イエスさまの祈り
聖書箇所;マルコの福音書1:35~39/メッセージ題目;イエスさまの祈り 「バプテスト教理問答書」からまいります。本日は先週と同じ、問24です。 問24 キリストは我々の贖い主として、どんな職務を行なうか。 答 キリストは我々の贖い主として、その謙卑と栄誉の状態で、預言者、祭司、王としての職務を行なう。 イエスさまが神の国の「王」であられることは先週学んだとおりです。しかし、イエスさまはまた同時に「祭司」でもいらっしゃいます。それも、ご自身のみからだという究極のいけにえをもって父なる神さまに祈りをささげられた、究極の祭司、最上の祭司でいらっしゃいます。 福音書を読みますと、イエスさまはいつも御父に祈っておられたことがわかります。それはイエスさまが「祭司」として、私たちのためにとりなしの祈りを御父にささげていらっしゃったということです。 今日の箇所は、イエスさまが朝まだ暗いうちに祈っておられた、ということを語っています。イエスさまの祈りはどのようなものであり、私たちとどのような関係があるのでしょうか? ともに見てまいりましょう。 第一のポイントです。イエスさまは、御父と交わられるために祈られました。 35節をご覧ください。……イエスさまは多忙な中、そして間違いなくお疲れな中で、父なる神さまの御前に出て、お祈りをしていらっしゃいました。 私たちは、神であられるイエスさまに、果たしてお祈りをなさる必要があったのだろうか、と思いませんでしょうか? しかし、そうではないのです。そう思うのは、私たちがそもそもお祈りというものを、誤解している可能性があるからです。 イエスさまにとって最優先にすべき大事だったことは、御父との交わりでした。父なる神さま、御子なるイエスさま、御霊なる神さまの交わりは、三位一体の神さまのご本質という点で、欠かしてはならないものでした。お祈りというものは、そのためにどうしても必要なことでした。 イエスさまがその、三位一体の神としてのお交わりのために「朝早くまだ暗いうち」というお時間を選んでいらっしゃったことにも注目しましょう。 この時間はいかになんでも、だれかがやって来てお働きを行われる、ということはありません。だれにも妨げられない時間と場所で、イエスさまは神としての交わりを持っておられたのでした。 ここから私たちは、自分にとってのお祈りというものを考える必要があります。いったい私たちはお祈りというものを、どのように理解していますでしょうか? お祈りとは、御父、御子、御霊なる三位一体の神さまのお交わりに入れていただき、ともに交わらせていただくことです。私たちは御父に向けて、御子イエス・キリストの御名によって、御霊なる神さまの導きにしたがって祈るのですから、私たちはお祈りするとき、確かに私たちは三位一体の神さまとの交わりの中にいます。 私たちは東洋、極東の精神世界に生まれ育った分、お祈りというものを「只管打坐(しかんたざ)」のように考えてはいないでしょうか? ひたすらにお祈りに打ち込むことで悟りを開く、といったたぐいのもの。 しかし、私たちはひたすら祈る、ということを誤解してはなりません。私たちにとってのお祈りというものは、努力で打ち込もうとするものと考えてはいないでしょうか? そうなると、神さまが招いていらっしゃるご自身との豊かな交わりの世界を、自分の努力という枠に閉じこもってしまって、味わえなくなってしまう危険が伴います。 イエスさまにとってのお祈りは、そういうものではありません。イエスさまは「わたしと父は一つです」とおっしゃっています。御父と交わられてこそのイエスさまなのです。お祈りをなさってこそのイエスさまなのです。 私たちがもし、お祈りを厳しい修行のようなものと捉え、お祈りを敬遠するようならば、それは、私たちをお祈りさせまいとする、すなわち、神さまとの交わりに入れさせまいとする、サタンの妨げにあっているということです。 私たちはお互いが、そのような妨げから解き放たれ、お祈りする喜びに導き入れられることをと祈るばかりですが、そうしてお祈りするようになったならば、もはやそのお祈りは、義務感にせき立てられてのようなきついもの、それゆえに避けたくなるものには、決してなりません。 私が献身に導かれた1990年の松原湖バイブルキャンプで、講師のアーサー・ホーランド先生がおっしゃっていたことですが、毎日のお祈りは「イエスさまとのデートの時間」だというのです。デートとは! みんな目からうろこが落ち、キラキラした目で聴いていたことと思います。 デートならば、わくわくしてその時間を待つでしょう。デートならば、遅れないように、だらしない態度をしないように、自分から努力するでしょう。これは宗教的な「修行」のたぐいではなく、「喜び」から自発的にするものへと変わります。 イエスさまにとって御父の前に出て行くことは、義務、以上のものであったと考えるべきでしょう。そう、喜び。イエスさまがバプテスマを受けられ、公の生涯を開始されたとき、御霊が鳩のようにイエスさまに降(くだ)られ、天から御父の声がしました。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」そう、イエスさまのことを喜んでいらっしゃる御父との交わりこそ、イエスさまにとっての喜びでした。 私たちは何に喜びを覚えていますか? 神さまは私たちのことを喜んでいてくださるので、私たちが神さまとの交わりを持つならば、神さまはこの上なく、私たちのことを喜んでくださいます。そして、神さまのその喜びは、私たちにとっても最高の喜びとなります。 神さまは、ご自身の交わりのうちにみなさまが入って来られるのを、待っておられます。さあ、おいで! 交わろう! その御声が聞こえますでしょうか? 今日から始めましょう。ついテレビやネットを見てしまう時間を、神さまとの交わりに振り向けましょう。イエスさまがこの地上で体験していらっしゃった、神さまとの喜びの交わりを体験し、神さまに喜ばれる私たちとならせていただきましょう。 第二のポイントです。イエスさまは、御父の導きに従順になられるために祈られました。 36節から38節をお読みしましょう。……イエスさまはこのとき、働きを終えられたばかりのカペナウムにまだとどまっておられました。カペナウムの人たちは、新しい教えを語られ、癒やしと悪霊追い出しの驚くべきわざを行われたイエスさまに、もっといてほしいと願っていました。しかしイエスさまは、そのように引き留めるのを聞かず、ガリラヤ地方の次の町に出ていって働かれることを宣言されました。 カペナウムの人たちからすれば、自分たちの望みがかなえてもらえなかったということになるでしょう。しかし、イエスさまに向けられた御父のみこころは、イエスさまがいつまでもカペナウムにとどまりつづけることではありませんでした。ガリラヤ地方を巡回し、神の国を宣べ伝えられることでした。 これがもし、普通の人だったらどうでしょうか? 引き留める人たちの存在に、情(じょう)にほだされてその場にとどまりつづけるという選択をしたりはしないでしょうか? しかしイエスさまは違いました。ご自身の使命ははっきりしていて、どこにいくべきかを知っていらっしゃいました。 イエスさまがこのように毅然とした態度でおられたのは、なんといっても、父なる神さまがご自身に対してどのようなみこころを持っていらっしゃったかをよく知っておられたからでした。 みこころはどこまでも、ガリラヤ巡回! イエスさまはぶれなかったのでした。そのような確信は、その朝も持っておられた御父との交わりから生まれたものです。御父との交わりなくして、御父のみこころを知ることはできません。その交わりの時間、すなわち、今後どのようにお働きして御父のご栄光を顕されるかを知る時間を確保するために、イエスさまはだれにも妨害されない時間と場所を選ばれたのでした。 私たちも、何のために生きているのかを、自分のうちに確かにする必要があります。時に私たちは、人に好かれようとして、というより、嫌われることを恐れて、よくない選択、神さまのみこころにかなわない選択をすることはないでしょうか? しかし、そうして下した決断は、神さまに聴き従ったのではなく、人を恐れた結果でしかありません。 イエスさまは、カペナウムの人が何と思おうとも、ご自身に対する御父のみこころに従われました。その原動力となったものは、夜明け前からの御父との交わりでした。その交わりの中で、みこころを確かに受け取り、何を言われてもぶれないご意志を確かなものとされたのでした。 うちの教会で奨励されている「ディボーション」も、私たちに対する神さまのみこころを日々受け取り、その日に私たちひとりひとりに与えられたみこころを実践するために行うものです。言い換えれば、「人に左右されないように」、「人に惑わされて神さまのみこころが行えないことのないように」、ディボーションをするのです。 毎日割り当てられた聖書箇所は、とにかく、先に説明を読むことなく、聖霊なる神さまの導きによってお読みすることにチャレンジしてみてください。そこから悟ったみこころを、ただ頭の中で思うだけではなく、ノートに記録してみてください。その悟った真理を実生活に適用し、実践可能なことを書き出して、実際にその日に実践してみてください。一日の終わりには、それが実践できたかどうかを振り返り、実践できたならば神さまに感謝してください。さらには、この実践できたみことばの恵みを、教会の交わりの中で分かち合って、ともに神さまに感謝をささげてください。 だいじなのは、人に左右されないで神さまのみこころを守り行うことです。もしそれでも、神さまのみこころを受け取るうえで自信が持てなかったら、どうぞ牧師に相談にいらしてください。私は上から目線で教えることはしませんが、ともにみことばから学んでみこころを受け取るうえでのお手伝いをいたしたいと思います。 私たちひとりひとりが、そして教会が、ともにみこころを受け取り、揺れ動くことのない確信をもって神さまにお従いすることができますように、主の御名によってお祈りいたします。 最後に第三のポイントです。イエスさまは、御父の働きを執り行うために祈られました。 38節、39節をお読みしましょう。……このような力あるわざを行われたことには、原動力がありました。それは何といっても、祈りでした。祈りによってイエスさまは御力に満たされ、このような奇跡的なわざを行われたのでした。 いま奇跡的と申しましたが、イエスさまが行われたしるしや奇跡は、ナザレのイエスといういち人物の栄光を顕すためのものではありません。そのしるしや奇跡を行われることにより、父なる神さまの栄光、言い換えれば、父なる神さまのご存在を顕される、それが目的でした。 父なる神さまにお近づきするためには、イエスさまという羊の門を通らなければならない、そのことを人々が知るためには、イエスさまが父なる神さまから遣わされた神の子であるというしるしを見る必要がありました。したがって、癒やしや悪霊追い出しのようなしるしをイエスさまがお見せになったのは、人々がこのわざを行われるこのお方を信じることで、父なる神さまの御前に招かれるためです。 イエスさまにとっての祈りは、そのような、奇跡的な神のわざを行うためのものでした。このことをもっともはっきりと示した祈り、それは、ゲツセマネの園でイエスさまが御父に、血の汗を流して苦しみ悶えて祈られた、あの祈りでした。 イエスさまにとっての祈りとは、神との交わりであると申しました。しかし、十字架とは、御子イエスさまが人類のすべての罪を背負われ、父なる神さまとの交わりから断絶されるという、末恐ろしいできごとでした。人間の罪が、神の交わりを断ち切ったのです。御子イエスさまを十字架につけた私たち人間は、どれほど罪深い存在でしょうか! だが、その十字架によって、私たち人間は神の怒りから救われ、地獄に落ちるべき者が天国に入れていただく、これ以上の奇跡があるでしょうか? しかし、この奇蹟に先立っては、イエスさまの苦しみ悶えての祈りがありました。まさに、人類の歴史上空前絶後、唯一無二の奇跡、死んで滅びて地獄に行くべき罪人の人間が、罪赦され、神の子とされ、天国に入れられ、永遠のいのちが与えられるという、この上ない奇跡が実現しました。 イエスさまの地上のご生涯で行われた奇跡は、すべて、このような奇跡を行われるイエスさまを信じるならば神の子とされるという、神さまへの招きのために行われたものであり、その裏づけとなったものは、つねに御父にささげておられた祈りでした。祈りによりイエスさまは御父の御前に人々を導くわざをなされ、その究極のかたちは、ゲツセマネの園の祈りに裏づけされた十字架でした。 さきほど、イエスさまにとっての祈りとは喜びであると申しました。しかし、ゲツセマネの園の祈りに関しては、一見するととうてい、喜びと呼べるものではありませんでした。それでもイエスさまが祈られたのは、そのはるか向こうにある喜びを望み見ておられたからです。 ヘブル人への手紙12章2節をご覧ください。……これをお読みすると、イエスさまにとっての祈りの本質は、たとえゲツセマネの園の祈りのような苦悶に満ちた祈りであったとしても、やはり喜びであったことがわかります。 ひるがえって、私たちのことを考えましょう。私たちは本来、どれほど自己中心の存在でしょうか? どれほど愛のない存在でしょうか? どれほど神さまと無関係に生きていて平気な存在でしょうか? しかし、そんな私たちも、神と人を愛する者にしていただいています。そのために何ができるかをたえず考え、悩み、実践しようと努力したい思いが与えられています。これこそ奇跡ではないでしょうか? しかし、私たちにはこの奇跡を完成させられるだけの力はありません。つねに神さまとの交わりの中で、その奇跡を完成させていただけるだけの力をいただく必要があります。私たちの祈りは、そのような神と人を愛する力へと実を結びます。信じて祈ってまいりましょう。 3つのことをお祈りしましょう。 ①私たちは神さまといつ交わりますか? まずはこの1週間の計画を立てましょう。 ②私たちにとって最優先にお従いすべき神さまのみこころは何ですか? ③私たちは十字架こそ最高の奇跡であると信じ、すべてにおいて十字架の奇跡、贖いの奇跡があるようにと祈りましょう。具体的に私たちの周りのどの領域に、十字架の奇跡があるようにと祈りますか?