「キリストのからだにふさわしい健康」

聖書箇所;コリント人への手紙第一12章11節~27節 メッセージ;「キリストのからだにふさわしい健康」 先月、いやしというものについて、列王記第二の5章全体から学びました。いやし、というものがなぜ人に必要なのでしょうか。それは、私たちが健康ならば、主のお働きを充実してこなせるからです。そういう意味では、病気を抱えていても主の働きを大いにこなしていれば、健康といえます。持病を抱えていてもなお多く働いたパウロなどそのいい例でしょう。現代の日本にもそういう人がいまして、天に召されましたが、病弱なからだをおしてたくさんの本を書いた、三浦綾子さんもそういう、主にあって健康な人といえました。 反対に、五体満足、無病息災でも、主のために働きたくない人というのもいるもので、そういう人は外身が健康でも、実際は不健康といえます。私たちはどちらがいいでしょうか? やはり、クリスチャンとして尊敬できるのは、病身をものともせずに、主の働きに歩んでおられる方でしょう。口では立派なことを言っていても、いざとなると主のために働かない人とどちらがいいかと聞かれれば、答えははっきりしています。 とはいえ、私たちがもし主のためにもっと身を入れて働きたいと願いながらも、健康上の理由でそれがかなわないでいるならば、私たちはやはり、いやし主なるイエスさまに、大胆にいやしを求める必要があります。なんといっても、私たちは健康なからだを使わなければ、主のご栄光を顕すことはできないからです。 さて、からだとはなんでしょうか? 今日の箇所を見ると、キリストのからだなる教会がさまざまな働きを担うに際し、そのそれぞれが特別な働きを持っていることを、からだの部分になぞらえて表現しています。しかし、このことはこう考えられないでしょうか? すべての創造主なるキリストは初めからみからだをお持ちであり、そのからだなる教会の部分部分をなす存在として、創造のはじめから私たちは選ばれていたのだと。そう考えると、歴史上存在したすべての主にある人、世界に存在すrすべての主にある人は、創造のはじめから主のからだとして選ばれ、組み合わされた存在であり、したがってとても大事な存在です。もちろん、ここにいます私たちひとりひとりがそういう貴重な存在とされていることは、言うまでもありません。お互いの顔を見ましょう。主のからだとしてつながっている、とても大事な存在です。心からそう思え、喜びをもってそう告白できるならば幸いです。 そう考えると、私たちがなぜ健康でなければならないのかがわかります。それは、イエスさまのからだが健康であるためには、それを形づくる私たちが健康であるべきだからです。私たちが健康なとき、主のからだは健康になります。 今日は、主のからだの健康ということをともに考えたいと思います。そのことを、私たちのからだの健康ということを考えあわせながら、ともに学びましょう。 第一に、からだは部分部分それぞれがお互いを認めることによって、健康が保たれます。 12節のみことばをお読みします。一つのからだに多くの部分がある。その点で、キリストのからだなる教会も、人間のからだも、同じだというわけです。 ということは、人間のからだを見ればキリストのからだなる教会がわかりますし、その反対に、キリストのからだなる教会を見れば、人間のからだがわかるといえます。 その、からだの部分部分はすべて、ひとつの御霊によってバプテスマを受けているとも、一つの御霊を飲んだとも書かれています。実にキリストのからだなる教会とは、一つの御霊によってバプテスマを受け、すなわち、一つの御霊を飲んだ群れです。ちょうど、人がコップ一杯の水を飲むことによって、そのコップ一杯の水がからだの中に入り、五臓六腑に浸透し、人のいのちが保たれるのと同じことです。 御霊は人を生かします。御霊によって人ははじめてイエス・キリストを主と告白することができ、もはや罪人ではなく、神の子ども、聖徒となっているからです。この地上に生きながらにして、死からいのちに移っている、永遠のいのちを生きています。永遠に生きておられるキリストのみからだである以上、私たちは永遠のいのちにあずかっているのです。 そして12節のみことばを見てみると、ユダヤ人もギリシア人も、とあります。もともとが神の民であった者も、異邦人も、キリストを信じる信仰を与えてくださる御霊によってひとつ、というわけです。私たちもそうです。私たちもいろいろな生い立ち、背景を持っていますが、それぞれのところからおひとりの御霊によってキリストを信じる信仰に導かれ、御霊によってひとつとされ、御霊によってともに生かされています。 そんな私たちに必要なのは、まず私たちひとりひとりにとっては、からだの部分部分を大事にすること、そしてキリストのからだとして一つになった教会としての私たちにとっては、ちがっている互いを認め合うことです。 私たちは脳というからだの部分が快楽を感じさえすればいいとばかりに、テレビやスマホばかり見たら、目が悪くなりますし、肩や首の筋肉や骨格がおかしくなります。あるいは、栄養が偏っても好きなものばかり食べたり飲んだりしたら、臓器や血管がやられます。また、手はいろいろな役割をしますが、その手で肌をかきむしったり、にきびをつぶしたりするのもよくありません。からだの部分部分は、ほかの部分をいたわってこそ、健康が保てます。こんなことは当たり前のことなのですが、結構私たちはできていないものです。 同じように、教会の中でも、キリストのからだの自分とちがったほかの部分である、ほかの兄弟姉妹との調和が必要になります。これは3つの次元から理解する必要のあることで、まず第一に15節、16節を見ると、足や耳は、手や目がからだの一部であることを認めてはいますが、自分たちはそうじゃないからからだの一部ではないと言っている、ということで、そんなばかな、というわけです。 これは適用しますと、自分は牧師や教会役員のようなポジションにいないから、教会のことなど関係ない、と振る舞うのはふさわしくない、というような適用が導き出せます。お客様のポジションに自分を置きつづけ、教会という共同体の中でそのひと枝としての責任を果たそうとしないという態度です。こういう状態を放っておいたら、教会は健全かつ健康なキリストのからだとしてふさわしい状態にはない、つまり、病んでしまうわけです。 どうか、ひとはひと、自分は自分というようなことを思わないで、教会で今ともに礼拝をささげている方々はみな大事な兄弟姉妹、キリストのからだの同じひと枝、と、信仰によって受け取って、互いに愛し合っていただきたいのです。その兄弟愛こそが、私たちがキリストの弟子であることを麗しくこの世に証しする力となります。 また、第二の次元として、17節から19節、みんな同じではありません。金子みすゞの詩ではありませんが、みんなちがって、みんないい、それが私たち教会です。みんな牧師だったら、世の中に伍してキリストを証しする働きは極端に弱くなります。反対に、みんな一般の信徒だったら、みことばと祈りをもって仕える導き手は不在になり、やはり教会は立ち行かなくなります。 ひとと同じようになろうとする必要はない、というわけです。もちろん、ほかの信徒を見本として、より神と人の前に愛の人として生きるためということならばいいのですが、そうではなく、ほかの人のいわば「コピー人間」のようになろうとするならば困ります。 カルトな教会形成をしてしまうと、リーダーに思考パターンや、果てはしゃべり方までもが似ている「コピー人間」が生み出されるものですが、それは主が願われる教会形成ではありません。 そして、第三の次元として、21節、ほかの信徒を、自分とちがうからと、この共同体にいてはいけない、ということのできる資格は、だれも持っていません。例外として、深刻な罪を犯した人を「戒規」という形で教会の共同体から除名するケースがありますが、それにしても「さばき」のためではなく、「懲らしめ」のため、すなわち、その人がそのようなことを経て悔い改め、健全な信仰とライフスタイルを回復して共同体に戻ってくるためです。いわば、病んだ臓器にメスを入れて、痛い思いをしてでも治療し、健康にするようなものです。 いわんや健康な部分ならば、自分との違いに目を留めて、そんなあなたは必要ない、と言うことはできません。私たちは、主にあって保たれるべき共同体の調和を乱さないかぎり、多少の違いは個性として受け入れ合うべきです。 さて、その場合、その人が特に「弱い」ということが個性のようにして際立っている場合はどうなのでしょうか? そういう存在がいる場合、どのようにしたら健康が保たれるのでしょうか? そこで第二のポイントです。第二に、からだは弱い部分が尊ばれることによって、健康が保たれます。22節です。……「なくてはならない」とさえ言っています。多くの場合、弱い存在は、「足手まとい」呼ばわりされて、邪魔な存在として忌み嫌われたり、のけ者にされたりします。 しかし、からだはそうなってはならない、というわけです。たとえば、胃が弱かったら、人は胃をいたわって食べ物に気をつかったり、ストレスをためないようにしなりします。肌が弱くてもそうでしょう。弱い部分が弱いからと切り捨てるわけにはいきません。その部分はからだにとって絶対に必要だからと、大事に、大事にすることで、からだの健康を保てます。 私たち、教会の中の「弱い」人も、それと同じだというのです。弱い人は時に、問題の行動を起こします。元暴力団員から牧師になられた金沢泰裕先生の本にもありましたが、教会に連なったもと暴力団の人が、懲りずに覚せい剤に手を出してしまったのを、金沢先生や教会のひとたちは何度も忍耐しながら、ふさわしい方向に導こうと努力するわけです。覚せい剤ほど極端でなくても、私のかつていた教会では、あたりかまわず奇天烈な言動をする子どもがいましたし、シンナーに手を出した暴走族出身の女の子がいました。認知症が進んでまともにコミュニケーションのとれない人もいました。しかし、そういう人がそうだからと、教会の交わりからいなくなってもらう、ということはしないのです。そういう人の存在こそが必要、それが教会です。 そういう人たちの弱さが覆われ、強くされるためには、どうする必要があるでしょうか? 23節から25節です。重いやけどを負ったら、見えないところの健康なほかの皮膚を移植するようなものです。健康な兄弟姉妹が、弱い兄弟姉妹のその弱さをあえて愛をもって覆うことで、その人はいやされ、力づけられ、強くされます。 そういう人たちの存在をとおして、私たちはイエスさまの愛を学びます。私がたびたび申し上げていることですが、私たちは「愛されたい」のではありません。「愛したい」のです。なぜなら、私たちは愛なる神のかたちに創造されているからです。イエスさまが愛してくださったように、私たちは愛するのです。私たちの共同体に弱い人がいるならば、私たちはその存在を愛することによって、イエスさまの愛により愛することを学び、また実践します。こうして私たちはキリストの似姿に変えられ、また、主に用いられます。そうすることで、私たちはさらに、自分の弱さを知り、こんな弱い自分のことをイエスさまがどんなに愛してくださっているかを知り、主の愛に感謝するようになります。 弱い存在が大事にされる。弱い存在がいつくしまれる。これこそ、教会がこの世界に存在する意義です。これは保守バプテスト同盟の牧会者の勉強会、チームワークミーティングで、同志社大学教授の木原先生という方から学んだことですが、日本では現在、福祉というものは当たり前のように行政が主導していますが、本来福祉というものは、キリスト教会が担ってきたものでした。キリスト教会こそ弱者に注目し、弱者をいたわる役割を果たす存在でした。しかし、こんにちの教会は、なかなかそのような、弱い存在に対する実践が弱いようです。その共同体としての弱さが、教会内部にまで及んでいて、ほんとうに弱い人を顧みることができないとしたら、私たちは反省すべきです。 しかし、私たちにそんな自覚があるならば、ペテロのことばを思い出したいものです。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエスの名によって歩きなさい。」人をほんとうに強くする、すなわち、キリストのからだの部分をほんとうに強くするのは、ナザレのイエスの御名です。それは、全能なる神さまの御力そのものです。その御力に満たされて強くなれば、からだ全体、そう、ひとりひとりのからだも、キリストのからだなる教会も、強くなります。強くされる恵みをともに受け取る、そのような教会となりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。 第三に、からだは一つの部分の喜びや苦しみを全体で共有することによって、健康が保たれます。 26節です。これはほんとうのことです。自分のからだのことを考えれば確かです。あの、足の小指をどこかにぶつけただけで、めちゃくちゃに痛い、それは言ってみれば、からだ全体で痛いと思っているわけです。虫歯の痛みもそうでしょう。それだけで全身がダウンするようなものです。 反対に、たとえばきれいな花を見ただけでどうでしょうか。幸せになります。その香りを鼻でかいだだけでどうでしょうか。幸せになります。目や鼻というからだの一部の反応でも、からだ全身が喜んでいるわけです。 同じことで、ひとりの人の痛みが教会全体の痛みとなってこそ、教会はキリストのからだとして本来の役割をしていて、あるいは、ひとりの人の喜びが全体の喜びとなってこそ、やはり教会はその本来の姿を保っています。だから、私たちはもし自分がどこかからだの不調を覚えていたり、職場や家庭など生活の中で問題を抱えていたりするならば、それを隠すことはありません。話したら悪い、みんなに心配をかける、そんなことはどうか、こと教会という共同体においては、考えないでいただきたいのです。 自分のからだのことを考えてみましょう。もし、どこかの臓器が致命的に傷んでいて、それなのに痛みや違和感のような信号を一切発しなかったならば、放っておくと取り返しのつかないことになるわけで、そういう意味では、からだが痛むことはあながち悪いことではない、と言えるわけです。同じように、私たちがもし問題という痛みを抱えながら、それを教会という共同体の中でシェアしていないならば、その共同体には取り扱われないままに問題がありつづけることになるわけです。それこそ問題です。私たちは兄弟姉妹を信頼して、問題をシェアできるくらいに成熟したいものです。恥ずかしがらないでいただきたいのです。 また反対に、私たちは喜びがあれば、それを分かち合うことで全体が喜べるようにしたいものです。自分ばかり喜んでいることを悪く思われたらどうしよう、なんて考えないでいただきたいです。よいものはよい、喜ばしいことは喜ばしい、ならば私たちは、隠さないで分かち合うことで、キリストのからだを喜びに満たし、健康に保ちたいものです。 最後に、27節を一緒にお読みしましょう。……キリストのからだの健康は、その部分部分である私たちの健康です。逆に、私たちの健康は、その組み合わされたキリストのからだの健康です。切っても切れない関係にあるこの両者、教会と、私たちひとりひとり、その健康をつねに保つために、いつもみことばと祈りをもって御霊に満たされ、御霊の導きによって生きる、そのような私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

「いやしの目的は神の栄光 その4」

聖書;列王記第二5:20~27/メッセージ;「いやしの目的は神の栄光 その4」    はじめに、マタイの福音書10章8節の、イエスさまが弟子たちにお語りになったみことばからお読みします。「病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。」  イエスさまに救っていただき、それにふさわしい、神の国の働き人としての力が、ただで与えられた、それが私たちクリスチャンです。そんな私たちは日々イエスさまとの交わりを持つことによって、底知れぬ力に満たしていただき、また、その力を行使することができます。  その、底知れぬ力、人をいやし、人から悪いものを追い出す力は、何も金銭的なものを受け取らないで用いなさい、これが私たちに与えられた使命です。私たちが奉仕をするのも、悩んでいる人の悩みに乗るのも、みなお金をいただかないのは、そもそも私たちが、永遠の救いとそれに伴うすばらしい力を、ただでいただいているからです。  それをはき違える働き人はいったいどうなってしまうのか、それを今日のみことばから学びたいと思います。また、今日の箇所は、その働き人が悲惨な結末を迎える場面で終わっていますが、それに対して私たちがどのように理解することがふさわしいか、ともに見てまいります。    ナアマンはツァラアトがいやされ、まことの神さまへの信仰をしっかり持ってアラムへと帰っていきました。ところがそれを見て、エリシャの従者であったゲハジはたいへん残念がり、また憤慨しました。ゲハジは何と考えたのでしょうか。20節です。  ゲハジはまず、エリシャがナアマンからなにも受け取らなかったことに怒りました。そして自分は何としてでも、ナアマンからもらってこよう、と思い立ちました。  ここで、一つの注目すべきことばをゲハジはひとりごちています。「主は生きておられる。」これは、誓いのことばですが、単なる慣用句のレベルのことばではなく、生きておられる聖なる主に対する信仰に自分の全存在をかけて誓う、物凄いことばです。実はこのことばは、14節にあるとおり、エリシャがナアマンに対し、贈り物は絶対に受け取らないときっぱり誓った際、口にしたことばでした。神の人エリシャが「主は生きておられます」と口にした以上、ナアマンのその贈り物はどんなことがあっても受け取ることはできなかったのでした。  しかし、ゲハジはまったく反対のこと、すなわちナアマンからはどんなことがあっても贈り物を受け取るべきだという考えをいだくにあたって、やはり「主は生きておられる」と考えたわけです。これいかに? といったところです。  ゲハジは、エリシャの従者として、エリシャをとおして働かれる神さまのみわざを間近で体験するポジションにいました。言い換えれば、神さまご自身とそのみわざをだれよりも体験する立場にあった者でした。それだけに、自分は神さまのことをよく知っていて、神さまはそんな自分の味方であると考えたりしたのでしょう。だが、ゲハジのこの信仰は、神さまがエリシャに働かれたことに対しては完全に無視を決め込んだものであり、とてもまともな信仰とは言えませんでした。  聖書の教え、神さまの教えというものは、長いキリスト教会の歴史の中で形づくられていく中で、ほんとうに健全なもの、ほんとうに聖書的なものが生き残る流れとなって今日に至っています。  クリスチャンそれぞれに聖霊が働かれ、その個性に合わせてみわざを行われる、それは確かにそうなのですが、先人に与えられた知恵とまったく違ったことを語るようになったらどうでしょうか。その人は正統の信仰から外れていることになります。それが突き進むと「異端」だの「カルト」だのになり、そこには救いがなくなります。  ゲハジはすでに、エリシャに働かれた神さまのみこころを認めないで、自分こそが神の人であるかのように大きな勘違いをしていました。ゲハジの転落はここから始まります。欲に目がくらんだゲハジはナアマンの一行のいるところまで、かなりの距離を追いかけていきました。  急いで追いかけてくるゲハジを見て、ナアマンは戦車から降りて彼を迎えました。ナアマンはやはり、まことの神さまへの信仰をもってへりくだる人になっていて、神の人のしもべのに対しても丁重に接しました。  ナアマンは「何か変わったことでも」と尋ねました。「安心して行きなさい」とエリシャに言われて、リンモンの神に対する信仰を持つアラムの主君のもとに帰るうえでの不安を持った身を励ましてもらい、送り出されただけに、この予期せぬゲハジの登場にはかなり不安になったのではないでしょうか。自分は何かしくじったのか?  すると、ゲハジはこう言いました。22節です。……もちろん、こんなことはありません。いま、バプテスト教理問答の学びでは、十戒について学んでいますが、ゲハジの発言は、十戒の第九戒に違反していますし、さらに言えば、第十戒にも違反しています。ついでに言えば、エリシャがナアマンから財物を受け取らなかったのは、それは私のものではなく、あなたのものです、と言ったに等しいことであり、そのナアマンのものを盗ろうとした、と考えると、第八戒にも違反しています。これだけでも相当に、神さまのみこころを犯していて、もはや神の働き人、神のしもべなどと呼べたようなものではありませんでした。  しかし、ゲハジの犯した罪は、そんなレベルではないほどに大きな罪でした。ナアマンは、いえ、エリシャ先生がそうおっしゃったということは、私はそれをお渡しすることはみこころではないと理解していますので、と答えるかもしれませんでした。また、本来のナアマンならば、ゲハジを格下に見て、この無礼者、と一喝し、さっさと追い返しているところでしょう。ところがゲハジには、ナアマンはきっとそういう反応はしないだろうという計算がありました。果たしてナアマンは、ゲハジが要求したよりももっと多くのものを渡しました。こうしてゲハジは、ナアマンから財物をせしめました。  この罪はきわめて大きなものでした。それは、このことによって、神の恵みはただではない、という、まったく間違ったメッセージをナアマンに与える結果となったからでした。イエスさまもおっしゃっているように、神の国の拡大に伴うしるしと不思議は「ただで与えられる」べきものです。ところがこれではただではありません。  ゲハジは、ナアマンの善意につけこんで、十戒の第八戒、第九戒、第十戒を犯しただけではありません。ナアマンが本来しっかり持つべき神さまに対する信仰、そう、それこそ、イエスさまがおっしゃったように、「ただで受けたゆえにただで与える」その麗しいみわざに用いられる恵みが、これで完全に奪われたことになります。ただではないものを、どうしてただで与えることができるでしょうか。  ナアマンがこうして贈り物を差し出したことは、エリシャのことを嘘つきにもしました。嘘つきではないとしたら、前言をやすやすと撤回する信頼のおけない人にしました。そのような軽薄な人物の献身する神に献身することなど、果たしてどこまで本気になれるというのでしょうか。ゲハジのやったことは、かくも罪深いものです。  24節を見ると、ゲハジは用意周到に財物を自分のところに運び込んでいます。そして25節。ゲハジは何食わぬ顔をしてエリシャの前に立っています。しかし、エリシャがかけたことばをご覧ください。  「ゲハジ。お前はどこへ行って来たのか。」連想する聖書のみことばがないでしょうか? そうです。創世記3章9節です。神さまがアダムにおっしゃったことば、「あなたはどこにいるのか」。アダムは神さまのこのおことばに、くどくどと自分の事情を述べて、必死に、自分は悪くない、と取り繕いました。そんなアダムはさばきを受けることになりました。アダムはここで、悔い改めるべきでした。しかし、神さまのことばに悔い改めることをせず、結局はさばかれました。ゲハジもエリシャのこのことばに、申し訳ありません、私は間違っていました、とお答えすべきでした。しかし、ゲハジはここでも噓をつきました。エリシャをだませると思ったわけです。そんな彼は「主は生きておられる」とうそぶき、ナアマンから財物をせしめる行為に手を染めたわけですが、こうなると十戒の第三戒の「主の御名をみだりに唱えてはならない」という戒めにも悖ることになったわけです。  しかし、ゲハジがこうして見くびっていたエリシャの霊性は、ただものではありませんでした。まるで監視カメラがゲハジのあとをついていったように、エリシャはゲハジが何をしていたかすべてお見通し、いや、それ以上に、ゲハジがどんな動機でそんな行動に出たか、すべてお見通しでした。そんなゲハジは自分自身が十戒の十の戒めのうち、実に4つもの戒めを破ったこと、いや、それ以上に、愛なる神さまのその愛に反する行いをナアマンに対して働いたことのゆえに、ナアマンに代わってツァラアトを病むという、恐ろしいお仕置きを受けることになりました。  神さまの働きをする人がツァラアトに冒されたということは、聖書を読むとこのほかにも、モーセの姉のミリアム、ユダ王国のウジヤ王にも起こっていることです。ミリアムの場合は、モーセが神の人であるにもかかわらず落ち度をあげつらって責めたという、身の程知らずの越権行為が神さまの怒りに触れたゆえ、ウジヤの場合は、本来聖別された祭司の役割である、神殿において香を焚くということを、自分がしようとしたゆえ、どちらも越権行為を引き起こす高ぶり、神さまとの関係に起因することでした。  しかし、ゲハジのしたことは本来、どれくらい重大なことだったのでしょうか? それは、マルコの福音書9章42節に書かれているとおりです。どれほどのさばきでしょうか? 本来このように、その罰として苦しんで苦しんで、二度とこの地上に上がってこられない、そんなさばきをうけるにふさわしい、何も知らない異邦人の純粋な信仰心を踏みにじったのだから……。  それでも、列王記第二を読み進めてみますと、ゲハジはそれからあとも、エリシャの従者としての働きをしていることがわかります。しかも、イスラエルの王に会って、エリシャのことを話しています。つまり神さまは、エリシャをとおしてゲハジにもう一度チャンスをお与えになり、その後用いられた、ということを意味します。  私たちは聖書を読んで、ツァラアトというものが絶望的な病、特に神さまから下されたさばきとのろいの象徴であることを受け取っています。それだけに、ゲハジの迎えた結末は絶望的なお仕置きと思えるでしょう。ところが神さまはそのゲハジを、その後もお用いになったのです。列王記第二8章4節をご覧ください。彼はエリシャの従者として王の前に立ち、立派に主に用いられています。  ここに私たちは慰めをいただくことができます。私たちも病みます。病の中にはヨブのように、何の悪いこともしていないのに自分の身に起こったこと、というものもあるので、病はすべて罪の結果というわけではありません。しかし、病というものは時に、罪の結果として現れることがあるものです。神さまとの交わりよりも暴飲暴食ですとか夜更かしなどで心を安定させようとして、結果、心やからだの健康を害することになったならば、厳しい言い方をしますが、それは「罪」の結果です。  かく申します私も、十数年の牧師生活の中で燃えつきを何度も経験してまいりました。しかしそれは、頑張った自分が偉いと、自分をほめることなのではなく、むしろ、自分は土の器にすぎないことを謙遜に認めるべきなのに、自分を過信して頑張る全能感という、言い換えれば高ぶりの罪、傲慢の罪のただ中に自分がいた、その報いをそういう懲らしめとして受けたのであるとも言えるわけです。そういう点ではやはり私は罪を犯していました。  しかし、そういう弱い自分であることを認め、頑張ることだけがみこころではないことをへりくだって受け入れるところから、私のいやしと回復は始まりました。そこにはどうしても、罪の結果の懲らしめを受けて悔い改めるというプロセスが必要でした。  ゲハジはどうでしょうか。たしかにゲハジは、神の前にも人の前にも大きな罪を犯しました。そのお仕置きとして、あまりにも大変な目にあいました。しかし、イエスさまのおことばによれば、ナイーブな異邦人のナアマンに間違った神認識を与え、すなわちつまずかせた、つまり、石臼を首に結わえ付けられて湖の底で死ぬべき罪を犯したというのに、また、それこそ、ヨシュア記のアカン、使徒の働きのアナニアとサッピラのようなケースを見ても、みこころに反するやり方で財物を手に入れることは死に値するというのに、ツァラアトで済んだのです。  私たちもイエスさまを信じたのちも、罪を犯してしまうものです。しかし、その罪を悔い改めるならば、赦され、罪に病む身はいやされ、さらに用いていただけるのです。私たちに必要なのは、罪を犯してしまったとき、それをイエスさまの前に告白し、悔い改め、罪赦された者としてふさわしく、きよく生きることです。人にほめられて悦に入るための品行方正の生き方をするのではありません。赦された身そのままに、人を愛することです。私たちがみことばを学ぶのは、また、お祈りするのは、人を愛するためです。ゲハジはツァラアトに病んだ身ではありましたが、王の前に立って主に用いられる人となり、その意味で彼は心とたましいは充分いやされ、回復をいただいたと言えるでしょう。エリシャが彼を受け入れ、王の前に立てるほどにしたことが、彼が悔い改めた証拠です。  いちばんいけないのは、罪を犯した自分を受け入れないで、いつまでもうじうじ、自分を責めることです。そういうのは悔い改めとは言いません。自分を責める人の最大の問題は、心がイエスさまに一切向かっていないことです。さばき主なる神さまを意識しているかもしれませんが、少なくともすべての罪を赦してくださった、イエスさまの十字架は見えていません。きつい言い方をしますが、そんなのは自分を悪者にすることで、自分に酔っているだけです。そこにはイエスさまとの交わりはありません。  ゲハジがその後悔い改めの実としてツァラアトをいやしていただいたかどうかは、聖書は沈黙しています。しかし、これだけは言えます。彼はたとえツァラアトがいやされていなかったとしても、いやされたのです。それは、彼がイスラエルのため、言い換えれば、神の栄光のために用いられたことからも明らかです。ひょっとするとツァラアトを病んだ身そのままに、王の前に立ったかもしれません。しかしゲハジは悔い改めの実を結びました。だからこそ用いられました。ほんとうのいやしは、病気がきれいさっぱりなくなること以上に、神さまに用いられることです。  パウロをご覧ください。彼は肉体のとげが自分から去るように3度も祈りましたが、それはいやされませんでした。パウロの病はトラコーマともてんかんとも言われていますが、しかし、パウロはその肉体のとげをものともせず、ほかのどの使徒よりも多く働いたと自ら告白するほど、用いられました。主の栄光のために用いられることが最終的な目標であり、肉体のいやしであれ、たましいのいやしであれ、すべてはその最終的な目標のために通り過ぎるべきプロセスです。  振り返りましょう。私たちは神さまのご栄光を顕すうえで、何に病んでいますでしょうか? 病んでいるために神の栄光を顕せないならば、それをいやしていただきましょう。ゲハジが神の栄光を顕すチャンスが与えられたのは、彼の罪に病んだたましいがツァラアトという懲らしめを経ていやされたからです。私たちは何がいやされる必要があるか、聖霊なる神さまに示していただきましょう。

「いやしの目的は神の栄光 その3」

聖書;列王記第二5章15節~19節/メッセージ;「いやしの目的は神の栄光 その3」    私は韓国での生活が長かったこともあり、韓国とはよく飛行機で往復しました。飛行機は格好いいですし、早く旅行できるので便利ですが、いやなこと、それは、気流の悪いところを飛ぶとき、変なふうに揺れる、ということです。理屈では、安全、落ちない、ということを知ってはいても、かなり怖いです。  そういうとき私はつい、お祈りします。神さま、どうか助けてください。ひたすら祈ります。しかしやがて霧生は安定し、飛行機は揺れなくなります。やがて目的地に着き、空港の中を歩き、入国審査、手荷物受取、と続くと、もうお祈りしたことなど忘れて、平然としています。  日本には「困った時の神頼み」ということわざがありますが、それは裏を返せば、困っていなければ別に神に頼む必要はない、ということです。多くの日本人にとって、神という存在はその程度のポジションでしかないのではないでしょうか。  ナアマンの場合はどうでしょうか? 彼はツァラアトに冒されていたために、大変な悩みの中にありました。アラムの将軍という高い地位にあることなど、ツァラアトを病んでいることの前には何ものでもありません。彼はいやしを求めて、自分の家で妻に仕えていたイスラエルの若い娘の捕虜のことばを信じて、藁にもすがる思いでエリシャに会いたいと、アラムの王の親書まで携えてイスラエルに赴きました。  そんなナアマンを待っていた待遇は、エリシャが出ても来ないで、単に、ヨルダン川に7回身を浸せばきよくなる、という伝言を受けただけでした。ナアマンは憤慨しました。せっかく会いに来たのに、この扱いは何だ、というわけです。しかしナアマンの従者のとりなしにより、ナアマンはヨルダン川に身を浸すことに気持ちを切り替え、果たしてそのとおりにすると、ナアマンのからだは、元どおりになって、幼子のからだのようにきよくなりました。  ここまでが前回までの内容です。ここから今日の聖書本文の内容に入りますが、まず。15節をご覧ください。ナアマンは一行をみな引き連れて、神の人エリシャのもとに行きました。お気づきでしょうか? 今度はエリシャに会うことができました。エリシャのことばを信じていやしをもって救われたナアマンは、そのいやしを報告し、感謝を述べたわけですが、それにはエリシャが直接対応したのでした。  エリシャが直接対応したことには、どんな意味があるのでしょうか? それはまず、ナアマンがエリシャに何と言って、それにエリシャがどう対応したかを見れば明らかになってまいります。まずナアマンはこう言っています。「私は今、イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました。」  このことばを、異邦人であるナアマンが言ったと考えると、たしかに画期的ではあります。よくぞこれだけの告白ができた! いやし主なる主の栄光が顕れた! と思えるでしょう。しかしそれでは、このことばに続くことばはどうでしょうか?「どうぞ今、あなたのしもべからの贈り物を受け取ってください。」これも、感謝の表現としては至極当たり前と思えるでしょう。また、携えてきた金銀財宝は一国の将軍が深い悩みの種であった持病をいやしてくれた人への感謝の表現としても、充分と言えたでしょう。  しかし、これは、見方を変えるとどうなるでしょうか? イスラエルという国はそもそもが、創造主なるまことの神のほかに神はいないと告白する国と民族であり、ナアマンがこう告白したことは、そのような唯一神に対する信仰を旨とするイスラエルの預言者に対する敬意にとどまりかねなかった、とも言えます。  これは意地悪な見方ではありません。といいますのも、日本では戦前も戦後も、多くの大規模な殿堂集会が開かれ、そこで多くの人が、まことの神さまだけが信じるべきお方であると信じ告白し、イエスさまを信じる祈りへと導かれました。ところが彼らはその後どうなったでしょうか? あれだけ多くの人が信仰告白に導かれたならば、今頃日本の教会は、こんなにクリスチャンがマイノリティにとどまってなどいなかったはずではないでしょうか? こういうことを見てみましても、唯一神に対する信仰告白をしただけでは充分ではないことが分かります。問題はそのあとなのです。  ナアマンが金銀財宝を送ろうとしたことが感謝の表現なのは確かであり、それはすばらしいことなのですが、もしナアマンがエリシャに財物を送り、エリシャがそれを受け取ってナアマンが帰ったならば、それで終わりであり、ナアマンのいやしはエリシャに財宝が送られて片がついた、言い換えれば、ナアマンのいやしには銀10タラント、金6000シェケル、晴れ着10着の値段が支払われて手に入れられた、ということに過ぎなかったことになります。  しかし、それでは、ナアマンがわざわざエリシャに会いに来た意味はありません。もし、いやしで終わりだったら、ナアマンがエリシャのことを、格下の国の人間として利用しただけだったという図式から逃れることができなくなります。エリシャが願ったのは、「ナアマンをしてイスラエルに預言者がいると認めさせること」でした。ナアマンはこのいやしをとおして、神の栄光を見る必要がありました。  私は医療伝道から始まった教会、北本福音キリスト教会で信仰を持った者なので、医療をとおしてイエスさまを伝える情熱に満ちた先生方の努力を、間近で見る機会の多かったものです。しかし残念なのは、患者さんたちの多くは先生方を尊敬はしていますし、それもクリスチャンのドクターとして尊敬しているわけで、先生方の敬虔な信仰のなせるわざで自分がいやされていることを信じているはずなのに、その先生に召命をくださっているイエスさまを信じ受け入れるまでには至りません。これはあるクリスチャンドクターの未信者の患者さんから直接聞いた話ですが、高齢のご婦人でいらっしゃるその方はせっせと遠方からその先生のもとに通い、先生が開かれる伝道目的のセミナーにも顔を出すほど先生のことを尊敬していらしたので、あるとき私は、その方にとって先生がどんな方か尋ねてみました。すると、こうお答えになったのでした。「いやあ、先生はほんとうに、生き神様です!」先生がもしこのおことばを聞かれたら、使徒の働きで神々の扱いを受けそうになったパウロやバルナバのように悲しまれるのではないだろうかと思いますが、事程左様に。単にいやされただけでは、いやしてくれる存在を間違って受け止める可能性があるわけで、ナアマンもそのような罠に陥らないように、エリシャは賢く導く必要がありました。  果たして、エリシャは財物を受け取ることを固辞しました。そのとき、エリシャはこう言っています。「私が仕えている主は生きておられます。」つまり、神のわざはお金でやり取りする性質のものではないことを語っているわけです。エリシャがナアマンをいやしたのは、ナアマンにいやし主なる神さま、すなわち、まことの神さまを信じてもらうためであり、お金をもらうためでは決してありませんでした。  エリシャがここまで強い態度に出たのは、それだけナアマンに対する神さまの選びというものを強く確信していたからでした。何せこのいやしのわざは、イエスさまがナザレでの説教に引用されたほどインパクトのあるもので、神の民イスラエルを差し置いても異邦人であるナアマンをお選びになったことは、イエスさまさえもお認めになるほどのできごとでした。  私たちにとっても、特にいやしのわざをとおして、神さまに出会うという経験はよくあることでしょう。そのとき私たちは何をすべきでしょうか? 単にいやされたことで満足するのではそれでおしまいです。自分をとおしていやし主なる神さまがいやし主としての栄光を顕してくださった、そのために自分のことを選んでくださったと。感謝すること、これが大事なことです。  ナアマンはどうでしょうか? 贈り物を送る代わりに、イスラエルの土を持ち帰らせてほしいと言いました。もう、ほかの神々にいけにえをささげない、と。つまりナアマンは、その持ち帰ったイスラエルの土で、イスラエルの神にいけにえをささげる、すなわち礼拝することを決心したのでした。そのために、アラムの土地にイスラエルの土を盛り、そこをイスラエルの一部とすることさえしようとしたのでした。  このように。異邦のアラムにありながら自分のもとに礼拝の場所を築くナアマンから、学ぶことがあるとすれば、それは、主によっていやされた者がさらに主に近づくために、礼拝の場所を身近なところに備え、つねに主を礼拝できる環境に自分を置く、という姿勢ではないでしょうか。特にナアマンのこの態度は、アラム同様、基本的にはまことの神さまを礼拝しない、偶像、異教ばかりの日本という環境に身を置く私たちには必要なことです。私たちの身近には何があるでしょうか? 私たちは仏壇や神棚を拝む生活こそしていないかもしれませんが、テレビをつけっぱなしにして、だらだらと惰性で眺めているようでは、この世の環境から抜け出せていないことになってしまっているわけです。そこで私たちは、意を決して聖書のみことばに向かう環境を身近に作ることが必要となるわけです。この点でも、あえて異国の地、異教の地で、イスラエルの土を用いて祭壇を築くナアマンの姿勢に見習うところがあります。  さて、そんな日本の霊的風土に生きる私たちにとって、やや気になるみことばと言えるのが、18節と19節ではないでしょうか? リンモンという偶像の神殿で礼拝することをエリシャが認めている、これいかに?  これは、ある日本人の巡回伝道で名の知れた牧師先生のメッセージで聞いたことですが、神さまを信じたナアマンにエリシャがこういうことを言ったわけだから、クリスチャンのみなさんは仏壇に手を合わせてもいい、お葬式でお焼香をしてもいい、とおっしゃっていました。これに、わが意を得たり、となっていたクリスチャンもいましたが。私はどうしても違和感がぬぐえないまま、今に至っています。  まず、大前提として、私たちがすべきことは、「宗教的に戒律を守ること」以前の問題として、「神と人を愛すること」です。だからこの問題は、「エリシャがこう言っているくらいだから、未信者の家族の手前、仏壇や神棚を拝んだりお葬式で宗教行為をしたりすることは、十戒で戒めている『偶像を拝むな』に当たらないから大丈夫だ」というように、宗教的に可か不可かという判断を下すべきことではなく、「私のする行為はほんとうに神を愛し、人を愛するという動機から出ているか?」ということが最優先に問われるべきです。  このことをかなり具体的に説明した聖書箇所として、コリント人への手紙第一8章と10章を挙げることができます。コリント教会には、そもそもが偶像にささげられたものである肉を食べていいのかどうかという議論があった模様ですが、パウロは、食べていい、と言っています。それが偶像にささげられたものであっても、ということです。しかし、その肉が偶像にささげられたものであることを公言する人の前では、食べてはならないとも言っています。それは、信仰の弱い人がつまずくからだ、ということです。なんだ、クリスチャンでも肉を食べるのか、それは偶像礼拝の行為じゃないか、だったら、偶像を拝むくらいいいじゃん、などと曲解し、信仰をなくしでもしたら大変なことです。クリスチャンが仏壇を拝むことやお焼香をすることはこの延長線上で考えるべきことで、たとえ真似事でも偶像を拝むという行為をみなに見せるならば、なんだ、クリスチャンもいざとなれば神仏に膝をかがめるのか、所詮キリスト信仰なんて大したことないもんだな、と受け取られ、彼らはますます、神さまを信じる必要性を感じなくならないでしょうか。  キリスト信仰よりも神仏の信仰のほうがまさるかのような行動をすることは、果たして彼ら未信者を愛する愛が動機と言えるのでしょうか。そういうことが私たち日本のクリスチャンには問われています。  ナアマンの場合は、私たちの置かれた状況とは分けて考えるべきです。ナアマンはそもそもが、偶像礼拝を行う主君に仕える立場にありました。主君の立場は絶対であり、私はもはやあなたさまの偶像礼拝のお手伝いはできません、と宣言するならば、その責任を取って処刑されかねないポジションです。そんな自分が王の偶像礼拝を助ける立場に甘んじることを、どうか主が許してくださるように、とナアマンは恐れながら言いましたが、エリシャは容認しました。これは、ナアマンが基本的にはイスラエル人ではない、異邦人という限界の中にいたこと、その社会において、まことの神さまを愛し、その神さまの愛をもって、主君をはじめとした人々を愛するにはどうすべきか、あるいはもっと大きな視点、イスラエルとアラムの力関係といったことにエリシャが配慮し、その結果、ナアマンの願いを聞き入れたと考えるべきでしょう。これは、イエスさまが昇天されて聖霊がお下りになり、世界宣教の門が開かれて以降の価値観をそのまま当てはめて、ナアマンを難じたり、エリシャが矛盾していると責めたり、果手はこのようなことを書く聖書は矛盾しているというような性質のものではないわけです。  このことを私たちに当てはめるならば、もっとちがう適用をする必要があります。それは、異教の社会に住む私たちが、いかにその社会において仕えるか、知恵を用いるべきである、ということです。たとえば私たちだったら、いかに純粋な信仰を持っているからといって、たまたま就職した職場に大きな神棚が飾ってあるから、もうやめた、となるのでしょうか。それでは仕事をすることもできません。一般の学校では進化論を教えているから、いっさい学校に送ることを拒否するのでしょうか。それでは将来の進路がかなり狭まりますし、特にお医者さんのような仕事には就けなくなります。そういう環境に身をおいても、それに心とたましいを売らないで、忠実に励む道はいくらでもあります。ナアマンも、自分のためにわざわざ親書まで書いてイスラエルまで送り出してくれたほどの主君にさらなる忠誠を果たすことが神の愛の表現であると信じたからこそ、葛藤しながらもエリシャに許しを願い出たわけです。だから、ナアマンに対するエリシャの答えはクリスチャンに偶像礼拝の容認ではなく、異教社会にあって愛をもって堂々と振る舞え、という励ましであったと見るべきです。  あらためて見てみますと、エリシャはナアマンに会う必要があったことがわかります。それはエリシャがナアマンと直接話して、ほんとうの礼拝者としてナアマンを立て上げるためでした。イエスさまが来られるはるかむかしであったこの時代、まだ異邦人に神の国が広く及ぶご計画ではなかった以上、ナアマンに大々的な宣教の働き、弟子づくりの働きが託されていたわけではありませんでしたが、それでも神さまがナアマンを選んでおられたのは確かなことで、ナアマンのいやしは後世になってイエスさまが例としてお語りになるほど、異邦人の救いということにおいて極めて象徴的なことでした。それほど、いやしをもって臨まれる神さまの選びのみわざはナアマンにとって確かなものでした。  私たちもこのような、選びを実感できるだけの体験があったはずです。しばらく祈りのうちに思い起こしましょう。特にそれがいやしの御業であったならば、いやし主なる神さまに感謝し、このいやし主なる神さまのいやしがほかの兄弟姉妹に起こされるように祈りましょう。

「いやしは神の栄光のため その2」

聖書;列王記第二5:9~14/メッセージ;「いやしは神の栄光のため その2」  先週のメッセージで、私たちは、病の癒やしというものが神さまのみこころであることを学びました。マクチェイン式の聖書通読をしていらっしゃる方はご記憶のことと思いますが、先週の火曜日の箇所、イザヤ書38章をお読みしますと、神さまのみことばを受けた預言者イザヤが、ユダの王ヒゼキヤに、主はこう告げられる、あなたの病気は治らない、あなたは死ぬ、と語ります。するとヒゼキヤは大いに悲しみ、顔を壁に向けて真剣に祈ります。すると神さまはヒゼキヤのこの祈りを受け入れてくださり、彼の寿命をもう15年延ばすと約束してくださいました。  この箇所からわかることは、もし死ぬことが定まっているかのように告げられたとしても、希望を失ってはいけない、祈りをもって神さまの御前に進み出て、あわれみを求めよう、ということです。なぜ、ヒゼキヤはこのように祈らざるをえなかったのでしょうか? それは、ヒゼキヤの治めるユダ王国にとってはなおアッシリアが脅威であり、いま自分が死んでしまっては、アッシリアに滅ぼされてしまう、という危機感がヒゼキヤにはあったからです。  私たちがもし、この世においてまだすべきことが多く残されているならば――それは多くの人にとってそうでしょう――私たちはとにかく、生き残ることを選んでいくべきです。それでも神さまは私たちに、病気という名の試練を与えられることがあります。そんなとき、もし私たちが神さまの御前に徹底して生きているならば、ああ、もうこんな大変な世の中と別れられてよかった、とはならないはずです。病気のような大変な状況に置かれるときこそ、私たちは神さまのあわれみを、イエスさまのいやしを求める者となりましょう。そしていやしをいただいたならば、神さまがなお自分のことを用いてくださることに感謝しましょう。  それでは今日のみことばにまいります。アラムからイスラエルの王のもとにやってきたナアマン将軍を、私のもとによこしなさい、と、預言者エリシャは言いました。それは、8節のみことばにあるとおり、「そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう」、つまり、ナアマンが、イスラエルの神でありまことのいやし主である主の栄光を見るため、そうして、主を信じ受け入れるためです。イスラエルの王はナアマンが来たことを、アラムの王が言いがかりをつけてきたのだと震えあがりましたが、エリシャはむしろ、これは主の栄光があらわされる絶好の機会だととらえました。とらえ方がちがうのです。  こうしてエリシャは、ナアマンを迎え入れる準備は整っていることを王に告げました。それを受けて、ナアマンはエリシャのもとに行きました。しかし、そのいでたちといえば、馬と戦車です。馬に曳かせた戦車で馳せ参じてきました。われこそはアラムの将軍である、さあ、治していただきたい、そんな堂々としたナアマンの態度が見えてくるようです。  ところが、エリシャはナアマンに面会しようとしません。使いの者がナアマンに面会し、そして、なんと言ったでしょうか?「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」  これは取りようによっては、門前払いとも言えることです。ナアマンはこうして、格下の国であるイスラエルにわざわざ赴き、威儀を正して面会に来たというのに、これではまるでけんもほろろの態度だ、失礼だ、と思ったのでしょう。  しかしここで私たちは、ナアマンが何を問題にしたのかを見る必要があります。11節のみことばにそれが現れています。まず、ナアマンは、エリシャが自分の前に出てこなかったことに憤慨します。ナアマンはエリシャが出てきたならば、どんなことに期待したのでしょうか?  ナアマンはこんなことをしもべたちに言っています。「彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で手を動かし、ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた。」  まずナアマンは、「彼の神」という言い方をしています。まことの神さまはたしかにイスラエルの神でいらっしゃいますが、ナアマンのこのことばを見ると、弱小国家イスラエルにとっての神、という意味にしかなっていません。  その神が、強い国であるアラムの将軍である私に仕えるのだ、という、ナアマンの驕りが透けて見えます。ナアマンがもし、「彼の神」という発想を捨てられなかったならば、そのイスラエルの神、エリシャの神の力によりツァラアトがいやされようとも、そのいやしをもたらしてくださった神さまを信じる、すなわち神さまに献身するには至ったでしょうか。疑わしいことです。  ナアマンはさらに、このようなことを言っています。12節です。単に川に入ってきよくなれというならば、わざわざ遠路イスラエルまで来て、ヨルダン川に入らなくても、アラムを流れるアマナやパルパルに入れば充分ではないか。何が悲しくてこんな遠い国、弱小の国の川に入れというのか?  しかし、もしナアマンがこの態度のままでいたならば、彼のツァラアトは治りませんでした。なぜでしょうか? エリシャの告げたいやしの方法、すなわち、神さまのみこころにかなったいやしの方法に従っていないからです。従えないのは、ナアマンが考えていたいやしの方法こそが正しいと考えたからでした。  たしかに、その国で「神の人」としてみなの尊敬を集めている、いわゆる「霊的な」人物が現れて、何やら唱えながら手を動かすならば、いかにも治りそうに思えないでしょうか。しかしこれは、神さまのお取りになる方法ではありませんでした。神さまはどこまでも、ヨルダン川で七回身を洗いなさい、とおっしゃっただけです。  7回、というのは、神さまがみわざを行われるにあたって人がアクションを起こすべき回数として、神さまがお命じになった回数として、聖書のほかの箇所にも登場します。ヨシュアに率いられたイスラエルがエリコに攻め入るとき、その城壁を七日間、一日に一周して、最後の七日目には七周したとき、神さまはエリコの城壁を崩壊させられました。7、という数字はそもそも、神さまが6日で世界をおつくりになり、七日目にお休みになったという、完全な創造の秩序を象徴する、完全数でもあります。  そして、ヨルダン川は、なんといっても、イエスさまがバプテスマをお受けになった場所です。イエスさまがバプテスマをお受けになったとき、聖霊がお下りになり、父なる神さまが、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」とおっしゃいました。まさに、三位一体の神さまのご栄光に満ちたご臨在がいちどきに現れた場所、それがヨルダン川です。神さまはそのヨルダン川でこそみわざを行われるのであって、アラムの川でもいいわけではなかったのでした。  もちろん、そのようなことをナアマンは理解していたわけではありませんでした。あまりにも自分は馬鹿にされたと思い、国に帰ることにしました。しかし、彼のしもべたちは、このようなことを言いました。13節です。  しもべたちも面白いことを言うと思いませんか? もっと難しいことを命じたら、あなたはお従いになるでしょう? たしかにそうではないでしょうか? ナアマンは治りたい一心で、たくさんの金や銀や晴れ着を携えて、遠路はるばるイスラエルまで来たわけです。それほどの努力を惜しまないならば、どんな荒行苦行を命じられても、喜んでするんじゃないでしょうか? それこそ日本の感覚でいえば、滝に打たれたり、札所巡りをしたり、お百度参りをしたり、といったところでしょうか。それは時間をかけて肉体を苛め抜くことですが、それでも治るならと信じて、取り組むわけです。  ところが、そういう荒行では治らないわけです。治るには、エリシャに告げられた神さまの方法に従うこと、これしかありません。これは、罪が赦され、きよいものとされるために、神さまが私たちに定めておられること、そう、イエスさまを信じ受け入れることと共通します。  私たちはイエスさまを信じています。こんなにも簡単に罪が赦され、神さまの子どもとなり、永遠のいのちが与えられ、神さまに用いられるすばらしい生き方ができるなんて! 私たちは、信仰による救いというものがあまりにも単純なことに驚き、感謝するでしょう。しかし、一般的にはどうでしょうか? こんなにも簡単に救われるというのに、聖書の示す唯一の救い、永遠の救いの道である、イエスさまの十字架を信じるということに、人々は見向きもしません。その代わり、もっと別のものをお金をかけて拝んだり、まことの神さまではないもっと他のものに夢中になったりして、救いを求めます。私たちよりもよほど大変なことをしているのです。  そういう努力をする姿は、一見するととても美しく、また、そういう人はきよい、などと一般的には思われるでしょう。しかし神さまの御目から見れば、救いに到達しているわけではありません。むかしのアメリカの説教家が言ったとおりです。まるでその姿は、お魚が好きなお父さんを喜ばせようと、学校をさぼって釣りに行く子どものようだ、と。お父さんを喜ばせるには、釣りなんかしている場合じゃなくて、学校に行くしかないように、私たちは、ピントの外れた努力ではなく、神さまの望んでおられる方法で救いをいただくしかありません。  ナアマンの場合は、ただ単にいやされればよかったのではありません。イスラエルの神に出会うということは、まことの救いにあずかるということを意味します。しかしその出会いによって救われ、いやされるためには、単純にエリシャのことばを信じ受け入れるしかありませんでした。信じ受け入れたならば、そのしるしとして、ヨルダン川で7回身を洗うことをするだけでした。  果たして、ナアマンはそのとおりにしたら、彼のからだは元どおりになりました。しかし、聖書はそれだけを書いていません。幼子のからだのようになった、と書いています。幼子のような信仰をもってエリシャに与えられた神さまのことばを受け入れ、従順に従ったら、幼子のような新しい人として生まれたということを語っているわけです。  人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはない、イエスさまはそうおっしゃいました。新しく生まれるには、神さまとそのみことばを、小さな子どもが素直に信じ受け入れるように、信じ受け入れることが必要になります。  いやしということにおいても同じことが言えます。神さまはいやしてくださる、いやしてくださるのは神さまのみこころである、そのことを素直に、みことばから受け取っているならば、あと、私たちのすることは、そのみことばを握って祈ることです。それを、あれこれと複雑に考えるならば、信仰を働かせる余地がなくなりはしないでしょうか? ナアマンをご覧ください。ヒゼキヤをご覧ください。イエスさまにいやされた人々をご覧ください。みな、いやされるという信仰があり、その信仰を働かせた人たちです。  私たちは何か、いやしというものに対して、複雑に考えてはいないでしょうか。あるいは、もっと難しく考えてはいないでしょうか。救いもいやしも、神さまの賜物であり、それを受け取るには、私たちがただ、神さまの定めてくださった方法にお従いすることです。それは、お祈りです。少しも疑わずに信じて祈る。その境地に至るまで信仰を働かせるには、一にも二にも、祈ることです。  また、ほかの兄弟姉妹のためにも祈りましょう。ヤコブの手紙5章をお読みすると、病気の人は教会の長老たちを招き、オリーブ油を塗ってもらって、祈ってもらいなさいとありますが、この場合に働かせる信仰は、病んでいる人もさることながら、手を置いて祈る人たちの信仰でもあります。私たちは、神さまが病をいやされるのがみこころであると信じているならば、その信仰のとおりになるように、自分のためにも、家族のためにも、ほかの兄弟姉妹のためにも祈りましょう。

「いやしの目的は神の栄光 その1」

聖書;列王記第二5:1~8/メッセージ;「いやしの目的は神の栄光 その1」 先週で、マルコの福音書の講解が10章の終わりとなり、次の11章からはイエスさまのエルサレム入城、最後の一週間を扱う箇所ということで、切りのいいところとなりました。そこで、今うちの教会に必要なメッセージは何だろう、と、祈りつつ思い巡らしましたところ、うちの教会はいま特に、「いやし」のために祈ることが必要であるという導きを、祈りのうちにいただきました。 ただ、聖書の中には、イエスさまがなさったいやしのみわざをはじめ、癒やしに関する記事が多岐にわたって登場していて、集中して扱うには、箇所をある程度絞る必要がありました。その結果、今日から1か月の間、聖書がいやしというものをどのように語っているかを学ぶ上で、とてもふさわしい本文に行きつきました。それが、列王記第二の5章のみことばです。 この列王記第二の5章は全体を、4つに分けることができます。それを今月、1週間ずつ学んでまいりたいと思います。この箇所は、いやしというものがいかに、創造主なる神さまの栄光を顕すものであるか、とてもよく語っています。ともに学んで、私たちもまた、自分はいやされる、また、人をいやす働きに用いていただける、という信仰を持つことができるならば、とても幸いです。 さて、それでは、今日の箇所に入るにあたって、おもな登場人物とその背景の説明からまいります。まず、ナアマン将軍が登場します。アラムという国の将軍です。アラムはイスラエルの隣国でしたが、たびたびイスラエルに攻撃を仕掛けていて、そういう意味ではイスラエルに敵対する国でした。また、再来週学びますとおり、アラムは創造主なるまことの神さまではない、偶像の神を礼拝する国でした。そういう意味でも神さまのみこころに反していました。ナアマンとはそういう国の将軍であったわけです。 もうひとりのおもな登場人物はエリシャです。彼の師に当たるエリヤは、イスラエルが国を挙げて偶像礼拝に傾いていた時代、まことの神さまに民を立ち帰らせるために大いに戦った預言者です。以前、イエスさまの「変貌山」に関するメッセージをいたしましたが、変貌山においてエリヤは、何百年の時を超えて、生きてイエスさまの前に現れました。それほど特別な人物、特別な預言者でした。 そのエリヤの跡を継いだ預言者が、エリシャです。エリヤが竜巻に乗せられて天に引き上げられるとき、エリシャは「あなたの霊の分け前の2倍の分を私にください」と頼みましたが、この願いはかなえられたようだということが、聖書を読むと分かります。といいますのも、エリヤは多くの奇跡を行いましたが、聖書に記録された奇跡のその数を数えると8つです。これに対して、エリシャの行なった奇跡で、聖書に記録されているものの数を数えると、16になります。たしかに2倍です。その分大いに用いられた預言者でした。 エリシャに関する記述は、列王記第二の1章に入って始まります。本日の箇所は5章ですが、この5章の前の4章までにかぎっても、相当いろいろなみわざを行なって、神さまに用いられてることが分かります。エリヤはすごい預言者でしたが、エリシャは、そのエリヤなきあとの預言者の役割を、充分果たしていると言えるでしょう。エリシャの本日の箇所に至るまでの経歴については、今日のメッセージでは詳しく扱いませんので、あとでおうちにお帰りになって、列王記第二の1章から4章までをお読みください。エリシャをどれほど神さまがお用いになったかよくわかります。読んで、驚いて、神さまを賛美していただければと思います。 それでは今日の本文にまいります。1節のみことばです。ナアマンという人が紹介されています。この1節だけでも、ナアマンがどのような人かがわかります。まず、ナアマンがアラムの将軍であることはすでにお話ししたとおりですが、主君に重んじられていた人でした。また、尊敬されていた人でした。その理由も書かれています。それは、主が彼をとおしてアラムに勝利をもたらされたからだ、とあります。 この記述は注目に値します。といいますのも、先ほど申しましたとおり、アラムは本来、主の民イスラエルに敵対する、しかも偶像礼拝の民です。その国が勝利を得ることなど、主のみこころにかなうはずがないと思いませんでしょうか? ところがみことばは、アラムに勝利をもたらされたのが主であると語っています。どういうことでしょうか? これは、「だれによって」主が勝利させてくださったか、ということから考えてまいりたいと思います。つまり、神さまはナアマンを選び、お用いになったのでした。その結果、ナアマンはアラムに勝利をもたらした将軍として、主君である王に重んじられ、国民の尊敬を集めるに至ったのでした。これは、主が、ナアマンをすでに選んでおられ、選びの恵み相応の祝福を与えておられた、ということです。 ナアマンに対する神さまのこの愛は、まさに、イザヤ書43章4節で、主ご自身がお語りになったとおりです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だから、わたしは人をあなたの代わりとし、国民をあなたのいのちの代わりにする。」それでは、ナアマンを愛しておられる神さまの愛を示す「国民」とは、どの国でしょうか? これは、イスラエルと見るのが妥当です。当時イスラエルは、神の民の国でありながら、神を捨て、バアル礼拝や金の子牛礼拝に陥るような、まるっきり神の民にふさわしくない集団へと堕落してしまっていました。そのようなイスラエルを懲らしめるため、神さまは周辺の国々をお用いになり、彼らに攻撃させて敗北を味わわせられたのでした。 ナアマン将軍が主によって勝利を得たとは、ほかならぬ、アラムの勝利、すなわちイスラエルの敗北が、神さまから出たことである、ということです。しかし、神さまはそのようにイスラエルの悔い改めのためにお用いになったナアマンのことをすでに選んでおられた、愛しておられたわけです。 私たちは時に、信仰の歩みをするゆえに周りの迫害にあうことがあるものです。しかしみことばは語ります。あなたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、呪ってはいけません。もし、私たちが実際の行動をもって彼ら迫害者を祝福するならば、それは彼らの頭に燃える炭火を積み上げるがごとき復讐を果たすことになるのである……ローマ人への手紙12章の終わりの部分にそのような書かれています。私たちはなぜ、彼らを祝福するのでしょうか? クリスチャンに敵対するならばそれは神に敵対することではないだろうか? そういう人を神さまは嫌っておられるのではないか? そうではありません。神さまはそのような人でも愛しておられるのです。考えてみましょう。私たちももともと、神さまに敵対していた存在でした。しかし、あわれみ豊かな神さまは、私たちにイエスさまの十字架を信じる信仰を与えてくださり、神さまのものとしてくださいました。そんな私たちが祝福をいただいているように、私たちは、私たちを迫害する人たちに対する神さまの愛を信じて、彼らを受け入れ、祝福すべきです。彼らの迫害によって私たちがますます、神さまに対する信仰をしっかり持つという祝福をいただくなら、なおさら彼らを愛し、祝福する必要があるのではないでしょうか。 そういうわけで神さまの特別な選びと祝福をいただいていたナアマンでしたが、彼はツァラアトを病んでいました。新改訳聖書が2004年から「ツァラアト」と訳すようになったこの病は、重い皮膚病を指します。ただし、この「ツァラアト」というものは、人体にかぎらず、建物の壁のようなところにも現れるとみことばにあるので、新改訳聖書では「ツァラアト」と、原語そのままを用いているわけです。この「ツァラアト」を病む人は、律法によれば「汚れている」存在として扱われ、それ相応の処置を受けることになります。それは第一に、ツァラアトとは伝染病であるので、共同体に広がってみなを病ませるようなことがないようにするためですが、共同体とはすなわち、創造主なる神さまに対する信仰の共同体であるゆえ、そこで「汚れている」とみなされるならば、宗教的なけがれを身に帯びているということにもなったわけでした。それで、イスラエルにおいては、霊的な意味でも忌み嫌われることになりました。 アラムはもちろん、まことの神さまに対する信仰共同体ではなく、律法によってツァラアトをけがれと規定する社会ではありません。 しかし、この伝染性の皮膚病が、ナアマンにとってはきわめてつらい病であったことはたしかです。かつての日本語訳の聖書ではこの「ツァラアト」は、現代でいう「ハンセン氏病」を意味することばに訳されていて、それは人権を尊重する社会になった現代にそぐわないこともあって、新改訳聖書のみならずほかの訳の聖書でもこの病名は使われなくなりましたが、もし仮にナアマン将軍が病んでいるこの「ツァラアト」が「ハンセン氏病」に類する重病ならば、イスラエルどころではなく、どんな社会であれ大変なことです。王に信頼され、民に尊敬される身であろうとも、その肝心の自分がこんな病気ならば、そんな社会的信頼や武勲など何になろうか、といったところでしょう。それに、下手をすればアラムの軍隊はおろか、アラムの社会そのものからも抹殺されてしまいます。 最近は自分の闘病生活をインターネットで発信することで稼ぐ人が現れるなど、社会が人の病気や障がいというものに寛容になって、それはいいことなのですが、本来、人が社会において活動するときは、ほかの人には基本的に、その人が個人的に抱えている、肉体の病気を含む病んでいる部分は見えないものです。そもそも、正真正銘の病気の人ならともかく、ある程度の社会的地位にある人は、そういう弱い部分をだれに対してもことさらに見せながら社会生活を営むわけにはまいりません。 その点で、ナアマンは軍人、しかも将軍であり、ツァラアトのような自分の病気を言い訳にして、周りの好意に甘えることなど許されない立場にありましたし、そんなことをするのは軍人としての沽券にかかわることでもありました。しかし、彼の身を病気がむしばんでいたということもまた厳然たる事実であったわけで、社会的地位と、社会から抹殺されかねない病気のはざまで、ナアマンは相当な葛藤の中にありました。 しかし、ここに神さまは、ひとりの若い女性を備えていました。彼女はアラムがイスラエルに戦争を仕掛けたとき、拉致されてアラムに来て、ナアマンの妻のもとで働いていた人でした。しもべ、もっとありていに言ってしまえば、奴隷です。ところが、神さまは彼女をお用いになりました。彼女は、自分がいかにアラムの地に住み、その地の有力者に仕える身となっていたとしても、イスラエルという神の民の一員として、その本分をきちんと果たしました。彼女はどんな行動に出たのでしょうか? 3節です。 サマリアにいる預言者で、ツァラアトさえも治せる神の力を持つ人といえば、エリシャをおいてほかにいません。しかし、そのエリシャに会うには、まず、イスラエルに入国する必要があります。エリシャをアラムに呼びつけるのではなく、自分からイスラエルに出向くのです。そして、そのイスラエルという領域の中で、エリシャの祈りを受ける必要があります。 これは、へりくだっていないとできないことです。アラムはすでにイスラエルを負かしていて、現にこうして捕虜の女の子さえも連れてきていたほどだったわけで、アラムにとってイスラエルは格下の存在でした。そんなイスラエルでしたが、ナアマンは行って治してもらおうと思い立ちました。やはりそれは、病気というものが彼を謙遜にさせたと見るべきでしょう。 無病息災、ということばはよく言われますが、それに代わることばとして、「一病息災」ということがよく言われるようになりました。病気を抱えていると自覚することで、かえって、健康というものが当たり前に手にしているものではないことを認め、へりくだるわけです。ナアマンもまた、この病を抱えていたことにより、俺は天下のアラムの将軍だ、などという態度にならず、格下の国と民族であるはずのイスラエルに預言者の存在を認め、そのもとに行くことを決めたのでした。 ここにも、神さまがナアマンを愛により選んでおられたしるしが現れています。ナアマンによってアラムが勝利を得たこと、その結果王の信任と民の尊敬を得られたこと、その一方でツァラアトを病むという絶望的な弱さを抱えていたこと、ところがそんなナアマンのもとに、神の民の一員であるイスラエルの娘がいて、彼女がエリシャのことを知っていたこと……すべてが、エリシャをとおしてまことの神さまに出会うために、神さまが備えておられたことでした。 病気というものそのものを神さまの賜物と言うことには慎重になる必要があるでしょう。しかし、もし人が、病気という弱さをとおして神さまに出会ったり、神さまとより深い交わりに入れられたりするならば、それは祝福ということができるでしょう。もちろん、病気をいやしてくださり、その苦しみを取り去ってくださる、神さま、イエスさまとの出会いと交わりを体験するようになるゆえの祝福です。 ナアマンは、自分をイスラエルに行かせてほしいと、王に直訴しました。王はナアマンに、イスラエルの王に宛てた親書を持たせて送り出しました。ところがイスラエルの王は、ナアマンのツァラアトを治してほしいというアラムの王のメッセージに震え上がりました。そんなことはできっこない。できなかったらこれを言いがかりにして、わが国をまたもや攻撃するつもりなのだ。 ナアマンには明らかに、ツァラアトを癒やしていただけるという信仰があったからこそ、こうして遠路はるばる、イスラエルの王のもとまで来たわけでした。アラムの王は、忠臣であるナアマンがツァラアトに冒されていることが問題であることを知っていて、だからこそ彼をイスラエルまで送ったわけですが、もしかするとアラムの王には、ナアマンのような信仰などなく、イスラエルの王が憂慮したとおり、これはイスラエルを攻撃する絶好のチャンスだと見なした深謀遠慮があったのかもしれません。もっとも、この本文はアラムの王のことが主題ではないので、彼がどんな動機でナアマンを送ったかは特に詮索する必要はないのですが、重要なのは、肝心のイスラエルの王が、エリシャという人がありながらその存在をすっかり忘れ、まるでイスラエルには神がいないかのようにうろたえたことです。 列王記第二を順番に、時系列に沿って読み進めると、この王はあの悪名高いアハブの息子のヨラムであると思われます。列王記第二の3章を見てみると、エリシャはこのヨラム王のことを、イスラエルの王としても、神の民の霊的なリーダーとしても、まったく評価していなかったことが分かります。アラム王の親書の内容に衣を引き裂いて悲憤慷慨したヨラムの態度は、エリシャが軽蔑したのももっともな、いかにも不信仰なものでした。 しかし、エリシャはそのように、不信仰のあまりにみっともない姿をさらした王のことを見捨てませんでした。エリシャは、ナアマンを治してあげようと宣言しました。それはなぜでしょうか? 王の体面を保ってあげるためだったのでしょうか? そうではありません。8節のみことばによれば、「彼、すなわちナアマンが、イスラエルに預言者がいることを知る」ため、つまり、ナアマンが、イスラエルにご自身の預言者をお立てになったまことの神さまに出会うためでした。 肉体がいやされることはみこころです。神さまは私たちの肉体をいやしてくださることによってそのご栄光を顕してくださるお方です。ゆえに私たちのすることは、治らない、治せない、と、イスラエルの王のように自暴自棄になることではありません。それはいかにも神さまを信じていない、現実的にすぎる態度です。そういう態度はクリスチャンとしてふさわしくありません。 私たちはまず、神さまが病をいやしてくださるのがみこころである、という大前提から出発すべきです。もし私たちが病気になったなら、どう祈りますか? 癒やされなくてもみこころです、などと祈るのは、全てを受け入れたしおらしい態度のように一見見えても、それは神さまが全能なる癒やし主であることを考えようとしない、不信仰な態度ではないでしょうか。主はいやしてくださることによって、癒やし主としてのそのご栄光を顕してくださることを信じているなら、私たちはそのご栄光を見せていただきたいと思いませんか? それならば、私たちは切に祈って願う必要があります。自分自身のためにも、この教会という共同体に属する兄弟姉妹のためにも。いま、病の中にある兄弟姉妹のために祈りましょう。主はいやしのわざをもって、ご自身のご栄光を顕してくださいます。

「信仰による救いと癒やし、そして献身へ」

祈祷/使徒信条/交読;詩篇8篇/主の祈り/讃美歌524「イエス君イエス君」/聖書;マルコの福音書10:46~52/メッセージ/聖歌150「わがめをひらきて」/献金;聖歌614「主の愛のながうちに」/頌栄;讃美歌541/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「信仰による救いと癒やし、そして献身へ」 私は幼いときから、目にハンディキャップを抱えて生きてきました。目というものは自分の顔についていて、鏡でも見ないかぎり絶対に自分の目は見えないから、普段意識することはないのですが、ときどき友達などに目つきを指摘されるとき、そのショックは計り知れないものがありました。のちに私は目の手術をして、ある程度人並みの目つきを手に入れることができるようになりましたが、視力も悪いのまで治ったわけではなく、折に触れてそんな自分であることを思うとき、目が見えないことにかなりの気の重さを覚えていた幼い頃、若い頃の記憶が、今もなお鮮明によみがえります。 そんな私が救われた思いがしたのは、やはり、聖書のみことばをお読みしてでした。聖書の登場人物は、目が見えなかったばかりに物乞いをするしかなかった人でした。イエスさまの弟子たちはなんと口さがなかったことか、彼は目は見えないけれども、耳は聞こえていたにもかかわらず、彼の聞いている前で、イエスさまにいろいろ言うわけです。この人がこんなふうに生まれついたのは、この人の罪のせいですか、それとも、親の罪のせいですか。彼は好きで目が見えないわけではないのに、弟子たちはなんということを言うのかと、目の悪い私などは思います。しかし、イエスさまのおことばはふるっていました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」このみことばをいただいて、私は、そのように弱さを抱えた者だから、イエスさまは私に出会ってくださったのだと、信仰をもって受け取りました。そうなってから、私は劣等感から解放されました。 さて、今日のみことばですが、やはり目の見えない人がいやされ、目を開いていただく、という内容です。イエスさまとその一行がエリコにしばらく滞在し、エリコを出て道をぞろぞろと歩いて行ったとき、その道端に、目の見えない物乞いがいました。 この男性は、2つのハンディキャップを抱えていました。ひとつは、目が見えないという肉体的ハンディキャップ、もうひとつは、物乞いのようなことをして生きていかなければならないという社会的ハンディキャップでした。彼は、二重のハンディキャップの中で生きていました。 しかし彼は、そこからできるものなら抜け出したい、という思いを持っていました。そこにちょうど、イエスさまが通りかかりました。イエスさまならば私のことを癒やしてくださる、目が見えるようにしてくださる、そうなったら、もうこのような、物乞いのような悲惨な立場に身をやつす必要はなくなる……あらゆる回復をいただきます。 彼は、そこをイエスさまがお通りになると知るや、叫びつづけました。「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください。」彼はイエスさまというお方に対する、正しい理解がありました。ダビデの子。すなわち、ユダヤという宗教共同体の間で信じられていたとおりの、ダビデの子孫としてお生まれになるキリストとは、いま目の前をお通りになっているイエスさまであるということを、彼は声を大にして告白していました。 この民ユダヤ人は、救い主キリストを待望していました。しかし、そのキリストがナザレのイエスであることを公に告白するには、それだけ、イエスさまというお方に対して、霊的な目が開かれている必要がありました。その点、この男性はたしかに、肉体の目ではものを見ることはできませんでしたが、霊的にはすでに、イエスさまをキリストと告白できるほどに目が開かれていました。 イエスさまを主と告白できるように選ばれた人には共通点があります。それは、自分が弱いことを知り、しかしイエスさまというお方が、その弱さを強さに変えてくださる救い主、神さまだと信じる信仰に導かれている、ということです。はなから自分は強い、神さまなんて頼る必要などない、そのように考えてしまっていては、信仰を持つことはなかなか難しいことで、もっと言えば、神さまの恵みなくしては不可能なことです。 そのように、この目の見えない人は、イエスさまへの信仰が与えられていて、すでに心の目には、イエスさまが見えていました。そのようにイエスさまが見えるならば、あと彼のすることは、その信仰を働かせることです。すること、それは、力いっぱい、イエスさまの御名を呼び求め、あわれみを乞うことです。 この人は物乞いをしていました。ユダヤの宗教共同体の金銭的なあわれみにすがって生きる存在でした。しかし、そのような金銭的な施しが一時的なものでしかないことを、彼はよくわかっていました。もっと根本的な解決をくださるお方から、御力をいただきたい! 井戸から水を汲んで飲んでも渇くけれども、イエスさまのくださるいのちの真清水は、けっして渇くことがない。彼は、自分のほんとうに乞い求めるべきは、一時的な金銭ではない、イエスさまにある永遠のいのち、永遠の救いであることを悟り、それを全力で求めにきました。 しかし、イエスさまの取り巻きは、そんな彼のことを黙らせようとしました。自分たちは次のところに行くんだ。忙しいんだ。邪魔するな。そんな思いがあったことでしょう。イエスさまの取り巻きのこの言動は、最大限好意的に解釈するならば、それだけ、イエスさまが大事、イエスさまのことを独り占めしたい、という気持ちの表れなのでしょうが、しかしその思いを持つあまり、彼らには、人にあわれみを施す余裕が完全に抜け落ちていました。 ある教会のクリスマスでのできごとでしたが、その日信徒たちは、クリスマスの礼拝で大いに盛り上がり、あとは礼拝堂の下の階におりて、持ち寄りの食事を楽しむばかりになっていました。ところがそのとき、教会に、見知らぬ若いお母さんが幼い娘を連れてやってきていました。身なりもよごれていて、どうやらホームレスです。やがて信徒たちは礼拝を終えて下の階におりて食事会をはじめました。事情を察したある婦人の信徒がその親子に、食べ物を分けてあげて、それはよかったのですが、この親子が一緒にその食事の場にいることに対して、明らかにいやな表情を浮かべる人もいました。その人としては、せっかくのクリスマスの恵みが台無しだ、とでも思ったのでしょうか。 愛するということ、愛の奉仕を施すということは、このような、自分こそ恵まれたいという人間的な本能、自然な感情からすると、簡単ではありません。そう考えると、つい、自分たちだけで恵まれたいという、内輪で盛り上がるようなクリスチャンの歩みにも一理あると思えてしまいそうです。しかし、そういうときこそ、私たちは、私たちの主なるイエスさまはどのように人に接していらっしゃったかを、見て学ぶ必要があります。 まず、イエスさまは立ち止まられました。イエスさまが立ち止まるならば、取り巻きの一行も立ち止まるしかありません。イエスさまは彼らに、「あの人を呼んできなさい」とおっしゃいました。イエスさまはこのように、その人を御許に招く働きを、弟子たちにさせられました。まず、弟子たちが意識を変えて、この男性に対する認識を改める必要があった、ということです。そして、そのように認識を改めたうえで、イエスさまのお使いとして用いていただくのです。 私たちもイエスさまに用いていただく光栄に浴したいならば、まず、イエスさまのおこころをよく知る必要があります。自分勝手な考えで、自分の思い込みが優先した状態で、イエスさまに用いていただくことはできません。そのためにまず、イエスさまのみことばを聞きましょう。イエスさまが自分に何と命じていらっしゃるか、日々聖書のみことばを開き、お受け取りすることです。そのご命令に従順にお従いすることです。 果たして、その人は上着を脱ぎ捨て、イエスさまのもとに駆け寄りました。上着とは何でしょうか? 身を覆う財産です。上着というものは質に取ったら日没までに返さなければならない、と、出エジプト記の律法のみことばに記されているのは、それだけ上着というものが人にとって大事だからです。また、あなたを告訴して下着を取ろうとする者には上着も与えなさい、とイエスさまがおっしゃるのは、人を愛する神の愛の大きさを示すために、そのようにたとえでお語りになったのでした。上着はまさに、ひと財産です。 物乞いともなると、もはや上着くらいしか財産と呼べるものはありません。それを彼は脱ぎ捨てて、イエスさまのもとに駆け寄ったのです。これは彼の献身の表現です。イエスさま、私はあなたに出会うために、すべてを捨てます、捨てました……。 イエスさまはそんな彼を見て、彼が何を願っているか、もちろんご存じでした。それでもイエスさまはあえてお尋ねになります。「わたしに何をしてほしいのですか。」彼は言いました。「先生、目が見えるようにしてください。」 イエスさまは全能なる神さまであり、私たちのことを愛してくださっているお方です。ゆえに、私たちが何を必要としているか、すべてご存じです。しかし、イエスさまがいかに全知全能なるお方であるといっても、私たちがその必要を認識し、具体的に願わないことには、イエスさまは私たちのその願い、必要を満たすということはなさいません。私たちにとって神さまに祈ることがなぜ大事なのかは、これでわかります。ほしいものがあり、していただきたいことがあるならば、まずはそれを具体的に祈ることから始めましょう。主はみこころにかなうようにそのお祈りを導かれ、みこころにかなうお祈りであるかぎり、そのお祈りを聴き届けてくださいます。 彼は、その願いとは、目が見えるようになることだと言いました。しかし、神さまが絶対的なお方であるということは、目を見えるようにも、見えないままにもされるということです。すべては主のご主権にかかっています。彼にもそれはわかっていました。しかし彼はイエスさまに恵みとあわれみを求め、何とか見えるようにしてください、とすがりました。そしてイエスさまは……彼の目を開き、見えるようにしてくださいました! ここから教えられることはいくつもあります。イエスさまは、彼の祈り、目を見えるようにしていただきたいという願いを聞かれましたが、そのように目が見えるようになるということは、主のみこころです。 本来、神さまがおつくりになった世界は完璧でした。アダムとエバのむかし、エデンの園のむかし、病気も障がいも環境汚染もありませんでした。しかし、人は神さまに背を向け、罪を犯す道を選びました。それゆえこの世界には堕落が入り込み、人は病むようになってしまいました。障がいもその肉体に臨むようになってしまいました。そのように、肉体が病みに病んだ末に行きつくところは「死」です。神さまのご命令に背いたら人は必ず死ぬ、と警告されていたのに、人は不従順の選択をした以上、これは仕方のないことです。 この、目の見えない人が、イエスさまに願ったら目が見えるようにしていただいたというのは、そのように罪に病む人間も、主に立ち帰るならば癒やしていただける、その肉体のいやしの根本にある、罪の赦しにまで至らせていただける、ということを象徴しています。イエスさまはこの癒しのわざは何によるかというと、「あなたの信仰があなたを救いました」とおっしゃったとおり、イエスさまを救い主キリストと信じる彼の信仰によるのであると宣言されました。 このときイエスさまは、「さあ、行きなさい」とおっしゃっています。つまり、こうして癒やしをいただいたならば、あとは彼が見える目で景色を見渡しながら、どこに行くにも自由でした。ところが彼はどうしたでしょうか? そのように、イエスさまに与えていただいた自由を、イエスさまについていくという用い方をしました。 私たちはイエスさまを信じたならば、この上なく自由な存在としていただいています。自由といっても、「悪いことも含めて何をやってもいい」という自由ではありません。それは自由ではなく、なお悪いものの奴隷になっている状態です。ほんとうの自由とは、悪いものの支配から解放されている状態です。たとえ肉体に病気や障がいがあったとしても、そのことゆえに人生を悲観的にとらえることから解放されます。私たちのいのちは肉体もろとも、イエスさまがすでに十字架の上で贖ってくださったからです。私たちはそのように自由な存在とされましたが、その自由な立場で、私たちはどこに行ってもよいのです。 だが、この男の人は、イエスさまについていく道を選びました。自由の中からイエスさまのしもべになる道を選ぶ。なぜならば、それ以上の自由の喜びは味わえないと知っているから。これがほんとうの献身です。 私はかつて、大学卒業後の進路に、降ってわいたように「韓国の神学校行き」という道が示されたとき、いきなりの話に、どうしても不安な思いを拭うことができず、当時所属していたキャンパス・クルセードという宣教団体のスタッフの佐藤さんという方に、個人的にお話しして相談しました。すると佐藤さんは、このようなことをおっしゃったのでした。「献身するのがみこころではない、ということはないよ。なんでかっていえば、神さまは人に献身することを喜んでおられるからね。」私はこのおことばに背中を押される思いで、神学校ゆきの決心がついたものでした。そのおことばをいただいてから今年で27年になりますが、やはりこの献身の道を行くことは、神さまの大きな喜びであったことを、年を追うごとにますます実感しています。 これは直接献身の話ですが、私たちは直接献身にかぎらなくても、毎日神さまに時間をささげ、神さまに遣わされて、神さまに用いられる生き方をしているならば、それはたとえ牧師や宣教師のような肩書での働きではないとしても、神さまから与えられた自由を、神さまにお従いすることで、一見すると不自由、しかしそのじつかぎりなく自由に用いた生き方をしていることになります。どんな職業でもいいのです。人にはそれぞれ、神さまから与えられた賜物があり、その賜物を神さまのためにこそ用いるならば、だれであれ、献身の生き方をしていることになります。 この男性の場合、イエスさまへの献身の歩みをするには、イエスさまに目を開いていただく、すなわち、目が見えるようにしていただくだけで充分でした。私たちはどうでしょうか? イエスさまのへの献身の歩みはすばらしいと思いますでしょうか? 私は、すばらしい、ということを、身をもって体験しつづけていますし、その献身の歩みに充分に踏み出せない要素があるならば、この男性の場合のそれが目の見えないことであり、それが見えるようにしていただいて取り除かれたように、私も、まだ充分に献身できていない領域はわれながらありますし、それを取り除いていただいて、ますます、献身の喜びの歩みをさせていただきたいと願います。 私たちがもし、イエスさまにお従いしないままでいたならば、それは人生の損失というものです。私たちの従順、私たちの献身において、もし妨げとなっているものがあるならば、それは何であるか、しっかり認識させていただきましょう。そしてそれを取り除いてください、癒やしてください、と、主に祈りましょう。主は必ず、私たちをいやし、献身を妨げるあらゆるものを取り除き、献身の喜びに私たちを踏み出させてくださいます。

「先に立つしんがり」

祈祷/使徒信条/交読;詩篇4篇/主の祈り/讃美歌495「イエスよこの身を」/聖書箇所;マルコの福音書10章32節~45節/メッセージ/聖歌495「世人のとがのために」/献金;聖歌614「主の愛のながうちに」/栄光の讃美;讃美歌541/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「先に立つしんがり」 矛盾したようなタイトルをつけました。先に立つ者は先頭であり、しんがりは後ろに立つ者。「先に立つしんがり」は、形容矛盾のようです。「曲がった道をまっすぐ前へとバックする」みたいなものです。しかし、イエスさまの説かれる「先に立つ者」とは、実はしんがりであることが、今日のみことばから明らかになります。 まず32節、イエスさまは、天の御国のためにすべてを捨てるものに対する祝福を十二弟子にお語りになったことは、すでに先週のメッセージで学んだとおりですが、それに引きつづくこのみことばにおいては、イエスさまは御顔をまっすぐにエルサレムに向けて、前へと進んでいかれた、とあります。 このお姿に、弟子たちは驚きを覚え、また、恐れをいだいた、とあります。このみことばからわかることは、エルサレムへと進んでいかれるイエスさまのお姿に、弟子たちはただごとではないものを感じた、ということです。 エルサレムでイエスさまを待っているものは何でしょうか? 祭司長や律法学者のような宗教指導者たちに引き渡されて、裁判を受けて死刑の判決が下される、ということです。そしてそれにとどまらず、そのように死刑の判決を下した彼らが、異邦人にイエスさまのことを引き渡し、異邦人はイエスさまをあざけり、つばをかけ、鞭打ち、殺す、そのようにお語りになりました。イエスさまは、ここでははっきりと「十字架」という具体的な名詞を持ち出してはいらっしゃらなかったので、弟子たちは、よもやイエスさまがあの究極の刑罰である十字架によって死刑になろうとは、などとは思わなかったかもしれません。しかし、イエスさまがお語りになったこの苦難は、ほかでもなく、十字架を指していました。 しかし、イエスさまのおことばは、受難の予告では終わりませんでした。イエスさまは3日目によみがえるとおっしゃいました。これにより弟子たちは、イエスさまは死なれてもよみがえる、そのようにして神さまはイエスさまに栄光をお与えになる、と理解しました。 とはいえ、彼らのこの理解が、いかにも不充分だったことを示す対話が、彼らとイエスさまとの間で交わされることになりました。37節のみことばをお読みしましょう。……ヤコブとヨハネのこのことばには、伏線があります。この直前に、ペテロがイエスさまに自信満々に告げたことば、自分たちはすべてを捨ててあなたさまにお従いした、ついては何がいただけるだろうか、という、このことばのお答えとして、イエスさまがお語りになったおことばが、マタイの福音書を読むと、マルコの福音書に収録されていないこともまたお語りになっていることがわかります。それは、マタイの福音書19章28節です。 イエスさまにすべてを捨ててお従いした者は、その報いとしてイスラエルの十二部族をさばく、すなわち、神の民のリーダーとしての役割が果たせるという約束を、十二弟子はいただきました。それが実現するのは、イエスさまがご栄光をお受けになったときである、というわけです。 そのおことばが心にあったということを前提に、ヤコブとヨハネがイエスさまにお語りしたことばを見てみると、12の座に着いてイスラエルの12部族をさばくのは自分たち十二弟子である、そして、その中でも、イエスさまの右と左には自分たちが座れるようになりたい、というわけです。要するにヤコブとヨハネは、ほかの弟子たちを出し抜いてでもイエスさまに取り入りたい、という欲望があったわけです。 イスラエルをさばく立場とは、権力者として偉くなり、多くの者にかしずかれ、富の使い放題、というイメージが、彼らの中にあったのかもしれません。別の福音書を読むと、彼らにその地位を得させようとイエスさまに頼み込んだのは、彼らの母親であったとあります。息子たちが出世してほしい一心でイエスさまに頼み込む母心もあったといえるのかもしれませんが、ヤコブとヨハネは、母親にそんなことを言わせてしまっている自分たちのことをみっともないと思うどころか、自分たちはイエスさまの右と左に座るべき者たちだ、だからこのようなお願いをしても当然だ、という自負があったようです。 私たちは、いろいろなことを神さま、イエスさまにお祈りします。「なになにをください」、ですとか、「なになにしてください」といったたぐいのお祈りは、特に私たちはしているのではないでしょうか? しかし、ここで私たちが振り返ってみたいことは、私たちがそのようなものを神さま、イエスさまに求めている、その「動機」です。私たちがそれらのものがほしいのは、果たして神さまのためでしょうか、それとも、自分のためでしょうか? 私たちは自分の胸に手を当てて、ほんとうに後ろめたさなしに、心からはっきりと、「私は神さまのためにそれを求めます!」と断言できるでしょうか? ヤコブとヨハネがイエスさまに頼み込んだことも、祈りとはイエスさまに話すことであると考えると、これおも一種の「祈り」と言えたでしょう。しかし、イエスさまはその彼らの願いが、果たしてどこから由来したものであるかを自ら探らせるために、ひとことおっしゃいます。 イエスさまはここで、ご自身のお受けになる杯、また、バプテスマを受けることが、あなたたちにできるか、と問うていらっしゃいます。これは、どういうことでしょうか? 少しご説明します。 イエスさまが十字架におかかりになったとき、全身に及ぶ痛みとともに襲いかかってきたものは、血や汗が流れ出すゆえに、脱水してしまわれたという、その苦しみです。その中で死刑執行人が差し出してきたものはなんであったかといえば、苦みを混ぜた酸い葡萄酒でした。これはほとんど発酵が進んだ酢のようなものであり、それに苦みが混ぜられているゆえに、渇きに任せてそれを口にすると、その苦しみは何倍にもなって襲いかかってきます。 十字架の苦しみというものは、愛なる神さまから引き離されてでも人を愛し、人を救うために味わう、究極の苦しみです。その苦しみを味わうには、単なる自己実現、偉くなりたいという思いが動機では、不可能です。そのような思いはむしろ、十字架の苦しみを遂げる思いの正反対のものであり、その思いがひとかけらでもあったならば、人は絶対に死にたくはありませんし、いわんや十字架の苦しみなど、金輪際味わいたくはありません。 バプテスマとは何でしょうか? 人が水に沈められ、また引き上げられることによって、その行為は死にて葬られ、神によって陰府から引き上げられて復活させられることを象徴するものです。そのようにイエスさまは、復活に至るために、いちど死なれるということを経験されなければなりませんでした。ヤコブとヨハネもまた、すべてを捨ててイエスさまにお従いした証しとして、主のみこころにお従いして死ぬことさえも選び取らなければなりませんでした。むろん、人がそのように進んでいのちを差し出せるのは、バプテスマは水から引き上げられることによって完成されるように、死んでも陰府から引き揚げられて永遠のいのちが与えられるという信仰と信頼を、いのちの主なる神さまに置いているからです。 ヤコブとヨハネはイエスさまのこのチャレンジに、「できます」と、自信を持ってお答えしています。しかし、彼らのこの自信はどこから来たものでしょうか? 果たして彼らは、ほんとうにそのような、十字架と復活に対する確たる信仰があって、そのようにお答えしたのでしょうか? おそらくそうではなかったはずです。もし、彼らがほんとうに、イエスさまの十字架と復活をちゃんと信じていたならば、よもや十字架を前にしたイエスさまのもとから散り散りに逃げ出す、ということはなかったはずです。彼らの「できます」という大見得は、所詮、イエスさまによく見られることで高い地位を獲得したい、という、野心の表れでしかありませんでした。 これに対してイエスさまは、なんとお答えになったでしょうか?「いや、あなたたちは杯も飲めなければ、バプテスマも受けられない」とはおっしゃいませんでした。彼らはそのような、イエスさまの苦難にあずかる苦しみを受ける栄光を手にすることは、予告していらっしゃいます。実際、ヤコブは、使徒の働き12章を見てみますと、ヘロデの手にかかり、十二弟子の中で真っ先に殉教しています。ヨハネもまた、宣教の働きがとがめられてパトモスに島流しにされました。イエスさまゆえに苦難は経ているのです。 しかし、そうすれば、御国において偉い者となる、すなわち、イエスさまの両方の座を占める者となる、ということではありません。それを決めるのはご自身ではないことを、イエスさまはお告げになっています。人が天の御国に入ったとき、その天の御国においてどのような報いを受け、その報いとしてどのような地位に就くかということをお決めになるのは、神さまご自身であり、それは人間に知ることが許されていないことを、イエスさまはお語りになったのでした。 さて、このように、ほかの弟子たちをいわば「出し抜いた」ような態度を示したヤコブとヨハネに対し、ほかの十人、つまり、彼らを除いたほかの十二弟子が腹を立てました。さて、彼らが怒ったのは当然だと思いますでしょうか? もしそうならば、彼らはなぜ怒ったのだと思いますでしょうか? よく考えてみましょう。十二弟子は、何かあると、自分たちの間でだれがいちばん偉いか、という議論をおっぱじめるような者たちです。そういう者たちだったら、ほかの弟子たちを差し置いてイエスさまに引き上げてもらおうとするヤコブやヨハネに腹を立てるのは、当然だと思いませんでしょうか? ただし、そういう怒りを発するのが「当然だ」ということと、「正しい」ということは、同じ意味にはなりません。彼らが怒るのは当然でも、果たして正しいといえるでしょうか? この点を正されるために、イエスさまはひとつのことをおっしゃいました。それは「ほんとうに偉い人とはどういう人か」ということです。 まず、異邦人にとって「偉い人」とはどういう人かを、イエスさまはおっしゃいます。そういう者たちは人々に対して横柄に振る舞い、権力をふるいます。イエスさまはここで「あなたがたも知っているとおり」とお語りになっていますが、彼らとその民は、自分の立上の民の上に君臨するローマという異邦人のふるう権力に、相当へきえきさせられていたわけです。 彼ら弟子たちが思い描く「権力」というもの、ことに、イエスさまに投影していた神の国の王というイメージは、事実上ユダヤを支配していたローマの権力に代わる新たな権力でしたが、イエスさまのおことばは、彼ら弟子たちやユダヤ人たちの思い描く王のイメージは、所詮異邦人の世界における卑俗な権力の表れに過ぎないことをほのめかしておられるようです。 イエスさまは、ほんとうに偉いということ、ほんとうに力をもって治めるということは、そういうことではないことをお示しになります。43節、44節です。……ここでイエスさまは「あなたがた」ということばを用いていらっしゃいますが、この「あなたがた」は、第一に弟子たちの群れを指していますが、それ以上に、神の民の群れ、そしてひいては、すべての造られし者たちの群れを指しているといえるでしょう。つまり、イエスさまがお示しになったこの大原則は、前提として神の民における原則であるのと同時に、あらゆる人間社会に通用する原則であるわけです。 出世を狙ったヤコブとヨハネも、それに対して腹を立てたほかの弟子たちも、偉くなりたいという思いでは共通していました。イエスさまはそんな彼らに、ほんとうに主の弟子としてふさわしい態度は、すなわち、長じてキリストのからだなる教会を牧し、キリストの福音を行く先々で宣べ伝える者となるために必要な態度は、へりくだって仕えることである、とおっしゃいました。へりくだることを知らない者、仕えることのできない者には、神の国の働きをすることはできない、というわけです。 しかし、そのようにへりくだること、仕えることは、世の中が常識のようにして教える「出世しなさい」「偉くなりなさい」「人に使われないで、人を使う者になりなさい」という教えとは正反対です。 そういう生き方を目指す必要があるとイエスさまが弟子たちにお教えになった背景には、どんなことがあったのでしょうか? 45節のみことばを見てみましょう。このみことばは、イエスさまがどんな目的でこの地上に生まれ、生きられるのか、ということをお語りになったみことばです。 まずイエスさまは、「仕えられるためではなく仕えるために」この地上に来られたのであるとお語りになりました。イエスさまは神さまです。王の王、主の主です。およそ人という人がお仕えする対象として、イエスさま以上にふさわしい人物などいません。イエスさまこそ、人間の奉仕を受けるにふさわしいお方です。ところがイエスさまは、ご自身がこの地上に来られた究極の目的は、「仕える」ことにある、とおっしゃったのでした。 イエスさまのお働きは、すべてこの「仕える」ということをもって説明できます。十二弟子を訓練されたのは、十二弟子を支配して偉ぶるためではありません。そうではなく、寝食をともにして3年にわたってじっくり教え、免許皆伝の主の弟子にすることによって、弟子たちに仕えられたのでした。そのためには、弟子たちの足を洗うという、奴隷の役割さえ引き受けられましたし、徹夜の漁でへとへとになった彼らのために、パンと焼き魚を備えて朝ごはんをつくってくださいました。彼らが主の弟子としてしみじみするためならば、イエスさまはどんなことでもなさったのでした。 しかし、イエスさまにとっての「仕える」ということの根底には、何があったのでしょうか? 45節の後半のおことばをお読みすれば、それがはっきりします。そうです、イエスさまは「多くの人」を贖う、すなわち買い取るために、ご自身のいのちをその代価として差し出されたのでした。 イエスさまはおっしゃいます。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしはあなたがたをしもべとは呼びません。友と呼びました。友としてくださる、身代わりにいのちを捨ててくださって私たちを永遠の死と滅びから救い出してくださる、それはなぜでしょうか? 神は愛だからです。言い換えれば、イエスさまはそれほどまでに、私たちのことを愛してくださっているからです。 イエスさまが統べ治める神の国は、「愛する」ことをもって成り立っています。異邦人のように人々の上に君臨し、横柄に振る舞うことは、「愛する」ことの反対です。相手を「愛する」ならば、相手に対してへりくだりますし、喜んで仕えます。その愛の究極の形、それは、十字架で身代わりに死んでくださることにより、その流された血潮で、私たちを神のかたちとしての跡形もないほどにけがす罪を洗いきよめ、雪よりも白くしてくださる、ということです。 愛するから仕える、仕えることは愛すること、そのことをイエスさまは、この地上のすべての歩みをもって実践され、十字架とは、イエスさまのその究極の人を愛する姿、仕える姿でした。 イエスさまが堂々とした歩みをもって先頭に立って進んでいかれたのは、その十字架に向けてでした。その点でイエスさまは、当たり前と言えばそうなのですが、だれよりも先に十字架を負うお方でした。しかし、そのように先頭に立つ姿とは、実は人の後ろに立つ姿でした。十字架ほど呪わしく、みっともないものはありません。人は神の栄光を目指して生きる者である以上、こんなみじめな目にあえてあいたいと思うなどおかしいです。しかしイエスさまは、そのようにして人の最も後ろに立つ十字架の道、仕える道、もっと言えば、人から捨てられれる道をお選びになりました。そのように、言ってみれば、「しんがりに向けて先頭に立つ歩み」をなされたのでした。 しかし、この逆も逆の道をイエスさまが歩まれたことで、すべての人が救われる道が開かれました。このようにあえて十字架を背負われたイエスさまを信じるならば、神さまはその人を救ってくださり、永遠のいのちを与えてくださるのです。しかし、単に自動的に救われてそれで終わりというものではありません。私たちは先頭に立って十字架の道を歩まれるイエスさまのみあとを従い、自分も自分を捨てて、日々、自分の十字架を背負って、イエスさまについていくのです。具体的には、まず、イエスさまに救っていただく資格も、イエスさまのみあとをお従いする資格もない罪人であることを思い、救いの喜び、従順の喜びを妨げる罪が示されたならば、祈りのうちに告白して悔い改めることです。 しかし、それにもかかわらず、そのような罪を犯す罪人である自分のことを救ってくださったイエスさまに、その十字架の御業を覚えて感謝をおささげします。そして、少しでもイエスさまの歩まれた愛の歩み、仕える歩みにならう者となるために、愛を増し加えてください、仕える者とならせてください、と、恵みを求めてお祈りします。そして、仕えるべき領域を具体的に示していただき、祈りのうちに導きをいただいて、ひとつひとつ実践させていただくのです。 それがみこころにかなうことです。もちろん、仕事において成果を上げて、職場で昇進して地位が上がり、部下を多く持つようになることはいいことです。しかし、それが何のためかということも、私たちは忘れないようにしなければなりません。上に立って権力をふるうためであってはなりません。いえ、そういうことをたとえ口に出さなくても、心のどこかでそのような思いを持っていて、人に仕えられたい、かしずかれたい、そんな思いを持っているようでは、神の子ども、主の弟子としてふさわしく振る舞っていないことになります。 それがわたしたちです。仕えるより、仕えられたいと願うことの、なんと多い者でしょうか。 仕えるために汗を流すことを言ということの、なんと多い者でしょうか。しかし、そのような自分であることに気づかされたならば、どうかその場で、十字架に向けて、前へ前へと進まれたイエスさまを思いましょう。私を愛するあまり、十字架におかかりになったイエスさまをしのびましょう。このイエスさまのおこころをわが心としつづけるならば、私たちは必ず、イエスさまにならう、「前に立つしんがり」、仕えることをもってこの世に神の栄光を顕し、人々を整えて奉仕の働きをさせるという、神のみこころにかなった歩みができるようになると確信して、今週も、そしてこれからも、歩んでまいりましょう。

「神の選びが救いを決める」

讃美歌541/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「神の選びが救いを決める」 ある牧師先生がメッセージの中で、こんなことをおっしゃっていました。キリストの香りというものは、人々を惹きつける。ごらんなさい、イエスさまの周りには、あんなにたくさんの人が集まっていたではないですか。あなたもイエスさまとの交わりを欠かさないならば、キリストの香り、魅力的な香りを放つ人になれますよ……。 イエスさまがこの地上にいらした当時も、ガリラヤであれユダヤであれ、多くの人がイエスさまの周りにいました。それはやはり、神の子だけが放つことのできる香り、キリストの香りに惹きつけられて、ということができるでしょう。それは、創造主なる神さまに創造された存在なのが人間である以上、人間として、いわば本能的な態度、とすら言えるのかもしれません。しかし、そういう人々はたしかにイエスさまが素晴らしいお方であることを知ってはいましたが、それはイエスさまが神の子そのものでいらっしゃったから、という、正しい理解を持っていたかというと、それは疑わしいものです。彼らの中でその理解がはっきりしていたならば、イエスさまのことを十字架送りにするという、とんでもなく罪深いことなどそもそもできなかったはずです。 今日の本文に登場する、イエスさまのもとにやってきた人、この人は別の福音書によれば、青年とも書かれていますし、指導者とも書かれていますが、ともかくこの人にとって、イエスさまとはどのような人物に見えたのでしょうか。まず17節から見てみますと、彼はイエスさまのもとに駆け寄り、ひざまずいてご質問しています。 この態度は、イエスさまのことを神の子、神さまと信じるゆえに、礼拝する態度からきたものでしょうか。続く彼のことばがそれを明らかにします。「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいでしょうか。」しかし19節をご覧ください。イエスさまはこの青年の呼びかけに対し、このようにお答えになりました。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。」 イエスさまは彼の目を、唯一まことの神さまに向けさせられました。すなわちイエスさまは、彼にとって第一の問題が、神さまとの関係がまともにできていないことであるとほのめかされたわけです。それは、彼がもし仮に、イエスさまはまことの神さまであると信じていたとしても、それは変わりなかった、神さまと彼の関係はまともにはできていなかったことになります。 イエスさまのことを「良い先生」と呼ぶのは、結構なことのようにも思えるでしょう。しかしイエスさまというお方は、父なる神さまの御姿を地上において映されるお方ゆえに「良い」また「尊い」お方なのであって、素晴らしい律法の教えをされるからとか、律法を落ち度なく守り行なっておられるからとかいったことは、あくまでイエスさまが「良い」お方であることを知る上での、副次的な要素でしかありません。 イエスさまは、この青年がそのようなレベルでご自身を理解するにとどまるゆえに、「良い先生」という呼び方をしていることを指摘されたわけです。そして、そのような理解でしかイエスさまのことを見ていないこの青年のほんとうの問題、すなわち、永遠のいのちがいただきたい、という問題に触れるために、このようなことをおっしゃいました。19節です。 このみことばは見覚えがあるでしょう。そうです。現在、ずっと毎週、「バプテスト教理問答」で学んでいる、モーセの十戒のことばです。 ただし、よく見ると、イエスさまはそっくりそのまま十戒を引き写してお語りになっているわけではありません。第六戒の「殺してはならない」、第七戒の「姦淫してはならない」、第八戒の「盗んではならない」、第九戒の「偽りの証言をしてはならない」、ひとつ飛ばして第五戒「あなたの父と母を敬え」はそのとおりですが、第九戒と第五戒の間の戒めが「だまし取ってはならない」となっています。これは、第八戒と第九戒を合わせた戒めと見ることができます。しかし、ここでイエスさまが挙げられた十戒のことばには、神との関係について語る第一戒から第四戒の戒めがありませんし、もうひとつ、第十戒の戒め「あなたの隣人の家を欲してはならない」が欠けていて、どんなに頑張って適用しようにも、この第十戒に該当するらしいことをイエスさまはお語りになっていません。これについてはのちほどあらためて見てまいります。 イエスさまは、この青年が、神の戒めを守り行うことによって救いを得て、永遠のいのちを得ることができるという、本来このユダヤの宗教社会において常識となっていた考え、さらに言えば、およそこの世に存在するあらゆる宗教に共通する考えに根差していることを前提に、神の戒めはこのようにあり、それを守り行うならばいのちを得ると理解していますね? と、戒めを列挙して問うていらっしゃるわけです。しかしこの青年は何とお答えしたでしょうか? 20節です。イエスさまがこのように挙げられた十戒の戒めは、少年のころから、すなわち、善悪の判断のつく、物心つくころから、ちゃんと守り行なってきたというわけです。 たいへんなことです。それらの戒めを落ち度なく守ってきたとは、道徳的に素晴らしい人生を歩んできた人だといえるでしょう。しかしこの「守る」ということは、積極的に守るのと、消極的に守るのでは、ちがいがあるのではないでしょうか。ユダヤの宗教社会における「律法を守る」ということは、いわば消極的に守っている状態です。イエスさまの引用していらっしゃる十戒のみことばは、「あなたの父と母を敬え」以外は、みな、「~してはならない」ということばであり、それは言ってみれば、「禁止されていることを避ければ大丈夫、この戒めを守ったことになる」ということになるわけです。 ところが、イエスさまは、たとえばマタイの福音書5章の「山上の垂訓」をお読みすればわかるとおり、「~してはならない」ということばを文字通りに守りさえすればそれで律法を守り行なったことになる、ということにはならない、律法はもっと高いレベルのことを人に要求している、という意味のことをおっしゃいました。たとえば、十戒の第六戒の「殺してはならない」という戒め、それは実際に人のいのちを奪わなければそれでよし、ということではなく、人に悪口を言っただけで、殺人罪と同じレベルのさばきを受けるものである、すなわち、悪口とは殺人に等しい、という意味のことをおっしゃいました。いったい、それでこの戒めに耐えられる人が何人いるでしょうか? またイエスさまは、同じく十戒の第七戒の「姦淫してはならない」についても、夫婦以外の関係にある人を相手に肉体的な性的行為をしなかったとしても、心の中でだれかに対していやらしい思いを抱くだけで、それは姦淫の罪を犯すことで、律法に違反している、という意味のことをおっしゃいました。そうなるといったい、どれほど多くの人がこの戒めを守れていないことになるでしょうか? それが律法を守り行うということなのです。しかしイエスさまは、青年が持っていたそのような律法に対する理解のどこが問題かを指摘することはなさらず、その代わりにこのようなチャレンジを与えられました。21節です。 まずイエスさまは、彼は実のところ、自分が言っているようには律法を完全に守ってはいない、欠けたところがある、ということをおっしゃいます。しかし、何が欠けているのかということを指摘されませんでした。その代わり、持ち物を全部売り払って、それからご自身に従ってくるように、というチャレンジをお与えになります。 すると、どうなったでしょうか? この青年はこのおことばに顔を曇らせ、悲しみながらその場を立ち去った、とあります。みことばはその理由を、彼が多くの財産を持っていたからだと説明しています。 イエスさまはまさに、このみことばひとつで、この青年が永遠のいのちをいただくにあたって、何がいちばんつまずきとなっているかを如実にお示しになったのでした。この青年の場合は、おかねへの執着がイエスさまにお従いすることを妨げていました。 しかし、この箇所をお読みするときは、注意が必要です。私たちクリスチャンは、私有財産をすべてなげうって施しをするようでなければ、イエスさまにお従いしたことにはならない、ということではありません。福音書に続く「使徒の働き」を読んでみると、初代教会の指導者であるペテロが、信徒が財産を所有することを認めています。いけないのは、土地を売ったそのお金をいくらか手元に残しておいているのに、その売ったお金すべてをささげた、と偽ることであって、財産を持つことそのものまで問題にしているのではなく、むしろ財産を持つのは信徒の自由である、と言っています。 したがって、イエスさまのこのおことばは、すべてを投げうたなければならない、とか、お金に執着してはならない、とか、そういうレベルのお説教ではないのです。もちろん、お金や財産というものに対する私たちクリスチャンの態度には、そのような姿勢を持つべきであることは事実ですが、それだけをおっしゃりたくて、イエスさまはこのようなことを青年におっしゃったのではないことを、私たちは注意する必要があります。 大前提として私たちが知るべきことは、律法をすべて守り行なったつもりになっていても、たった一つでも律法に違反しているならば、その人は律法のすべてについて責任を問われる、ということです。ヤコブの手紙2章10節にあるとおりです。この青年の場合はどうでしょうか? ここでさきほど保留にしていた、十戒の第十戒を見てみます。「あなたの隣人の家を欲してはならない。」このみことばをあえてイエスさまはおっしゃいませんでした。しかし、厳密にこのみことばを適用するならば、この青年はこの第十戒を守れていなかったのでした。 それは、こういうことです。ルカの福音書10章の「良きサマリア人のたとえ」でもお語りになったとおり、イエスさまの定義によれば、ユダヤ人が見下していたサマリア人さえ、ユダヤ人にとっては隣人でした。そのように、隣人のために何かをするためには、目の前にいる人、それこそ文字どおり「隣」にいる人が「隣人」だということがわかってはじめて、その「隣人」のために何かをするという、神さまのみこころを守り行うことができるようになります。 この青年にとって、施しをすべき貧しい人は、ユダヤという神の民の共同体にあって、経済的に守られなければならない立場にありました。ローマ人への手紙15章1節をご覧ください。神の民の共同体は、力のある者が力のない者の弱さを担うことで成り立つ世界です。ゆえに、この青年の持つ、ありあまる財産は、神さまの視点から見れば、力のない者、すなわち貧しい者の持ち物になるべきものでした。 それなのに、この青年は、自分の財産に執着したがために、貧しい隣人の持つべきものを与えるのをいやがりました。これは言ってみれば、隣人の持つべき財産への執着、形を変えた「隣人のものを欲する」ことであり、十戒の第十戒に対する違反です。そして青年はこうしてみことばに背いた代償として、イエスさまのもとを去る選択をして、その結果、イエスさまにお従いすることで得られる永遠のいのちを失うこととなりました。 しかし、イエスさまがこの青年を見つめられた、そのまなざしを想像してみましょう。イエスさまは果たして、わたしに従うのは厳しいぞ、と、意地悪でこのようなことをおっしゃったのでしょうか? そうではないはずです。なぜならばイエスさまはこのおことばを語られるにあたって、「彼を見つめ、いつくしんで言われた」とあるからです。イエスさまはこの青年を愛されました。だからこそ、こうしてご自身の前にひざまずいてでも永遠のいのちへの道を求めるゆえに、その行くべき道はこれであると、真剣にお示しになったのでした。イエスさまはたしかに全能なるお方でいらっしゃいますが、それは人間の都合に合わせて救いの道を提示されるということではありません。 救いの道はこれ、と、たったひとつの道を提示され、それに従うかどうか、その道を行くかどうかを、人に問われるのです。神さまはおひとりであるゆえに、真理はひとつ、それゆえに、救いに至る真理の道はひとつだけであり、それに従うことができなければどうしようもありません。そんな人間に対するイエスさまのまなざしは、決しておさばきになるものではなく、いつでも優しいものですが、その優しいまなざしを受け取って真理に歩むことができないほど、人は罪深い者です。 ともかく、青年は去りました。イエスさまはおっしゃいます。「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいことでしょう。」このおことばに驚く弟子たちに、さらに重ねておっしゃいます。「子たちよ。神の国に入ることは、なんと難しいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」 聖書を読むと、いくつかのみことばが、神さまへの従順と富を所有することを対比させています。イエスさまは、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできません」とおっしゃっていますし、へブル人の手紙には、「金銭を愛する生活をせずに、今持っているもので満足しなさい。主ご自身が『わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない』と言われたからです」とありますし、ヤコブの手紙には「金持ちたちよ、よく聞きなさい。迫り来る自分たちの不幸を思って、泣き叫びなさい」とありますし、テモテへの手紙第一6章10節のパウロのことばに至っては「金銭を愛することが、あらゆる悪の根」であるとあります。こうなると、金を持っているということ、それだけでもはや、そういう人が天国に入るのは、ラクダが針の穴をくぐる以上に不可能、絶望的なことのように思えてくるかもしれません。 弟子たちもそう思ったことでしょう。彼らは言いました。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」それに対するイエスさまのお答えは明快です。27節です。あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだ。神が選んだ以上、あなたがたは救われている。永遠のいのちを持っている。 さて、相変わらず、ひとこと多いのがペテロです。28節のようなことを言っています。この流れでペテロがこのように言っていることは、一見すると、私たちは神さまの選びの恵みによってすべてを捨てて、あなたにお従いすることができた、と言っているように見えます。しかし、もし本当に神さまの恵みの選びに感謝しているなら、「ご覧ください」などと言って、すべてを捨ててイエスさまに弟子入りしたことをあえて誇るように言ったりするでしょうか。私たちの態度も注意する必要があります。神さまの恵み、主に栄光、ハレルヤ、と言うのは結構なのですが、その実、自分の自慢をしているようなことというのは、私たちクリスチャンには往々にしてあるものです。私たちは自慢したい、でも、自慢をする自分が後ろめたくて神さまをほめたたえているに過ぎないのではなかろうか、ほんとうに心から、神さまだけにご栄光をお帰ししているだろうか、と、自分を省みる必要があります。 29節、30節のイエスさまのみことばは、そんなペテロをたしなめるおことばではありません。一見すると、のちに大いなる祝福を受けるために、今わたしに従う証しとしてこれらのものを捨てなさい、とおっしゃっているように見えるかもしれません。しかし、そういうことではありません。神さまに選ばれ、救いの道を進む人は、自然と人生の優先順位を、このような、一般的に大事なものと思われているものから、神の国とその義に置くようになり、そのように人生が変えられた者に、神さまは、神の国とその義に添えて与える祝福として、いつの間にか捨てていたそれらのものを上回る祝福を与えてくださる、ということです。 もちろんそれも、神さまの恵みの中で起こされることです。立っていると思う者は倒れないように気をつけなさい(Ⅰコリント10:12)というみことばがありますが、このときペテロは、自分はしっかり神の国に立ってイエスさまに従っていた、という自信がありました。しかしそんなペテロも、イエスさまの十字架を前にすると無残なものでした。 そんな彼もあとになって回復をいただきましたが、少なくとも落ち込んでいたときは、この31節でお語りになったイエスさまのみことばの深い意味をかみしめ、その後初代教会の指導者となったとき、ペテロはつねに、自分が先の者として立っていられるのは神さまの恵みによるということを痛感していたことでしょう。 覚えておきましょう。天国はお金で買うものではありません。どんな努力をしても入れません。人間のわざでは救いには至れないのです。だから、自分にはみことばが守り行えないことを素直に認め、イエスさまに聴きましょう。 想像をたくましくしましょう。たしかにあの青年は、財産を手放すことはできませんでしたが、イエスさまのもとまで去ることはなかったのではないでしょうか。むしろ、彼はイエスさまのもとを離れないで、こう言うべきだったのではないでしょうか。「イエスさま、私はどうしても財産が手放せないんです! 貧しい人たちに施すのが正しいことだと分かっていても、できないんです! 永遠のいのちに入るのは厳しいですが、でも救われたいんです! 助けてください! こんな私を救ってください!」 私たちも、律法のほんとうに語ることがすべて生活に適用されると、とても救われる資格などない者です。そんな私たちは、どんなに努力しても律法を完全に守り行うことなどできません。だからこそ、そんな私たちをいつくしみ、優しく見守ってくださる、イエスさまのあわれみにすがり、罪の赦しをいただいて、恵みのうちに一歩、また一歩、前に進ませていただくばかりです。 祈りましょう。みことばに従いたい、みことばを守りたい、その思いがいつもあるのに、従えない、守れない、そんな私たちだけれども、イエスさま、救い主なるあなたさまにおすがりします。救いの道を歩ませてください。救いを完成させていただくうえで必要がないとあなたさまが見なされるものを、どうかあなたさまの恵みの中で捨てていき、それに代わる神の国の祝福を与えてください。

「神の国の子どもになろう」

マルコの福音書10章13節~16節/メッセージ;「神の国の子どもになろう」 私は子どもが好きですが、小さいころ、子どもが嫌いでした。当時、伊武雅刀という俳優さんのヒット曲で、音楽に合わせて演説をするという変わったものがありましたが、その内容たるや、子どもというものがどんなに度し難い存在か、子どものことがいやだ、嫌いだ、というものです。もちろん、それはギャグなのですが、私はこの、歌とも演説ともつかぬ変わった曲を親戚のおじさんの前で披露しては喜んでいたもので、おじさんは呆れていました。 そんなふうに、私が子どものくせして、子どもが嫌いだった理由は、いま振り返ればわかる気がします。引っ込み思案で、体育や音楽や図工のような「わかりやすい」科目がからきしダメで、みんなからからかわれ、恥ばかりかいていました。そんな私は、早く子どもであることをやめたくてたまらなかったのでした。おかげでわざと難しい本を読んでみせたり、難しいことばづかいをしてみせたりして、ますます浮いた存在になっていました。 そんな私の意識が変わったのは、教会に行くようになってからでした。何度もお話ししていますが、ダウン症のあっこちゃん、彼女の純粋きわまる信仰に触れて、そうか、難しいことなんて知らないでいいんだ、ただ信じさえすればいい、喜びさえすればいい、子どものように……。そのように、私は彼女の姿を通して教えられ、それから私は、日曜学校の教師をするなど、子どもが大好きになりました。神さまが私を変えてくださったのでした。ハレルヤ! さて、そこで今日の箇所です。今日の箇所は、2週間前の16日の礼拝でも取り上げていて、くどい説明にならないようにと思います。特に、今日の箇所のキーワードになるのは、「子ども」、そして「神の国」です。そこで今日は、「神の国」と「子ども」を関連づけた3つのポイントから、みことばの教える主のみこころを学んでまいりたいと思います。 第一のポイントです。神の国とは、子どものような者のものです。 イエスさまは力あるわざを行われました。それは、神の子としての御業でした。神の子であるゆえに、ほんとうの祝福を与えてくださるお方でいらっしゃいました。だから群衆は、イエスさまから本物の祝福をいただこうと、群れを成しました。 そこに、子どもを連れてきた人がいました。子どもを祝福してほしいと考えたのでしょうか? 子どもから手が離せないけれども、とにかくイエスさまのところに来るチャンスを逃したくなかったのでしょうか? いずれにせよ、この大人の人は、子どもを連れてやってきました。 しかし、みことばは何と語っていますでしょうか? そう、弟子たちが「彼らを」叱った、とあります。彼らとはだれでしょうか? 大人たちならば、子どもなんて連れてきてはいけない、という意味になるでしょう。子どもたちならば、だめだめ、ここはキミたちの来るところじゃない、ということでしょう。 しかし、イエスさまはどうでしょうか? 弟子たちのこの言動に、御怒りを発せられました。14節です。イエスさまは、子どもたちを来させなさい、止めてはならない、とおっしゃいました。そうです、イエスさまは子どもという存在を人として認めておられます。それ以上に、ご自身の祝福を受ける権利のある存在として認めておられます。 その権利は、たとえイエスさまの十二弟子であったとしても、とどめることは許されません。しかし、子どもという存在は、なんと、受けるべき権利や祝福をとどめられてしまうことの多いものでしょうか。冒頭でお話しした児童養護施設にいる子どもたちは、当然享受すべき安全かつ安定した環境を味わえなかった存在です。多くの大人たちは、子どものことをそのように扱っています。でもイエスさまは、そのような扱いを子どもに対して平気でしているような大人たちに対して、御怒りを発せられるお方です。たとえそれが十二弟子のような、イエスさまの特別の寵愛を受けているような者たちであっても容赦されません。いや、イエスさまの弟子だからこそ、子どもたちに対してそんな態度をするのは許さん、となられるのでしょう。 そのように、大人たちにメインで注がれている恵みから、子どもたちが隅に追いやられている現実というものも、残念ながらあるものです。しかし、だからといって子どもを、大人の集会にとにかく出席させ、静かにしているように躾けるにしても、子どもはじっとしているのが苦手です。それで、我慢できないでふざけたら思い切り叱ったりするようでは、子どもどころか、大人が恵みを受けるうえでもよくありません。子どもがむずがるのは、大人たちが礼拝を退屈なものにしてしまっているからです。私も自分に子どもがいるからなおさらですが、反省します。 これは言ってみれば、礼拝に臨んで主の恵みを受けているはずの大人たちに、子どもを受け入れる余裕がない、ということです。そんなとき、私たちは自分に問うてみましょう。果たして自分は、イエスさまの恵みをほんとうにいただいているだろうか? イエスさまの恵みを受けていれば、解放されているはずですし、子どもを受け入れる余裕もあります。何よりも、子どもを受け入れるお方であるイエスさまの願いが、大人たちの気持ちや態度、ことばや行いにおいて、実現することになります。 イエスさまが王として統べ治める神の国、そこに子どもたちが入れるようにするのは、つまり、子どもたちが神の国に入るというイエスさまのみこころを実現するようにするのは、大人たちの責任です。主は、私たち大人が、イエスさまの愛を顕すことにおいて、子どもたちに対してどんな態度をとっているかを、つねに見ておられることを心に留めてまいりましょう。 みなさまにも祈っていただきたいのです。以前に比べると下火になりましたが、もともと私どものミニストリーは、子ども伝道に力を入れていたものです。これはやはり、みなさまの祈りを込めたご協力のとても必要な領域です。まことに、子どもを愛することは、教会全体で取り組むことであると、私は声を大にして申し上げたいのです。 私たちはイエス・キリストが王である、神の国の民です。そしてイエスさまがおっしゃっているとおり、神の国にふさわしいのは、子どもです。子どもたちを積極的に、教会という、この地上に実現した神の国に招き入れるお手伝いをする、そのような私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 第二のポイントにまいります。第二に、神の国に入るには、子どものようになることです。 15節のみことばです。……子どものように神の国を受け入れる人が、神の国に入れる。そこで私たちは、このイエスさまのみことばからいくつか考えてみたいと思います。 まず、神の国、とは、単なる概念ではありません。それは、私たちが礼拝している礼拝堂が存在するのが、日本という国である、その日本という国の存在のように、確実なものです。しかし、「神の国」を規定するのは、何らかの法律ではありません。信仰告白の伴う信仰が必要になります。 では、何を信じるのでしょうか? 神の国は力の伴った実体であることを信じるのです。具体的には、イエスさまが病気をいやされ、悪霊を追い出され、みことばをもって死んでいたたましいを生き返らされ、十字架に死なれてよみがえられ、天に昇られ、やがて来られる……そのことを心から、そのとおりに信じ受け入れることです。 子どもは、聖書を読むならば、イエスさまが神の子であること、奇跡を行われたこと、悪霊を追い出されたこと、病気をいやされたこと、死人を生き返らされたこと、十字架に死なれて三日目によみがえられたこと、みんなそのとおりに信じます。それが大人になるとどうでしょうか。聖書を読んでも、そんなことはありえないと否定するか、嘲笑います。あれこれ理屈をつけて、聖書の奇跡の記述を合理的に説明して、自分なりに納得しようとします。そんなにまでして、聖書の記述そのものを受け入れないことが正しいとでもいうのでしょうか、といったところです。 聖書のとおりに神の力を信じ受け入れるならばどんな信仰が生まれるでしょうか? 神さまは祈りを聴いてくださり、イエスさまの十字架によって罪を赦してくださり、永遠のいのちを与えてくださる、いや、それだけではない、病気を実際にいやしてくださる、悪霊を実際に追い出してくださる、また、それだけではない、自己中心の人が愛の人に変わる、けがれた人がきよい人になる、傲慢な人がへりくだった人になる、仕えられることを好む人が仕えることを実践する人になる、それが、神の国の人になる、ということです。 コリント人への手紙第一4章20節でパウロが語っています。「神の国は、ことばではなく力にあるのです。」イエスさまが王として統べ治める神の国は、頭だけの聖書理解にとどまりません。生活が実際に変わっていきます。なぜならば、イエスさまがその人にみわざを行なってくださるからです。 ただし、みわざを行なっていただく条件は、子どものように神の国を受け入れること、です。神の国を受け入れているならば、イエスさまが全能なる神にして、王でいらっしゃることを受け入れることです。 子どものようになるならば、受け入れることができます。ただし、子どものように、ということを間違ってとらえてはなりません。日本語の「子どもらしい」と「子どもっぽい」がちがうのはお分かりだと思います。英語もちゃんと両者を区別していて、「子どもらしい」は「チャイルドライク」、「子どもっぽい」は「チャイルディッシュ」です。私たちがイエスさまを神の国の王としてお迎えするにあたって取るべき態度は、「チャイルドライク」であって、「チャイルディッシュ」ではありません。 「チャイルディッシュ」の態度はいわば、「どうせイエスさまが十字架ですべての罪を赦してくれたんだから、何をしても許される!」とばかりに、自分勝手な生き方、幼稚な生き方を悔い改めようとしないことです。それは、イエスさまを王としていない、自分が王様のようにふるまう、傲慢きわまる態度であり、神の国にふさわしくありません。 「チャイルドライク」はそうではなく、子どもとしての分をわきまえながらも、子どものように素直に、みことばがそのとおりだと受け入れる態度です。そういう人は素直に、しかし、おもちゃやお菓子をねだる子どものように一生懸命、神さまのみわざが起こされるように祈りますし、神さまはそういう人に、御力をもってみわざを行なってくださいます。こうして、神の国は力をもってその人に実現することになります。 そういう点で、神の国を受け入れるにあたり、子どもになりきれた人は、文字どおり最強です。なぜならば、その人にこそ、全知全能なる神さまが大いにお働きになる余地があるからです。私たちもそんな人になりたいでしょうか? もし、わけ知り顔の大人のように、はなからみこころなどありえないように決めつける人は、そもそも信仰をもってお祈りなどしないでしょうし、そういう方に主が大いにお働きになるでしょうか? ともかく私たちは、子どものような謙遜さ、素直な信仰、熱心に求める態度を与えていただきたいものです。 第三のポイントにまいります。第三に、神の国の王イエスさまは、子どもを祝福するお方です。 16節です。イエスさまは子どもたちを抱っこされました。そして、子どもたちの頭に手を置いて祝福されました。 こうしてみると、イエスさまはほんとうに、子どもが大好きなことが分かります。神さまご自身なのに、抱っこまでしてくださるんですよ! そしてイエスさまはお語りになります。「まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」 子どものように神の国を受け入れる人は、イエスさまに抱っこされていい、自分の頭に手を置いて、祝福していただいていい、と、イエスさまの前で子どもになりきれる人です。考えてみましょう。大人になると、私たちはなんと多くの罪を犯すことでしょうか。そして言うまでもなく、罪とはからだを使って犯すものです。そんな、罪を犯すからだ、罪だらけのからだを、イエスさまが抱っこしてくださろうというのです。私たちは果たして、自分のからだを差し出せるでしょうか? さらに言えば、イエスさまが手を置いて祝福してくださるからだの場所は「頭」です。私たちが罪を犯すとき、それは頭の中でまず、考えにおいて罪を犯すところから始まります。頭とはかくも罪に満ちた器官です。イエスさまはその頭に手を置いて祝福してくださろうというのです。私たちは果たして、自分の頭を差し出せるでしょうか? しかし、イエスさまは私たちが、子どもだからという理由で受け入れてくださいます。からだを抱っこしてもくださいますし、頭に手を置いて祝福してもくださいます。私たちがそんな罪深いものであることをすべてご存じの上で、なお受け入れてくださるのです。 だから私たちは、恥ずかしがってイエスさまから逃げ回るべきではありません。こんな罪深い者はあなたさまに近づけません、ということは、謙遜ではありません。それは、それにもかかわらず愛してくださるイエスさまの愛を拒む、傲慢な態度です。 イエスさまの愛に飛び込んでいいのです。ここでも私たちは、子どもになりきることが求められています。そうしてイエスさまに抱っこされ、御手を置かれて祝福していただいたならば、私たちは罪深い自分中心の生き方から、イエスさま中心のきよい生き方へと変えていただけます。私たちはみことばを読むたびに、こんな厳しい教え、高い基準は守り行えないと、落ち込んだり、諦めたり、そもそも自分とは関係のない世界だ、などと思ったりしてはいなかったでしょうか? そうではないのです。イエスさまは私たちを抱っこしてくださり、私たちの頭に手を置いて祝福してくださることで、みことばを理解する力、そして、みことばを守り行う力に、私たちのことを満たしてくださるのです。 イエスさまに抱かれている感覚、御手を置いていただいている感覚、それを私たちは、みことばを読んで学ぶときに、お祈りをおささげするときに、意識してまいりたいものです。それはやはり、頭だけの理解にとどめる、悪い意味で「大人ぶった」信仰によっては身に着けることはできません。この点でも私たちは子どもになる必要があります。イエスさまに抱っこされ、手を置いていただいてあらゆる力をいただいて、私たちは神の国の民として、この地上において雄々しく振る舞うことができ、やがて天の、神さまが待っておられる場所に迎え入れていただけます。 私たちを子どもにさせないでいるものは何でしょうか? そのまま受け入れてくださる神さまの愛と赦しを疑わせているものはなんでしょうか? そのような者がことごとく取り除かれ、私たちがほんとうに子どもとなって、イエスさまが王として統べ治める神の国を受け入れ、この地上の歩みにおいて神の国の力を体験し、また現していくことができますように、主の御名によってお祈りいたします。

「結婚におけるみこころ」

祈祷/使徒信条/交読;詩篇150篇/主の祈り/讃美歌515「十字架の血にきよめぬれば」/聖書箇所;マルコの福音書10:1~12/メッセージ/聖歌538「ただ主を」/献金;聖歌614「主の愛のながうちに」/頌栄;讃美歌541/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「結婚におけるみこころ」 小学生も高学年くらいになると、男の子が女の子を好きになり、女の子が男の子を好きになる、ということも、ちらほら現れてきます。私もそんなひとりでした。クラスの、隣の席の子。友達が気を利かせてくれて、私の誕生日パーティにその女の子を呼んでくれたときは、天にも昇る気持ちでした。残念ながら私は中学受験で東京の学校に行ってしまったため、彼女とは疎遠になりましたが、今でも、ああ、あの子が誕生日プレゼントにくれた鉛筆と消しゴムで、中学校の入試に臨んだっけなあ、なんて想い出します。 そんなふうに、その頃私の通いました小学校では、あいつはあの子が好き、あの子はあの男が好き、なんて、ゴシップで盛り上がることこの上なかったのですが、私は彼らのゴシップの輪の中で、割と浮いているほうでした。といいますのも、私はひとたびだれかのことを好きになったら、「結婚」ということを考えて、そんなことを友達に熱く話して聞かせたからでした。友達にしてみれば、「そんな年で結婚がどうのこうのなんて早すぎるよ!」といったところだったわけです。しかし私は、結婚のことを考えられない恋愛は遊びだ、そんなのはいけないことだ、という思いを、小学生なりに強く持っていました。 のちに私はクリスチャンになり、クリスチャンの若者の兄弟姉妹とつきあうにつれ、彼らは、「惚れた腫れた」の恋愛を賛美するこの世の流れから一線を引いたきよい人たちである、ということを知りました。また彼らが、いざ人を好きになるならば、その人との結婚を真剣に祈る人たちであることを知り、ああ、なんてすばらしい、と、しみじみしたものでした。 ともあれ、結婚というもののすばらしさを語りはじめるならば、私などは、三日三晩あってもまだ足りないくらい語りたいことがいっぱいですし、また、語るのが大好きです。今日はそんな思いをぐっとこらえて、イエスさまがお語りになった、みこころにかなう結婚のあり方というものについて、ともに学んでまいりたいと思います。 イエスさまはガリラヤを去り、南のユダヤへと赴かれました。もちろん、群衆はイエスさまのもとに集まってきて、神の子自らが解き明かしてくださる至上の聖書講解を聴くという、素晴らしい恵みにあずかっていました。 面白くないのは宗教指導者たちです。いや、イエスの説く教えは異端だぞ、とばかりに、正統の聖書学者をもって自任するパリサイ派の教師たちが、イエスさまのもとにやってきます。粗探しをして、あわよくば告訴して葬り去ってやろう、という、薄汚い意図が彼らにはありました。 パリサイ人はどんな質問を用意したのでしょうか? 2節です。……これは、どちらの答えをなさっても、イエスさまを葬り去ることができる、という計算が彼らにあったと見ることができます。同じような質問は、「姦淫の女を石打ちにするか否か」、また、「カエサルに税金を納めるべきか否か」というものがあり、どちらの答えをしてもイエスさまを失脚させられる、答えないなら答えないでイエスさまがその程度の人物だったという印象を民衆に与えられて失脚させられる……そんなことを彼らは考えたわけで、ほんとうに、悪知恵はここに極まっています。 この質問の場合は、どういう罠がその背後にあったのでしょうか? まず、「離婚することは許される」とイエスさまがおっしゃったらどうなるでしょうか? パリサイ人のことばをよく見ると、「夫が妻を離別する」と表現しています。つまり、この離婚の主導権は夫の側にあり、妻の側にはありません。 イエスさまは女性と子どもにやさしい、つまり、弱い立場の人にあわれみをお示しになるお方です。もしイエスさまが、夫が妻と離別してよいとおっしゃったならば、イエスさまの愛の教えと矛盾することになります。結局は男性中心の社会におもねる、愛のない人、ということになり、そういうイメージが拡散されて人気が失墜することをパリサイ人は狙っていました。 しかしそれなら、離婚してはならない、とおっしゃったとしたらどうでしょうか? 実はこの背後には、バプテスマのヨハネを処刑したガリラヤの国主ヘロデ・アンティパスの存在がありました。ヘロデ・アンティパスは、腹違いの兄弟であるピリポからその妻ヘロディアを奪うために、それまでの妻を捨て、ヘロディアを自分の妻にしてしまいました。バプテスマのヨハネはそれに対し、あなたのその行いは律法にかなっていないと糾弾しました。ヘロデはヨハネを逮捕し、牢獄に入れ、ついには妻ヘロディアの策謀により、ヨハネは殺害されてしまいました。イエスさまが、離婚はいけない、とおっしゃったとするならば、それは権力者であるヘロデ・アンティパスを糾弾したことになると見なせることにもなり、うまくいけば、イエスさまもヨハネのように葬り去れる、という計算が、パリサイ人たちにありました。つまり、どちらに転んでも、イエスさまを失脚させられる、と彼らは踏んだわけです。 しかし、パリサイ人のこの挑発に、イエスさまは断固として立ち向かわれました。まずイエスさまは、なんとおっしゃったのでしょうか。3節です。 彼らパリサイ人は、判断を下す根拠として、聖書を用いていましたし、また用いるべき立場にありました。そこでイエスさまは、あなたがたがわたしのことを試すならば、まずはあなたがたの考えの根底にある聖書箇所を示しなさい、とおっしゃったわけです。 何度もこの講壇から語らせていただいていることですが、「韓国のクリスチャンは祈るクリスチャン、台湾のクリスチャンは賛美するクリスチャン、日本のクリスチャンは? 議論するクリスチャン。」しかし、議論がもし健全であるならば、日本の教会もあながち間違ってはいないと思います。実際、私が韓国の神学校で学んでいたとき、日本の神学校はレベルが高い、という話をよくお聞きしたものでした。ただし、その議論は、聖書の禁じる「ことばについての論争」というものではなく、どこまでも、聖書の穏健な解釈に根差したものである必要があり、そのためには、固定観念や先入観を排除して、聖書そのものを素直に読むことが必要になります。 そこでイエスさまは、パリサイ人に対しても、2つのことを自ら顧みるように仕向けられました。すなわち、あなたがたの考えの基礎になる聖書のみことばは何ですか、ということ、もうひとつは、あなたがたの聖書解釈は、みこころにかなったふさわしいものですか、ということです。 牧師や宣教師のような、神さまのために献身した働き人がほんとうにみこころにかなっているかどうかを判断する基準は、いろいろありますが、最優先の基準とすべきものは、なんといっても聖書です。聖書の教えに明らかに反している言動をしているならば、その働き人は一見するとどんなに立派な業績を上げているようでも、みこころにかなった働き人と見なすわけにはいきません。 しかし、聖書を基準にする場合、もうひとつ注意しなければならないことがあります。それは、「そもそも基準とする聖書の解釈がふさわしくない場合」です。聖書にはふさわしい読み方、解釈のしかたというものがあり、それは、長い教会の歴史の中で定まっているもので、だから私たちはたとえばアウグスティヌスですとか、カルヴァンですとか、スポルジョンですとか、歴史も国も民族もちがう人物の著書からも学ぶことができるわけです。 しかし、最近発生して猛威を振るっている異端、具体的には、教会に入り込んで信徒を奪い取っていくようなタイプの勢力は、かなり変わった聖書解釈をします。長い歴史の中で世界中で踏襲されてきたキリスト教会における聖書解釈の流れからは、まったく発生することなどありえない読み方で信徒を籠絡し、自分たちの陣営に引き入れるわけです。最後には唯一の救い主、イエスさまの十字架の贖いを否定するところまでマインドコントロールされてしまいます。 だからこそ私たちはふさわしい聖書解釈を身につけておく必要があるわけで、現在、礼拝の最後に祝祷のあとで「バプテスト教理問答書」から学んでいるのは、そのような伝統的かつ健全な聖書解釈を私たちが自分のものにする必要があるからです。毎週必ずこの時間を持ちますが、どうか面倒だとか退屈だとか思わないで、しっかり学んでいただければと思います。 さて、本文に戻りますが、彼らが根拠としたみことばは、申命記24章1節から4節のみことばです。しかし、この箇所は一読してみればわかりますが、離婚というもの一般について神さまは容認しておられる、と言い切るには、無理があるのがわかるはずです。モーセのことばはかなり限定的であり、夫が妻を離別することそのものを許している、ということではありません。 ここから、パリサイ人たちがイエスさまに対してかけた罠が外れていきます。このみことばを用いようと、ヘロデがヘロディアの美貌をわがものにしようと最初の妻を捨ててヘロディアをめとったことなど、一切弁護できません。さしものパリサイ人も、こういうことを言ってしまっては、これがヘロデを弁護するみことばになりえないことを、自ら認めたようなものです。イエスさまを葬り去るためならばヘロデ党とも組み、ヘロデの側に立つこともいとわないパリサイ人は、こうしてまず、策士策に溺れるような結果となりました。 それでも、パリサイ人たちは、聖書の律法は離婚を認めている、という、その一点によって、イエスさまを糾弾する方向にかけているかのように見えます。実際、妻を離縁することは許されているではないか、さあ、それなのに、あなたは「離婚は許されない」などと言うのか? 彼らはこんどは、イエスさまの教えは律法に反しているのではないか、という点で攻撃の機会を得ようとしました。 パリサイ人のこの答えに対して、イエスさまはしかし、そのみことばのふさわしい解釈をお示しになりました。まずは5節です。……つまり、人とは神さまの教えを守り行うべき存在なのに、守り行いたくない肉の思いを優先させることおびただしい、実に頑なな存在、それは結婚という領域にも波及し、妻は姦淫を犯し、夫はそれを許せず、結局は離婚することで丸く収める、そうして、イスラエルの共同体を、彼らが神の民でありながらも罪人であるという、その頑なさを容認しつつも、神の民としての聖さの中に保たせるわけです。 本来ならば、姦淫の罪など犯すべきではありません。はっきり律法に規定されているとおりです。しかし、人は弱いので、悲しいことですが、よろめくということもありえます。それくらい人は頑なな罪人です。それでも、そういう人をあえて妻として迎え入れた、預言者ホセアの実例が、彼らパリサイ人にとっても大事な存在である、旧約聖書に登場します。しかし、なかなかそうはなれないくらい、人は愛のない、頑なな存在です。そんな神の民の秩序を守らせるためには、離婚もやむなしとして、民をきよさの中にとどめるしかなかったのでした。 しかしここでイエスさまは、画期的なことをおっしゃいます。いえ、画期的というよりも、そもそも神さまは人をどのような存在としておつくりになったのか、ということをおっしゃいます。原点に返らせたわけです。6節から9節のみことばです。 まず、人という存在は、男と女に創造されている、ということ、そして、そのひとりの男とひとりの女は、父と母を離れ、愛し合うべく夫婦として一体となること、それはふたりではなく、ひとりになることである、ということ、そのように、ひとりの男とひとりの女を一体、ひとりに結び合わせるのは、神さまである、だからだれも、この存在を引き離してはならない、と教えてくださいます。 これが、イエスさまの教えてくださった、夫婦という存在に対するお答えです。結論として、離婚はいけない、それは、それが神さまのみこころだから、ということを、きちんと説明してくださいました。もしそれでパリサイ人がヘロデに言いつけるようでしたら、悪いのは聖書をちゃんと理解していないパリサイ人、ということになります。 さらに、パリサイ人たちが去ったのち、イエスさまはさらに高い次元の教えを弟子たちにお語りになりました。11節、12節です。 本来、結婚するということは、ここまでの純潔を互いに対して約束することである、二夫(二婦)にまみえる、ということは、姦淫である、ということを語ります。このメカニズムをまず11節から見ますと、男性の場合、妻を離別して別の妻と結婚した場合、それはその男性が姦淫を犯していることになるのだとイエスさまはおっしゃいますが、その姦淫の対象が、現在結婚している妻ではなく、かつて婚姻関係にあった女性であることに注意が必要です。つまり、いま仮に婚姻の状態にある女性、つまり奥さんともし別れたとしたら、その奥さんはなんと、姦淫の罪を犯した相手になりえる、もし別の女性と結婚してしまったら、ということです。もし旦那さんがちゃんとしていなかったら、いまの奥さんが自分にとって未来の姦淫の相手と、神の目に見なされるようになるしれない、なんと恐ろしい警告でしょうか。そう考えると、男性はやすやすと、浮気や不倫のたぐいなど考えることなどできないはずです。いまの奥さんが神さまの結び合わせてくださった人、そう信じ受け入れることが何よりも大事になります。これは信仰の問題、神さまと自分との関係の問題です。 イエスさまがこのようなことをおっしゃることができるのは、イエスさまこそが教会に対するまことの花婿だからです。イエスさまは花嫁なる教会を、ご自身の血潮によって買い取ってくださいました。もし人が、イエスさまの十字架によって罪赦され、神の怒りとさばきから救われると信じ受け入れるならば、人はキリストの花嫁として、教会というキリストのからだなる共同体に入れられる資格を得ます。そうして、バプテスマをもって教会の一員となり、主の晩さんにつねに与りながら教会の一員としてともに信仰告白し、やがて再びこの地に来られるイエスさまを花婿としてお迎えできるように、日々待ち望みます。 しかし、イエスさまはここで、女性の側の責任も問われます。妻は女性である以上、一般的に当時のユダヤにおいては社会的には弱い立場にありましたが、だからといってみこころにかなわない行動をしたならばそれが免責されるわけではありません。申命記の該当する箇所によれば、夫が妻を離別してその妻が別の男の人に嫁いだ場合、について扱っていますが、このケースは逆に、妻が夫から去る場合です。そして、さらに別の男性に嫁いだならば、ということで、その場合、それは姦淫である、とイエスさまはおっしゃっています。 「離婚」ということに対するイエスさまのお考えは、かくも厳しいものです。ただし、補足して説明しますと、イエスさまは無条件に、離婚は一切いけない、とおっしゃっているわけではありません。マタイの福音書の19章、1節からのみことばは、本日の箇所の内容が別の視点から語られていますが、その箇所においては、夫のことのみが語られています。夫たる者が妻を離別するならば姦淫を犯すのである、とイエスさまはお語りになり、そのあまりの厳しさに弟子たちは、「もし妻に対する夫の立場がそのようなものなら、結婚しないほうがましです」と答えています。しかしイエスさまはそれを戒め、結婚しない男性は生まれつきそのようになっている人か、神さまに献身することを独身を貫くという形で実践するつもりの人にかぎられ、そうではない男性は結婚することがふさわしいとほのめかされました。 それともうひとつのこと、それは、離婚が許されるケースとして、「不貞」ということを挙げられました。逆に言えば「不貞」以外の理由で離婚することは姦淫につながるという厳しいメッセージですが、つまりそれだけ、「不貞」ということは特別に、厳しく取り扱われるべきものである、ということです。 不貞はなぜそれほど厳しくさばかれるべきことなのでしょうか? それは、その不貞という行為は、神さまの結び合わされた配偶者を裏切る罪深い行為であり、弁護の余地がないからです。キリスト教会においては、夫婦のどちらかが姦淫の罪を犯したという理由で離婚に至った場合、潔白な側は再婚することが許される習わしとなっていますが、それはイエスさまの、このみことばが根拠となっています。 さて、結論とするには極めて壮大な話なのですが、キリストが花婿であり、教会が花嫁であるという聖書のみことばに照らせば、男性とはキリストの象徴であり、女性とは教会の象徴です。男女が先に存在して、それによって聖書はキリストと教会の愛し合う関係を説明しているわけではありません。教会とキリストの愛し合う関係が存在することを前提に、男女の関係、夫婦の関係を見るべきです。 姦淫がなぜいけないのかは、ここから説明できます。キリストは決して教会をお見捨てにならない、絶対的な愛を注いでくださるお方です。教会はキリストのその絶対的な愛によって、完全にきよいものとしていただきました。その両者が愛し合う関係には、何の雑なものも入り込む余地がありません。 夫婦の相愛関係とは、キリストと教会とのその相愛関係を象徴するゆえ、そのように愛し合うように、神さまは旦那さんと奥さんを召されました。その相愛関係を壊すことが姦淫なのです。イエスさまは教会をお見捨てになりません。教会はイエスさま以外に主はいません。同じように、夫は妻を愛し、妻は夫に従うことによって、夫を愛します。その、お互い以外のだれかに肉欲をいだき、その感情の赴くままに別の人のもとにいくなら、それはキリストと教会の相愛関係の象徴であることを自ら捨てたことになります。 しかし、それだけに、私たちはイエスさまの愛を思う必要があります。先ほども申しました旧約の預言者、ホセアは、新約式に名乗るとイエスであり、イエスさまの象徴というべき人物です。その彼が、姦淫の妻を許して受け入れたということを見て、私たちは何をメッセージとして受け取るべきでしょうか。それは、たとえ自分がコキュになっても、相手を無条件に受け入れなさい、ということでしょうか。そうではありません。イエスさまさえ、姦淫は離婚の理由にしていいことをおっしゃっています。もちろん、不倫生活を清算した人をもとの配偶者が許して受け入れた、というケースを、私はいくつか知っていますし、それができる人は立派だとは思いますが、だれもが無条件にそうすべきかというと、それは簡単な問題ではありません。 私たちがホセアのエピソードから学ぶべきことは、キリストと教会の相愛関係から除かれるほどの罪をいまもなお犯しつづけるような私たちのことを、イエスさまはなおも赦し、受け入れてくださっているということ、だから私たちは罪を犯したことに気づかされたならば、迷わずイエスさまのもとに行くべきだということです。まさに、離縁して当然の妻を受け入れたホセアの姿は、イエスさまの御姿を映しています。 使徒パウロは、すべての罪はからだの外に対して犯すものであるが、姦淫にかぎっては、からだに対して犯すものであると語りました。それほど、姦淫というものは、神さまの結び合わされたひとつのからだなる夫婦、キリストと教会の相愛関係のまたとない象徴を破壊する罪です。だからこそ私たちは、すべからく姦淫の罪を避けるべきなのです。 しかしここで、ひとつフォローしますと、姦淫の罪とは、心の中で犯したものまで含む、とイエスさまはおっしゃっています。配偶者以外の人に肉欲をいだくことそのものが、たとえ実際の行為に及ばなくても、姦淫の罪であるわけです。そうなりますと、いったい私たちは無事で済むでしょうか。厳密に言うと、街ですれ違う人に目を奪われて、その後その人のことが頭から離れなくなってもアウトです。そのようなことまで神さまがおさばきになるのが本来のみこころです。まったく耐えられません。 しかし、そのような真っ赤な緋のような罪も、雪のように白くしてくださるのが、イエスさまの十字架の血潮です。今日は特に、教会の中に、まことの結婚に象徴される純潔、ウェディング・ドレスのごとききよさが保たれるように、日本の、世界の教会のために、お祈りいただけたらと存じます。