毒の器から金の器へ
聖書箇所;列王記第一19章15節~17節 メッセージ題目;毒の器から金の器へ 昨日まで5日間、韓国に行ってまいりました。滞在中、「エステル祈祷運動」の祈祷会にて、メッセージを語ってまいりました。エステル祈祷運動は、妻が数年来関わってきたもので、愛国祈祷運動ともいうべきものです。その祈りの焦点はおもに5つのことに集中していて、それは、北朝鮮との福音による統一、同性愛を批判できなくする差別禁止法立法への反対、中絶反対、イスラエルのための執り成し、イスラム宣教です。妻も一朝一夕にこの運動に参加するようになったわけではなく、韓国の前の政権下でキリスト教会がコロナ対策を名目にした政策のもとにガタガタにされ、そのようになった韓国を憂える思いを禁じえず、時間をかけていろいろ勉強しているうちに導かれたのがこの運動でした。 そんな、エステル祈祷運動に、日本人の分際で関わるようになり、特に学ばされてきたことは、韓国の心あるクリスチャンが、どれほど韓国という国と、韓国人という民族のために祈っているか、その姿勢です。しかし、そのように教会が熱心にならざるを得なかった背後には、歴史的に、日本帝国主義の宗教政策というものがありました。 みなさまご存じのとおり、日本は1910年に、当時、大韓帝国という国号を名乗っていた、つまり韓国、もちろん、いまの北朝鮮を含む、朝鮮半島全体を日本の一部にしました。私はそういう経緯から、日本の帝国主義下にあった朝鮮地域をあえて「韓国」から取って「韓半島」と呼ぶことにしているのですが、ともかく韓半島において、韓国は主権を失いました。これには伏線があって、その数年前から1876年に江華島条約という不平等条約を結んで以降、日清戦争、日露戦争を経て、じりじりと日本は韓国の主権を侵すようになり、1907年の保護条約締結をきっかけに、韓国は事実上、日本の手に落ちました。そのとき、韓国のキリスト教会には大きな動きが生まれました。 その1907年、ピョンヤンを中心に、韓半島全体にリバイバルが起こりました。それは、早天祈祷運動、聖書研究運動の伴うものでしたが、何といっても強い特色といえば、それは「悔い改め」運動でした。日本に支配されるようになったのは、われわれの罪のためだ、そのように韓国においては大いなる悔い改めが起こり、教会が刷新され、多くの人が主に立ち帰りました。 そのようにして全国的に増え広がった教会とクリスチャンは、それから12年後、韓半島が完全に日本の手に落ちてから10年目の年、1919年3月1日に、三・一独立運動が起こされ、その運動のもっとも中心の担い手となりました。そんなキリスト教会が、日本によってよく見られていたはずがありません。1930年代、日中戦争が激化する中、日本は韓半島のキリスト教会に、神社参拝を強要するようになります。しかも、その手助けを積極的に行なったのは、もはや日本の国家権力の手に陥っていた、日本のキリスト教会でした。やがて1941年、日本中のプロテスタント教会は国策でひとつの教団に加入させられ、そのトップである「統理」という職にあった富田満牧師は、伊勢神宮を公式参拝することさえし、内鮮一体なる政策の手先として、神社参拝に屈しない韓半島の牧師たちを苦しめました。日本の内地のキリスト教会がそういう有様だったなか、韓半島では神社参拝を拒否したという理由で獄中で拷問を受け、聞くところによると、牧師と教会役員、合わせて58人もの方が殉教したそうです。ということは、それよりもずっと、ずっと多い方々が、獄中で塗炭の苦しみを受けておられたということです。 やがて戦争は終わり、アメリカが日本をしばらく支配するようになったころ、マッカーサー元帥の政策によって大勢の宣教師が日本に送られ、日本にはキリスト教ブームが起こりました。何せアメリカは日本を壊滅させ、天皇陛下にさえ人間宣言をさせた国です。正装して直立不動の天皇陛下の隣で、顔ひとつ分背が高くてずっと恰幅のいいマッカーサーが、ラフな軍服にポケットに手を立つ写真は、否が応でも日本人に、日本はアメリカに完全敗北したことを思い知らせました。そんな日本人は、アメリカの神のほうが強い、と思ったから、キリスト教ブームが起こったのでしょう。 しかしこれは、韓国を成長させつづけたリバイバルと、根本から異なるものです。日本は戦争に負けて、「一億総ざんげ」などというフレーズが語られましたが、その「懺悔」の対象は何だったのでしょうか。だれに対して「懺悔」するのでしょうか。少なくとも、創造主なる神さま、主イエスの父なる神さまに対する懺悔ではありませんでした。 これに対して韓国は、日本に支配されつづけたこと、国の北半分が共産主義によって占領されたこと、そういったことを、神さまからの「悔い改めなさい」というサインだと受け取り、教会は率先して悔い改め、そして成長していきました。日本は韓国教会の成長から多くを学ぼうと、弟子訓練ですとか、断食や癒しの祈りですとか、ディボーションですとか、家の教会ですとか、二つの翼ですとか、色々採り入れようとしてきましたが、根本の「悔い改め」という点においては、どうしても徹底して習うことができないというのが、長年韓国教会から学んできた日本人クリスチャンであるところの、私の見立てです。 さて、さきほど私は、愛国祈祷運動であるエステル祈祷運動が、イスラエルに重荷を持っていることをお話ししました。実は、長年韓国教会とつきあってきた私が断言することですが、韓国人のクリスチャンは、自らとイスラエル民族を同じ存在とみなす傾向がとても強いです。それは、日ユ同祖論のような、自分たちが血統的にイスラエル人であるという意味ではありません。むしろそれは例えるならば、アメリカの黒人のクリスチャンたち、すなわち、白人に支配され、同時に白人からなる信仰共同体に入れてもらえない奴隷たちが、それでも神の民として、自分たちのそばを流れる大河、ミシシッピ川を聖書に登場するヨルダン川に例えた心情に近いものと言えるかもしれません。 東北学院大学の名誉教授で旧約学の学者、浅見定雄先生も著書『旧約聖書に強くなる本』で書いていらっしゃることですが、韓国のクリスチャンは、旧約を重んじます。それは、新約のみならず聖書全体を重んじるということですが、その根底にはやはり、旧約聖書の主人公の民族であるイスラエルに、ことのほか心を寄せる気持ちがあるはずです。 私も、韓国のクリスチャンとつきあっていて、彼らがイスラエル民族と自分たちを重ね合わせながら聖書を学ぶ姿を見てまいりました。みなさんご存知の、「アバ、父よ」。アバはイスラエルのことばですが、あの「アバ」が、日本語では「お父ちゃん」だとはよく言われます。でも、そういわれて、みなさん、ピンときますか? だって、現代の子どもたちは、「お父ちゃん」なんて言いますか? 「パパ」ならいくらかピンときますが、なんといっても「パパ」は外国語っぽく、あまり日本語らしくありません。その点、韓国語で「アッパ」というと、「アバ」にそっくりで、意味もまったく通じます。私はこんな韓国語と、それを使う韓国人のクリスチャンに、日本人のクリスチャンとして嫉妬を覚えたものでした。 そんな、韓国人クリスチャンは、日本をどう見ているか、それは、イスラエルを悔い改めに至らせるために、神さまがお立てになった神の器のあり方から、その実態を知ることができます。 さきほどお読みしたみことばは、バアルとの雨乞合戦に勝利し、イスラエルの民をして「主こそ神です。主こそ神です」と言わしめたエリヤが、それなのにイスラエルの霊的状況が変わらず、激怒したイゼベル王妃にいのちを狙われるようになり、神の御前に嘆きをもって訴えたとき、神さまが示してくださったご命令です。それがこの、15節から17節のみことばです。 神さまはエリヤに、3人の器を立てるように命じられます。順に、ハザエル、エフー、エリシャです。 しかし、その持つ価値や性質は、同じ神の器でも同じではありません。たとえば、オリンピックでは最高級の成績を上げた選手やチームに、メダルが授与されます。しかし、金メダル、銀メダル、銅メダル、それぞれ価値が異なり、銅メダルの人は金メダルの人ほどには栄誉を受けることができません。 金、銀、銅、といえば、こんな話もあります。私がむかし、東京の韓国人教会にいたとき、韓国人のメンバーの方に教えていただいたことばがあります。リンゴは栄養のある果物ですが、食べるにはふさわしい時間があるというのです。こう言います。「朝のリンゴは金、昼のリンゴは銀、夜のリンゴは、ど~く(毒)。」 その伝(でん)で行くと、金の器はエリシャです。これは、言うまでもないと思います。銀の器がエフー、確かに彼は、バアル礼拝をイスラエルから追放したという点でよい王様でしたが、金の子牛礼拝をやめようとはしませんでした。だから、エリシャには及びませんが、それでも神さまはある程度の評価をエフーに与え、四代目まで王になると約束してくださり、そのとおりになったのですから、まあ、銀くらいはあげてもいいと思います。 しかし、ハザエルはどうでしょうか。彼は、神の器といっても、毒の器だったのです。聖書を読むと、エリヤがハザエルに直接油を注いだという記述はありませんが、その後継者であるエリシャがハザエルと会う、という場面なら出てきます。では、ハザエルは主に油注がれたというならば、それにふさわしい、主のみこころにかなったすばらしい人格を持った指導者なのでしょうか? そのあたりの箇所、また、それにつづく聖書のみことばを読むと、ハザエルがどんな人物かわかります。 言うまでもなく、アラムはイスラエルにとって敵の国と民族でした。しかも、アラムの王、ベン・ハダドは、創造主なる神さまではなく、リンモンという名の神を礼拝する者でした。しかし、ベン・ハダドは、大事な臣下であるナアマン将軍の癒やしを体験していましたので、イスラエルを敵国と見なしながらも、エリシャに臨んでいる霊的な力を認めていました。そんなベン・ハダドは重い病気にかかりました。そこに、アラムの首都ダマスコにエリシャが来ているという話を聞きつけ、ベン・ハダドは臣下のハザエルを遣わして、エホバの託宣を求めました。 エリシャはハザエルに会いました。そのとき神さまは、エリシャに啓示を与えられ、ベン・ハダドは必ず治る、しかし、必ず死ぬ、ということをお示しになりました。エリシャはそのようにハザエルに告げました。 すると、エリシャはハザエルの顔をじっと見つめはじめました。ハザエルが恥ずかしくなるほどにです。そしてエリシャは泣き出しました。いエリシャは言います。あなたはイスラエルに害を加える。イスラエルの要塞に火を放つ。若い男たちを剣で斬り殺す。子どもたちを八つ裂きにする。妊婦たちを切り裂く。……ますます驚くハザエルに、エリシャは言います。「主は私に、あなたがアラムの王になると示されたのだ。」 ハザエルは王宮に戻り、ベン・ハダド王に、陛下は必ず癒やされる、と告げます。だが、次の日、ハザエルは、寝台で横になっているベン・ハダドを暗殺します。それも、濡れた毛布を顔にかけるという、残忍な方法を用いてです。 結果として、エリシャが告げたとおり、ハザエルはアラムの王になりました。しかし、ハザエルがほんとうにエホバを恐れる人だったならば、王が元気になって寝床から立ち上がるのを見届け、そして、主の摂理のうちに死ぬことを待てたはずです。そうすれば、主はハザエルを王に立ててくださったはずです。しかし、ハザエルはその主のお導きを待つことをせず、エリシャのことばを聞いて野望に燃え、王権を奪い取りました。 案の定、ハザエル王率いるアラムは、イスラエルと戦争することになりました。ハザエルはイスラエルを侵略し、イスラエルから領土を略奪することさえしました。そんなアラムの攻撃を受けつづけたイスラエル王国において、エリシャは神の働き人、それこそ「金の器」でありつづけましたが、そんなエリシャにも世を去る時がやってきました。病床にあったエリシャは、見舞いに訪れたイスラエルのヨアシュ王に、あなたはアラムを滅ぼし尽くしなさい、と、命じます。つまり、アラムは滅ぶべきだったのです。なぜならば、神の民であるイスラエルを、これほどまでに苦しめたからです。 こんなハザエルの、神の器として果たした役割は何でしょうか? それは、イスラエルの王と民を、バアル礼拝や金の子牛礼拝のような、偶像礼拝の生活から立ち返らせるためにあえて起こされた敵、ということができます。 まさしく、ハザエルはエリシャが預言したとおりの、残忍な人物でした。しかし神さまは、ハザエルのその残忍さを用いてイスラエルを懲らしめられ、民がご自身に立ち返り、拠り頼むように導いてくださいました。 イスラエルに対するハザエル、そして彼が統べ治めるアラムのこの姿に、韓国の教会と長年おつきあいしてきた私はどうしても、日本の国と民族を思わずにはいられません。日本はどれほど韓国教会を迫害したことでしょうか。神社参拝を強要し、従わなければ逮捕して拷問し……神の民イスラエルを苦しめたアラムとハザエル王に匹敵した悪事を、日本と、日本のキリスト教会は行なったわけです。 それなら、日本の教会がリバイバルを求めるために必要なことは何でしょうか。それは、悔い改めです。たしかに、日本の教会は過去、韓国をはじめとしたアジア諸国に行なってきた罪を悔い改めてきました。それは必要なことでした。しかし、ほんとうに悔い改めるべきことは、まだたくさんあるのではないでしょうか。 はっきり申しますが、日本のクリスチャンの多くは、潜在的な偶像礼拝者です。さすがに、神社に行って車にお祓いをしてもらったり、1月1日に神社仏閣に初詣に行くクリスチャンはいないと信じたいですが、仏式や神式のお葬式のような、日本人にとって避けがたいことにおいてはどうでしょうか。これはどう弁護しようとも、神の前では偶像礼拝です。私は前任の牧師である宇佐神先生が、信徒のみなさまに、仏式のお葬式ではお焼香をしてはいけないことを徹底して教えてくださり、信徒のみなさまをそれをちゃんと守っておられたことに、心から感謝したものでした。日本の教会は多くが、そのようにきちんと教えていないために、みなさん、どこか後ろめたさを感じながらも、周りにどう思われるかが怖くて、つい、お焼香をしたり、玉串をささげたりしているわけです。 しかし、そういうことをしなければ、自分は偶像礼拝者ではない、と言えるでしょうか。コロサイ3章5節によれば、貪欲、つまり、むさぼりというものが偶像礼拝だと定義されています。つまり、自分の肉欲というものを偶像にして、結果として神との交わりを無視しているわけです。趣味、美食、習慣、これらも度を超すと、偶像礼拝になります。 韓国は21世紀になり、日本のサブカル文化が解禁され、ケーブルテレビとインターネットが普及するようになって、目を覆わんばかりに堕落しました。たしかに、アカデミー賞やノーベル文学賞を受賞するようなクリエイターが生み出されてはいますが、それは国や民族に対する神の栄光と何の関係があるのでしょうか。韓国は、子どもや若者の足が教会から遠ざかるのと軌を一にするように、性的に乱れ、人々はオカルトを好むようになり、自殺する人が相次いでいます。 しかしそれでも、心ある韓国教会はなおともしびを掲げ、反キリストの世界に向かって、悔い改めを叫びつづけています。そのように祈る人がいるから、韓国はすばらしい国です。しかし、日本はどうでしょうか。このままでは、肝心の日本にはいつまでたってもリバイバルが訪れません。 私たちがこの世と調子を合わせて生きるのをやめないならば、私たちはこの、日本社会という毒の器をなす一員でしかなくなります。それは塩気をなくした塩です。外に捨てられて踏みつけられる存在にしかなりません。また、升の下に隠したともしびです。何を照らせるというのでしょうか。早い話が、何の意味もない生き方です。 私たちがほんとうにリバイバルを求めるなら、必要なのは、悔い改めです。自分さえよければ、自分さえ救われれば、自分さえ祝福されれば……もうそう考えるのは、やめようではありませんか。何のために神さまはわざわざ、この国と民族のうちから私たちをお救いになったのですか? それは、私たちをとおして、この地に神の国、神のご支配を成し遂げてくださるためではありませんか。いまこそ、この民に無関心だったわが身を悔い改めましょう。そして、相変わらず主を無視しつづけているこの日本が悔い改め、神さまに立ち返るように祈りましょう。ほかの民族を悔い改めさせるしか能のない、毒の器から、エリシャのごとく人々に主の栄光を見せてあまりある金の器として、この国と民族をつくり変え、用いてくださるように、神さまに祈りましょう。 エリシャのことがあんなにも聖書に記録されているのは、主が私たちのことを整え、エリシャのごとく用いてくださるという希望をくださっているからです。ご覧ください。ハザエルが主の栄光を顕す姿など、聖書のどこに書かれていますか? しかし、エリシャはそれと反対に、どれほど素晴らしい器として用いられたことでしょうか? 私たちはこの民の中にあって、エリシャのごとく金の器としていただき、人々を毒の器から金の器に変えてくださるみわざに用いていただく者とならせていただきましょう。