「パン種の話」

子ども時代、いろいろな童謡を聴いて育ってきたが、こんな歌もあった。「ポケットの中にはビスケットがひとつ ポケットをたたくとビスケットはふたつ もひとつたたくとビスケットはみっつ たたいてみるたびビスケットはふえる そんなふしぎなポケットがほしい そんなふしぎなポケットがほしい」私はビスケットが好きだったので、ほんとうにこういうおとぎの世界にあこがれたものだったが、おとぎばなしではなく、実際にそれをなさったお方がいた。ただし、ビスケットではなく、パンと魚で。そのみわざをなさったのはイエスさま。 今日の箇所を見てみると、マルコの福音書6章に出てくる、五千人給食の繰り返しのように思えるかもしれない。しかし、今日の箇所で特に、異邦人の地にてこの御業が行われたということに注目しよう。イエスさまがパンを分け与えられたのは、豊かな天の御国の宴会をこの地にて行われたということだが、それをイエスさまは、異邦人の地で行われた。これは、異邦人にも救いの道が開かれ、主のみからだに与る恵みが与えられた、ということである。 ヨハネの福音書を見てみると、イエスさまがこのように、奇跡のようにしてパンを分け与えられてから、ご自身こそがいのちのパンであると人々におっしゃった。ほんとうに分け与えられるもの、そして、人々にまことのいのちを与えるものは、イエスさまのみからだであることをお示しになった。しかし、このことばに、十二弟子を除く弟子たちは去って行ってしまった。イエスさまのみことばがわからなかったのである。 それなら、イエスさまはもう、どうせこのような奇跡を行なっても人々がご自身についてこないなら、行なっても無駄だとばかりに、もう行うのをやめてしまわれたのだろうか? そうではない。この箇所を見てみると、イエスさまのみことばを求めて、食べることも忘れて耳を傾けていた何千人もの人々のことを、イエスさまは「かわいそうに」と憐れまれた。そして、この人たちを食べさせよう、と、イエスさまは思われた。 4節を見てみると、弟子たちはまだ、イエスさまがそれ以前にみわざを行なわれ、わずか5つのパンと2匹の魚で5000人もの人々を養われたお方だということが抜け落ちていた。そのような弟子たちの不信仰をよそに、イエスさまはわずか7つのパンと少しの魚で、4000人もの人々を満腹させられた。 ここでも、弟子たちの信仰が問われたのであった。イエスさまがこのようにみわざを行われたのは、もちろん、そこにともにいる群衆のためであったが、同時に、そばにおいて訓練している弟子たちがまず、全能の神さまであるイエスさまに対して信仰を持つようにするためであった。信仰の訓練を、これほどまでにダイナミックな方法で、イエスさまは行われたのであった。 さて、それでは、イエスさまはこのようなしるしと奇跡を行うことが、この世に来られた目的なのだろうか? そうではない。ガリラヤ湖を渡ってダルマヌタ地方に行かれたとき、そこにはパリサイ人が待ち構えていた。彼らは天からのしるしを見せよとイエスさまに迫った。しかし、イエスさまは彼らの誘いには乗らず、「今の時代には、どんなしるしも与えられません」とおっしゃった。 イエスさまがしるしを行われたのは、みことばに飢え渇いたうえに食べ物にも飢え渇いた、群衆のためであった。その動機は「あわれみ」であった。しかし、そもそも満ち足りていて、神の子であるイエスさまのことを一切認めないような傲慢なパリサイ人を前にしては、そもそもしるしをお見せになる必要がなかった。イエスさまは、「今の時代には、どんなしるしも与えられません」とおっしゃったが、これは、イエスさまというお方が、しるしを見せることによって人々を説得し、王の座にお着きになるお方ではないことを示している。 ほんとうのしるしは、イエスさまの十字架と復活である。いみじくもイエスさまは、このように挑発するパリサイ人に対して、「ヨナのしるしのほかは、しるしは与えられない」とおっしゃったが、ヨナは神の怒りに触れて荒海に投げ込まれ、それによって神の怒りはなだめられたが、ほとんど死んだような状態になった。そんなヨナは大魚に吞み込まれ、3日3晩大魚の腹の中で過ごし、ついには陸地に生きて吐き出された。そのように、イエスさまが人々の身代わりに神の怒りを受けて十字架に死なれ、墓に葬られ、3日目によみがえって墓の外にお出になるというしるしこそがほんとうのしるしであるとおっしゃったわけだが、パリサイ人の目にはそのことが隠されていた。 13節にあるとおり、イエスさまはパリサイ人から離れられた。パリサイ人は、自分たちこそみことばをよく理解していると自負していただろうが、そのような者が、神の子なるイエスさまのことがわからなかったとは皮肉である。彼らは傲慢な態度で、目の前におられるこのお方が神の子であることを否定し、もちろん自らも信じようとしなかったが、イエスさまはそのような者からは離れられる。 ある牧師先生のメッセージを聴いて愕然としたことだが、こうおっしゃっていた。「韓国の教会は祈る教会、台湾の教会は賛美する教会、日本の教会は? 議論する教会」。別の先生はこんなこともおっしゃった。「クリスチャンが部屋の中に集まって、みんなで、ああでもない、講でもない、と話し合っています。そんなとき、部屋の外ではイエスさまがドアをノックしていて、『もしもし、わたしはここですよ』とおっしゃっています。」 韓国にいたとき、日本の教会は神学が深いということをよくお聞きしたが、私にはそれがほめことばには聞こえなかった。ほんとうに神学が深まって成熟しているならば、もっと教会が成長してもよさそうなものである。議論ばかりで肝心のイエスさまに向かい、お交わりを持とうとしない教会からは、イエスさまは離れられるのではないだろうか。パリサイ人のことは私たち日本の教会にとって、ひとごとではない。 さて、パリサイ人から離れたイエスさまの一行は、船に乗ったが、パンが1個しかなかった。そのとき、イエスさまは15節のようにおっしゃった。しかし弟子たちは、この「パン種」というものが、食べるパンと関係のあるものだという、浅はかな解釈しかできず、議論を始めてしまった。 イエスさまはそれをご覧になり、お叱りになった。17節から18節。7つもお叱りのおことばを語っておられる。七は完全数。肉的なことしか考えられなかった弟子たちを、完全にお叱りになった、ということである。 イエスさまがその時思い起こさせられたことは、パンを豊かに増やされ、人々を食べさせたのちに、残りを取り集めてもそのかごはたくさん、いっぱいになった、ということだった。12も7も、聖書の世界では完全数である。人々を食べさせた残りの、かごに入った食べ物は、弟子たちのためのものである。弟子たちのことをこれほどまでに、完全に食べさせることができるイエスさまのことを、なぜ信じない、と、イエスさまはお嘆きになり、その7つの完全なお叱りのことばをもって、弟子たちの不信仰を徹底的に取り扱われたのである。 それでは、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種」とは何であろうか? それは、この世に属する俗的な神解釈である。パリサイ人は、人々に宗教的な生活を強いることで、自分たちの既得権にこだわった。それはヘロデも同じことで、ヘロデは宗教社会の統治者として君臨してはいたものの、実際はへロディアを妻とし、バプテスマのヨハネを処刑するような俗物だった。そしてこれはどちらも、イエスさまをまことの神さまと信じてお交わりし、お従いすることとは異なることである。 面白いことに、パリサイ人もヘロデも、イエスさまに何らかの奇跡を行うことを要求した。この箇所を読むとパリサイ人はイエスさまにしるしを要求しているし、ヘロデは十字架にかかられる直前のイエスさまを尋問したとき、イエスさまに何らかのみわざを行うことを要求している。 しかし、このようにまことの神なるイエスさまに要求することは、所詮、イエスさまに対する不信仰の裏返しである。この場合の不信仰は、「イエスさまを信じないこと」というよりも、「イエスさまよりも自分の考えを正しいとすること」と言えよう。自分の考えを最優先で信じて、イエスさまへの信仰は二の次、なのだから、これも不信仰ということができる。 ほんとうにイエスさまを信じているならば、イエスさまのおっしゃることはすべて、アーメン、そのとおりです、と信じ受け入れてしかるべきである。そこに人間的な考えが入り込むからおかしくなり、ややこしくなる。そのような不信仰が悪いパン種である。パン種は本来、パン生地に入ってパンを大きく膨らませて、食べられるようにもする。神の国の福音というものもそのように、人々を限りなく成長させる。イエスさまのみ教えはそれほどの力を持つ。しかし、悪いパン種が入ると、パンが腐るように、教会という共同体の中に悪いパン種のごとき不信仰が入り込むならば、教会はイエスさまとまともにお交わりすることができなくなり、不信仰の共同体になってしまう。 イエスさまがあれほど、口を極めて弟子たちをお叱りになったのは、不信仰という次元においては、パリサイ人やヘロデと五十歩百歩のみっともないさまを、弟子たちが見せてしまったからと言える。つまり、十二弟子の共同体の中にさえも、悪いパン種は入り込む余地があった。そのたびにイエスさまは、お叱りのことばを語って彼らを悔い改めに導かれた。子どもはイエスさまのもとに来てはいけないというのはパリサイ人のごとき律法主義である。イエスさまはそのようなことを言う弟子たちを激しくお叱りになって、子どもたちを受け入れられた。だれがいちばん偉いかと議論する弟子たちの姿は、ヘロデのように宗教社会において世俗的権力をもって君臨しようとする醜い姿であり、イエスさまは、神の国とはそのようなものではないことをお示しになるために、みなに仕える者になりなさいとおっしゃった。 教会はいつでも、パリサイ人のパン種のような律法主義にやられる可能性がある。あるいは、ヘロデのパン種のような世俗的な権力主義にやられる可能性がある。私たちとて例外ではない。教会がそのどちらからも守られるために、私たちは時にイエスさまのお叱りをいただきつつ、イエスさまのみことばにお従いする必要がある。主は、頑なで悟れない私たちのことを諦めることはなさらず、これでもか、これでもか、とみわざを示してくださりながら、なおも私たちのことを導いてくださる。

「イエスさまはいやし主」

祈祷/使徒信条/交読;詩篇132篇/主の祈り/讃美;讃美歌121「まぶねのなかに」/聖書箇所;マルコの福音書7:31~37/メッセージ/讃美;聖歌654「いちど死にしわれをも」/献金;聖歌570「もゆるみたまよ」/頌栄;讃美歌541/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「イエスさまはいやし主」 私は医療宣教ととかく縁のある牧師である。私の父からして医師だった(クリスチャンではなかったが)。私が初めて導かれ、バプテスマも受けることになった教会は、医療伝道が母体となって立てられた教会だった。そしてこの教会も医療伝道がもとになって立てられた教会であり、現在も役員にお医者さんがいらっしゃる教会となった。 また一方で、私は病人として入院する機会が人よりも多かった。そのような中で、入院生活をとおして神さまを信じる強い信仰に導かれたこともあった。医療というものはそういうわけで、私にとって特別な存在でありつづけている。医学を専攻して医師になることはなかったが、まことの医者であるイエスさまに日々いやされながら、人をいやされるイエスさまのお働きのお手伝いをさせていただいていることを、つねに思う。 さて、今日の箇所はいやしの箇所である。耳が聞こえない、口で話すことができないというのは、とても不便なことである。一般的に人々の間に成立するコミュニケーション、交わりに大きな支障をきたしている状態である。人は話し合うということをとおして社会の一員として自由に振る舞えることを思うと、聞けない、話せないということは、どれほど大変なことだろうか。 もっとも、現代においては、そのような方々へのバリアフリーの概念が大きく発達した。私は一時期、茨城町役場に赴いて手話を勉強していたが、教えてくださる先生は耳と口が不自由な方だった。しかし、手話を使って教えてくださるその先生の隣には通訳の方がいるので、まったく不便、ということはなかった。そして、手話を用いられる先生の姿を見ていると、手話というものが立派な言語であることがよくわかったものだった。こういう、はつらつとしたお姿を見ていると、ある有名な身体障碍者のことばのとおり、「障がいは不便ですが不幸ではありません」ということばはほんとうなのだろうと思えてくる。 今日の箇所を見てみよう。この、耳が聞こえず、口がきけない人は、少なくとも、イエスさまのもとに連れてきてくれる友達に恵まれていた。それだけでもこの人は不幸ではなかった、といえないだろうか? からだの一部を欠損しても天国に入るほうが、五体満足でゲヘナに入るよりもよい、とイエスさまはおっしゃった。この世の人たちはだいたい、五体満足で便利な生活を享受しているが、彼らは自分が平安な環境に置かれている分、神さま、イエスさまのもとに行こうとしない。それを考えると、この人は周りの憐れみを受けて、イエスさまのもとに連れてこられたわけである。 その意味でこの人は、イエスさまに出会えた分、幸せだった。彼も耳が聞こえず、口がきけなかっただけに、どれほどの苦労を味わってきたことだろうか? しかしその苦労は、イエスさまに出会う道を開いた。まさに詩篇119篇71節の語るとおりである。「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。それにより 私はあなたのおきてを学びました。」神さまにお従いする道、いのちの道は、苦しみにあってこそ見出させていただくもの。私たちもそのことを、これまでの人生において体験してきたのではないだろうか? さて、イエスさまの主要なお働きの中に、なぜ、重い病気や障がいを抱えた人をいやされた、という働きがあるのか、考えてみたい。人間とは神のかたちに造られている。そのような人間に神さまは、ご自身をみことばにおいて啓示されているわけだが、みことばを読むと、神さまには顔があり、目があり、鼻があり、口があり、耳があり、手があり、足があることがわかる。これは、人間が自分たちの姿を見て、神さまのイメージをつくり出したということではない。むしろその逆で、人間に顔や目や鼻や口や耳、手や足があるのは、それらのものをお持ちの神さまのかたちに人間がつくられている、ということである。 ということは、それらのものが病んでいたり、障がいを持っていたり、傷ついていたりするということは、その人において、神のかたちがそれだけ損なわれているということを意味する。お医者さんという働きが尊敬されるべきなのは、医術をとおして、患者さんにおいて神のかたちを回復させる働きをなさるからである。 イエスさまが人々をいやされたのも、まさにその次元で考えるべきことである。イエスさまは、生ける神の似姿へと人を回復された。この罪に満ちた地上において、あまりにも人々が病み、神のかたちとして振る舞うべき肉体が傷つき、障がいを負ってしまっていることに、イエスさまはとても心を痛められたのである。 さて、イエスさまはこのいやしのみわざを、あえて群衆から離れたところで行われた。これは、この障がいを持った人をいやす働きが、人々に対するパフォーマンスとして行われるべきものではないことを示している。しかしイエスさまは、彼のことをお癒しになるために、群衆から離れて二人きりのところに連れ出された。イエスさまのみわざ、とりわけ、神のかたちに人を回復されるいやしのみわざは、イエスさまとの一対一の場で行われる。そこには人の干渉の入り込む余地がない。私たちにとって個人的なディボーションの時間が必要なのは、このように個人的にイエスさまが臨んでくださり、いやしてくださるみわざが臨むためでもある。 イエスさまはどのようにこの人を癒されただろうか? まず、イエスさまはその人の両耳に指を入れられた。いやし主なるイエスさまのタッチである。イエスさまはこのように、病んでいるところに触れてくださるお方である。そして、つばをつけて舌に触られたとある。つばというものはこの時代、ギリシャ人の間でもユダヤ人の間でも、医療のために用いられた。 こんにち、コロナ下の昨今など特に、人々はつばというものにきわめてナーバスになっているが、本来つばとはそういうものではなかった。私たちは先入観を取り除いてみことばに向かう必要がある。イエスさまはいやし主なる神の権威をもって、つばによりその人の舌をいやされた。 そして天を見上げて深く息をされたとある。これは「嘆息して」とも訳される。イエスさまは神さまだからと、瞬間的に癒しのわざを行われたのではない。全能の神、いやし主であられるイエスさまは、人として苦悩し、嘆息された中で、ご自身も肉体の弱さをまとわれたお方として、人に同情し、その人がいやされ、回復されることを切に願われた。その究極の姿は十字架である。あれほどの苦しみをイエスさまが人の身代わりに負われることにより、人ははじめて罪の赦しをいただき、神さまの御前に行くことのできるものとしていただいた。 こうしてこの人は、いやされた。しかしイエスさまは、この人がだれかにこの癒しのわざについて告げることを禁じられた。それは、この世的な王としてのメシアを待ち望んでいた民が、間違った形でイエスさまをあがめることを避ける意味もあった。また、単にいやされさえすればいいというご利益信仰で人々が押し寄せ、肝心の神の国を宣べ伝える働きが妨げられるのを避ける意味もあった。 そうはいっても、イエスさまが彼になさったいやしのわざは否定できないものであり、その喜びに彼が満たされたのは、当然のことではなかっただろうか。37節の群衆の告白に注目したい。これは、イザヤ書35章5節、6節の、主が臨まれたときどのような御業が起こされるかということを預言したみことばが、そっくりそのまま、彼ら群衆の告白となった、ということである。つまり、みことばはイエスさまのこのいやしの御業において成就した、ということである。 以上の箇所から私たちが考えるべきことは何だろうか? イエスさまはいやしのわざを行われるにあたって、耳が聞こえず、口がきけない人をいやされた。それは、御口でみことばを語られ、御耳で私たちの祈りを聞いてくださる、私たち人間と交わりを持ってくださる神さまのかたちが損なわれているのはいけないからである。私たちはこの肉体の口は話せ、耳は聞こえるかもしれない。しかし、互いに話し合うことばが、神さまの恵みとは無関係のことばかりだとしたらどうだろうか? どうでもいい情報ばかりだとしたらどうだろうか? 耳で聞くにしても、この世の情報ばかりで、神さまの御声を聴いていないとしたらどうだろうか? それは私たちも、神のかたちとしての耳が聞こえず、口がきけないことを意味している。 この障がい者は私たちのことである。私たちもまたいやされなければならない。いやされ、神のかたちに回復された耳で、私たちは何を、いつ、どこで、どのように聞くだろうか? 神のかたちに回復された口で、私たちはたとえばすぐにでもこのメッセージのあとにおささげする祈りの時間に、何を、どのように祈るだろうか? そしてもうひとつ考えてみたい。この人はいやされたとき、イエスさまのご命令にそむいて言いふらした。イエスさまというお方は憐れみをもって人をいやされるが、その憐れみに満ちた振る舞いを人々は誤解し、正しく受け取らなかった。イエスさまを主とあがめて、その弟子としてお従いしたものはごくわずかであった。私たちは今もイエスさまの癒しをいただいているが、そのような私たちは、イエスさまをどのように理解し、イエスさまにどのようにお従いしているだろうか? このかぎりある知性をもってしては、大いなる主、イエスさまのことを正しく理解することはできない。しかし、イエスさまがご自身を教えてくださる、その教えにしっかりお従いするならば、イエスさまのことがわかる。 神さま、イエスさまを知ることは、永遠のいのちであるとイエスさまはおっしゃった。もちろん、イエスさまのことが今この時点で100%正しく理解できていないからといって、イエスさまが私たちのことをお蕎麦気になることはない。しかし私たちは、今この瞬間にも、イエスさまの御業をいただいている分、イエスさまを正しく知る歩みをしていこうではないか。

「みことばという光で輝く」

祈祷/使徒信条/交読;詩篇130篇/主の祈り/讃美;讃美歌75「ものみなこぞりて」/聖書朗読;詩篇119:105/メッセージ/讃美;聖歌541「とうだいははるか」/献金;聖歌569「主よこの身いままたくし」/栄光の讃美;讃美歌541「父、み子、みたまの」/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「みことばという光で輝く」 伝道用の小冊子として世界中で用いられている「四つの法則」。この巻末に、イエスさまを信じ受け入れた人は教会に行くべきであることが書かれている。その理由について、このように説明している。「薪は何本も一緒に燃やすといつまでも燃えるが、1本だけだとすぐに火が消えてしまう。クリスチャン生活もそれと同じである。」 クリスチャン生活はこのように、燃える炎に例えられる。私たちは熱くありたい。輝いていたい。そのためにも、この教会という共同体で、ともに燃やされ、輝くことが私たちに求められている。 そこで今日のみことば。有名な聖句だが、このみことばから、私たちクリスチャンにとって神のみことばとはどのようなものかを学んでみたい。 私の足、とある。私の足、というからには、その足は「自分自身」についている部分である。私の足は娘にはついていない。「私」の足、ということが大事である。「私が」暗闇の中で迷わないように、自分のために照らすものが「あなたのみことば」という「ともしび」である。ディボーション、聖書通読というものは、個人的にみことばに向き合う作業だが、これは、「私が」歩けるように、神さまのみことばによって暗闇を照らしていただくことである。 これに対して「道の光」だが、道というものはひとりで通るものではなく、みなで一緒に通るものである。このように、道が暗闇に閉ざされてみなが一斉に迷ってしまうことのないように、道は光に照らされている必要がある。その道を照らす光もまた「みことば」である。 道というものは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」とおっしゃった、イエスさまという道、十字架を通って父なる神さまのもとに行く道である。クリスチャンはみことばの光に照らされて、この同じ道、唯一の道なるイエスさまという道をともに行く。その意味で、みことばの光に照らされることは、個人的なことであるのとともに、教会という共同体のわざでもある。 そして、このイエスさまという道は人々の目にはふさがれている。それは、自己中心という罪、神を神と認めない罪の中にいて、目がふさがっているからである。それは暗闇の中にいることである。その暗闇を払うものが、神さまのみことばである。そして私たちは、この神さまのみことばに照らされて、自分の足で、一歩一歩前に進むのである。 このように、実は私たちの行く道がみことばという光に照らされていることを人々に知らせるには、言うまでもなく、私たちがまず、みことばという光に照らされている必要がある。その光に照らされて輝く生き方がどんなに素晴らしいか、人々に証しするのである。言ってみれば、光に照らされていないで迷う人、つまずく人を、光に照らすのである。 私たちはみことばの光に照らされる生活を、人に隠すものではないだろう。それは私たちのことを血潮をもってあがなってくださったイエスさまのことを恥じる生き方である。そういう人のことをイエスさまは、終わりの日に恥じるとおっしゃった。そうではなく、このみことばの光を輝かせる生活をすることが、私たちに求められている。 そして、足がみことばのともしびでともされているならば、私の足をともすともしびなるみことばの恵みを、クリスチャンがみなで持ち寄ることによって、みなは同じ道、キリストという道を行くことができる。みことばの恵みの分かち合いはそのために必要なものである。 そして、そのディボーションと分かち合いにとどまらず、この、みことばの光で照らされた道を、人に伝えるのである。すなわち、伝道である。具体的に言えば、毎日みことばから受ける恵みを人々の前であらわす、すなわち、その日に与えられたみことばを生活の中で、具体的に、現実的に、実践可能な範囲で、その日のうちに(あるいは近いうちに実践できるように計画を立てて)実践することで、イエスさまというこの上なく魅力的なお方にお従いする魅力ある生き方を人々の前であらわす生き方をすることで、人々が、私たちの生きる源であるイエスさまとそのみことばに心惹かれるようになるならば素晴らしい。主がそう導いてくださるように祈ろう。 自分はみことばの光に照らされているか? この教会の兄弟姉妹とともにみことばの光に照らされてに歩まないか? この世の迷っている人、みことばの光に照らされる必要のある人はだれか? ともにみことばの光に照らされ、輝こう。

「小犬の信仰」

聖書箇所;マルコの福音書7:24~30/メッセージ/讃美;聖歌631「罪にみてる世界」/献金;聖歌569「主よこの身いままたくし」/頌栄;讃美歌541「父、御子、みたまの」/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「小犬の信仰」 むかし、私の実家は犬を飼っていた。犬種はパグ、あのブルドッグを小型にしたような犬で、名前は「ゴン太」と名づけた。とにかくよく食べた。ある日、家に戻ってみると、テーブルの上に置いてあった食べ物がみななくなっている。ふと下を見ると、おなかをパンパンにしたゴン太がよたよたと歩いて、ドテ、と横になり、ジョジョジョ、と失禁した。テーブルの上のものをみんなこの子が食べてしまった模様である。そんな犬なものだから、いけないのだが、食事をしているときに、つい食べ物を分けてよこしてやったりしたものだった。すると飛びつき、ゴクッ、と、あまりかまずに飲み込む。 そんな、犬。今日の箇所でイエスさまがお語りになったおことばにも、犬が出てくる。番犬だろうか? ペットだろうか? どうも、マルコの福音書の読者層にとっては、犬が家の中に同居して、飼い主の食卓からパン屑が落ちるのを食べることは、普通に想像できたことのようだった。みなさまの中にも、ペットを飼っていらっしゃる方がおられると思うが、仲間のようでいて同等の地位にはいない、そんなペットの立ち位置を考えながら、今日のみことばを味わってみよう。 24節。イエスさまはここまで、宗教指導者との問答で、彼らの聖書解釈の根本にあるゆがみを指摘された。その聖書信仰のむなしさを取り扱われ、父と母を敬えというみことばへの根本的な従順へと彼らを導かれた。洗わない手で食べることは、神さまへのそういった従順と何の関係もないことを指摘された。しかし、弟子たちにはそのことがまだよくわかっていなかったので、イエスさまは、人を汚すものは外から入るものではなく、中から出てくるものであると語られ、言外に、そのように自分のことを汚すものを生み出す自分自身をきよめていただく必要があることをお語りになった。 こういった議論は、かなり自分自身を消耗するものだったのだろうか? イエスさまが家に入ってだれにも知られたくないと思われたのはなぜか? イエスさまもおひとりになり、お休みになる時間が必要だったようである。私たちも休む時間が必要な時がある。今週の週報に書いたのもそのことに通じるが、私たちは主の御前に休むことによってはじめてほんとうの意味での休息を得て、次の働きに備えることができる。 しかし、周りの群衆は、イエスさまのことを放っておかなかった。イエスさまがそこにおられることを探し当て、われもわれもと迫ってきていたのである。イエスさまはそこを去って、ツロに行かれたが、このみこころについても私たちは考えさせられる。これはのちの日の、使徒たちが、ユダヤ人がイエスさまを受け入れなかったゆえに、異邦人のところに行ったというできごとをほうふつとさせる。この時点で使徒たちは、異邦人のところに行かず、まず優先してイスラエルの失われた羊たちのもとに行きなさいとイエスさまに遣わされている。救いの順序として優先するのは、まずはイスラエル、ユダヤ人であり、それから異邦人である。そういう背景を念頭において、イエスさまがツロに赴かれたということを考えてみよう。 ツロというのは、イエスさまがその時おられたガリラヤからさらに北西の方向、フェニキアという地域の、地中海沿岸の港町である。ガリラヤの人たちはツロの人たちと仲が良くなかった。ガリラヤの人たちはツロの人たちのことを、「悪名高い、私たちの最も苦々しい敵」と呼ぶほどだった。ツロは貿易で莫大な富を得ており、その力で、近接していた農業地域、ガリラヤのことを統制しようとしていた。ウクライナとロシアのことを見ても実感するが、近接する国どうしは支配・被支配の関係をめぐって険悪になることが多い。 イエスさまがわざわざこの地域に赴かれたその背景に、このような論争を繰り広げたとおり、きよめの洗いの儀式を制定することような宗教指導者たちのきよめに関する聖書解釈には問題があることをお示しになるため、ということがあった。「ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは、律法にかなわないこと」と堅く戒められていたペテロが、異邦人のコルネリオを受け入れたのは、「神がきよめたものをきよくないと言ってはならない」というみことばをきいたゆえ。イエスさまが異邦人の町ツロに赴かれたということは、律法によって異邦人への救いが限定されていた時代は、いよいよ終わりを告げようとしていたということである。 エペソ人への手紙2章1節と2節、11節と12節に、神の民から見た異邦人とはいかなる存在かということが書かれている。いま、21世紀の日本に暮らす私たちはほぼ、福音というものをユダヤ人から直接聞いて学んでいるわけではなく、イスラエルを除くすべての異邦人がどれほど悲惨な立場なのかということを実感できないでいるだろう。しかし、聖書のみことばから見ると、異邦人とはこのような悲惨な存在である。私たちもそのひとりとして、このツロに住む人たちに思いを馳せてみたい。 25節。イエスさまはツロの地方に赴かれたが、そこでイエスさまはおひとりでリトリートに集中されるわけにはいかなかった。イエスさまのうわさは、この地方までも伝わっていた。女の人がイエスさまのもとにやってきてひれ伏した。 女の人の幼い娘は汚れた霊に取りつかれていた。女性という存在は社会的に疎外されていた。さらに、このおやこはユダヤ人から見れば異邦人であった。さらに言えば、子どもは当時の社会で最も疎外された存在であった。もうひとつ推測できることだが、この女性は夫を伴わないでイエスさまのもとにやってきている。離別したか死別したか、寡婦だったという推測が成り立つ。母親も娘も何重もの意味で疎外されていた。しかし、そんな彼女も、イエスさまにおすがりした。 26節。この女性はギリシア人、シリア・フェニキアの生まれ。ユダヤの神の民の共同体とは、縁もゆかりもない人である。 そんな彼女は、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようイエスさまに願った。母親は、イエスさまならば悪霊を追い出せるということを信じていた。このみことばに先行するマルコの福音書3章8節で、遠くツロからもイエスさまのみわざのうわさを聞いてやってきていた。この女性もまた、そのようなうわさを聞いていたと推測される。いや、もしかしたら、イエスさまがみわざを行われるのを直接見ていたかもしれない。イエスさまが通られるのを見て、いても立ってもいられなくなった。 27節。イエスさまはそんな女性に対して、このようにお語りになった。「まず子どもたちを満腹させなければなりません。」それに続いてこうもおっしゃっている。「子どもたちのパンを取り上げて小犬に投げてやるのはよくない」もちろん、子どもというのもの小犬というのも比喩である。婦人よ、あなたは子どもたちがパンを食べている食卓の下をうろつく小犬なのですよ、というわけである。 愛玩犬を育てる文化が定着している21世紀の日本では、「小犬」というと、ついマルチーズとか、チワワとか、そんなかわいいイメージになるかもしれない。しかし、小犬の原語のギリシャ語「キュナリオン」は、かわいい愛玩犬というよりも、単に小さいものを指すだけのことばであり、実際、韓国語の聖書では、この「キュナリオン」を、愛玩犬または幼い犬という意味の「カンアジ」ということばではなく、単に「犬」という意味の「ケ」と訳している。だから、イエスさまが「小犬」と言ったからと、かわいいイメージでおっしゃっているわけではないと考えるべきである。「あなたは犬の立場です」、こう、イエスさまはおっしゃったわけである。 このように、女の人を犬扱いするイエスさまのおことばは、あまりにもつれないと言うべきなのか? しかし、私たちはこういう時、神の前にへりくだるべき自分の身分というものを考えるべきである。イエスさまは何も、「あなたには何の分け前もありません」とおっしゃったのではない。「まずは子どもたちにパンをあげなければなりません」と、恵みを施す順序を語っておられるわけである。 では、子どもたちとはだれか? 神の子、神の家族といえば、まずはイスラエルである。ガリラヤはもちろん、その宗教共同体の領域に入っていて、それまでイエスさまが相手をされていたガリラヤの民、そして彼らを統括する宗教指導者は、神の子どもたちである。彼らはまず、神のみことばというパンによって養われる必要があった。 しかし、そのパンとは、イエスさまが「これは天から下ってきたパンです」とおっしゃったように、もちろんみことばではあるが、宗教指導者たちが人間的に解き明かすみことばではない。神のみことばが受肉してこの世界に私たちとともに住まわれるお方、イエスさまご自身である。この、イエスさまといういのちのパンによって、神の民は最優先で養われる必要があった。 28節。この女性は「主よ」とイエスさまに呼びかけた。イエスさまがこの女性にとっての主であるという告白である。しかし、そのあとの告白が振るっていた。彼女は、自分が「食卓の下の小犬」であると、はっきり認めたのである。さらに、子どもたちのパン屑はいただきます……このように彼女は告白したのであった。 パン屑は、子どもたちがこぼさないで食べるならば、それは「パン屑」とは言わない。「パン」である。それが子どもの口に入らないでこぼれるから「屑」になるわけで、「パンくず」はもともと、ちゃんと「パン」なのである。だが、子どもが行儀が悪いと、つまり、「パン」の価値をわかっていないと、せっかくの食べ物を残したり、「こんなものいらないよ」と、ペットに投げたりする。 ユダヤ人は、いのちのパン、まことのパンであるイエスさまのことが必要なかった。まさにイエスさまを「パン屑」扱いして、床にこぼすような真似をしたのである。それでついには、イエスさまのことを十字架送りにした。しかし、この女性はわかっていた。このお方が神の民の国を離れ、ツロにまで来ておられても、やはりこのお方はすべての民を創造された創造主であり、自分も被造物のひとりとして、イエスさまというパンをいただく分け前にあずかることができる……。 イエスさまがもし、ユダヤの宗教指導者たちの信仰を集めていたならば、このように、異邦人の土地まで赴かれる必要はなかっただろう。だがこの異邦人の土地で、どこまでも悲惨な立場に置かれ、もはや神の恵みにすがる以外に方法のなかったこの女性に会われ、彼女のへりくだり、また信仰をご覧になった。 29節。「そこまで言うのでしたら」……イエスさまは私たちの告白する「ことば」をもって、私たちの信仰を認めてくださるお方である。だから、どんなことばで信仰告白をするかがとても大事である。 「家に帰りになさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」イエスさまは女性のこの信仰をよしとされて悪霊を追い出された。しかし、直接行って、娘の上に手を置かれたわけではなかったのである。それがイエスさまの方法だった。この女性は、イエスさまがこのようにおっしゃったみことばを即、信じ受け入れる必要があった。 30節。しかし、この女性はイエスさまのことばを信じ、家に帰った。すると彼女が信じ、行動したとおりの結果になっていた。まさに復活されたイエスさまが疑い深かったトマスに対して「見ないで信じる者は幸いです」とおっしゃったとおりである。 この女性の信仰は、今日私たちが持つ信仰の予表であり、また、私たちが持つべき信仰のモデルである。私たちは神さまの前にいろいろ言い訳をしていないだろうか? なぜ、素直にみことばを受け入れることをしないのだろうか? 私たちが信じたとおりに神さまがみわざをなしてくださるということを信じられないのだろうか? 私たちは信仰の共同体でありたい。私たちが毎日聖書を読むのは、そのとおりに神さまが、イエスさまが、今日この日も私たちを通して働いてくださるということを、私たちが信じ受け入れるためである。私たちはあまりにも常識というものに支配されて頑ななので、みことばのとおりになるということが信じられない。だから私たちは、みことばのとおりになるという信仰をまず与えていただき、その信仰を働かせて祈る必要がある。 私たちはほんらい、恵みを受ける資格などない存在だった。しかし、イエスさまは私たちに恵みの門を開いてくださった。イエスさまはまるでパン屑のように、罪人である私たちの地平にまで下りてきてくださったのである。私たちはワンちゃんのごとく、ありがたくイエスさまをいただき、イエスさまの御名によって、みこころにかなうことを祈っていこうではないか。聖書に書かれているとおりのことで、私たちが祈るのを渋っていることはないだろうか? 今日この時間、大胆にイエスさまに求めよう。イエスさまは聴き届けてくださる。

「外から入るもの、中から出るもの」

聖書朗読;マルコの福音書7:14~23/メッセージ/祈祷/讃美;聖歌273「きょうまでまもられ」/献金;聖歌569「主よこの身いままたくし」/頌栄;讃美歌541「父、み子、みたまの」/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「外から入るもの、中から出るもの」  14節、15節を見よう。先週も学んだように、宗教指導者たちは、イエスさまの弟子たちがきよめの洗いをしないで食べ物を口にしたことに、相当な目くじらを立てた。しかし、イエスさまはここで、そのような洗わない手で食べ物を口にしようと、それが人を汚すわけではない、とおっしゃった。  それでは、口から出るものが人を汚すとは、どういうことだろうか? 宗教指導者たちが口から発したことばは、一見すると宗教的なきよめへと人を招いているようで、そのじつ、人をけがしているとイエスさまはおっしゃりたいのである。どういうことだろうか? 所詮は人間的な言い伝えにすぎないものを神さまと人の間に介在させ、きよい神さまとの交わりを人に持たせなくし、肉欲にまみれた宗教指導者のことばの奴隷にさせることで、人をけがす、というわけである。  ガラテヤ人への手紙5章1節を見てみよう。真にきよい神との交わりは自由をもたらすものである。何か人間的に縛られているならば、それは主のみこころにかなわない状態であり、そういう状態は、外見には宗教者として立派なように見えても、神さまの御目から見ればけがれていると見なされる。肉の夾雑物が入り込みすぎているからである。そういう、人間的な宗教により身に帯びたけがれを、私たちはイエスさまの十字架の血潮によって洗いきよめていただく必要がある。  しかし、17節、18節を見よう。弟子たちはこのイエスさまのおっしゃったことがわからなかった。それは、弟子たちもそれだけ、宗教界の強い影響からなお自由でなかったということを意味する。やはり、きよめの洗いをしないで食べ物を口にした、ということは、何かいけないことをしたのではないか、という思いから自由ではなかったのである。  宗教的慣習というもの、特に、私たちのからだと心を形づくる、食べ物にまつわる宗教的慣習は、かなり私たちのことを支配するものである。例えば私たちは、食膳のお祈りをして食べる。それはもちろん、食事を与えてくださった神さまとの交わりであり、これが宗教的に人を縛るものとして機能してはいけない。  イエスさまはすべての食べ物をきよいとされた。しかしそれなら、私たちは言わないだろうか? お酒はどうなる? タバコはどうなる? それを禁じている私たちは、宗教的な発想でしているのか? しかしこれは、宗教的なけがれとは別個のものと考えるべきだ。お酒の場合、いくつかの聖書箇所から、それを飲まないのがふさわしいという結論が導き出せる。間違った判断をしたり、放蕩に走ったりするのを防ぐという、案外実利的な理由である。タバコの場合は、私たちキリスト者のからだは神の神殿、聖霊の宮であるという信仰から、その健康を明らかに損なうものを口にしないのがふさわしい、と考えるからであって、宗教的にけがれるから、というのとは異なる。  ほかにも、飲み食いが制限されるケースがある。これはローマ人への手紙14章や、コリント人への手紙第一10章で戒められているケースで、何を飲み食いしても私たちには許されているというのが基本だが、その飲み食いによって人を不快な思いにさせたり、信仰が弱い人たちにとって彼らなりの偶像礼拝の文化を捨てきれない根拠にさせたりするなら、それはいけないことである。これもやはり、神の前にけがれる、からいけないのではなく、人につまずきを与える、すなわち、信仰から離れさせるからいけないのである。  20節から22節を見てみよう。イエスさまは、人から出てくる悪い考えが人をけがすとおっしゃった。それは21節から22節に列挙されたとおりであるが、なんと12種類も挙げられている。  ①淫らな行い、④姦淫、⑧好色……十戒の第七戒「姦淫してはならない」に違反。  ②盗み、⑤貪欲、⑨ねたみ……十戒の第十戒「隣人の家を欲してはならない」に違反。  ③殺人、⑩ののしり……十戒の第六戒「殺してはならない」に違反。  ⑥悪行、⑪高慢、⑫愚かさ……箴言のみことばほかみこころに対する違反。  ⑦欺き……十戒の第九戒「あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない」が適用できるみこころへの違反。  こういったことが自分をけがす。宗教指導者たちは、⑪高慢で、⑫みこころも悟らないで愚か、⑥民から搾取する悪行に手を染め、②神のものを盗み、⑤民から搾取することに飽くことなく、⑦民を欺いて民から搾取し、⑨まことの神の子なるイエスさまをねたみ、③イエスさまを殺そうとし(実際十字架にかけて殺した)、⑩イエスさまをののしり、①④⑧そんな彼らは霊的に姦淫した状態である。なんと、手を洗わなければけがれている、と主張した宗教指導者たちには、イエスさまがおっしゃったすべてが当てはまる。  しかし、こうして宗教指導者を糾弾するみことばが書かれているのは、それがほかならぬ、私たちへの警告であるからだ。私たちは心の中で姦淫を犯さなかっただろうか? 隣の芝生は青い、とばかりに、人のことをうらやんだりしなかっただろうか?「あんな奴にはいなくなってほしい」と心の中ででも思わなかっただろうか? 高慢ではなかっただろうか? 愚かではなかっただろうか? それなのに、「こんな自分のことも主は愛しておられる」とばかりに開き直り、なにもしないではいなかっただろうか? 嘘をついたりしなかっただろうか? そういったことを口にすることで、私たちはどれほど、自分をけがしてきたことだろうか?  そのけがれから自由になるには、イエスさまの十字架の前にひざまずくことである。私たちにはイエスさまの十字架が見えているだろうか?

「真の不従順とは何か」

聖書箇所;マルコの福音書7:1~13/メッセージ/讃美;聖歌151「たえなるいのちの」/献金;聖歌569「主よこの身いままたくし」/頌栄;讃美歌541/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 メッセージ;「真の不従順とは何か」  今の小学生は知らないが、むかしから小学生といえば、例えば教室の花瓶を落として割った子がいたとき、みんなで歌を歌ってはやし立てたものだった。「あーららこららー いーけないんだーいけないんだー せーんせいにいってやろー」でも、花瓶を割った子はショックで青ざめているのである。そんなに、はやし立てて人を責めるのが愉快なのだろうか? まことに幼稚なことだが、イエスさまのあら捜しをするユダヤの宗教指導者たちも、似たような幼稚さを抱えていたと見るべきだろう。今日の箇所も、そういうくだりから始まっている。  1節のみことば。ユダヤの宗教指導者がエルサレムからはるばる、ガリラヤまでやってきた。ガリラヤ領主のヘロデでさえイエスさまのうわさを聞いて、イエスさまに会ってみたいと思っていたほどである。それほどの影響力をこの地域の社会に及ぼしていたイエスさまはどういう人物なのか、ユダヤの宗教界は調査する必要を覚えていた。自分たちの立場が危ないからである。しかし、彼らはどのようにしてイエスさまに問題人物の烙印を押そうとしたのか? もちろん、イエスさまやその弟子たちの言動をチェックするわけだが、問題はそのチェックする基準を、彼らがどこに置いていたかである。彼らは彼らなりの基準で、イエスさまの弟子が神に不従順であるかのように責めるわけだが、果たして弟子たちは不従順だったのだろうか?  2節。イエスさまの弟子たちが食事の前にきよめの洗いをしなかった。しないのを見とがめて、宗教指導者たちはその師であるイエスさまのことを責めている。まさしく彼らなりの「いーけないんだーいけないんだー」である。衛生観念がとても発達した民族である日本人がこの箇所を読むと、つい、弟子たちが悪い、と思ってしまわないだろうか? 私など最初、この箇所をよんだとき、弟子たちは手も洗わないで食べて「ばっちい」と思ったものだった。  しかし、そういうことではない。手を洗うのは「衛生」のためというよりも「宗教的儀式」としてだった。浅草の浅草寺では、一定の儀式にのっとった作法によって水で口をすすいで参拝するのだそうだが、そういったたぐいの宗教的なきよめのしきたりが、ユダヤの宗教社会においても金科玉条のように守られていたわけである。当時は水道から蛇口をひねって水を出していたわけではないから、汲んでためた水からすくって、腕からひじにかけて水を注いだということである。  ところが弟子たちは、そういうことをしなかった。なぜだろうか? それは、する必要がなかったからである。一見すると、聖書をベースにしているユダヤの宗教社会の伝統の中で培われてきた儀式を守っていないことは、神に対する不従順であるように見える。しかし、もしそれが神に対する不従順ならば、イエスさまご自身がそれをお咎めになり、弟子たちに水洗いの儀式を守らせられたはずである。ところが、イエスさまがそうなさった形跡はない。つまり、弟子たちが手を洗わなかったのは、神への不従順でもなんでもなく、守る必要がなかったからである。  しかし、イエスさまの時代の宗教社会においては、儀式を守ることが即、神への従順と見なされた。律法学者たちによる長年の聖書解釈の繰り返し、積み重ねは、やがて3節、4節にあるような、「宗教行為至上主義」ともいうような、神のみことばを守り行うこととは無関係な形へと変質した。そこから、5節にあるような宗教指導者の発言が出てくるわけである。  それでは、果たして彼ら宗教指導者たちの批判は正しかったのか? 6節と7節をご覧いただきたい。イエスさまは、「いいんです」と弁明されているわけではない。しかし、そのような宗教的言い伝えに固執させることこそ、神への不従順の罪を犯させること、すなわちそれ自体が、罪を犯していることそのものだと喝破された。それも、彼ら宗教指導者にとってよりどころであるべき聖書のみことば、絶対の基準である聖書のみことばを用いられたのだから、完璧な反論、批判である。  このイザヤ書のみことばのように、彼ら宗教指導者たちとその指導の下にあった民たちは、神を礼拝するにはしていた。しかし、それはむなしい礼拝だった。礼拝は神のことばをもってささげられるべきである。だが彼らは、神のみことばを人の命令にすり替えた。いったい、食事の前には手を洗わなければ神の御前にけがれている、と、聖書のどこに書いてあるだろうか? 嘘だと思うなら探してみてほしい。ないから。  その、一見すると神のみことばに由来するようでいて、そのじつ「人間」に由来する命令を守り行うならば、人は神に近づいて自由になることなどできないばかりか、宗教指導者という「人間」に縛られてその奴隷となり、霊的、精神的に不自由な存在となるしかなくなる。神さまはもちろん、人間がそうなることなど望んでいらっしゃらない。  イエスさまはこのような宗教指導者たちのことを激しく糾弾していらっしゃる。8節。彼らは宗教的なほどに宗教的だが、神の戒めに固執しているのとはちがう。むしろそうではなく、イエスさまに言わせれば、神の戒めを捨てた、というのである。だれよりももっとも宗教的、神に献身的に見える彼らは、皮肉なことに、神の戒めを捨てた者、すなわち、神を捨てた者であった。  それでは彼らはどのようにして、神の戒めを捨てたのだろうか? 9節。彼ら宗教指導者は、自分たちの言い伝えを保つために神の戒めを捨てた、とイエスさまは喝破された。つまり、彼らにとって大事だったのは、神の戒め、すなわち神のみことばではなく、自分たちなりの聖書解釈だったわけである。その聖書解釈も、あまりに人間的な解釈が入り込み、もはや原形をとどめていないものだった。  では、その聖書の語る「原形」とはどういうもので、それを彼ら宗教指導者たちはどのように、解釈を加えてないがしろにしたのだろうか? その例として、イエスさまは10節から12節のようにお語りになった。  ここで問題にされているのは、父または母、すなわち親に対して果たすべき義務、すなわち扶養する義務が人にあるようなときでも、その人が本来ならば親のために使うべき財産は、神にささげると約束したものゆえに使うことができない、とする場合である。  ささげ物ということばは、ギリシャ語で書かれたこの福音書において、わざわざヘブル語の「コルバン」と表記されている。特に、一般的な宗教でも行われているささげ物と区別して、特にイスラエルの神であるお方におささげするもの、という意味で、コルバンというヘブル語を使っているわけである。だから、「コルバン」をささげるというならば、まことの神さまがお受けになるべきささげ物としてささげるものである以上、ささげる人は、ささげるお相手である神さまのみこころがどこにあるのかを理解している必要がある。  宗教指導者たちは、神のそのみこころとは、親に対する扶養義務をないがしろにしてでもささげるべきものだ、と、民を教え導いている。しかし、神の子なるイエスさまは、それは全く神さまのみこころではない、とお語りになる。その根拠としてイエスさまは、モーセの十戒の第5戒、「あなたの父と母を敬え」を挙げられ、そしてもうひとつ、「父や母をののしる者は、必ず殺されなければならない」という、出エジプト記21章17節、そしてレビ記20章9節と、律法の書に繰り返し語られた、極めて厳しい戒めを挙げられた。つまり、親をないがしろにすることをまかり通らせる宗教指導者たちが、どんなにみことばから外れているか、ということをイエスさまはおっしゃったわけである。  さて、宗教指導者たちがあまりに人間的な聖書解釈をすることに対して、イエスさまが、父母との関係に関する律法のことばを引用された意味も考えてみたい。モーセの十戒というものがみことば全体の基礎であることに異論を唱える人はいなかろう。十戒は、前半の4つの戒めが神との関係を説き、後半の6つの戒めが人との関係を説く。神と人との垂直な関係、人と人との水平の関係、その戒めが十戒である。この形は十字架ではないか。  そして、ここでイエスさまが挙げられた第5戒、これはある意味特別な戒めである。第5戒以降で扱われる対人関係の戒めのもっとも基礎になるものが、親との関係だからである。聖書は一貫して、親というものを、われら神の民の父であられる神さまの代理として教えている。親は愛なる神の代理として、子どもを愛によって保護し、育て、戒める。そういう意味では、この第5戒は神との関係を示す十戒の前半の4つの戒めにも含まれるともいえる。まさに、対神関係と対人関係を同時に取り扱うみことば、十字架の交わるところのようなみことば、それがこの第5戒である。  だから、親子関係をイエスさまが例に挙げられ、それを十戒の第5戒で取り扱われたということは、もっともらしく神のみこころを説いているつもりの宗教指導者たちは、神さまとの関係においても、人との関係においても、まったくなっていない、と語っておられるわけである。  それに加えて、イエスさまがお語りになった「父や母をののしる者は必ず殺されなければならない」という戒めまでもイエスさまはお語りになったが、これは、神さまとの関係を隠れ蓑にして父母に何もしないことは、父母をののしることと同じ罪、殺されるに値する罪であるというわけである。どういうことだろうか? 父母をののしるということは、父なる神さまとその子なる人々、という秩序の中で、神の権威の代理として親という存在をお立てになった神さまを冒瀆することである。  そのように、神さまの秩序を壊すという点では、親を扶養することが神のみこころなのにそのみこころに不従順になり、神にささげたから親には何もできない、と言ってのけることも同じである。たとえ、大声を出して悪口を親に投げつけなくても、そのように妙な宗教行為に走って親を扶養しないならば、やっていることは同じ、死に値する、というのが、イエスさまのおっしゃりたいことである。  昨年7月の安倍元首相の暗殺以来、連日マスコミをにぎわしている某宗教団体は、家族を顧みないで自分たちの信じる神に献身するように信者たちを導いている。もちろん、私たちキリスト教会も、異端ではなく、正統な信仰を持っていれば安全圏にいると安心していてはならない。親を大切にしないように教える教会はろくなものではない。それは、イエスさまが語っておられるとおりである。私たち水戸第一聖書バプテスト教会は、子どもや若者に対し、親を大切にすることをしっかり教える群れでありたい。  イエスさまのみことばの結論部分に当たる13節。このような、対神関係と対人関係において最も大事なみことばに反することを教えているあなたがた宗教指導者たちは、一事が万事、あらゆる面でみこころにかなわないことを人々に強いている、というわけである。  ここまでみことばを読んできて、私たちは自分の信仰態度において、何を振り返る必要があるだろうか? 私たちが神さまに対して「従順」の実践と固く信じてきたものが、案外そうではなかったり、また逆に、もっとお従いすべきことをないがしろにしてきてはいなかったか……そういうことを考え直す必要がないだろうか? もちろん、そのように私たちを悔い改めに導くみことばはたくさん、聖書に記録されている。しかし、その根底にあるものは、「神の愛」である。神が愛であるゆえに、私たちは神を愛し、神のおつくりになり、そばに置かれた人を愛する。その愛が単に表面的なだけのものになり、規則さえ守っていればそれで充分と考えたり、規則を守れない人をさばいたりしていなかっただろうか?  私たちの教会にも、いろいろなしきたりがあろう。よその教会はもっと自由になやっているからと、それらのしきたりを無条件になくすべきだ、というのは乱暴な話である。そのしきたりをある程度大事にすることで保たれる秩序があることも確かである。  しかし、意味も考えずしきたりを機械的に守ることを大事にして、それを守れない人をさばくというのは、明らかにちがう。礼拝というものは来さえすればいいのではない。献金というものはお金をかごに入れさえすればいいというものではない。毎日の聖書通読やお祈りも、心を込めないお勤めのようにして持ちさえすればいいわけではない。  今日は、私たちの形式的になってしまっている歩みを振り返り、悔い改めるひとときを持とう。形を守るよりもみことばを学ぶことを大事にしよう。行うこと一つ一つが、神との交わりをもって行うものへと変えられるよう、祈ろう。

「主を仰ぎ見て輝く」

招詞;ヨハネの福音書1:1~5/祈祷/使徒信条/交読;詩篇121:1~8/主の祈り/讃美;讃美歌66「聖なる聖なる聖なるかな」/聖書箇所;詩篇34:5/メッセージ/讃美;聖歌418「あなたの罪あやまちは」/献金;聖歌569「主よこの身いままたくし」/頌栄;讃美歌541「父・御子・御霊の」/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 人は危険を感じたら、身を守る行動に出る。よく言われているのは、熊に出会ったら死んだふりをする……もっとも、あれは嘘らしい。そんなことをしたらいのちが危ないから、よい子のみなさんは真似をしないように。 そういうわけで人はいのちの危機に瀕したら、死に物狂いでいのちを守る。いのちを守るのに死に物狂いとはこれいかに? といった感じだが、とにかく人は死に物狂いで自分のいのちを守る。今日のみことばは、ダビデがとっさに取った行動、「死に物狂いでいのちを守った行動」がその背景にある。 今日のみことばは詩篇34篇5節である。週報のコラムにも少し書いたが、このみことばは私がバプテスマを受けた、埼玉県にある北本福音キリスト教会で使っていた「口語訳聖書」によれば「主を仰ぎ見て光を得よ」と訳されている。当時の主任牧師だった小田彰先生は書道をたしなむ方で、先生が「主を仰ぎ見て光を得よ 詩篇34篇5節」と揮毫された色紙が、わが家にあった。そのころ母は何かにつけて私のことを「みことばを用いて」叱り飛ばしたもので、そのときよく「主を仰ぎ見て光を得よ、でしょ!」などと言っていたので、正直、このみことばにいい想い出がなかった。 それが変わったのは、高校2年生になって松原湖バイブルキャンプに行き、「主を仰ぎ見ると……輝いた」と、新改訳聖書で訳されているのを知ってからだった。そうか、新改訳聖書ではこう訳すのか、説教がましくなくていいじゃん……。別に口語訳聖書を批判しているわけではなく、高校生だった当時の私が素直に感じたままを表現したまで。そのキャンプは歌って踊って、とにかくみんな輝いた。テーマソングからして「主を仰ぎ見ると 仰ぎ見ると 輝いた」なんて、手話つきで歌ったりして盛り上がったものである。 このみことば、詩篇34篇の書かれた背景は、表題を見ればわかる。まだ王位に就く前のダビデが、自分のいのちを守るためにとんでもない行動に出た、ということがあった。表題にアビメレク、とあるが、これは創世記にも登場する、異民族の王の称号。アブラハムやイサクはそのアビメレクを前にして、アビメレクは自分を殺すにちがいないと思って、妻を妹だと偽る言動に出るというしくじりをした。サムエル記第一では、その「アビメレク」とは「ガテの王アキシュ」であると書かれている。 サムエル記第一21章10節から15節を見よう。ダビデは、主君サウルにいのちをねらわれ、ガテの王アキシュのもとに落ち延びたと思ったら、アキシュの家来たちが、こいつはイスラエルのダビデです、とアキシュに告げ口し、ダビデは動揺してとんでもない行動に出た。ダビデのこの姿を見よ。そこらじゅう傷をつけまくったり、よだれを垂らしたり。ゴリアテに立ち向かった凛々しい紅顔の美少年が、よだれを垂らす醜態……はっきりいって想像したくない。だれが好きこのんで、こんな奇行に走るものだろうか? もちろん、ダビデのこの行為は演技である。熊を前にしての「死んだふり」のようなものだ。しかし、こんな狂気の行動に及ぶ以上、ダビデはどう弁解しようとも、狂っていた。だいいち、恥ずかしい。恥ずかしかろうが恥も外聞もなく、ダビデは死にものぐるいで恥ずかしい振る舞いをした。 それなら、ダビデは仕方がなく、このような狂気じみた行動に出たのだろうか? いや、そうではない。彼は本来、いるべきではないところにいたのである。のちにダビデは、サウルの手から落ち延びる日々が長引いて、再びアキシュのもとに身を寄せたが、ダビデがそこでしたことは、イスラエルを攻撃したふりをして身を守った、ということである。そうすることでアキシュは、ダビデがいつまでも自分の部下でありつづけるだろうと考えたわけだが、これはいかにも、未来のイスラエルの王としてふさわしくない行動をしたことになる。 ダビデをこのような行動に出させたのも、アキシュがイスラエルに敵対する存在であったからである。そのような、神の民に敵対する者のもとに身を寄せたことは、ダビデにとって間違いであり、それがひいては、ダビデを狂気に駆り立てたといえる。 ダビデがアキシュのところで見出したものは、サウルから逃れられたひとすじの光ではなく、暗闇だった。ダビデは狂気の沙汰という暗闇のなかから、ふたたびサウルのお尋ね者としてさまよう荒野へと追放された。 そんなダビデだったが、この詩篇の告白において、3節、さあ、一緒に主の御名をほめよう、一つになって御名をあがめよう、と呼びかけている。ダビデのお供の者たちは、ダビデのおかげで自分たちも恥を被るという、大変な目にあったわけだが、それでも彼らはダビデと運命をともにしていた。そんな彼らだったが、ダビデは彼らに対し、主をほめたたえようと呼びかけている。そのようにともに主をほめたたえる彼らは、主を仰ぎ見ると、輝いた、と語る。輝くだろう、ではない。もう輝いているのである。論より証拠だ、輝くわれらの姿を見よ。 ダビデもその一行も、アキシュの前で大恥をかいた。暗く落ち込むべきところである。だが、その暗く落ち込むとき、彼らは主を仰ぎ見て輝いた。神さまが味方である。そんな彼らを恥入らせるものは何もない。 私たちも恥をかく。恥を自分からかきたい、という人はあまりいないだろう。どうしたら恥をかかなくてすむようになるかが、私たちにとっての大きな関心事ではないだろうか。 恥ずかしいとはどういうことだろうか? 主の御顔が見えなくなり、落ち込んで暗くなる状態、つまり、主の光を受けて輝かせるべき顔が覆われているということである。主のご栄光を輝かせないで、暗い自分の顔を見せびらかすならば、やはりそれは「罪」のひとつのかたちと言えよう。恥もまた罪のあらわれ。 しかし、私たちが御顔を仰ぐならば、私たちの恥に暗くなった顔は、主の栄光に輝くのである。私たちも恥に巻き込まれることがあろう。それは人であるかぎり避けられない。私たちは罪人、不完全な存在、したがって恥ずかしい罪を犯してしまう。しかし私たちは、身を避けるべき存在、神さまによってその恥ずかしい顔が照らされ、輝く。私たちに恥をもたらす罪は、もはやイエスさまの十字架の上に、釘づけになっているではないか! 十字架におかかりになったイエスさまを見上げよう。裸でのろいを受ける死刑囚。こんな恥ずかしいお姿があるだろうか? しかし、ダビデがやむを得ず自分の身を守るために恥ずかしい行動に出たことと、イエスさまの十字架の恥はあまりに違う。イエスさまは私たちを罪の恥から救うために、ご自身が進んで十字架の恥を負われたのであった。十字架を仰ぎ見よ。もはや私たちが恥に悩む必要はない。十字架を見るとき、私たちは神の栄光に照らされて輝く。 しかし、私たちが輝くことを目指す一方で、私たちの生きる世界は恥と暗闇と混迷の中にある。ヒョンス・リムという牧師を覚えていらっしゃるだろうか? 長年北朝鮮を支援してきたが、金日成を批判したという罪名を着せられて、約3年にわたって北朝鮮の辺境の地にある刑務所で過ごされた韓国系カナダ人の牧師であり、数年前に釈放されたときには、日本でも大きなニュースになった。私は先日、この先生の著書を手に入れた。この本を読めば、暗闇とはどういうことなのかがたちどころにわかる。完全な情報統制、一切の政権批判、一切の独創的な活動が許されない社会、その中で飢えて死んでいこうと、政府は知らん顔。ぜひお読みいただきたいが、ひるがえって私たちはどうだろうか? 私たちは彼らよりもましな社会に生きていると、のうのうとしていられるだろうか? イエスさまはおっしゃった。あなたがたも悔い改めないならば、みな同じように滅びます。 私たちは、この世界が暗闇であることを認めるために、世相に無関心であってはならない。しかし、神さまの御顔よりもこの世の動き、うわさにばかり目を留めていては、私たちは暗くなるしかなかろう。 だからこそ私たちは、主を仰ぎ見て輝く必要がある。では、どうすれば私たちは主を仰ぎ見たことになるだろうか? それは、詩篇119篇105節にあるとおり、ともしび、光なるみことばを見ることである。私たちの世界が暗いのは、みな、光なるみことばを知らないからである。 今日みなさまに、みことばを通読するためのノートをお配りした。かくじのしゅうほうだなをごらんいただきたい。それは、ディボーションと聖書通読が掛け声だけに終わらないで、実際に取り組んでいただくためである。 また、とかく新聞やスマホやテレビに手を伸ばしがちな私たちが、世相を知ることにもましてみことばから学ぶためである。毎日、みことばという宝物の光に照らされることこそ、御顔を仰いで輝くことである。そうして輝きつつ、周りを輝かせる歩みに励んでいく、そのような私たちとなるように。 一年の初めに決心しよう。今年私たちはみことばの光に照らされるために、また、みことばの光によってこの世を照らすために、みことばを読もう。聖書を毎日読んで、みことばの光り輝く宝を見つけよう。

「赤ちゃんの主イエス」

招詞;ヨハネの福音書3:16/祈祷/主の祈り/讃美;讃美歌112「諸人こぞりて」/聖書朗読;ルカの福音書2:11~12/メッセージ「赤ちゃんの主イエス」/讃美;讃美歌109「きよしこの夜」/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」  私ども水戸第一聖書バプテスト教会の今年最大のニュース、それは、新しいいのちが贈られたことだった。ご覧いただきたい、あのかわいいお顔!  今日、クリスマスは、主イエス・キリストのお生まれをお祝いする日。そう、神の御子、王の王、主の主なるイエスさまは、赤ちゃんだった! まさに、あの子と同じ赤ちゃん。今日はこのことを考えよう。  むかしも今も、子どもという存在は大人に比べると軽い存在、小さな存在として扱われている。聖書の時代、2000年前のユダヤもそうだったし、現代の日本もそうである。いま私ども夫婦は、児童養護施設で勉強を教えるボランティアをしているが、生んだ親さえ顧みてくれない子どもの存在があることに心痛む。  イエスさまは、いきなり堂々とした王さまとして、人々の前に現れたのではない。最初は、おしめを替えてもらう赤ちゃんとしてこの世にお生まれになった。このお姿に私たちは、威厳に満ちた神のありかたをお捨てになったへりくだりを見るものである。  イエスさまが赤ちゃんとしてお生まれになったということから、私たちは2つのことを考えよう。 ①赤ちゃんを見るとき、私たちは幼子として神に召されていることを思い起こそう  聖書は基本的に私たちに、大人であるように勧めている。ただしそれは、物事の考え方においてということであって、悪いことにおいては幼子でありなさい、という。幼子はそもそも、悪事などできない。ここで言うのもはばかられる、悪いことをする赤ちゃんはいない。私たちはあまりにけがれている。イエスさまは、罪を知らない、けがれなき存在としてこの世に来られた。  イエスさまは、神の国を受け入れるにあたって幼子のようでありなさいとおっしゃった。神の国を受け入れるとは、この世をほんとうに治めておられるお方は神さまである、そう受け入れ、神さまのご主権に押した害する、ということである。大人びた人たちはそれを幼いとか、愚かだとか笑うだろうが、神さまはそのように、素直に神の国、すなわち、神さまが王さまとしてこの世界を統べ治めておられることを信じ受け入れるように、私たちのことを招いていらっしゃる。  赤ちゃんのけがれない姿、純真無垢な姿から私たちが学ぶことは、そのように、神の国を受け入れ、神さまに素直にお従いする姿勢を持つべきである、ということである。子どものように神の国を受け入れなさい、という、イエスさまのこの招きに、はい、神さま、私はあなたの子どもです、私はあなたの民です、とお応えする祝福があるように。それは、イエスさまを人生の救い主、王の王、主の主として受け入れ、お従いするところから始まる。 ②赤ちゃんを見るとき、神さまが私たちに備えておられる未来を思おう  イエスさまの伝記である福音書は4つあるが、そのうちの2つが、イエスさまの赤ちゃんの時代から描写している。それは、イエスさまが全くの人としてこの世界に育たれたことを表しているが、それと同時に、福音書を読む人たちが、神の子なる救い主イエスさまはこれからどのように育っていかれるのだろうか、と、イエスさまの未来を思い浮かべながらお読みするように読者を導いている。  赤ちゃんを見てみよう。赤ちゃんがにっこり笑うのを見るならば、だれもが心洗われすがすがしくなり、ほのぼのする。このメッセージのあとにみんなで歌う「きよしこの夜」の3番は、「みこの笑みに 恵みのみ代の あしたのひかり 輝けり 朗らかに」と歌う。赤ちゃんの主イエスの笑顔は、神さまがもたらしてくださる未来を示す。その未来とは、神さまがイエスさまによって、この世界を救ってくださる、素晴らしい未来である。  しかし、イエスさまを待っておられるのは、実際には過酷な未来だった。私たち人間を罪と死から救うために、十字架におかかりになるさだめが待っていた。それでも、赤ちゃんのイエスさまがもし、普通の赤ちゃんのように笑っておられたのだとするならば、それは何も知らない純真無垢な笑いではなく、わたしの存在によって人々が救われるということに、喜びを抱いておられたからだと言えないだろうか?   イエスさまはやがて十字架におかかりになったが、イエスさまの十字架を信じる私たちのことを救ってくださり、永遠のいのちを与えてくださった。私たちは相変わらず罪びとだが、イエスさまはこのような私たちのことをしのんでくださり、なお愛してくださっている。イエスさまを救い主と受け入れるならば、イエスさまはいつまでも、私たちの心の中に住まってくださり、やがて私たちを、永遠の御住まい、天国に入れてくださる。  そのような、神さまがもたらしてくださる素晴らしい未来、人々を罪から救ってくださる未来を、それは、イエスさまが赤ちゃんだったときに、すでに始まっていた。私たちは赤ちゃんに目を留めて、そのような素晴らしい未来を見るものとならせていただきたいものである。ぜひ、あとで「きよしこの夜」を歌うとき、神さまが私たちに与えてくださる未来に目を留めるものとなろう。

「男ヨセフここにあり」

聖書箇所;マタイの福音書1:18~25/メッセージ題目;「男ヨセフここにあり」/讃美;聖歌77「みつかいのたたえ歌う」/献金;聖歌569「主よこの身いままたくし」/頌栄;讃美歌541/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」  人生というものは、つねに順風満帆というわけにはいかない。ときには大変な試練に会うこともある。私たちの中にも、いまこのとき、試練に苦しんでいらっしゃる方がおられるだろう。  イエスさまがお生まれになるときにも、試練、また不条理に苦しんだ人がいた。ヨセフであった。ヨセフが問題に立ち向かっていったからこそ、イエスさまは無事お生まれになられた。このことを私たちはよく考えるべきだろう。このヨセフの姿勢から、私たちは何を学ぶ必要があるだろうか? 今日の本文からともに見てみたい。  第一にヨセフは、大いに悩んだ。そして、さばくよりも思いやることを選んだ。  18節。まだいっしょにならないうちにマリアが妊娠した。当然ヨセフにとっては、どう考えればよいかわからないことであった。  先週私たちは、ルカの福音書のマリアに関するみことばから学んだ。ヨセフのいいなずけマリアは、御使いガブリエルの訪問によって、自分が聖霊によって身ごもるということを知った。  マリアの場合は、妊娠するにあたって直接奇跡のように教えてもらい、そのことを知り、受け入れることができた。しかしヨセフはと言うと、マリアにそのような奇跡が起きたことなど、知る由もなかった。  マリアが、ガブリエルの訪れから間を置かないうちにそのままそのことをヨセフに告げたのか、それとも、おなかがふくらんだり、「つわり」のようなことが起こったりしたのをヨセフが見てわかったのか、聖書は沈黙している。確実なのは、マリアが妊娠したことをヨセフが知ったということである。ヨセフとしてはいったいこのことを、どう理解すればよかったのだろうか? マリアが何と言おうとも、マリアはだれかほかの男の人と関係して妊娠したとしか考えられなかった。  婚約者であるヨセフは、ひとつの決断を迫られていた。それは、神の民らしく、律法に従ってマリアを石打ちの刑に引き出すことであった。旧約聖書レビ記20章10節にあるとおりである。ヨセフの苦悩はここに極まった。妊娠して未婚の母になった、その相手が自分でなかったとは……それゆえに、律法にしたがって石打ちにしなければならないとは……。  ヨセフのこの悩みは、御父の悩みに通じるものがないだろうか? ほんらい人は、神さまと完全な愛の交わりが持てる存在として創造された。しかし人は、罪によって神さまとの交わりが断たれ、神さまはそのきよさゆえに、人間に対し、罪にしたがって死のさばきを下さなければならなくなった。そうでなければ神さまはきよいお方ではないことになる。  しかし、神さまは愛なるお方ゆえに、私たちを死のさばきから救い出さなければならない。この苦悩を、私たちはわかっているだろうか? 私たちが罪を犯すものだが、罪を犯すとき、神さまの苦悩が見えているだろうか? もし、見えていないとすれば、私たちはあまりにも、神さまのきよいみこころが見えていないことになる。  しかし、神さまはさばきと愛を両立させる決断を下された。それがイエスさまの十字架である。ヨセフはこのとき、マリアのみごもっている人が、御父がこの地に送って救い主であることは知る由もなかったが、マリアの胎の中にある人を救うことは、すべての人を救うことにつながった。そう考えると、ヨセフの決断が人類を救ったことになるわけである。 このお方、イエスさまは、のちに、姦淫の罪を犯したことによって石打ちの刑に遭う定めだった女性を救ってくださったとき、さばきか、愛かを激しく問い、イエスさまを罠にかけようとした律法学者やパリサイ人の前で、地面の上にかがんで指でなにやら書いておられた、と聖書は語る。これは、愛とさばきのはざまで苦悩されるお姿ではないだろうか? しかし、やがてイエスさまは地から立ち上がり、あなたがたの間で罪のない者が石を投げなさい、という、だれにも反論できない解答をくださり、彼らを退散させられた。 イエスさまの苦悩は、やがて十字架という形で極限にいたりますが、しかし、その十字架は、信じる人をあらゆる罪の悩みから解き放った。しかし、そこに至るまで、御父もイエスさまも、どれほど苦悩されたことだろうか? ヨセフは、愛と義の間で苦悩された、三位一体なる神さまの悩みを味わった人であり、そういうことからすれば、私たちの従うべき模範のような人物である。私たちもこの世に生きているかぎり、神の愛を前面に出すか、神の義を前面に出すかで悩むことがある。使徒の働き15章の最後のほうに出てくる、マルコを巡ったパウロとバルナバの決裂など、まさにそういう例である。パウロは義をとって彼を退け、バルナバは愛によって彼を受け入れた。 神さまではなく、限界だらけの私たちは、義か愛、どちらかに傾いてしまいがちである。そのような私たちの行く先は、イエスさまの十字架である。十字架こそは、神の義と神の愛がともに実現するところである。私たちはともに十字架を見上げることによって、一致していくことができると確信していこう。    第二のポイント、ヨセフは、マリアを生かす道を選んだ。 19節。……ひそかに離縁する、ということ。こうすれば婚約者であるマリアを、姦通罪で訴える必要はなくなる。もちろん、死なすこともなくなる。 そのかわりマリアは、もう二度とヨセフのもとに戻ってこない。ヨセフは、マリアを永遠に手放すという決断をしたわけである。それでもヨセフは、マリアを生かすようにした。  この箇所でみことばは、ヨセフのことを「正しい人」と評価している。「正しい」とは、みことばに厳格に従うゆえに、愛すべき人を石打ちの刑に引き出すことではない。神さまの創られ、愛しておられる大事ないのちを思いやり、守ること、それが「正しい」ということである。  私たちは「正しい」ということを、厳格なこと、四角四面なことと思ったりしてはいないだろうか? 確かに、「正しい」ということにはそのような側面もあるが、それでは、さばくことはできるかもしれなくても、人を救うことはできない。物事に対して正しいか否かということを判断するにあたって、みことばという判断基準を私たちは時に用いるが、そのような時こそ、なおさら私たちの態度が問われる。私たちはみことばを、人をさばくために用いるのか? それとも、人を救うために用いるのか?  ここで、みことばを適用する際の私たちの姿勢が問われてくる。私たちがもしみことばを、人をさばくために用いるとするならば、それは神さまの喜ばれることなのか、よく考える必要がある。聖書の中でも、箴言やパウロの書簡には、訓戒にあたるみことばがたくさん書かれている。しかしそれらの訓戒を、相手を愛する思いもなくただ闇雲に、聖書にそう書かれているからという理由で人に適用していくならば、それは人をさばくことになってしまう。  たとえば、聖書の中に、働きたくない者は食べるな、という表現が出てくる。しかし聖書にそ 私たちは罪人なのに、そのくせ人をさばきたがる。自分は罪人なのにもかかわらず、人のことを罪人扱いしてやまない。しかしイエスさまは私たちにおっしゃった。ヨハネの福音書13章34節。……イエスさまが愛するように……それは愛する相手のために、十字架にかかって傷ついて死ぬほど、という意味である。文字通り、死ぬほど相手を愛すること、これが、イエスさまが私たちに望んでいらっしゃる愛である。  ヨセフだって、マリアを離縁しようと決断するまで悩んだが、その悩みは「死ぬほど悩んだ」と形容するのがふさわしいだろう。死ぬほど。これが、愛を実践する者の姿勢である。そこからヨセフとしては、精いっぱいの決断をすることができたと言える。  神さまは、私たちが人を愛する者になるようにと求めておられる。それでも私たちは、そう簡単に人を愛する者にはなれないだろう。相変わらず、愛するよりさばくことを選びやすい。それでも私たちは、愛することを目指すものとなりたい。  私のために十字架にかかって死んでくださった、それほどまでに私を愛してくださったイエスさま、このイエスさまの十字架を、いつも思い巡らそう。そして兄弟姉妹を愛する愛を、増し加えていただくように祈ろう。  第三のポイント。ヨセフは、御声を聴いて従うことを選んだ。    20節のみことば。「彼がこのことを思い巡らしていたところ、」いったんはマリアを離縁する決心をしたヨセフだったが、どうしてもこのことを考えずにはいられなかった。ヨセフが御使いの声を聴いたのは、まさにそのような時だった。20節と21節。  ヨセフは悩みのどん底にあった。しかしそのようなときに、神さまのみことばをヨセフは聴いた。御声を聴く。これは、私たちの歩みにとって、基礎の基礎である。それでは、私たちは、御声というものをどのように聞くのだろうか? 礼拝でもいい、毎日のディボーションでもいい、信仰書籍を読む時でもいい、ほかの兄弟姉妹と分かち合いをするときでもいい、私たちはヨセフのような劇的な形ではないかもしれなくても、神さまがみことばを語ってくださる機会の中に、毎日私たちは置かれている。そういう機会の中で、私たちはみことばが聴けるのである。  私たちは悩んでもいい。悩むことは罪ではない。ただし大事なのは、そのような中にあっても絶えず神さまのみことばに耳を傾ける姿勢ではないだろうか? 悩むことにとどまるのではなくて、みことばを聴く。これが私たちのあるべき姿ではないだろうか?  そしてヨセフは、みことばを聴いてどうしたか? みことばで語られたとおりを実行に移した。つまり、マリアを妻として迎えた。どれほど難しいことをしたのだろうか? いや、考えることもできないことだったはずである。何しろ自分の子どもではない子を宿した人を、妻として迎えるのである。みことばに聴いて従うとは、そういう、常識をも超越した神さまのみこころに、人を導くものである。 神さまの御声に聴き従うと、世の中を縛っている常識というものの枠にとらわれなくなる。発想も行動も自由になる。ヨセフはたしかに、本来楽しむべき新婚時代も、マリアと関係を持たずに過ごすしかなかった。しかし、かえって、救い主をこの世に送り出す重大な働きに自分が関わっていることに使命感を持ち、そのような、普通に考えれば相当に不自由な新婚生活を忍んだにちがいない。神さまに聴き従ったヨセフは、実は神さまによって、自由だったといえる。  私たちはどうだろうか?みことばに聴き従う生活を、心のどこかで不自由なものと捉えてはいないだろうか? しかし、イエスさまも宣言されたとおり、真理、みことばの真理は私たちを自由にする。  ヤコブの手紙には、行いのない信仰は死んだものだと書かれている。私たちは聖書のみことばを聴いて、そのまま聴きっぱなしにしてはいないだろうか? あるいは、みことばに従って生きることを、どこかで恐れてはいないだろうか? 私たちはそこから解放され、みことばに従って、神さまのみこころに従って生きる、真の自由を体験していく必要がある。  毎日のディボーションで示されるみことばも、それゆえ、その示されたみことばをいかにして行動に適用していくか、常に求めていこう。みことばを聴く者になろう。そして聴くだけにとどまらないで、行動に移していくものになろう。  最後に、マリアをさらしものに、あるいは石打ちにしなかったヨセフの思いやり、そして語られたみことばに従ったヨセフの信仰ある行動によって、イエスさまが無事この世にお生まれになったことを今一度覚えておこう。このクリスマスの備えのとき、私たちもヨセフのように、あえて自分の損になるようでも人に愛を示し、みことばを聴いて実践するものとなれるように。

「マリアとはどんな人だったか」

聖書の教えに人々が触れるとき、理解できない、となる事柄として、「イエスさまの復活」とならぶものに、「マリアの処女懐胎」があるであろう。これは実際、あるミッション・スクール出身の人から聞いた話だが、その学校の「聖書」の授業では、「イエスさまの処女懐胎も、復活も、信じたければ信じてもいいが、事実というわけではない」というふうに教えているという。そういう聖書教育を受けた子どもたちはいったいどのように育つのだろう、と、暗澹となるが、ミッション・スクールにしてそうなのだから、いわんやこの世の一般的なとらえ方においてはどうだろうか。  今日の箇所は、マリアは処女にして身ごもったと、はっきり語っている。このみことばをきちんと受け入れるとき、私たちは聖書のことばをすべて、誤りなき神のみことばとして受け入れることができる。とても大事な箇所である。  それでは本文の学びにまいりたい。神さまは主イエスの母としてマリアをお選びになった。マリアがどんな特別さを備えていたから主がお選びになったかは詮索できなかろう。神のみぞ知る、といったところ。ただし、このように神さまに選ばれたマリアはどんな人だったか、私たち信仰者にとってどんかモデルかを知るのは必要なことである。  マリアとはどんな人だったかということは、今日の本文の、御使いとのやり取りから知ることができる。マリアは御使いの取り次ぐ神のことばに対し、3つの反応を見せている。順に見ていって、私たちにとっての模範となるマリアの態度から学びたい。  第一にマリアは、みことばに驚き、考えた。  26節。不妊の人だったエリサベツに子どもが与えられたという大きなできごとのその6か月後、神の御使いガブリエルがマリアのところに来た。マリアはダビデの子孫であるヨセフと婚約していたが、あくまで婚約で、男性経験はなかった。婚前交渉、婚外交渉が当たり前になっているこの世の価値観からかけ離れているだろうか? しかし、これが本来あるべき姿。私たちはこの原則を大事にし、子どもたちにも教えたい。  28節。そんなマリアのもとに御使いが現れた。それだけでも驚くべきことだが、ガブリエルはマリアに、なんと告げたのだろうか?「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」29節を見よう。マリアが戸惑ったのは、御使いの告げたことばに対してだった。マリアは、御使いがいきなり現れたことに驚いたともいえようが、御使いの語ったことばの意味はなんだろう、と、驚き、考えたわけである。  それはそうである。何がおめでとうなのだろう? どうして私は恵まれているのだろう? 主がともにおられるとは、どういうことだろう? わかるだけでも、3つも疑問が湧き上がっている。みことばとは、私たちをして驚かせるものである。人間世界ではふつう体験できない奇跡の記述。それがほんとうにあったのか! と受け止めるとき、聖書の登場人物がおぼえた驚きに近づける。  しかし、みことばとは、驚かせるものにとどまらず、考えさせるものである。マリアの場合を見てみると、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ、とある。マリアを驚かせたものは、その神のことばが、ほかならぬ、自分に語られたものだった、ということ。  そこでマリアは考えるしかなかった。私が、こんなふうに、おめでとうなんて言われる理由などあるかしら。私は恵まれているのかしら。いと高きお方である主が、私などと一緒におられるものかしら。  私たちに、この「頭」というものが与えられているのは、自分で考えることが主のみこころだから。神さまがみことばで驚きを与えてくださったら、私たちの側のあるべき反応は「考える」こと。その反応を主は喜んでくださり、もっとよくみことばがわかるように、知恵をくださる。  私たちはみことばに「驚いて」いるだろうか? みことばを座右に置く素晴らしさがいつの間にか当たり前になって、その書かれていることに「驚く」ことを忘れてしまってはいないだろうか? そして、私たちは、みことばを読むたびに「考えて」いるだろうか? もちろん、究極的に言ってしまえば、みことばの意味を悟らせてくださるのは聖霊なる神さまで、私たちの知恵によるのではないのだが、しかし、悟りに至るまでに私たちが自分の頭でみことばを思い巡らすことを、神さまはよしとしていらっしゃる。それでこそ、私たちは、じぶんにあたえられたみことばをじぶんのものとしていただくことができる。願わくは、みことばに驚き、みことばを考える恵みがつねに与えられるように。  第二にマリアは、みことばの意味を問うた。  30節。御使いはマリアの戸惑いを見て取った。そこでまず御使いが語ったことは、「恐れることはありません」ということばである。マリアには、この世の何ものにも比較できないほど確実な神のみことばが与えられるのに、恐れていてはならないでしょう、と、御使いはマリアを励まし、力づけている。恐れるな、ということばは、神から離れているゆえに不安になることおびただしい私たち人間に対する、神さまからのプレゼントである。  そしてガブリエルは、あなたは神から恵みを受けている、と語った。特別な選びの恵みを受けたというわけである。神さまのみこころによって「私が」選んでいただいた、これが私たちの信仰の神髄である。  31節。ガブリエルは、マリアが処女にして身ごもることを告げた。空前絶後の奇跡が起こるというわけである。しかも生まれるのは男の子で、その名前まで、なんとつけるべきかが告げられた。イエス、神は救いである、という名前。  32節。このイエスという子は、いと高き方の子、すなわち、神の子としてこの世にお生まれになり、住まわれる方というわけである。しかし、人とは無関係な、ただ高きにいますだけの存在ではなく、神である主によってダビデの王位、すなわち、永遠に神の民を統べ治める王の王としての地位を備えていらっしゃる、というわけである。  33節。ヤコブの家とは、創造主なる神の民。血筋によるのではなく、神を信じる信仰によって神さまと契約を結んだ民を「ヤコブの家」と呼んでいる。このお方は永遠に支配される。  以上のことは、ユダヤ人、わけてもダビデの子孫としてダビデにつながる立場から、偉大なる先祖ダビデを思うかんきょうにつねにあった自分自身、そして、同じくダビデを父祖とするヨセフに嫁ぐ者として、よくわかっていたことだろう。しかし、よりにもよって、自分からそのようなメシアが生まれようとは……。  マリアはこのみ告げの内容にも戸惑っただろう。しかし、34節にあるとおり、マリアは、正規の結婚に至っておらず、したがって男性経験もないのに、なぜ自分が妊娠するのが、と、とまどったわけである。  みことばが臨むのは、人間の常識でありえない、全能なる主のみこころを、人間にお示しになるためである。しかしそれは往々にして、人間の理解を超えるものである。さて、そのようなみこころが示されたら、私たちはどう反応すべきなのだろうか?  マリアを見よう。そんなことはありますまい、と反応したのではない。マリアはみことばを疑ったわけではない。  さきほど、知り合いの通っていたミッション・スクールの話をしたが、はじめに疑いありきで、神のみことばさえもそういう疑いの対象に含めて読む人がいるものであり、キリスト教会におけるその立場を「自由主義神学」というが、私たちは、その「自由主義神学」のような、神のみことばを疑いありきで読むことは、ふさわしくないという立場を堅持している。マリアは、「どうしてそのようなことが起こるのでしょう」と言っているが、神のみことばは嘘だと、言下に否定しているわけではないことを確認しておきたい。  だからといってマリアは、何も考えずに、はい、そのとおりです、と反応したのでもない。つまり、マリアはみことばを鵜呑みにしていない。みことばに対して、アーメン、そのとおりです、と受け入れる信仰は必要だが、それと、何も考えないで鵜呑みにすることとはちがう。  あまりにも理解できないことは、そのままにしなくていい。マリアは御使いに、あまりに意外なみことばが、なぜ起こるのか、と問うた。私たちの見習うべき姿勢である。あまりに高きにおられる聖なる神のみことばは、いかにこの世界に下られて語られるみことばであろうとも、みな理解できるべくもない。その意味はなんですか、とお尋ねすることが大事である。ここに、みことばを研究する意義が出てくる。  十二弟子もイエスさまにお尋ねした。すると、イエスさまは教えてくださった。使徒の働きに登場するべレアの信徒たちも、パウロの教えを鵜呑みにしないで、果たしてそのとおりか、毎日聖書を調べた、とある。その姿勢は私たち、聖書を学ぶべく召された者たちにとっての模範である。世の中の動きを知るには新聞やニュース番組を見るだろう。そうやって私たちは毎日「学ぶ」。また、私たちは読書をする。そうやって私たちは毎日「学ぶ」。仕事で必要な資料を調べる。そうやって私たちは毎日「学ぶ」。そのように、「学」べく召されている私たちは、この世界に変わらずに神として君臨されるそのお方のご存在とみこころとみわざを、毎日、みことばに問い、みことばに学ぶのである。  みことばがわからないことを仕方がないと思っていないだろうか?「問う」姿勢を大事にしよう。求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。門をたたきなさい。そうすれば開かれます。神さまは必ず、みことばの深い意味を積極的に尋ね求める私たちに、ふさわしい形で教えてくださる。  第三にマリアは、みことばに謙遜な姿勢で従った。  いまお話ししたとおり、マリアはみことばの意味を問うたが、それに対して御使いは答えている。35節。たとえ処女であろうと身ごもるのは、神さまの力によるものだということである。それゆえ、あなたは身ごもり、生まれる子どもは聖なる者、神の子である。  36節。これはマリアを具体的に説得する事実である。マリアはもちろん、親類であるエリサベツが子どもを宿せない悩みを抱えていたことを知っていた。しかし、そのエリサベツが無事に身ごもっているという事実を知らされた。そして畳みかけるように37節。  マリアは説得された。38節、マリアのことばを見よ。まず、自分のことを、主のはしためと告白している。いちばん低い立場にある女性である。これは別の訳の聖書では「仕え女」であり、神に仕える立場にある、神に仕えてこそあるべき立場にある、ということ。  なにかと人からほめられたい、尊敬されたい、仕えられたいと思うのが、私たちではないだろうか? そんな私たちは、マリアのこのへりくだった姿勢にならうべきだ。  そして、おことばどおりこの身になりますように……これは大変な告白である。何よりも、未婚の母で生きるのが神のみこころなら、そうします、という、大変な決意の表明である。この従順の結果、婚約者のヨセフは去るかもしれない。お腹が大きくなったら、人々は私のことを石打ちの目に合わせるかもしれない……そんな可能性もあったわけだ。  しかし、ここでマリアが信仰を働かせることができたのは、神さまは、これほどのお方を誕生させてくださる以上、ぜったい、自分のことを守ってくださる、ということを、みこころとして受け取っていたからである。イエス・キリストは、どんな人間的な逆境が予想されようと、誕生するのが神のみこころである以上、必ず生まれる。したがって、みごもって産む私も守られる……。  このような絶対の従順を生む信仰は、キリストについてのみことばを聞くことから始まる。その聞く姿勢は、さきほども触れたとおり、わからないことをわからないままにせず、しっかり尋ねるところにも現れている。蒔かぬ種は生えぬ、というが、聞かぬみことばは信仰にならぬ、といったところだ。イエスさまのお祈りにあるように、永遠のいのちとは、唯一まことの神である御父と、御父が遣わされたイエス・キリストを知ることだが、永遠のいのちを自分のものにさせていただくために、神を知るには、みことばを読むしかない。みことば読むこと以上に、神を知り、永遠のいのちに生きる道はない。  私たちは、従順という祝福を受けるまで、みことばに聴くことをやめないでいるだろうか? どうかみことばを聴く、みことばに聴く私たちでありたい。そして、みことばに従う力をつねに謙遜に求める私たちでありたい。