安息日に行われた『善』」
聖書箇所;マルコの福音書3:1~6/メッセージ題目;「安息日に行われた『善』」 東京に住んでいた頃、うちの娘はたまに深夜になると高い熱を出すことがあった。そのとき感謝だったのは、娘のかかりつけの病院が深夜でも救急外来をしていていたことだった。タクシーに乗って連れて行ったものだった。しかし、「夜だからやっていません!」なんてなったら、どうなるか? まことに、診療時間外にも開いている病院というものはありがたかった。 イエスさまの当時、口伝えの律法の解説(口伝律法/くでんりっぽう)であるミシュナーと呼ばれるものによれば、よほどいのちにかかわる状態にでもなっていなかったならば、安息日に患者を治すことは許されていなかった。たいていの病院がそうするように、深夜や日曜祭日は「診療時間外」とするようなもの。しかし、パリサイ人はこれを利用して、イエスさまに迫った。 しかしイエスさまはあえて彼らパリサイ人に対しても、会堂に集まった群衆に対しても、ご自身が安息日の主として振る舞われた。イエスさまが行われたことは「善」であった。その善とは何だろうか? 今日は主の日、私たちクリスチャンにとっての安息の日であるが、イエスさまはこの日、どのような「善」を私たちに施してくださっているのだろうか? 1節と2節。片手の萎えた人が会堂にいることはどういう意味があるだろうか? 神の御前に出る祭司の部族、レビ族についての規定に、このようなものがある。レビ記21章17節~21節。このように、神の働きをすることが、律法において戒められているのがこのような障害を持つ人々である。 聖書の世界では、やんごとない人が目に見える障害を持つことは特筆される事態である。旧約聖書のサムエル記第一と第二に、メフィボシェテという王族が登場する。彼はサウル王の孫で、ダビデの無二の親友ヨナタン王子の息子に当たるが、もはやサウルもヨナタンも死に、王家の権威が去った彼は、幼いときの事故がもとで足に障害を負った人であることが繰り返し述べられている。聖書を読むと、その障害を持つゆえの悲惨さが強調されているかのようである。 そのような人は本来、神の愛を実践するように召されている神の民の共同体においては、手厚く守られ、ケアされるべきである。だが、彼らはなんと、イエスさまを試みて、あわよくば葬り去ろうとするための「手段」としか考えていなかった。 イエスさまはこの人に対して何をなさろうとしただろうか? 3節のみことば。彼をいやすことはひそかに行われたのではない。このお働きの結果もし、群衆がイエスさまを王として立てようとしたのだったら、イエスさまはあえて表立った行動はなさらなかっただろうが、ここではそうではない。王どころか、葬り去ろうとしたのである。イエスさまはこのパリサイ人のチャレンジを、堂々と受けて立とう、とばかりに、彼らの真ん中にその人を立たせ、みわざを行われることを宣言されたのである。イエスさまはもちろん、彼らが罠を仕掛けたつもりでいたことはご存じだった。しかし、イエスさまは彼に対する愛の行いをなさることを第一とされた。 4節のみことばを見てみよう。今回のメッセージをつくるにあたり、イエスさまの用いられたこの表現はいわゆる「修辞法」というものであるという解説に出会った。つまり、「安息日に律法にかなっているのは善を行うことである」という真理を宣言するために、あえてそれを二者択一の質問形式にして、パリサイ人たちに投げかけているというわけである。もちろん彼らは、「安息日には悪を行うものだ」と答えることなどできない。 しかし、この質問はこうも言える。あなたがたパリサイ人は、安息日に悪を行なっているではないか。すなわち、神の子キリストを試しているではないか。隣人に対する愛がないではないか(もし愛していて、わたしをいやし主と信じているならば、「イエスさま、ちょうどよいところに来てくださいました! どうか彼のことをいやしてください!」と言うべきではないか)。しかも、あとでわかるとおり、あなたたちはこのわざを行う私のことを、政治権力と宗教権力で結託して、葬り去ろうとするではないか。これが、あなたたちが安息日に行なっている「悪」である。彼らは、自分たちが善を行なっていないで、悪を行なっていることをわかっていた。 イエスさまはまた、別の角度から彼らに問われた。「いのちを救うことですか、それとも殺すことですか。」彼の手の障害は、いますぐに生命にかかわるものではないかもしれない。しかし、イエスさまは彼のいのちが救われていないことを見抜かれた。またこのいのちがもし救われていないならば、そのままにすることはすなわちそのいのちを殺すことであると喝破された。イエスさまに出会っていないならば、そのいのちは救われていないで、結果として殺されてしまうのである。そして、イエスさまへの道を妨げるということは、そのいのちを殺すことになるのである。 この問いにも彼らは答えることはできなかった。もし、彼らが「安息日にはいのちを救うことがみこころにかなっています」というならば、彼らはイエスさまのみもとに喜んでその人を差し出しただろう。そんなことは彼らにはできなかった。だからといって、「安息日には殺すことがみこころです」などということなど、できようもなかった。 5節。イエスさまはこの頑なな彼ら、卑怯な彼らをご覧になり、お怒りになられた。よく、巡回伝道者の岸義紘先生は、メッセージの前後のお祈りを始めるにあたって「やさしいイエスさま」と呼びかけられる。もちろん、イエスさまはやさしいお方なのだが、このようにご自身に対して素直ではないばかりか、敵対するような者たちに対しては、怒りを持たれるお方である。 しかし、どうか私たちは、イエスさまの怒り、神さまの怒りを極端に恐れ、恐れるあまり、神さま、イエスさまから遠ざかるようなことはしないようにしたい。私たちは自分で思うほど、不信仰でもなければ頑なでもない。それが証拠に、私たちは現実に今こうしてみことばに耳を傾けている。私たちにはイエスさまのみことばを受け入れる備えができているのではある。あとは、素直にみことばを受け入れさせてくださいと、へりくだって祈ることが大事である。そんな私たちのことをイエスさまはお怒りにならない。 イエスさまは彼に向かい、「手を伸ばしなさい」とおっしゃった。ここで、イエスさまのしたことは善で、パリサイ人のいたことは悪ということまでは分かったが、彼は何をするのだろうか? 彼もまた、イエスさまのみことばに従順であることによって、いやし主なるイエスさまの栄光を顕すことにおいて、善を行なった。イエスさまは癒してくださる、いや、いやしてくださったということを信じて、そのとおりに手を伸ばす、ということを彼はした。 このとき、彼のしたことは、「イエスさまのみことばを信じる」、「イエスさまのみことばを信じてそのとおりに行動に移す」ということだった。信仰ということは行いが伴うことである。行いが伴わないならば、それを信仰ということはできない(ヤコブ2:14~18)。行いの伴った信仰を示す、ということは、何やら難しいこと、実践困難なことのように思う必要はない。この夏は松原湖バイブルキャンプが行われ、当教会に関係するお友だちも出席するが、松原湖は最終日の前の夜にキャンプファイアーを囲み、自分の証しをすることを常とする。その決心に至ることは、主の恵みによって「すでにできた」ことであり、あとはそれをみんなの前で公にすることである。緊張するかもしれないが、そのように発表することは信仰の実践である。 そのような「信仰の実践」が、私たちにもかつてなかっただろうか? 燃えていたのはむかしのことで終わらせてはならない。いまからでも「信仰の実践」によって、自分に信仰という恵みが与えられていることを証しするものが、私たちのうちにないだろうか? 6節。イエスさまがこのようにみわざを行われたことはまた、みことばを正しく実践されたということである。パリサイ人が何とみことばを解釈しようとも、それがイエスさまの御目に「悪を行うこと」と映るならば、それは悪である。イエスさまがどのようにみことばを解釈され、みことばを行われるかが大事である。 結果としてイエスさまは、このみわざのゆえに、いのちを狙われることになった。正しいみこころによる正しいみわざが、ご自身を十字架に追い立てたかのようである。しかし、十字架を負われることはみこころであられた。私たちを救うこと、いやすこと、そのようにして愛することはみこころであった。主に従順であった人の存在は主を証ししたのと同時に、イエスさまを十字架につけようという、主の敵の思いを駆り立てた。 しかしそれなら、私たちは主に従順であってはいけないのだろうか? 主と、主のからだなる教会を傷つけるかもしれないからと、信仰の行動、従順の行動を手控えるべきだろうか? そうではない。イエスさまは十字架に死なれただけではない。よみがえって、死と悪魔に勝利された。私たちも勝利している。だから、「私を強くしてくださる方によってどんなことでもできる」(ピリピ4:13)と確信して、堂々と信仰による従順の行い、主の働きに用いられていこう。主はそんな私たちを、主のからだなる教会もろとも守ってくださる。