主の弟子の価値は無限大

聖書箇所;マタイの福音書10章24節~31節 メッセージ題目;「主の弟子の価値は無限大」    みなさまにお尋ねしたい。ご自分は、どのくらい価値があるとお思いだろうか? つい私たちは、失敗したり、人から悪口や批判のことばを言われたり、過去の忌まわしい記憶がよみがえったりするとき、ああ、自分なんてダメだ、と思ったり、口にしたりしないだろうか?  そんな私たちに対して、神さまは語ってくださっている。イザヤ書43章4節。ヨハネの福音書3章16節。そう、私たちは自分のことをどう思おうとも、神さまが変わらずに愛してくださっているのである。  神さまが愛しているものを、ダメだと言ってはいけないだろう。人に対しても、自分に対しても。私たちはつい、自分はダメだと思って落ち込んでしまう。そんなとき、神さまの愛に立ち帰ることができたらどんなにかすばらしいだろうか。私たち教会とは、何かと落ち込みがちなお互い、人をそしってしまいがちなお互いが、神さまの愛によって愛されていること、神さまの愛によってお互いが愛し合えることを心に留め、愛の奉仕をすることで成長する共同体である。神さまと兄弟姉妹の愛を受けて、神さまと兄弟姉妹、そして隣人を愛する、私たち主の民は、そうして自分の価値を確かめ、神さまに感謝する。  聖書は語る。「神は愛です。」したがって、神の子イエスさまの弟子である私たちも、その神の愛の御姿にならう存在。私たちはなかなか、師であるイエスさまのその愛の姿にならうのは難しいが、あきらめないで愛することを取り組んでまいりたい。  今年の年間テーマは「宣教する弟子」である。しかし、宣教というのは、人を「キリスト教」という宗教の教えに染めて、先輩である自分は教えてあげたからと大きな顔をすることでは決してない。そうすることは傲慢であり、愛の反対であり、「宣教」の名に値しない。「宣教」するとは愛すること、仕えること、癒すこと。だから、へりくだっていないと無理な働きである。人間、へりくだることはほんとうに難しいが、聖書をつねにお読みして、私たちのためにへりくだって仕えてくださるイエスさまのお姿にいつも触れるならば、私たちもへりくだることの麗しさを習い、腰が低くなっていこう。隣人、まだイエスさまとはどんなお方か知らない人に、イエスさまが愛されたようなその愛を実践すること、小さなことでも気がついて手伝ってあげるでもいい、人より早く出勤、遅く退勤して、主にある勤勉の具体的な姿を示すでもいい、悩みを抱えた人の話を聞いてあげるでもいい、そういう、アーサー・ホーランドのことばを借りれば、「1ミリだけ難しく生きて」隣人を愛することをする、それが、イエスさまの望んでおられる宣教ではないだろうか。  もちろん、ことばで筋道立ててイエスさまとはどういうお方かを語れるようになることは大事である。それは確かに宣教のコアにあたる部分であり、必須である。しかし、ことばがご立派でも行いが伴っていない人の話など、説得力はないというものである。ことばで伝道することも、愛の行いをすることも難しいが、励まし合ってチャレンジしていこう。  本文に入ろう。イエスさまは弟子と師の関係を語っているが、マタイ23章10節によれば、師と呼ぶべきお方はキリストである。私たちはイエスさまをキリストと告白するので、イエス・キリストという師の弟子である。その最初の弟子が、いまこうしてイエスさまからみことばを授けられている十二弟子。その弟子たちは、師以上には出られない、と語る。また、しもべというのは、イエスさまを主と告白する、すなわち主人と告白する者たち、イエスさまのしもべであるわれわれクリスチャンであり、ここでは、まずこの弟子たちを指している。弟子もしもべも、どちらも同じである。その共通点は、低い存在として高い存在の言うことを聞き、行動する、ということ。絶対のことばに従う。それはこの世の上下関係でもそう。ただし、ほんとうの師であり主人であるイエスさまは、黒いカラスでも私が白といったら白だ、というような、理不尽な上下関係を強要される方では決してない。  師という存在、主人という存在が崩れたら、そのもとにいる者たちは守ってももらえず、用いてももらえない。だから、永遠の師であり主人であるイエスさまが私たちにいてくださるということは、ほんとうにありがたいことである。  25節。このイエスさまのみことばによれば、弟子でも師のようになれ、しもべでも主人のようになれることを約束しておられる。これはルカの福音書6章40節によれば、充分な訓練を受ければ、という条件がつく。訓練というのは、Ⅰテモテ4章7節から8節によれば、今のいのちと来たるべきいのちが約束されるための、敬虔のための訓練であり、それは肉体の鍛錬にもまして有益であるという。イエスさまは今のいのちにおいても、来たるべきいのちにおいても、今からのち永遠に私たちの主であられる。主との聖い交わりを保つことは訓練が必要な領域である。好きなところに遊びに行くのではなくて主日に教会に来ることも、毎日時間を確保して聖書を読んでお祈りをすることも、訓練によって少しずつ身についていくこと。私はしょっちゅう弟子訓練ということを強調しているが、弟子とは牧師の弟子ではなく、キリストの弟子であり、キリストの弟子になるには教会がみんなして訓練に入っていく必要がある。  そうして私たちは、師であり主人であるキリストの似姿に近づいていくのだが、同時に私たちは迫害も受ける。ユダヤの宗教エリートたちはイエスさまのことをベルゼブル呼ばわりして、そのみわざを全否定してみせた。だが、そこまで言われるイエスさまよりも、より悪く言われるのが、その弟子、そのしもべにあたる、主の子どもたち、クリスチャンたちだというのである。  クリスチャンに対する悪口。これは、キリスト教会が宣教するようになったここ160年ほどの日本で、絶えず聞いてきたことばだろう。「ヤソ」とか「アーメン、ソーメン、ヒヤソーメン」とか。こういうことはイエスさまを指して言うことばではなく、クリスチャンを指して言うことばである。東京の寄席に行くと今でもよくかかっている「宗論」という噺があるが、この演目はイエスさまに対する悪口ではなく、クリスチャンに対する偏見に満ちた悪口のオンパレードである。恐れ多いとでも思うのか、イエスさまへの批判などできないような人たちも、クリスチャンへの批判や非難、罵詈雑言は容赦ない。まさにイエスさまがおっしゃるとおりである。  しかし、26節。イエスさまは、ですから、恐れてはいけません、と語っておられる。クリスチャンを待ち受ける現実は決してたやすいものではないとお語りになっているのに、なぜ、恐れてはいけません、と語っておられるのか? だいたい、何が「ですから」なのだろうか?  それは、師であるキリスト・イエスのようになれるほど、神さまは私たち教会に、無限大の価値を見出していらっしゃるからである。私たちはどれほど尊い存在だろうか? 私たちのいのちが救われるために、神のひとり子イエスさまのいのちが犠牲になったほどである。そんな無限大に尊い存在を、神さまはサタンにやられるままには決してなさらない。  サタンに魅入られた狼のような人たちに神の愛を施す、宣教のわざをしても、彼らは私たちの善意に対して理解せず、非難したり、無視したりするかもしれない。しかしイエスさまは約束しておられる。今はそのよい行いの源である福音が、彼らの目には隠されているかもしれない。しかし、それはやがて明らかになる。覆われたままではいない。隠されたままではいない。彼らはやがて、私たちの信じているお方を見るようになる。  27節。イエスさまは全能の神さまであられたから、やろうと思えば世界中の人々にたちどころに福音をお語りになることもできた。しかしイエスさまのとられた方法は、十二人に限定した共同生活の中で時間をかけて弟子訓練することだった。その間のイエスさまにみことばを授けられている共同体生活は、閉じていた。しかし、遣わされたら広々とした世界に向けて堂々と語った。まさに、十二弟子が人目につかないところで聞いたことばが、宣べ伝えられ、今や世界中で語られるようになったのである。イエスさまがおっしゃったとおりになった。そのようにイエスさまは、福音宣教という最高のわざのために、ご自分の愛する弟子をきたえ、広く用いられるのである。  その働き、無限の神さまがになってしかるべき働きを託していただけるほどの存在、それが主の弟子。私たち主の弟子は、そんな無限の価値を持っている。だから恐れてはならないのだが、それでも私たちは恐れないだろうか? 私たちの恐れの正体とは何だろうか? その正体はほぼ、「失うこと」と言えるだろう。現在、マクチェイン式聖書通読はヨブ記を毎日読んでいるが、ヨブ記は、家族、財産、自分の健康や妻の尊敬さえ失った、喪失の悲しみに打ちひしがれた者の嘆きに満ちている。同じ旧約聖書の「哀歌」も、ユダという国を失った亡国の悲しみに満ちている。私たちも、健康、財産、名誉、愛情、人間関係、尊敬、安全、安心……そういうものを失うことを恐れている。私たちがそれらを失うのを恐れるのは、その結果私たちが「死ぬこと」「滅びること」を、心のどこかで恐れているからではないだろうか。  だからこそ私たちは、いのちの主なる神さまが私たちのいのちを握っておられることを覚え、そのことに平安を覚えるべきなのである。サタンは、私たちに喪失の恐怖をちらつかせ、失うな、とばかりに、悪の勢力に隷属させようとする。よく見てみよう。サタンに牛耳られたこの世界は、どんなに「得ること」、「手に入れること」を私たちに宣伝しているだろうか? 愛情、快楽、安定、健康、名声、尊敬、財産、安全……だが、それらのものを手に入れようとも、ほんとうに満たすお方であるイエスさまに出会わないならば、人はサタンに隷属するしかなくなる。  イエスさまに出会うには、自分が大事に思っているものを、どこかで「失う」決断をすることも時には必要である。それは、サタンに従う者にはあらゆる喪失に加え、いのちさえも喪失させ、永遠の滅びにお定めになる神さまとの出会いをとおしてできることである。神さまがすべてを持っておられる、そのすべてを私にくださっている、それほど私は無限大の価値のある存在である、そう知れば、神さまから滅びに定められるようなことなど、恐れ多くてとてもできない、となろう。  その無限大の価値を、イエスさまは雀に例えて語っておられる。29節。1アサリオンとは、一日分の労賃1デナリの16分の1だから、日本円に直して簡単に考えれば、ワンコインランチのお値段くらい、500円かそこら。それが2羽分だから、1羽ではおにぎり2つ買えるか買えないかくらい。ほんとうに安い。しかもほかのイエスさまのおことばによれば、2アサリオンあれば雀は5羽買える。つまり、1羽分はおまけ。おにぎり2個どころではない、ただ。  しかし、神さまはそんな雀の1羽さえも、みこころに留めて生かしていらっしゃる。そのいのちを司り、労働もしないその鳥に食べ物をつねに備えてくださるほど、神さまは関心を持っていらっしゃる。1羽の雀に無限大の神さまの無限大の愛は注がれている。ゆえに1羽の雀の価値は無限大。その雀は数えきれないほどたくさんこの世界にいる。数学的に言うとおかしい言い方かもしれないが、無限大に無限大をかけたよう。それよりもあなたがた、弟子たちには価値があると、イエスさまはおっしゃる。  なぜ恐れてはならないのだろうか? 無限大かける無限大の価値を見出すほど、神さまは私たちを愛し、関心を持ってくださっているから。髪の毛ひとすじに至るまで数えておられるとは、髪の毛ひとすじも失わせないほど、つまり、私たちの髪の毛一本サタンの手に渡さないほど、私たちを完璧に守ってくださる、ということ。  私たちが無限大の存在ならば、ひとつでも何か欠けたら、もうそれで無限大ではなくなる。神さまは、そんなことはさせない、髪の毛一本に至るまでも守るように、私たちの全存在を守ってくださり、私たちを完璧な存在、無限大の存在として保ってくださる。それは、神さまが私たちに備えてくださった唯一の道、御子イエスさまを信じ従うことによって許されることである。イエスさまを信じていこう。  ともかく神さまは私たちに、無限大の価値を与えてくださった。私たちにこれほどの価値があるなら、私たちはもう、自分なんてダメだ、と嘆くまい。そんなことは言えないではないか。神さま、これほど素晴らしい存在にしてくださって感謝します! ハレルヤ! 喜んで信じます! これでいこうではないか。  その喜びは、イエスさまの弟子が味わえる特権である。宣教とは、自分はその無限大の価値を持っている、その喜びを、へりくだって愛することによって人々に分かち合うことである。「あなたがたも無限大の価値を持っているんです。神さまに愛されていることを知ればそれがわかります。」  その愛する働きをするとき、抵抗されたり無視されたりすることもあろう。でも、忍耐して種蒔きをしよう。主は必ず、その、涙とともに蒔いた種を芽吹かせ、育て、豊かな実りを与え、刈り取らせてくださる。私たちの間で隠されていた愛の福音は必ず、この世に広く宣べ伝えられる。私たちの愛の奉仕によって。その積み重ねで、人々がイエスさまに大いに立ち帰る、リバイバルは必ず来るから、イエスさまを信じ、あきらめないでよい働きに、愛の働きに献身していこう。

神は生きている者の神

聖書箇所;マルコの福音書12章18節~27節 メッセージ題目;「神は生きている者の神」 私たちがクリスチャンであると公にして生きると、いろいろ煩わしいことに巻き込もうとする人がいます。なかでも、私たちがちゃんと説明したところで神さまを信じるつもりもないのに、私たちにとって答えにくい質問を吹っかけて悦に入るタイプの人など、その典型でしょう。私も学生時代から、自分がクリスチャンであることを周りに明らかにして生きてきましたので、興味本位の質問や議論を吹っかけられることがたまにありました。みなさまにもそんな経験はありませんでしょうか? ただ、そういう議論をクリスチャンではない人がしてくるなら、それでも福音を宣べ伝える機会にはなるので、意味がないとは言えないでしょう。問題は、聖書に啓示されている神さまを信じていると言いながら、私たちのことを意味のない議論に持ち込もうとする人たちです。いったい、彼らは何を思ってそんなことを言ってくるのでしょうか? 私たちのことを論破したつもりになって、そんなに楽しいのでしょうか? 今日の本文を見ますと、そのようなタイプの議論家がイエスさまに議論を吹っかける場面となっています。出てくるのは、おなじみのパリサイ人ではなく、サドカイ人です。サドカイ人、サドカイ派は、エルサレム神殿を中心とした祭司の家系に属する裕福な上流階級で、民衆の宗教的指導者として、パリサイ派の宗教指導者、パリサイ人と、政治や宗教をめぐる主導権争いをしました。 彼らの特徴として、モーセ五書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記に最終的権威を置いていました。彼らは復活や死後のいのちというものを認めませんでしたが、それは、彼らにとっての聖典というべきモーセ五書に、それらのことが明記されていなかったからと推測されます。また、彼らは政治指導者としての側面も持っていましたが、だからというべきか、彼らは現実主義者で、世俗には関心を持っても、真の霊的な関心というものを彼らは持っていませんでした。 その前提で今日の箇所を読んでいただければ、サドカイ人がなぜこのような議論を吹っかけ、それに対してイエスさまがこのようなお答えをなさったかがわかります。のちほど順を追って説明しますので、まずは本文を見てみましょう。 18節、サドカイ人が来ました。ここで「復活はないと言っている」と、但し書きがついています。イエスさまはおっしゃいました。「わたしはよみがえりです。いのちです。」まことのいのち、よみがえりそのものでいらっしゃるイエスさまに議論を吹っかけるのですから、彼らのたくらみは無謀と言えるものです。 イエスさまを指し示した働き人であるバプテスマのヨハネは、パリサイ人とサドカイ人をまとめて、「まむしのすえども」と糾弾しています。おまえたちは宗教家のなりをした悪魔の子だ、というわけです。聖書を読んでも、彼らがバプテスマのヨハネの糾弾のことばを聞いて、悔い改めた形跡はありません。すなわち、パリサイ人がイエスさまに敵対していたように、サドカイ人もまた、神の子であるイエスさまを受け入れることろには到底達していませんでした。だから彼らは真理を求めてイエスさまに質問したのではありません。言いがかりをつけてイエスさまを罠にかけ、あわよくば失脚させようとたくらんだわけです。この点、対立する相手のパリサイ人と同じことをしていたことになります。 彼らがそういうことを念頭に置いていたという前提で、あらためて19節から23節を読みましょう。 まず、19節のみことば、これは申命記25章5節に書かれているみことばがもとになっていて、「レビラート婚」という、律法に定められた結婚形態の根拠となっています。これそのものはもちろん、みこころにかなっていることであり、亡くなったイスラエルの民の名を記憶させる、また、その財産を一族で守るという意義があります。ルツ記に登場する、ルツをめとったボアズは、この「レビラート婚」の原則にしたがって行動し、ルツとの結婚を果たしました。あとでおうちに帰られたら、ぜひ「ルツ記」をお読みください。短い1章ずつの全部で4章の、とても短くて美しいみことばです。 その「レビラート婚」の原則はモーセ五書である申命記にあるわけで、サドカイ人の信仰の根拠、というより宗教的判断の根拠となっているのももっともですが、問題はその次です。長男夫婦に子どもがないまま、長男が死んだ。その長男には弟が6人いて、次男が長男を継いでその妻と結婚、しかし次男が死んだ、そこで三男が継いで結婚、でも死んだ、そこで四男が継いで結婚、でも死んだ、そこで五男が継いで結婚、でも死んだ、そこで六男が継いで結婚、でも死んだ、そこで七男が継いで結婚、でも死んだ、そして妻も死んだ。 このように言うと、サドカイ人がどれほどめちゃくちゃ、ナンセンスなことを言っているかわかると思います。これは、レビラート婚はそれほど大事なものだからしっかり守るべきである、という前提で話しているというよりも、何が何でもイエスさまの粗探しをしてやる気満々で、こんなことを言っていると見るべきでしょう。 しかし、そうは言いましても、可能性としては限りなくゼロに近いですが、完全なゼロとは言い切れません。そういう可能性もありますよ、さあ、あなたならどうお答えになるのですか、これはほかならぬ、みことばの語っていることなのですよ、と迫っているわけです。 しかし、彼らサドカイ人がこのような例話を用いた意図が、23節ではっきりします。彼らは復活を信じない前提でこのようなことを言っているわけですが、彼らはこう言いたいわけです。もし復活というものがあったら、婚姻関係はめちゃめちゃになるでしょうが……。したがって、復活というものはありません。先生、あなたは嘘つきです。そういうふうに、彼らはイエスさまに喧嘩を売っているわけです。 私たちにとっても、しばしば答えにくい問いというものがあります。特に、聖書の一か所を取り上げて、聖書のほかの箇所と照らし合わせると矛盾ではないですか、さあ、どう考えますか、というたぐいのものです。これは、聖書を誤りなき神のみことばと信じ告白する私たちからすると、一生ついて回る課題です。逃げたくなるでしょうか。そんな問いをする人に対して逆切れでもして、うるさい! と一喝するでしょうか。 しかし、イエスさまはそのどちらでもありませんでした。このような者たちに対しても、懇切丁寧にお話しになりました。まず、イエスさまは、あなたがたサドカイ人は聖書という神のみことばも神の力も知らない、とおっしゃいました。ゆえに、あなたがたは思い違いをしている、ということです。 およそ神に属する者にとっては、聖書という神のみことばに根差し、聖霊なる神の御力を祈りのうちにつねに体験することは必須のことであり、生命線です。いわんや彼らは祭司の一門に属する立場にあります。みことばを知ることもせず、神の力を体験することもしないで、ユダヤの宗教指導者として君臨するなど、あってはならないことでした。まさにヨハネが「まむしのすえども」と糾弾した時から、彼らは変わっていなかったのでした。宗教家のなりをした俗物でした。 しかし、人の振り見て我が振り直せ、です。私たちはみことばと祈りにおいて神と交わり、人々の前に神を証しし、聖徒の交わりをする者として、広い意味で祭司です。まさに、第一ペテロ2章9節に「あなたがたは王である祭司」と書いてあるとおり、また、宗教改革者ルターが私たちすべての聖徒を指して「万人祭司」と主張したとおりです。私たちがその祭司としての役割を果たすには、毎日みことばをお聞きし、毎日祈ることで神さまと交わることは必須です。こうしないと、私たちは思い違いをすることになります。 思い違い。それは、みことばと御霊の啓示から外れることで、私たちが「信じたい」方向に動かされてしまうことから生じることです。私たちの教会が毎週「バプテスト教理問答書」から学んでいるのは、それは先人たちが緻密に聖書を研究した結果のエッセンスであり、そこから外れては教会があらゆる点で不健全になるからです。信仰告白、教義、神学、ほんとうに必要です。それを外れるならば、それはもはやキリスト教と呼ぶことはできません。 イエスさまはなんとお語りになっているのでしょうか? 25節です。そうです。婚姻というものは、第一に「産めよ、増えよ、地を満たせ」というご命令を人間が遂行するために、男性と女性で結び合わさって成り立つ制度です。しかし、御国においては、もはや出産ということはありえず、したがって出産の大前提になる「結婚」ということもありえません。この神さまのみこころは、永遠のいのちというものをこの世的な発想でしか理解できないサドカイ人には、到底理解できないものでした。 そして、イエスさまはさらに、彼らが後生大事にしているモーセ五書から、実は神さまが復活ということをお語りになっていることを明らかにされます。26節です。これは、出エジプト記で、荒野で羊を飼っていたモーセの目の前に、火で燃えているのに燃え尽きない不思議な柴の中から、神さまがモーセにお語りになった、という箇所であり、モーセ五書をなによりも大切にしているサドカイ人にとっては、原点そのものというべきみことばです。イエスさまは彼らサドカイ人に「読んだことがないのですか」とおっしゃっていますが、当然彼らは読んでいます。しかし、その意味するところを、彼らは悟っていませんでした。彼らはイエスさまのおっしゃるとおり、たいへんな思い違いをしていたわけです。 しかし、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と主がおっしゃったことが、なぜイエスさまのおっしゃるように、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」ということになるのでしょうか? 不思議に思いませんか? まともな答えになっているのでしょうか? それが、これこそ正解中の正解なのです。それは、こういうことです。神さまがアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、ということは、神さまがアブラハム、イサク、ヤコブの三代と契約を結ばれたということであり、その契約はその子孫であるイスラエルに不変である、ということです。 彼らは確かに、地上での生涯は終えていました。墓もあります。しかし、そのはるかのちの時代にモーセが神の御声をお聴きした、それも「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という神さまご自身の自己紹介をこめて、これは、アブラハムもイサクもヤコブもなお生きていることが前提です。というのは、契約は当事者が死んでしまったら無効になるからです。しかし、この契約はいまなお生きていて、サドカイ人も含むイスラエル人、ユダヤ人も、契約の民としてみことばに生きる特権にあずかっています。だからこそ彼らサドカイ人はみことばを根拠に、レビラート婚の原則を受け入れて生活していたわけです。 となりますと、この契約がサドカイ人を含めて今なお有効ということは、2つのことを示しています。すなわち、契約を結ばれた当事者である神さまは変わることのないお方であること、そしてもうひとつ、もう一方の契約を結んだ当事者であるアブラハム、イサク、ヤコブはこの地上にはいなくても、それは彼らの肉体が朽ちたというだけのことで、彼らは霊においてなお生きている、そして、やがて復活して、主と結ばれた契約は最終的に成就する、ということです。 というわけで、サドカイ人がユダヤ人としてモーセ五書を大事にしているのならば、いかに律法のみことばに書かれていなかろうとも、彼らは復活、永遠のいのちということを受け入れていてしかるべきでした。それを受け入れられない彼らは聖書もわからず、神の力も体験できないので、不幸としか言いようのない存在でした。 しかし、この永遠の復活ということは、実際に見たことのない人には理解を絶するものでした。見えるものがすべての俗物だったサドカイ人などまさにそうです。しかし、見ずに信じる者になり切れない点で、私たちもまたサドカイ人と五十歩百歩の存在ではないでしょうか。イエスさまはそんな罪人である私たち、神を見ず、神を認めない罪人の私たちのために、十字架におかかりになり、その死をもって私たちを罪から贖い、救ってくださいました。 そして、イエスさまは復活してくださいました。当時のユダヤ人たちはこの論より証拠の復活を見て、イエスさまを信じました。 まことに、復活は神の力です。また、モーセ五書に始まるみことば全体の成就です。イエスさまの復活にあずかって、私たちも復活します。アブラハム、イサク、ヤコブも復活するのは、イエスさまによって成就した神の契約のゆえです。マタイの福音書8章11節をご覧ください。時が来て私たちは、異邦人の身分であったのにイエスさまを信じる信仰のゆえに神の民に接ぎ木された身分で、アブラハム、イサク、ヤコブととともに、天の御国の交わりに加えられます。イエスさまを信じなかった者は、たとえ血筋では彼らを先祖としているようでも、イエスさまの復活を受け入れているゆえに彼らの復活を受け入れているわけではないので、復活のいのちから除外されます。12節にあるとおりです。このときのサドカイ人は悔い改めないかぎり、マタイ8章12節のさばきが臨む立場にありました。 私たちがイエスさまを信じるということは、復活と永遠のいのちにあずかっているということです。地上の幕屋なる肉体が朽ちても、永遠のいのちが与えられ、やがて朽ちない永遠の、御霊に属する栄光のからだによみがえらされます。 私たちはこの地上に目を留めると、がっかりさせられることばかりかもしれません。しかし、そんなときこそ、わたしはよみがえりです、いのちです、わたしを信じる者は死んでも生きるのです、と言ってくださった、イエスさまの御顔を仰ぎ、力をいただく必要があります。 先週も学びました。主を仰ぎ見る者は輝くのです。私たちはこの世の過ぎ去るものに捕らえられていては輝けません。ただ、主との交わりの中で、永遠のいのち、栄光のいのちがあたえられていることを信じ受け入れつづけることによって、私たちは変わることなく輝くことができるのです。 私たちを輝かせてくださるお方は、昨日も今日も、いつまでも変わることがありません。アブラハム、イサク、ヤコブと結んでくださった契約は、信仰をもって神さまを受け入れた私たちには変わることなく有効で、私たちは信仰ゆえに神の子としていただきました。それゆえ、私たちはこの世においても神さまの助けをいただいて、雄々しく、勝利の人生を歩んでまいりましょう。復活のイエスさまはともにいてくださいます。