逝ってしまうなんてあんまりな試練だが、ここで彼女は天国を仰ぎ、素晴らしい希望を手にしている。悲しすぎる歌は、希望と喜びに満ちた歌だった。  私たちもこのママのように、試練によって苦しむことも大いにある。逃げたい、でも、逃げられない、なのに、立ち向かう力もない。もうぼろぼろだ。今日のみことばは、そのような、苦しみと試練の中にいるクリスチャンたちにとって、大いなる慰めの約束を語っている。  12節は約束のみことばである。……このみことばは何を約束しているだろうか? いのちの冠である。  マラソンの勝者に月桂冠がかぶせられて、それが勝利者にとって大いなる栄誉となるように、人生の長い戦いを戦いおおせた勝利者には、いのちの冠が着せられる。つまり、神からの栄光に満ちた永遠のいのちが着せられるという、冠が着せられる。われわれは永遠に御国の王にしていただく恵みにあずかるが、王にふさわしい栄誉を示す冠が、いのち、まことのいのち、永遠のいのちというわけである。  私たちが永遠のいのちをいただくということ、すなわち罪ゆえに永遠の滅びに定められていたのに、イエスさまの十字架の贖いによって、救っていただき、永遠に神とともに生きる存在としていただいたということは、王冠をいただいて王として治めるということである。それも、この地上のどんな国とも比べものにならないほど栄光に満ちた素晴らしい国、御国にて王となるのである。永遠に王となるのである。これがどれほど素晴らしいことか実感できるだろうか?  この、いのちの冠をいただける人は、神を愛する人である。神さまは変わらずに私たち全人類を愛してくださっているが、問題は神さまのその愛に応えて、神さまを愛する人がとても少ない、少なすぎる、ということである。愛してます、ということばは、ほんとうに奥さんを一途に愛している旦那さんにふさわしいが、問題は、浮気者や結婚詐欺師も、愛してます、と平気で口にできることである。しかし、ほんとうに愛しているならば、相手のためにいのちをかけてこそではないだろうか。それでこそ、ことばは本物となる。浮気者や結婚詐欺師には逆立ちしてもできない。  同じことで、神を愛するにはそれ相応の証拠が必要である。神さまを愛しています、というのが口だけだったら、その人の信仰とは果たしてなんだろうか。  その、人が神を愛する証拠はなにかを、このみことばは語る。それは「試練に耐え抜く」ことである。試練とは何だろうか? 試して練る、つまり、不合理、不条理な目にあうことで、自分の中の足りないものが満たされ、不純なものが取り除かれて、ふさわしく整えられることである。  この「試練」というものは、神さまがくださるものである。あとでご覧いただきたいが、ヘブル人への手紙12章4節から12節を見れば、試練が神さまから来るものだということがわかる。聖書を読んでも、アブラハムも、ヤコブも、ヨセフも、ダビデも、みんなたいへんな試練を通らされている。  ときに、試練は悪魔以外の何者から来るのか、と思われることもあろう。旧約聖書ではヨブ記のヨブがそうだったし、新約聖書ならばなんといっても、40日の断食の末に悪魔の試みを受けられたイエスさまである。しかし、この場合も究極的には、神さまがサタンに命じてそのような試練を与えることをお許しになっているのであり、すなわちその試練は神さまに由来するものである。  私たちに試練をお与えになる神さまの愛がおわかりだろうか? 子どもが苦しみ、のたうちまわるのに平気でいられる親がどこにいるだろうか? しかし神さまは、神の愛をこの反抗的、かつ無関心に満ちたこの世で守り行える者となれるように、私たちを力づけ、このよに調子を合わせるようなやわなものから抜け出させ、成長させてくださるために、私たちにあえて厳しい試練を与えられる。  この試練に耐え抜くことができるのはなぜだろうか? それは、神さまを信頼しているからである。信頼するということは難しいが、信頼しきった人は強い。むかし同じ教会で、安先生という名前の宣教師と働いたが、安先生はある日、私にこんなことを言った。  「私が必ず支えますから、脚をそろえたまま後ろにそのまま倒れてください! そのままですよ!」しかし、これはかなり怖い。どうしても足を動かしてしまう。すると安先生が言う。「だめです! 足動かしちゃいけないって言ったのに!」ところが、安先生の小学生の娘さんは、ちゃんと後ろにきれいに倒れる。もちろん、安先生はがっちりと支える。これはすごいと思った。娘はお父さんを心底信頼しきっている。愛の試練を信頼するとは、こういうことなのだろう。  その信頼がないと、13節以下のようになってしまう。自分が誘惑にあうとき、それを神さまのせいにするのである。それが端的に表れている聖書箇所として、創世記3章を挙げることができる。アダムは自分が誘惑されて罪を犯したのを、神さまのせいにし、また、エバのせいにした。エバはエバで、罪を犯したのを蛇のせいにした。しかしいずれにせよ、エバをそばに置いた神さま、園に蛇を置いた神さまが、罪を犯させたと言わんばかりの態度である。ここでアダムとエバは、ごめんなさい、私たちが罪を犯しました、と言うべきだったが、彼らは認めなかった。これが罪のはじまりだった。自分の罪を認めず、神のせいにする、その態度。  神さまはご自身が罪に誘惑されることがないように、人を誘惑されることをなさらない。神さまは試練を与えこそすれ、誘惑はなさらない。試練は人を神に拠り頼ませ、そうすることで神に近づかせ、人をきよくするが、誘惑は人を罪に陥らせる。神さまはあえて人に罪を犯させ、ご自身から遠ざからせるような、意地の悪いお方ではありえない。  人には欲があるとみことばは説く。早い話が、罪を犯したくてたまらない欲である。エバが見た「善悪の知識の木の実」は、食べたくてたまらないもの、しかしそれは、食べることによって罪を犯したくてたまらないものだった。  しかし、欲のとおりに振る舞えばそれは罪であり、その結果人は死ぬ。神のいのちから永遠に引き離される。まさしく、アダムとエバが善悪の知識の木の実を食べて死ぬ者となったようにである。  人は試練にあうとき、2つの選択肢の前に立たされる。ひとつは試練に立ち向かう道、もうひとつは試練から逃げる道。しかし、試練が神さまから来るものであるならば、試練に立ち向かうということは、神さまを愛して、神さまに近づくことで、神さまの助けをその弱さを覚える領域にお迎えすることであり、大いなるみわざを体験することになる。  試練から逃げるとどうなるだろうか? それは、神さまが鍛え、きよめてくださろうとする、いわば「親心」を拒絶することである。そういうものが行く先は、「快楽」ではないだろうか。みこころの厳しさから逃げ出して快楽をむさぼりたい。罪を犯したい。  私たちだれもが持っているそういう「欲」が神さまの御手によって取り扱われないかぎり、私たちは罪を犯す喜びに陥り、その結果、神のいのちの喜びをまるで体験できない、生きているとされていても実は死んだ状態に陥ってしまう。そんな生き方をしたいと思うだろうか?  いや、思わないはずだ。だからこそ私たちはせっかくの日曜日に、礼拝をささげるわけである。それでは私たちはどうすれば誘惑に勝てるのだろうか? 先ほど申し上げた、イエスさま。イエスさまこそは誘惑に打ち勝たれたお方だった。神の力が誘惑に勝たせることをお示しになるために、御父はあえて「誘惑」という形でイエスさまに試練を与えられたといえよう。  私たちはこのイエスさまとの交わりによって、死に至らせる罪をはらませる欲に打ち勝てる。礼拝とはイエスさまの御前に大胆に出ることではないか。  私たちがいただくべき折にかなった助け、それは、折に触れて私たちを誘惑しにかかり、罪を犯す選択へと導くサタンに打ち勝てるようにするためのものである。私たちが罪を犯すならば、その責任は私たちが負わなければならない。サタンのせいになどできない。なぜなら、罪を犯したのは「私」だからである。その責任の重さを思うならば、私たちは何としてでも、罪を犯すところから助け出されたいと思うではないか。イエスさまに拠り頼もう。  イエスさまとの交わりを持てば、誘惑から守られ、試練の中で主に拠り頼むことをとおして、私たちの霊性と人格が成熟へと導かれる。そのようにして私たちはキリストに似たものとされるのである。そのような者に、いのちの冠が着せられ、永遠のいのちに生きる御国にて、私たちは永遠に王となる。毎日の生活はひとつひとつが、その日を目指す一歩一歩の歩みである。いのちの冠をいただくその日を思い描き、今日の苦しみの中で主に拠り頼んでいこう。

神の知恵を求めなさい

聖書箇所;ヤコブの手紙1章5節~8節 メッセージ題目;神の知恵を求めなさい  このところ私たちは、リビングライフで列王記第一をとおしてソロモン王のことを学んできた。ソロモン王がどんなに知恵に満ちていたか、あの、赤ん坊を巡っての遊女の争いをさばいたエピソードや、大小さまざまな植物や動物についても知り尽くしていたという記述からもわかるような、一国の王という立場に納まらない見識、また博識ぶりは、神さまがソロモンにそれだけの知恵を与えてくださったからである。  神の知恵、といえば、私はかつて、知恵さん、という名前の教職者とともに同じ教会で働いたことがある。クリスチャンホームに生まれ育った彼女の名前の由来は、「神を知る恵み」ということだった。私は彼女の父上にもお会いしたことがあるが、実に素晴らしい信仰をお持ちの方で、神を知ることは実に神の恵みである、その神を知る恵みをいただくことが人間にとってどんなに大事なことか、という父上の信仰がその名前に込められているようである。  あまりよくないことばの用い方では、知恵をつける、という表現がある。家族や親戚や小さなお店の店員のような人間関係のごく近いどうし、立場の弱い者が法律などの正当な知識を用いて立場の強い者の理不尽さに対して攻撃したり、抗議したり、距離を置いたりするとき、やられた側は、「いったいどこで知恵つけてきたんだろう」とぼやいたりする。本来、愚かであってくれるほうが都合がいいものを、よくも賢くなりやがって、なまいきな、と思うわけである。  そういうわけで、知恵をつける、とは、実に上から目線の嫌味な言い方であるが、そういう言い方を聞くと、知恵を持つことは何かいけないこと、後ろめたいことのように思えてくるかもしれない。しかし、私たちが押さえておくべきことは「何のための知恵か」ということである。  決して自分が人を出し抜くためではなく、神さまの栄光のために神さまの知恵を用いること、これが、私たちが「知恵」というものを肯定的に理解する上での大前提である。同じ日本のキリスト教会の牧師として口にするのも嫌な不祥事だが、一時期、日本のごくごく一部のキリスト教会が、ふさわしくない牧師の独裁によってカルト化して、日本のキリスト教会全体の大問題になった。そのとき、パワハラにあっていたクリスチャンたちは法的手段に訴えたが、そのことは、聖書に基づいてふさわしく「知恵」を用いたからであり、何ら責められることではない。  そういう、知恵。私たちは第一列王記とともに、そのソロモンが大部分を記している「箴言」もこのところ通読してきたが、箴言は何とも知恵に満ちていて、読めば読むほど賢くなれそうである。もとへ、なれる。神さまがソロモンに与えてくださった知恵を、こうして箴言のみことばという形で分かち合っていただけるのだから、私たちは幸せである。  長い前置きになったが、今日の本文は「知恵をもとめること」を語っている。まずは5節。……知恵が欠けているなら知恵を神さまに求めなさい、ということだが、そもそも人は、どうしたら自分が知恵が欠けていることを意識し、それゆえに知恵を求めるべきだと考えるのだろうか?  やはりここは知恵の宝庫、箴言のみことばを見てみよう。まず、箴言3章7節。自分を知恵のある者と思わないことが必要。たとえ、人からリーダーとか先生とか言われて尊敬されている人であっても、自分は知恵がない、愚かだと心から思っていること。それだけ、神と人の前にへりくだることが大事である。同じく箴言の26章12節もご覧いただきたい。愚かなら賢くなろう、成長しようと考える。しかし、自分は充分に知恵を持っている、学ぶ必要はないと考えるなら、もはやその人には成長は望めない。同じく26章の16節は、そのような成長するための努力をまるでしない怠け者は、七人の賢者よりも自分のほうが知恵があると思っていると語る。手の施しようがない。  だから、自分はまだまだ未熟者だ、学ばなければならないと考える人は見込みがある。私もこれまで、自分も子どもだったし、また現に子育てもしているくらいで、数えきれないほどの子どもを見てきたが、親や先生といった大人がいかに「勉強しなさい」とがみがみ言ったところで、自分の知恵の足りなさを痛感して勉強が必要だとならないかぎり、子どもは勉強しない。もちろん、それは大人も同じことで、自分の足りなさを悟って必要に迫られ、はじめて勉強する気になる。しかし、本を読むにも視力も落ち、記憶力も落ち、だいいち忙しすぎるという現実をいやでも悟らされて、愕然とするわけである。ああ、若い頃から勉強しておけばよかった! なんて。  そういうわけで知恵を得ることは難しい。しかし、みことばはここに素晴らしい方法を示している。それは、神さまに求めなさい、ということである。神さまはだれにでも知恵をくださる。神さまはいくらでも知恵をくださる。求めるならば必ず知恵をくださる。何とすばらしいことではないか。  しかし、私たちはそうと知っても賢くなれないことがとても多い。それはなぜなのかもみことばは語る。6節を読もう。……神さまから知恵をいただける条件は、少しも疑わないで、信じて願うことである。まず、信じて願う、のほうから見てみたいが、願うということは、時に時間をかけることも覚悟しなければならない。現代はインスタント、コンビニ、インターネット……何でもあっという間に手にできる時代だけに、「待つ」ことの意味を忘れてしまいがちだが、ほんとうに欲しいものを手にするためには、待つこともできるはずである。  子育てをするとき、幼いその姿についてんてこ舞いしてしまうが、私たちは心のどこかで、その子がやがて大きく立派になる姿をビジョンとして持っているのではないだろうか? だから、それまでに何年かかったとしても、私たちは忍耐できる。それと同じことで、私たちに知恵が必ず与えられると信じるならば、その知恵が手に入るためにどんなに苦しい勉強をしなければならなくても、かならず充分な知恵を授けていただけると信じて、どこまでも祈って求めていけるはずである。  そう、ここで求められるのは、祈りつづけられるだけの信仰を働かせられるか否かである。6節の「疑う人」のたとえを見ていただきたい。どこかで見たことのある表現ではないだろうか? そう、これは、湖の上を歩くイエスさまを見て、ペテロがイエスさまの招きに従ったときの、あのみことば。ペテロはイエスさまの「来なさい」ということばに従って湖の上に足を踏み出し、イエスさまのほうに向かっていったとき、なんと水面を歩けた。しかし、ペテロは湖の波を見たとたん、おぼれてしまった。ペテロが見るべきはイエスさまおひとりであるべきだった。イエスさまを見ないならば、おぼれてしまう。  「どうせ自分なんて頭が悪いから」、「どうせ自分なんて信仰が弱いから」、こんなふうに自分のことを考えてしまっているとき、その人の目に果たしてイエスさまが見えているだろうか? そのような不信仰な人、神さまを信じているといってもそれは口先だけで実際は信じていないような人には、神の知恵はふさわしくない。そういう、中途半端な者には、神さまは知恵をお授けにならない。  「自分は必ずできる」、「やればできる」、「信じる」、そういう人は、簡単にはへこたれない。祈りつづけることができるし、その祈りに裏打ちされた、知恵を得るためのあらゆる努力を惜しまずにすることができる。神の知恵はそういう人にこそふさわしく、必ず与えてくださる。  7節、8節をお読みしよう。疑う人は、主から何かをいただけると思ってはならない。知恵の初めに知恵を買え、あなたが得たものすべてに換えて悟りを買え、と箴言4章7節のみことばは語る。それほど知恵とは何が何でも求めるべきものだということであり、逆に言えば、神の知恵さえ充分に与えられていれば、人間関係であれ、環境であれ、お金を含めた持ち物であれ、神さまが私たちに必要として与えられるものはすべてそろうのである。  しかし、神さまに対して疑いの思いを持っているようでは、知恵も何もいただけはしない。神さまに対して不信仰な者を、神さまはお用いになりようがないからである。その人のことを神さまがお用いになれないのは、その人は自分が用いられたいからと神の知恵を求めようともしない、怠け者だからである。求めない者には神さまは知恵も何もくださらない。  8節は、そういう人が二心の人だと説く。表面的に見るとご立派なことを言っていて、神さまを信じているように見える。しかし、ほんとうに彼が信じているのは、不確かでしかない自分自身である。主を心に迎えてはいるものの、心の王座に座っているのは自分という状態である。お祈りすると申し訳程度に神さまを心の王座にお迎えしたようなポーズは示すものの、ほんとうのところ、その人にとっての人生の主人はイエスさまではない。  そう、所詮は不確かな「自分」という存在が導く人生だから、心が定まっていないのは当たり前である。不信仰ということ、そして、知恵は必ず与えられると信じて求めることをしないことは、これほどまでに不確かな人生しか保証しない、ということである。  ちょっと、これからお読みになるリビングライフの第一列王記の内容を先取りしてしまうが、知恵を用いて国を治め、立派な神殿を建てて国民を礼拝者として整えたという点で、ソロモンは確かに素晴らしい王だった。それにふさわしい栄華も神さまはソロモンに与えてくださり、その栄華は主イエスさまもお認めになるほどだった。しかし、イエスさまはソロモンの栄華をお認めになってはいるが、ソロモンが知恵深かったと評価しておられるわけではない。やがてソロモンは政治において数々のしくじりをするようになった。いちばんいけないのは、政略結婚も含めてとんでもない数の女性と通じ、彼女たちが外国の神々を持ち込むままにさせ、イスラエルの霊的純潔をけがしたことである。神さまはソロモンに、充分な従順を果たせば齢を長くしてあげようと約束されたが、実際には60歳くらいまでしか生きなかった。これは、彼がそれだけ不従順だったことの何よりの証拠であり、神の摂理である。  そんなソロモンは知恵ある生き方をしたと言えただろうか? 晩年は、箴言というみことばを伝えた人物ととても同じには見えない。知恵を求め、知恵を用いたとは到底言えない、肉の思いに満ちた俗物となり下がっていた。まさしく聖書を代表する、晩節を汚した人物。  ソロモンにしてこうなのである。私たちはどうだろうか? ソロモンのこういう姿を私たちは反面教師としたい。ソロモンは父ダビデの従順により恵みを受けた存在にすぎなかったのに、王座に座って何十年も経つうちに、気がつけば勘違いもはなはだしかった。私たちもいまあるのは主の恵みゆえである。神の知恵を求めることは一生もの、いのち果てて御国に行くその日まで、私たちは日々お祈り、日々勉強あるのみである。  お祈りして、お伺いしてみよう。私たちはほんとうに愚かだと悟らされているだろうか? そんな私たちに、神さまはどんな知恵をお授けになろうとしているだろうか? 静まって、みこころを、そして知恵を求めよう。そして、これからも知恵を得るために励みつづける力をいただこう。

聖徒の忍耐

聖書箇所;ヤコブの手紙1章1節~4節 メッセージ題目;聖徒の忍耐  今日から「ヤコブの手紙」より学ぶ。計画では8月いっぱいまで。  この書の強調していることは、信仰とは行いあってこそ、ということ。もちろん、神さまに救っていただくには、イエスさまを信じさえすればよい。救いは行いによるのではない、信じることによる、これは大前提。  しかし、信じるということは果たしてどんなことなのだろうか? 自分が基準の自己中心による信じ方では果たしてどうだろうか?「俺は神さま信じてるよ」と言いながら、その生活が到底、神さまを信じている人とはいえないような自堕落なものだったら、その人はほんとうに神さまを信じているといえるだろうか? そういう態度の人でも救いは保証されているのだろうか? 今日から5か月間の学びにおいては、そういうことを中心に考えてまいりたい。  今日はその冒頭、1節から4節。まず1節の部分はあいさつのことばであり、これを見ると、このヤコブの手紙がどういう人に必要だったかが見えてくる。  その前に著者から見てみよう。「神と主イエス・キリストのしもべヤコブ」とある。このヤコブは、十二弟子のリーダー集団、ペテロ、ヨハネ、ヤコブの、そのヤコブではない。このヤコブは使徒の働き12章にあるとおり、まだ教会が充分に成長する過程にある前に、ヘロデによって殺されて殉教した。そのヤコブではなく、「主の兄弟ヤコブ」、つまり、主イエスさまのお生まれになったあとで、ヨセフとマリアの間に生まれた、イエスさまの肉親としての弟である。このヤコブはイエスさまの公生涯のころには、イエスさまがキリスト、救い主であるという信仰を持っていなかった。むしろ、おかしな人だと見なして連れ帰ろうとしたり、かと思うと、あなた自身を世に現せばいいでしょうが、などと、差し出がましいことをイエスさまに言ってみたりする。要するにイエスさまを信じていなかった。  しかしヤコブは、イエスさまの十字架と復活、そして昇天ののちに教会が成り立つようになってからは、教会の指導者となっていった。もちろん、イエスさまをキリストと信じられるようになった。そしてここにあるとおり、神と主イエス・キリストのしもべ、と自己紹介するまでになっている。イエスさまを主キリストと告白している。ここには、イエスさまが肉親だったという誇りや驕りなどかけらも存在しない。ヤコブにとってイエスさまは兄弟ではなく、主キリストであった。  ゆえに、このヤコブの手紙は、イエスさまの兄弟だったという視点から書かれたのではなく、イエスさまが主キリストであるという告白のもとに書かれている。私ヤコブも読者のあなたがたも、イエス・キリストは主と信じ告白しているのです、これからみなさんがお読みになるこの手紙は主イエス・キリストのみこころです。という前提で書かれている。  では、国外に散っている十二部族とはだれだろうか? 大前提としてこれは、アッシリアによるイスラエル王国滅亡、バビロンによるユダ王国滅亡により、世界中に散らされて久しいイスラエル人のことを指している。ただし、イスラエル人といっても、その中でも教会による宣教活動を通して、イエスさまをキリストと信じ告白する人たちである。  ローマ人への手紙はローマの異邦人に向けて書かれた手紙だが、その中の9章から11章はイスラエル人のイエスさまへの回心について書かれている。そのうち11章23節と24節に注目すると、彼らイスラエルは異邦人よりもよりたやすくイエス・キリストに接ぎ木される、すなわちいざとなるとイエスさまへの信仰を持ちやすいことが語られている。イスラエルとはそういう民族である。  このイスラエルは、世界に散っている。21世紀の今もなおイスラエル人は、イスラエルという本国ができた現在も世界に散った民である。しかし、そのイスラエルがひとつに集められるのはイスラエルの悲願である。エレミヤ書31章7節から9節、エゼキエル書37章21節から28節は、その悲願を主が成し遂げてくださるという預言である。  その預言を主はどのようにかなえてくださるのだろうか? それはヨハネの福音書11章52節に書かれているとおりである。カヤパはローマからユダヤを守る捨て石にイエスさまを差し出せばよいと意見したが、図らずもその意見は、イエスさまの十字架が神の民のためであったことを預言したことばとなった。そう、エレミヤ、エゼキエル以来のイスラエルの悲願は、イエスさまという牧者がひとつの主の民を牧してくださることにおいて成就するのである。  そのイスラエルに、私たち異邦人は接ぎ木されている。養子は血のつながった実の子でなくても、法的に実の子どもと見なしてもらえるのと同じように、私たちの血統がイスラエルでなかろうと、私たちも主イエスさまを信じる信仰により、神の民に加えていただいている。ゆえにこの手紙は、終わりの日にイエスさまによってひとつに集められるべき民に向けて書かれた書簡であり、その対象には私たちも含まれている。私たちは日本の茨城に散っているが、やがてイエスさまが再臨されるとき、私たちは世界中から集められる神の民の一員として、栄光のイエスさまの御前に集う。  その前提で2節以下を読もう。試練がこの上もない喜び、というのは、単に我慢しなさいということではない。さもなくば、試練に合うことにマゾヒスティックな喜びをいだきなさい、ということでも決してない。  3節は、試練を受けることがなぜ喜びと思うべきことなのかを語っている。2節の定義によれば、試練とは信仰が試されることである。その結果、忍耐が生じる、だから喜びなさい、というわけである。  では、忍耐が生まれるとなぜ喜ぶべきことになるのだろうか? それは4節で説明されているとおりである。4節。まず、忍耐とは働かせるべきものである。彼らは何に忍耐しなければならなかったのだろうか? 同胞のユダヤ人からも、異邦人からも受ける迫害に対してである。そのような中で、彼らはつねにイエス・キリストを否む誘惑にさらされていた。第二テモテ2章12節。この箇所からすると、忍耐を働かせるとは、キリストを否まずに最後まで告白しつづけることである。  そのように、あらゆる迫害にも忍耐して、キリストを誇りとする生き方をことばと行いにおいて徹底するならば、何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な人になることをみことばは約束する。この約束は、私たちの地上のいのちが終わり、御国に移されるときにかなう。地上においては何一つ欠けたところのない、成熟した、完全な人には到底なれない。しかし、私たちが忘れてはならないのは、私たちの信じ受け入れているイエスさまは、何一つ欠けたところのない、成熟した、完全なお方であるということ。このお方との交わりを日々欠かさず持ちつづけることで、私たちはこの完全に成熟したお方、キリストに似た者へと日々変えられる。その歩みが、この地上でのいのちが果てるときに完成するのである。  私たちは生活していると、いやなこと、理不尽なことに出会うことが避けられない。それからいちいち逃げていては切りがないし、成長もしない。しかし、一方で考えなければならないことは、そういう「させられる」我慢は果たしてすべてがすべて主のためにしていることなのか、イエスさまの十字架を忍んでしていることなのか、ということ。この箇所を表面的に読むと「忍耐すること」そのものを称賛していることにしか思えないかもしれないが、ほんとうに考えるべきは「何のために忍耐するのか」「だれのために忍耐するのか」ということ。  忍耐、といえば、ローマ人への手紙5章1節から5節のみことばは外せない。ここでも今日の箇所同様、忍耐が語られているが、忍耐が練られた品性を生むことはなぜ素晴らしいのだろうか? それは、その練られた品性とは、るつぼや炉に金銀が入れられて金(かな)かすが除かれて精錬されるように、私たちが試練に合う中で主にお従いするうえで不必要な肉の性質が取り除かれ、その結果キリストに似た者となった品性、ということ。それゆえに練られた品性を備えることはすばらしい。  そして、練られた品性を備えた人、すなわち練られてキリストに似た者となった人が持つ希望は、失望に終わらない。それは、その希望とは、御国でイエスさまとともに過ごす永遠のいのちにあずかる、不滅の希望だからである。  その希望を保障してくださるのが聖霊なる神さまであり、その希望に私たちのことを満たしてくださるほどに、神さまは私たちのことを愛してくださる。だから私たちは忍耐するのであるが、その忍耐が神の栄光につながることのない、いわば「不本意に苦しまされる」ものであるならば、そこから距離を置くことを祈ってみてはいかがだろうか。不必要な忍耐でせっかくの主のたまものなるいのちを浪費することは賢いとはいえない。  とはいえ、簡単にその苦しみから逃れられないこともあろう。祈っていても果たしてその苦しみが主のゆえのものか判断がつかず、理不尽に耐えなければならないこともあろう。それこそ旧約聖書のヨブ記のヨブのようにである。しかし、私たちはその中でも、可愛い子にあえて旅をさせてくださる御父なる主の親心を思い、忍耐するものでありたい。そこから主との交わりが生まれ、永遠の御国に至る希望を仰ぐことができる。  考えてみよう。古今東西、この世界に存在した最も理不尽な忍耐とは、神の子なるイエスさまがこの世界に人としてお生まれになり、何の罪もないのに人のすべての罪を背負われ、十字架に死なれるほどに忍耐の生涯を送られた、ということでなくて何だろうか。しかし、この忍耐は神の栄光を現すものであった。この忍耐のすえに、ピリピ人への手紙2章にあるとおり、イエスさまは王の王、主の主として、すべての名にまさる名をお受けになった。  そのように、私たちは主の栄光のゆえに忍耐するならば、イエスさまがやがて再臨され、四方から御民を集められる終わりの日に、私たちはしぼむことのない栄光の冠を受ける。イエスさまを信じているということは、そのように、きわめて終末的な信仰を持つということであり、終わりの日に栄光をもって再臨されるイエスさまの前に恥ずかしくなく立つことを目指す信仰を実践する、ということである。  イエスさまを信じるということは、イエスさまのために生きるということである。もちろん、イエスさまのために生きることは簡単ではない。私たちはできれば自分の欲望を優先させていきたいと願うように、イエスさまにお従いしたいという御霊の願うことは私たちの肉の思いに逆らい、同じように私たちの肉は御霊に逆らう。  しかし、だからといって、肉に従っていきたいと願う私たちの欲望を言い訳にして、不従順な歩みを正当化してはならない。私たちがイエスさまに従順でありたいと願う歩みは苦しみの伴う、忍耐を必要とするものだが、主はその末に私たちを完全な成熟へと導かれる。すなわち、御国にて完全な聖徒として迎え入れてくださる。その日を目指して、今日忍耐すべきことにともに取り組み、ともに主の栄光をあらわしていこう。

復活から派遣へ

聖書箇所;マルコの福音書16章9節~20節 メッセージ題目;復活から派遣へ  今月、2人の娘の卒業式があった。一方は中学校、もう一方は小学校。卒業式というものは、単なる「卒業」を記念してお祝いするだけのものではない。進級先の学校という新たな環境に「派遣」される日でもあった。よその学校の校長先生から祝電が届いたりするのだが、いわく「みなさん、苦しんでください」なんて。保護者達にはその言わんとしたことは分かったと思うが、果たして生徒のみなさんにはちゃんと伝わったか。あまりに厳しすぎると思わなかったか。しかし、派遣されるとはそういうことなのだろう。  今日は喜びの日。イエスさまが復活されたことをお祝いする日。あらためて言おう。「主イエスは!」「よみがえられた!」イエスさまは十字架で死なれて終わりではない。復活されたのである。イエスさまは私たち人間のすべての罪を背負われて十字架に死なれた。しかし、イエスさまは死なれて3日目に復活された。イエスさまによって、私たち人間は永遠に罪と死に勝利した。私たちはイエスさまを信じるならば、永遠に罪と死に勝利し、すべての罪が赦され、永遠のいのちをいただくのである。  さて、冒頭で「派遣」の話をしたが、「派遣」はイエスさまの「復活」とひとつのセットになっている。それは今日のみことばをお読みいただければ一目瞭然である。弟子たちはイエスさまの復活を体験し、それから派遣されている。しかし、復活というものは、イエスさまからずっと聞かされていた一方で、弟子たちがそれとわかるように体験するには、少し時間を必要とした。  弟子たちは、イエスさまがよみがえったという、マグダラのマリアたちからの伝聞によって信じるしかなかった。別の福音書によれば、空っぽになったお墓という状況を証拠として信じ受け入れるしかなかった。それでも、イエスさまがよみがえるというおことばがそのとおりになったと信じられたならば、彼ら弟子たちは喜べたはずだった。ところが彼らは喜べなかったばかりか、悲しんで泣いていた。  そのあたりのことはのちほど詳しく見るとして、今日の箇所、9節のみことばから見てみよう。イエスさまはなぜ、マグダラのマリアにご自身を現されたのか? それは何といっても、ユダヤ人から何をされるかわからないという危険を顧みずにお墓に行った、その信仰にイエスさまが応えてくださったから、と言えよう。  もちろん、「救われる」ことに特別な条件は必要ない。特別な行動をとらなくても救っていただける。しかし、イエスさまに特別に近づいただけの恵みというものは頂けることを覚えておこう。ここでマグダラのマリアは、勇気をもってイエスさまのおられるところに近づいたら、イエスさまにまみえるという恵みをいただいた。私たちもイエスさまに近づいただけの恵みは受け取らせていただけるのである。  こうしてマリアは、弟子たちのいるところに知らせに行った。しかし、弟子たちはどうだっただろうか? 10節。弟子たちは嘆き悲しんで泣いていた。彼らからはイエスさまが3日目に復活するという信仰がすっぽり抜け落ちていた。彼らは、イエスさまが十字架の上でむごたらしい死に方をなさったそのお姿があまりにも鮮烈に目に焼きつき、もはや信仰を働かせるどころではなかった。  そんな彼らのところに、マリアは喜びの知らせを持っていった。しかし、彼らは信じられなかった。イエスさまが死なれた、それも十字架でむごたらしく死なれた、王として立ててくれるはずのユダヤの宗教社会にむごたらしく捨てられた、という現実の前に、彼らは打ちひしがれて悲しみに暮れていた。  現実。それはイエスさまの復活を見せなくするものである。あるミッションスクールの聖書の授業では、イエスさまの復活を信じてもいいし、信じなくてもいいと教えるという。ある教会の牧師夫人がその授業を受けたことがあると証言しているから、それは事実であろう。  彼女はそのことを、霊の先週のメッセージの冒頭でお話しした、主の晩餐のありがたさを説いた先生にお話しした。その先生は血相を変え、吐き捨てた。「あほか!」  キリスト教会が現実におもねって聖書を読むようでは、この時の弟子たちと同じである。もし、そのミッションスクールの学生が何かの理由で悲しみに打ちひしがれるようなことがあったら、いったいだれがその悲しみを解決してくれるのだろうか? キリストに復活がないならばこんなにむなしいことはない(Ⅰコリント15:14)。実にイエスさまの復活とは、キリスト信仰の中心も中心である。悪魔は隙あらば、現実のほうにこそ目を留めさせ、イエスさまの復活を見させなくし、主への信仰を奪い去る。この時の弟子たちも、イエスさまの復活が見えなくて、信仰が奪い去られた状態にあった。そうなると悲しみに圧倒されるしかない。  そこで12節。イエスさまは彼らのうち2人に現れてくださり、ご自身が復活されたことを証しされた。ただし、別の姿で現れてくださったとある。これはルカの福音書のみことばを見ると、彼ら弟子たちとともに行かれた方がイエスさまだとは気づかなかったという記述とも一致する。ルカの福音書を読むと、イエスさまがなさったことは、わたしだ、わたしはよみがえったじゃないか、とご自身をお示しになることではなかった。みことばを解き明かして、落ち込んで暗い顔になっていた彼らの心をイエスさまご自身へと向け、その心を燃やされることにあった。  イエスさまはなぜわざわざ、十字架におかかりになる前の、いわば「生前の」お姿で現れることをなさらなかったのか? 理由として考えられるのは、イエスさまが復活後、弟子のトマスにおっしゃったことば、「見ずに信じる者は幸いです」ということばから考えると、イエスさまの復活を信じるのはまず、イエスさまを見たから信じるのではなく、イエスさまのみことばがそのとおりになっていると、みことばに対する信仰ゆえに信じることが、どんな人にとっても大事であることをお示しになったから、ということが考えられる。  ここでも弟子たちは、はっきりイエスさまに出会ったことを証言する彼らのことばを信じていなかった。前にも言ったが、信仰とは「信じ仰ぎ見る」ということと同時に、「仰せを信じる」ということでもある。ことばが信じられないならば、イエスさまを信じること、すなわちイエスさまの復活を信じることは不可能である。たまに、夢なり幻なりでイエスさまに出会ってイエスさまを信じた、という話を聞くが、そういう人たちにしても、いざ信仰生活を送るとなると聖書のみことばに頼って生活することになるわけで、やはりみことばを聴いて信じることが信仰の大前提になることは変わらない。だれであれみことばを聴くことは必要なのである。  しかし14節。とうとうイエスさまは、そんな不信仰な彼らの前に現れてくださった。そして何をなさったか?「彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった」とある。イエスさまの復活も信じられない不信仰、イエスさまの復活を受け入れられない頑なさは、イエスさまの弟子として最もふさわしくない姿勢であり、イエスさまに責められてしかるべきである。  しかし、イエスさまが弟子たちをお責めになるのは、もうお前たちは役立たずだ、わたしの働きなどとても任せられない、と切り捨てるためではない。むしろ、おいおい、おまえたちにはちゃんと教えたじゃないか、思い出せ、しっかりしなさい、と、本来の弟子としての立ち位置に戻してくださるためである。  私たちもイエスさまに用いられたいと願うだろう。しかし、頭ではそう願っていても、心の弱さ、信仰のなさで、イエスさまを信じ切れないことが多くあるのではないだろうか。しかし、そんな私たちだからと、イエスさまは私たちのことを切り捨てられたりはしない。むしろ私たちがちゃんとなれるように、いつでも励ましてくださる。  その励ましを受ける最善の道は、教会という、キリストのからだなる共同体から離れないことである。私たちは教会を離れてしまうと、イエスさまの弟子として歩むことはいかにもきつい。  ヘブル人への手紙3章13節によれば、頑なになるのは罪に惑わされるからだということであるが、そうならないために、日々互いに励まし合うことが命じられている。その励まし合いをする共同体が教会の交わりである。私たちは励まし合うことで、頑なになって罪に陥ることから守られる。  ともかくも、イエスさまはひとたび弟子たちをお責めになったが、それで終わりではない。不信仰と頑なという罪が取り扱われた弟子たちのことを、イエスさまは派遣されたのである。15節。この働きを受けた弟子たちは、自分たちが働いたのはもちろんのこと、バルナバ、そしてパウロと、そのあとに続く聖徒たちを訓練して宣教の働きを担わせ、その命脈は2000年にわたって全世界に広がり、いまここ、2024年の茨城にまで広がっている。  16節。信じる、ということと、バプテスマを受ける、ということはセットになっている。信仰を持つ人はバプテスマを受けることに躊躇してしまう、ということは、特にここ日本では往々にして起こる。しかし、このみことばに従順に従うならば、イエスさまを信じることはバプテスマを受けることとセットである。すなわち、バプテスマを受けることによって、ほんとうの意味でイエスさまを信じたと聖書的に認められることになる。  一方で、信じないならば罪に定められる。それは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」とイエスさまがおっしゃっている以上、そうなのである。イエスさまを信じないならば、聖い御父から離れますと宣言していることになり、そういう人にはその選択にしたがって、さばきが下される。この選択の責任は自分が取らなければならないのである。  さて、17節と18節を見ると、信じる人はすごい体験をする。ここに書かれているような人になれるなんて、イエスさまを信じるとはなんとすごいことだろうか。ただし、前提として押さえておくべきことは、「イエスさまを信じる」人は即、「イエスさまを宣べ伝える」人になる、ということである。「イエスさまを信じさえすれば(主の弟子なり働き人にならなくても)このようなスーパーマンになる」ということではないのでご注意を。  具体的にひとつひとつ見てみよう。「わたしの名によって悪霊を追い出し」、私たちは悪霊を追い出す、すなわち、祈りをもってみことばを宣べ伝えることによって、悪霊の支配する領域(個人なり、家庭なり、地域なり)から悪霊を追い出し、主の支配される領域へと変えることができるようになる。  「新しいことばで語り」、ストレートに言うと、いったいどこのことばだろうかと思えるようなことばが口から飛び出してくる「異言」という霊的な働きのようでもある。しかし、本来「使徒の働き」で語られた最初の異言は、神の大きなみわざを、はっきりそれとわかるほうぼうの外国語で語ることばであり、そう考えると、「外国、他民族のことばが語れるように主が道を開かれる」とも言える。実際、大学で外国語を専攻した立場から言わせていただければ、外国語を読み書きするのは、ある意味「賜物」を必要とする領域である。その賜物が与えられて、世界宣教に大いに用いられるようになる、という意味のことをイエスさまがおっしゃったといえよう。  もちろん、私はこの箇所を、いわゆる「異言」のことを指しているという解釈を排除しているわけではない。むしろ、異言を語る人は確かに新しいことばを語っているわけだから、このみことばは当てはまっている。教派的にペンテコステ派やカリスマ派ではないから異言を語るのはふさわしくない、ということはない。私は韓国の教会に長年身を置いたが、早天祈祷ともなると、私の感覚ではほとんどの人が聞き取れる韓国語ではなく、異言を語っている。私がいたのは長老派やバプテストだったので、いわゆる「聖霊派」ではなかったが、異言は堂々と語られていたわけである。  もちろん、秩序は必要だからむやみやたら、のべつ幕なしに異言を語ったりするのは、第一コリント14章のみことばに照らしてふさわしいとはいえないが、同じ第一コリント14章は同時に「異言を語ることを禁じてはいけない」とも語っている。異言が語れる人は大いに語り、霊的な恵みを存分に味わっていただきたい。  「その手で蛇をつかみ」、この箇所は、毒まむしに噛みつかれてもそれを火の中に振り落とし、なんともなかったパウロを連想するが、パウロがそのように蛇を操り、その結果、地元の人から神さま扱いされるほど絶大な尊敬と信頼を得られるようになったように、蛇に象徴される悪魔と悪霊どもを制するだけの霊的権威を授けていただける、ということである。私たちは自分が思っている以上にはるかにすごい霊的権威が与えられている。祈ることによって行使できる。行使しなければもったいないではないか。  「たとえ毒を飲んでも決して害を受けず」、これは、なら、毒を飲んでみなさい、害を受けないから、ということではない。それは神を試みる愚かな行為である。ただし、自分から毒をあおる場合ではなく、毒を盛られた場合はどうか。ある宣教師の先生が、東南アジアのある国の、福音宣教を受け入れない地域で毒を盛られたというお話を、その先生の教え子の方から聞いたことがある。その先生は90歳を超えた今も元気に働きを続けておられるが、もし毒を盛られたという話がほんとうだとすると、このみことばはまことだったことになる。  ただ、聖書が「毒」というものをどう扱っているかを見てみると、単にからだに有害な物質を飲んでも大丈夫、ということに限定されないことがわかってくる。ヤコブの手紙3章8節、ローマ人への手紙3章13節を読むと、人のことばが毒となることがわかる。私たちはゆえなく誹謗中傷、罵詈雑言を浴びる。普通ならばそのようなことばを聞いたら傷つき、容易には立ち直れない。しかし、神さまとの交わりを保つならば、そのようなことばの毒を「解毒」するように、私たちがいちいちそのような激しいことばに傷つかないようにしてくださる。そういう点で「毒を飲んでも害を受けない」者にしていただいていることは、私たち主の弟子たちの強みである。  そして、病人に手を置けば癒される。イエスさまはこの癒しのみわざをもって、神の国を拡大された。同じことを私たちも行えるのである。私たちの教会は医療宣教で始まり、今も多くの信徒の方が医療に携わっている。人をいやす働きに特化した教会であり、また、私たちの教会における祈りによって、実際癒される方がいらっしゃる。みなさま、実際にこの教会はいやしのわざが行われているではないか! 病の絶望が、いのちの喜びに変えられているではないか!  最後に19節、20節。イエスさまは天において栄光をお受けになった。しかし、同時にイエスさまは私たちのために祈ってくださっている。また、イエスさまは、天におられると同時に、私たち主の弟子のいるところどこにおいてもともにおられる。私たちが祈るならば、イエスさまは応えてくださる。私たち主の弟子を、宣教のために用いてくださる。  私たちは不信仰ならば主に叱られる。しかし主は復活の恵みをもって、私たちを遣わし、主の復活を証しする証し人として力づけ、用いてくださる。復活は私たちの、弟子としての歩みと密接な関係を持っている。主のために労する私たちも、やがてこの地上のいのち果てたら、その先には復活、イエスさまとともに過ごす永遠のいのちが待っている。  今日は特に、イエスさまの復活を喜ぼう。イエスさまの復活を信じる信仰が与えられていることに感謝しよう。復活の主が私たちを派遣してくださっていることに感謝しよう。

主の弟子は主にあってひとつ

聖書箇所;ヨハネの福音書17章20節~26節 メッセージ題目;主の弟子は主にあってひとつ  本日は主の晩餐を執り行う。これは私たちが大事にすべき教会のわざである。現在、東京は世田谷にある日本基督教団奥沢教会の牧師をしておられる洛雲海(ナグネ)先生という方、もともと日本人だが韓国が大好きで名前まで韓国式にし、一時期は韓国の神学大学院で教えておられた先生だが、神学生時代、たまたまこの先生とお会いして神学談議におつきあいすることになったとき、洛雲海先生は主の晩餐というものについて、こんなことをおっしゃった。「イエスさまのみからだと血潮を味わうんだよ! これがからだの中に溶けて入るんだよ! すごいことだと思わない!?」  それまで、そんなことを意識することもなかっただけに、洛雲海先生のこのおことばを聞いて以来、主の晩餐の味や香りを意識するようになった。言うまでもなく、主の晩餐は少量とはいえ、食べ物、飲み物である。それが血となり肉となって、私たちのからだを形づくる。その前段階として、私たちは味わう。イエスさまはこのようにして、ことばを聴いたり読んだりするだけでは体験しきれない恵みを味わう道を、私たちに備えてくださった。今日はそのことを意識して主の晩餐に臨もう。  主の晩餐は英語で「コミュニオン」という。これは、主にある交わり、コミュニケーションという意味でもある。したがって、主の晩餐とはキリストのからだなる教会の共同体としてのわざである。私はこの教会に赴任して以来、一貫して、教会の兄弟姉妹が「ひとつ」ということを強調してきた。しかし、ひとつのからだとして交わりを持つことはどんな教会においても簡単なことではない。むかしこの教会では、聖徒の交わりを持つためにどうすべきかという議論が大いに戦わされたと聞いている。みなさまのその祈りを込めた議論が、豊かな交わりを目指す今の教会の祝福につながっているならば感謝である。  主の晩餐は、そのように、主の民が、キリストの弟子たちが、キリストにあってひとつのからだである、共同体であることをともに味わい知り、見つめる、大事な教会のわざである。ということは、私たちが主の晩餐にあずかることにおいては、ともにひとつのお盆からパンと杯を取り、ともに味わうことに意味があるといえよう。  そこで、主にあって私たちがひとつとはどういうことか、今日、受難日を目前にした私たちは考えてみたい。実は、私たちがひとつになることは、イエスさまにとってのもっとも強い願いであった。本日お読みしたヨハネの福音書17章のみことばは、十二弟子を前にしたイエスさまの最後の、御父に向けたお祈りの箇所である。イエスさまは何を切に祈っていらっしゃるのだろうか? それは、ご自身が御父とひとつであられるように、主の弟子たちがひとつになることである。  主の弟子たちはたった今、イエスさまが自ら裂かれたパン、分けられたぶどう酒をともに口にして、イエスさまとひとつであることを体験した。イエスさまは主の晩餐というこの厳かな食卓を、ずっと守りつづけるように弟子たちにお命じになった。それは、弟子たちが主にあってひとつだからである。  今日は特に20節以下に集中してまいりたい。この人々とはもちろん、イスカリオテのユダを除く十一人の弟子である。しかしイエスさまは、彼らだけではなく、「彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにも」御父にお祈りをささげていらっしゃる。  彼らとは弟子、言い換えれば、イエスさまに遣わされた使徒である。人は使徒たちの語ることばを聞いてイエスさまを信じ受け入れる。そのことばは教会を通じ、聖書のみことばによって代々伝えられ、こんにちに至っている。そして、私たちもまた、「彼らのことばによってイエスさまを信じる人々」とならせていただいたのであり、ということは、イエスさまは何と2000年前のユダヤで、2000年後の日本の茨城にいる私たちのために祈ってくださっていたのであった。これは驚くべきことではないだろうか? イエスさまは私たちにとって決して遠いお方ではない。2000年前のあのとき、イエスさまはここにいて、主の晩餐を囲む私たちのことを覚えていてくださったのであった。  では、なぜ、私たちはひとつにならなければならないのだろうか? それは、主イエスさまがそのように切に願われたからだが、では、イエスさまはなぜそのように願われたのだろうか? それは21節のみことばにあるとおりである。……ここでイエスさまは、3つの願いを語っていらっしゃる。まずイエスさまは、御父とご自身がひとつであるように、すべての人がひとつであることを願っていらっしゃる。そう、イエスさまは、人が争わず、対立せず、平和に暮らすことを願っていらっしゃる。主イエスさまがそう願われる以上、主の子どもたち、キリストの弟子たちに対立や分裂はふさわしくない。争いやさばき合いがあってはならないのである。自分の正しさを盾にいともたやすく他者をさばく、さばき合う、そんな姿をイエスさまはどれほど悲しんでいらっしゃるだろうか?  もちろん、ひとつになるのは難しい。私たちはみな、生まれも育ちも性格もちがうからである。しかし、そんな私たちにも主は道を備えてくださった。それが第二の願い、「彼らも私たちのうちにいるようにしてください」である。私たちは同じイエスさま、父なる神さま、聖霊さまにあってひとつになれるのである。考えてみていただきたい。私たちの群れからキリストを取ったら、いったい何が残るだろうか? しかし私たちはキリストという「わたしはある」お方によって、あってあるもの、存在そのものにしていただいた。  そう、それはまた、私たちが三位一体の神さまとの交わりから外されたら、そこには永遠の滅びしかない、ということでもある。神のいのち、永遠のいのちの中に保たれない人を、聖徒とかクリスチャンとか呼んではいけない。だから人は、なんとしてでもイエスさまから離れてはならないのであるが、もしかしたら自分は弱いから離れてしまうかも、と思うような方は、安心していただきたい。イエスさまは、そのような人が神のいのちの交わりから離れてしまうことがないように、御父にとりなして祈ってくださっている。イエスさまの祈りに信頼しよう。  そして、聖徒がひとつであること、聖徒と主がひとつであることは、なぜ必要か? それは、「あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるため」であるとイエスさまはお語りになる。主とひとつとされた教会という共同体が、唯一なる神さまがお遣わしになった方はイエス・キリストであると語るのである。それ以外の何ものも、イエスさまのことは語れない。  イエスさまがこのように祈られたとき、イエスさまに迫害の魔の手を伸ばしていた者は、なんと、神はおひとりであると、しかも聖書をもとに信じ告白していた宗教指導者たちであった。彼らは御父を認め、信じ従っていることにはだれよりも誇りと確信を持っていた。しかし、ほんとうのところ、御子イエスさまを認めない以上、彼らは御父を信じているとはいえなかった。唯一の神を信じることと御父を信じることはイコールではない。ヤコブの手紙2章19節には、「あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています」とある。私たちの信じているのは単なる神さまではなく、「神のひとり子イエス・キリストの父なる神さま」である。これを告白しないものはどんなに唯一の神さまを信じていると主張しようとも、異端であり、別の宗教である。  人は、道であり、真理であり、いのちであるイエスさまをとおしてでなければ、御父のもとに行くことはできない。悪魔と悪霊どもはそれを知っているので、唯一神ということに人をこだわらせ、イエス・キリストを決して見せないように誘導する。そのように、イエスさまに対して堅く目が閉ざされている世に対し、まことの神への道、すなわちイエスさまを語るのが、神とひとつ、互いにひとつとされた、教会のわざである。イエスさまが託されたこのわざを担うために、教会と聖徒は神との交わりがおろそかになったり、互いに対立したりさばきあったりしてはならないわけである。  さらにイエスさまは、主の弟子なる教会に何をお与えになるだろうか? 22節。御父がイエスさまに与えてくださった栄光を教会に与えてくださる。イエスさまは十字架にかかられる前に、すでに、十字架の果ての復活、そして天の御国での栄光のお姿、さばき主としての再臨、御国の永遠の王としての栄光を受けておられた。  この、イエスさまのみがお受けになることのできる栄光を、主は教会に与えてくださる。教会とはそれほど栄光ある共同体である。私たちはそのひと枝であり、教会という共同体においてキリストにつながっている以上、私たちも終末にいたる栄光をすでに受け取っているのである。しかし、私たちは自分たちの姿を見るとふさわしくないと思えてならないだろう。こんなにもきたない、こんなにもみすぼらしい。そのくせ、お互いを見ると、自分の目に梁があることも忘れて人の目のちりが見えてならない。  しかし、私たちが見るのは自分自身やお互いの足りなさではない。それを丸ごと赦し、私たちを完全に贖ってくださったイエスさまの十字架である。この栄光に私たちはあずからせていただいている。それは、イエスさまが私たちのために十字架で苦しまれたように、私たちもイエスさまのために、そしてイエスさまのからだなる教会のために苦しむ栄光が与えられている。これが栄光といえるのは、私たちがイエスさまのゆえに苦しむならば、その末にイエスさまの復活と御国の栄光にあずかるからである。  23節。ここでイエスさまは私たちと神さまとの関係において、大事なことを語っておられる。私たちがイエスさまを宣べ伝えるその前提は、御父がイエスさまを愛しておられるその愛で、私たちのことを愛されている、ということである。私たちはそれほどの愛を受けている。具体的には、御子イエスさまがいのちを捨ててくださるほどに、私たちは愛されている、ということである。  このように、キリストを信じてキリストのからだのひと枝になるならば、神さまにことのほか愛される存在になることを証しするのが、教会のわざである伝道である。伝えるものは福音、人をまことのいのちに至らせる唯一の道である。それだけに、どれほど私たちの愛は隣人によい証しとならなければならないことだろうか。福音提示も独善的になっては神の愛も何もなく、そのようになってしまっている人はほんとうにふさわしい形で神の愛を味わっているか、よく考える必要がある。  24節。イエスさまは栄光をもっていついかなるときも、どこにでもおられる。私たちはこのお方がどこにいても、どんなときも、ともにおられることを認めているだろうか? 普段の振る舞いはどうだろうか? 栄光のイエスさまがともにおられると意識しないで振る舞うことがあまりにも多くないだろうか? イエスさまの気持ちを考えよう。  25節。この時代のユダヤの宗教社会さえ、イエスさまのことを知っているとはいえなかった。つまり、イエスさまによって御父に至るということを信じていなかった。それが罪人として当たり前のことだったが、イエスさまに選ばれて弟子に取っていただいた者たちは、イエスさまを知る光栄にあずかった。すなわち、イエスさまをとおして御父をほんとうの意味で信じ、永遠のいのちに至る光栄にあずかった。この、もったいないばかりの恵みをいただいているのが、私たち教会である。  最後に26節。私たちにはイエスさまの御名が与えられている、イエスさまの御名によって御父に願うなら、みこころにかなうものをなんでも与えていただける。それほどまでに私たちは、イエスさまにあって御父に愛されている。この愛を受け取っている私たちは、御父に愛されている証しを、イエスさまの御名によって大胆に御父に祈る祈りをもって果たしていく。  御父とイエスさまがひとつであられるように、イエスさまと私たちはひとつ、そして私たちはひとつ、それを今日、主の晩餐においてともに体験し、ますます愛し合う共同体として成長してまいりたい。