イエスさまの祈り

聖書箇所;マルコの福音書1:35~39/メッセージ題目;イエスさまの祈り 「バプテスト教理問答書」からまいります。本日は先週と同じ、問24です。 問24 キリストは我々の贖い主として、どんな職務を行なうか。 答 キリストは我々の贖い主として、その謙卑と栄誉の状態で、預言者、祭司、王としての職務を行なう。 イエスさまが神の国の「王」であられることは先週学んだとおりです。しかし、イエスさまはまた同時に「祭司」でもいらっしゃいます。それも、ご自身のみからだという究極のいけにえをもって父なる神さまに祈りをささげられた、究極の祭司、最上の祭司でいらっしゃいます。 福音書を読みますと、イエスさまはいつも御父に祈っておられたことがわかります。それはイエスさまが「祭司」として、私たちのためにとりなしの祈りを御父にささげていらっしゃったということです。 今日の箇所は、イエスさまが朝まだ暗いうちに祈っておられた、ということを語っています。イエスさまの祈りはどのようなものであり、私たちとどのような関係があるのでしょうか? ともに見てまいりましょう。 第一のポイントです。イエスさまは、御父と交わられるために祈られました。 35節をご覧ください。……イエスさまは多忙な中、そして間違いなくお疲れな中で、父なる神さまの御前に出て、お祈りをしていらっしゃいました。 私たちは、神であられるイエスさまに、果たしてお祈りをなさる必要があったのだろうか、と思いませんでしょうか? しかし、そうではないのです。そう思うのは、私たちがそもそもお祈りというものを、誤解している可能性があるからです。 イエスさまにとって最優先にすべき大事だったことは、御父との交わりでした。父なる神さま、御子なるイエスさま、御霊なる神さまの交わりは、三位一体の神さまのご本質という点で、欠かしてはならないものでした。お祈りというものは、そのためにどうしても必要なことでした。 イエスさまがその、三位一体の神としてのお交わりのために「朝早くまだ暗いうち」というお時間を選んでいらっしゃったことにも注目しましょう。 この時間はいかになんでも、だれかがやって来てお働きを行われる、ということはありません。だれにも妨げられない時間と場所で、イエスさまは神としての交わりを持っておられたのでした。 ここから私たちは、自分にとってのお祈りというものを考える必要があります。いったい私たちはお祈りというものを、どのように理解していますでしょうか? お祈りとは、御父、御子、御霊なる三位一体の神さまのお交わりに入れていただき、ともに交わらせていただくことです。私たちは御父に向けて、御子イエス・キリストの御名によって、御霊なる神さまの導きにしたがって祈るのですから、私たちはお祈りするとき、確かに私たちは三位一体の神さまとの交わりの中にいます。 私たちは東洋、極東の精神世界に生まれ育った分、お祈りというものを「只管打坐(しかんたざ)」のように考えてはいないでしょうか? ひたすらにお祈りに打ち込むことで悟りを開く、といったたぐいのもの。 しかし、私たちはひたすら祈る、ということを誤解してはなりません。私たちにとってのお祈りというものは、努力で打ち込もうとするものと考えてはいないでしょうか? そうなると、神さまが招いていらっしゃるご自身との豊かな交わりの世界を、自分の努力という枠に閉じこもってしまって、味わえなくなってしまう危険が伴います。 イエスさまにとってのお祈りは、そういうものではありません。イエスさまは「わたしと父は一つです」とおっしゃっています。御父と交わられてこそのイエスさまなのです。お祈りをなさってこそのイエスさまなのです。 私たちがもし、お祈りを厳しい修行のようなものと捉え、お祈りを敬遠するようならば、それは、私たちをお祈りさせまいとする、すなわち、神さまとの交わりに入れさせまいとする、サタンの妨げにあっているということです。 私たちはお互いが、そのような妨げから解き放たれ、お祈りする喜びに導き入れられることをと祈るばかりですが、そうしてお祈りするようになったならば、もはやそのお祈りは、義務感にせき立てられてのようなきついもの、それゆえに避けたくなるものには、決してなりません。 私が献身に導かれた1990年の松原湖バイブルキャンプで、講師のアーサー・ホーランド先生がおっしゃっていたことですが、毎日のお祈りは「イエスさまとのデートの時間」だというのです。デートとは! みんな目からうろこが落ち、キラキラした目で聴いていたことと思います。 デートならば、わくわくしてその時間を待つでしょう。デートならば、遅れないように、だらしない態度をしないように、自分から努力するでしょう。これは宗教的な「修行」のたぐいではなく、「喜び」から自発的にするものへと変わります。 イエスさまにとって御父の前に出て行くことは、義務、以上のものであったと考えるべきでしょう。そう、喜び。イエスさまがバプテスマを受けられ、公の生涯を開始されたとき、御霊が鳩のようにイエスさまに降(くだ)られ、天から御父の声がしました。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」そう、イエスさまのことを喜んでいらっしゃる御父との交わりこそ、イエスさまにとっての喜びでした。 私たちは何に喜びを覚えていますか? 神さまは私たちのことを喜んでいてくださるので、私たちが神さまとの交わりを持つならば、神さまはこの上なく、私たちのことを喜んでくださいます。そして、神さまのその喜びは、私たちにとっても最高の喜びとなります。 神さまは、ご自身の交わりのうちにみなさまが入って来られるのを、待っておられます。さあ、おいで! 交わろう! その御声が聞こえますでしょうか? 今日から始めましょう。ついテレビやネットを見てしまう時間を、神さまとの交わりに振り向けましょう。イエスさまがこの地上で体験していらっしゃった、神さまとの喜びの交わりを体験し、神さまに喜ばれる私たちとならせていただきましょう。 第二のポイントです。イエスさまは、御父の導きに従順になられるために祈られました。 36節から38節をお読みしましょう。……イエスさまはこのとき、働きを終えられたばかりのカペナウムにまだとどまっておられました。カペナウムの人たちは、新しい教えを語られ、癒やしと悪霊追い出しの驚くべきわざを行われたイエスさまに、もっといてほしいと願っていました。しかしイエスさまは、そのように引き留めるのを聞かず、ガリラヤ地方の次の町に出ていって働かれることを宣言されました。 カペナウムの人たちからすれば、自分たちの望みがかなえてもらえなかったということになるでしょう。しかし、イエスさまに向けられた御父のみこころは、イエスさまがいつまでもカペナウムにとどまりつづけることではありませんでした。ガリラヤ地方を巡回し、神の国を宣べ伝えられることでした。 これがもし、普通の人だったらどうでしょうか? 引き留める人たちの存在に、情(じょう)にほだされてその場にとどまりつづけるという選択をしたりはしないでしょうか? しかしイエスさまは違いました。ご自身の使命ははっきりしていて、どこにいくべきかを知っていらっしゃいました。 イエスさまがこのように毅然とした態度でおられたのは、なんといっても、父なる神さまがご自身に対してどのようなみこころを持っていらっしゃったかをよく知っておられたからでした。 みこころはどこまでも、ガリラヤ巡回! イエスさまはぶれなかったのでした。そのような確信は、その朝も持っておられた御父との交わりから生まれたものです。御父との交わりなくして、御父のみこころを知ることはできません。その交わりの時間、すなわち、今後どのようにお働きして御父のご栄光を顕されるかを知る時間を確保するために、イエスさまはだれにも妨害されない時間と場所を選ばれたのでした。 私たちも、何のために生きているのかを、自分のうちに確かにする必要があります。時に私たちは、人に好かれようとして、というより、嫌われることを恐れて、よくない選択、神さまのみこころにかなわない選択をすることはないでしょうか? しかし、そうして下した決断は、神さまに聴き従ったのではなく、人を恐れた結果でしかありません。 イエスさまは、カペナウムの人が何と思おうとも、ご自身に対する御父のみこころに従われました。その原動力となったものは、夜明け前からの御父との交わりでした。その交わりの中で、みこころを確かに受け取り、何を言われてもぶれないご意志を確かなものとされたのでした。 うちの教会で奨励されている「ディボーション」も、私たちに対する神さまのみこころを日々受け取り、その日に私たちひとりひとりに与えられたみこころを実践するために行うものです。言い換えれば、「人に左右されないように」、「人に惑わされて神さまのみこころが行えないことのないように」、ディボーションをするのです。 毎日割り当てられた聖書箇所は、とにかく、先に説明を読むことなく、聖霊なる神さまの導きによってお読みすることにチャレンジしてみてください。そこから悟ったみこころを、ただ頭の中で思うだけではなく、ノートに記録してみてください。その悟った真理を実生活に適用し、実践可能なことを書き出して、実際にその日に実践してみてください。一日の終わりには、それが実践できたかどうかを振り返り、実践できたならば神さまに感謝してください。さらには、この実践できたみことばの恵みを、教会の交わりの中で分かち合って、ともに神さまに感謝をささげてください。 だいじなのは、人に左右されないで神さまのみこころを守り行うことです。もしそれでも、神さまのみこころを受け取るうえで自信が持てなかったら、どうぞ牧師に相談にいらしてください。私は上から目線で教えることはしませんが、ともにみことばから学んでみこころを受け取るうえでのお手伝いをいたしたいと思います。 私たちひとりひとりが、そして教会が、ともにみこころを受け取り、揺れ動くことのない確信をもって神さまにお従いすることができますように、主の御名によってお祈りいたします。 最後に第三のポイントです。イエスさまは、御父の働きを執り行うために祈られました。 38節、39節をお読みしましょう。……このような力あるわざを行われたことには、原動力がありました。それは何といっても、祈りでした。祈りによってイエスさまは御力に満たされ、このような奇跡的なわざを行われたのでした。 いま奇跡的と申しましたが、イエスさまが行われたしるしや奇跡は、ナザレのイエスといういち人物の栄光を顕すためのものではありません。そのしるしや奇跡を行われることにより、父なる神さまの栄光、言い換えれば、父なる神さまのご存在を顕される、それが目的でした。 父なる神さまにお近づきするためには、イエスさまという羊の門を通らなければならない、そのことを人々が知るためには、イエスさまが父なる神さまから遣わされた神の子であるというしるしを見る必要がありました。したがって、癒やしや悪霊追い出しのようなしるしをイエスさまがお見せになったのは、人々がこのわざを行われるこのお方を信じることで、父なる神さまの御前に招かれるためです。 イエスさまにとっての祈りは、そのような、奇跡的な神のわざを行うためのものでした。このことをもっともはっきりと示した祈り、それは、ゲツセマネの園でイエスさまが御父に、血の汗を流して苦しみ悶えて祈られた、あの祈りでした。 イエスさまにとっての祈りとは、神との交わりであると申しました。しかし、十字架とは、御子イエスさまが人類のすべての罪を背負われ、父なる神さまとの交わりから断絶されるという、末恐ろしいできごとでした。人間の罪が、神の交わりを断ち切ったのです。御子イエスさまを十字架につけた私たち人間は、どれほど罪深い存在でしょうか! だが、その十字架によって、私たち人間は神の怒りから救われ、地獄に落ちるべき者が天国に入れていただく、これ以上の奇跡があるでしょうか? しかし、この奇蹟に先立っては、イエスさまの苦しみ悶えての祈りがありました。まさに、人類の歴史上空前絶後、唯一無二の奇跡、死んで滅びて地獄に行くべき罪人の人間が、罪赦され、神の子とされ、天国に入れられ、永遠のいのちが与えられるという、この上ない奇跡が実現しました。 イエスさまの地上のご生涯で行われた奇跡は、すべて、このような奇跡を行われるイエスさまを信じるならば神の子とされるという、神さまへの招きのために行われたものであり、その裏づけとなったものは、つねに御父にささげておられた祈りでした。祈りによりイエスさまは御父の御前に人々を導くわざをなされ、その究極のかたちは、ゲツセマネの園の祈りに裏づけされた十字架でした。 さきほど、イエスさまにとっての祈りとは喜びであると申しました。しかし、ゲツセマネの園の祈りに関しては、一見するととうてい、喜びと呼べるものではありませんでした。それでもイエスさまが祈られたのは、そのはるか向こうにある喜びを望み見ておられたからです。 ヘブル人への手紙12章2節をご覧ください。……これをお読みすると、イエスさまにとっての祈りの本質は、たとえゲツセマネの園の祈りのような苦悶に満ちた祈りであったとしても、やはり喜びであったことがわかります。 ひるがえって、私たちのことを考えましょう。私たちは本来、どれほど自己中心の存在でしょうか? どれほど愛のない存在でしょうか? どれほど神さまと無関係に生きていて平気な存在でしょうか? しかし、そんな私たちも、神と人を愛する者にしていただいています。そのために何ができるかをたえず考え、悩み、実践しようと努力したい思いが与えられています。これこそ奇跡ではないでしょうか? しかし、私たちにはこの奇跡を完成させられるだけの力はありません。つねに神さまとの交わりの中で、その奇跡を完成させていただけるだけの力をいただく必要があります。私たちの祈りは、そのような神と人を愛する力へと実を結びます。信じて祈ってまいりましょう。 3つのことをお祈りしましょう。 ①私たちは神さまといつ交わりますか? まずはこの1週間の計画を立てましょう。 ②私たちにとって最優先にお従いすべき神さまのみこころは何ですか? ③私たちは十字架こそ最高の奇跡であると信じ、すべてにおいて十字架の奇跡、贖いの奇跡があるようにと祈りましょう。具体的に私たちの周りのどの領域に、十字架の奇跡があるようにと祈りますか?

「神の国の力」

聖書箇所;マルコの福音書1:29~34(新p66)/メッセージ;「神の国の力」  「バプテスト教理問答書」の学びを再開します。今日は問24です。  問24 キリストは我々の贖い主として、どんな職務を行なうか。  答 キリストは我々の贖い主として、その謙卑と栄誉の状態で、預言者、祭司、王としての職務を行なう。  私たち罪人をその十字架の死により、罪と死とサタンの支配から贖い出してくださったイエス・キリストは、預言者であり、祭司であり、王であられます。イエスさまは王です。王ということは、イエスさまが王として統べ治める「国」があるということです。聖書はその国を「神の国」と呼びます。いま私たちは、マルコの福音書を学んでいますが、本日の箇所に先行する1章15節、イエスさまはお働きを開始されるにあたり、「時が満ち、神の国が近づいた」と宣言していらっしゃいます。  神の国、ということは、それは「国」なのです。統治する王さまもいれば、国民もいます。王さまはイエスさまです。国民は私たちです。私たちはこの地上においては、特定の国に住んでいますが、私たちのほんとうの国籍は天にあり、すなわち、神の国に国籍を置いています。この地上に生きながら、私たちの場合は日本に生きながら、天国の国民、イエスさまを王とする神の国の国民として生きています。  イエスさまは私たちにまことの神のことばを語ってくださる、まことの預言者です。イエスさまは十字架の死によって父なる神さまにご自身というまことのいけにえをささげられ、神さまと私たちとの仲立ちをしてくださった、まことの祭司です。そして、私たちに御力をもって振る舞われ、私たちを治めてくださる、まことの王です。  本日の箇所は、イエスさまがまことの王として振る舞われる、神の国を人々が具体的に体験してゆくさまを描いています。ともに学びましょう。 第一のポイントです。イエスさまは人を癒し回復されて、神の国を体験させられます。 29節から31節をお読みします。……シモン・ペテロのしゅうとめは熱を出して寝こんでいました。 単なる熱ではありません。ひどい熱です。イエスさまは、この熱により寝込んでいたシモン・ペテロのしゅうとめの手を取って起こされ、いやしてくださいました。 コリント人への手紙第一4章20節が語るとおり、神の国はことばにはなく、力にあります。これは、神の国とは上っ面のことばだけのものではなく、人間世界に実際に力をもって臨むものである、ということです。そういう点からすれば、神の国とは「論より証拠」のものです。 しかし、イエスさまというお方は、神のみことばが肉体をとってこの世界に来られたお方、神のみことばそのもののお方です。このお方がいやしのわざを行われるということは、神のみことばのわざでもあります。実際、この箇所の並行箇所であるルカの福音書4章を読みますと、イエスさまはシモン・ペテロのしゅうとめに取りついた熱を「叱りつけられた」とあります。まさに、イエスさまのお語りになったみことばが、イエスさまのみわざであったのです。   もうひとつのみわざ、32節から34節までをお読みしましょう。……ここでもイエスさまは、力強くみことばを語っていらっしゃいます。みことばをもって悪霊を追い出していらっしゃいます。このように、イエスさまが悪霊を追い出されるという御業は、神の国がすでに来ていることのしるしであると、ルカの福音書に記録されています。  重い病気になっていることであれ、悪霊に取りつかれていることであれ、人として問題を抱えているということです。神さまに創造された人間ならば、本来死ぬこともなく、したがって病気になることもありえず、また、神さまのものである以上、悪霊が取りつくということもありえないはずです。それが、病気になったり、悪霊に取りつかれたりして、人間の世界には悲惨と破壊がもたらされるようになりました。  イエスさまが来られたということは、人がそのような破滅と悲惨から救っていただき、完全なからだをいただいて神の国の民として永遠に主とともに生きる恵みが与えられる、ということです。イエスさまのみことばによるいやしや悪霊追い出しは、まさに、人が神の国に入れられることで、そのように人を神の国、救いに召してくださる、神の栄光が現れ、神さまがほめたたえられるべきことです。  私たちはやがて、復活のからだ、完全なからだをいただいて、永遠に主とともに住みます。そのときには、顔と顔を合わせて主にまみえることになります。私たちはその日を期待していますでしょうか? もし、私たちがこの地上でいろいろな悩みに苦しんでいるならば、私たちは実は、この地上ではなく、神の国を生きる者にしていただいていることを思い起こしましょう。  私たちは病に苦しんでいますか? 神の国は病のないところです。私たちは人間関係に苦しんでいますか? 神の国は罪赦されたどうし、イエスさまによって贖われたどうしが生きる、人間関係の葛藤により神の平安の損なわれることのないところです。私たちは知恵が欠けていることで悩んでいませんか? 神さまは惜しみなく知恵を与えてくださるお方だと、みことばをとおして信じ受け取り、大胆に知恵を求めればよいのです。  私たちは癒されるために、本来の神のかたちとしての人の姿を取り戻させていただくために、力ある主のみことばを求めましょう。主のみことばを味わいましょう。黙想しましょう。イエスさまがかつて、その地の人たちを愛し、癒され、回復されたそのみことばは、今この自分に語られていることを、信仰によって受け取りましょう。私たちは必ずいやさえ、回復されます。神の国の民にふさわしく整えられます。信じてまいりましょう。   第二のポイントです。イエスさまは共同体を拡大されて、神の国を体験させられます。  この箇所において癒されたのは、ペテロのしゅうとめでした。しゅうとめ、という以上、ペテロには妻がいて、その母親ということになります。ペテロには妻がいたことは、コリント人への手紙第二9章5節を見れば明らかです。 私たちは十二弟子というと、イエスさまとの共同体生活というものが真っ先に思い浮かぶでしょう。それだけに、彼らは実は結婚していたということをあまり考えないのではないでしょうか。しかし実際には、ペテロのように、妻がいる者もいたのでした。 この時代のイスラエルでは、人が成人して結婚する頃になると、その親はもう世を去っていたということは珍しくありませんでした。イエスさまの地上の父親であったヨセフも、イエスさまの公生涯の頃にはもういませんでしたし、ペテロとアンデレの兄弟の親や、ペテロの妻の父親も、おそらくもういませんでいた。 ペテロは、妻の母親であるしゅうとめをケアしていました。もしかしたらその家には、アンデレも一緒だったかもしれません。しかし今や、アンデレもペテロもイエスさまについて行ってしまいました。もう漁師として稼いでくれることはなくなったのでした。このように、ペテロやアンデレがイエスさまの弟子になるということは、彼ら自身だけではなく、その家族も犠牲を経験することだったのでした。 そんなペテロのしゅうとめが、ひどい熱を出しました。それは、イエスさまにつく信仰の共同体にとっての大事な家族が、重い病気になってしまったということです。イエスさまは、そのような家族など放っておいてわたしに従いなさい、とおっしゃったでしょうか?  とんでもありません。イエスさまは彼女の熱を癒し、彼女の手を取って立ち上がらせてくださったのでした。 ここで、イエスさまはシモンのしゅうとめを「起こされた」とありますが、この「起こされた」ということばは、聖書のほかの箇所を見てみると、「死人の中から起こされた」という意味にも用いられています。イエスさまはまさしく、死ぬべき彼女を神の御子イエスさまにあるいのち、永遠のいのちへと導き入れてくださったのでした。 そのようにして、イエスさまによって、いわば「よみがえり」にも似た体験をした彼女は、何をしたのでしょうか? いそいそと食事の支度をはじめ、イエスさまの一行をもてなしたのでした。当時のユダヤ教の厳格な教えによれば、女性が食卓の給仕をすることは厳しく戒められていたといいます。しかしイエスさまは、彼女のこの喜びの奉仕を受け入れられました。これは、まことの人の回復が、「奉仕」という形で実を結んでしかるべきである、ということの証拠ではないでしょうか? また、食卓とは何でしょうか? イエスさまがその輪の中心になり、イエスさまを囲んで持つ、喜びの交わりです。ここに、神の国の共同体が実現するのです。ペテロのしゅうとめはもはや、ペテロやアンデレがイエスさまのもとに行ってしまったからという「仕方ない犠牲」を払っているのではありません。喜びからささげる、「自発的な犠牲」です。 むろん、食事をすることそのものが神の国を実現するのではありません。パウロの手紙の送り先であった、ローマ教会、コリント教会は、かえってこの「食事」の問題が、本来麗しく保たれるべき教会における交わりをおかしくしてしまっていました。そのような問題を指摘するにあたり、パウロはこのように言っています。ローマ人への手紙14章17節です。――なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。 聖霊に満たされたイエスさまは、義なるお方であり、平和の君です。そして、このお方とともに食卓を囲むならば、喜びがあります。高い熱をたちどころに癒やしていただいた喜び、このお方ならば婿のことをお任せして安心だという喜び、そんな喜びに、厳格なユダヤの戒律も吹き飛び、思わず一行のために食卓を用意してしまった……そうです。ペテロのしゅうとめも神の国の一員に加わり、神の国の一員として堂々と振る舞ったのでした。 私たちにこのような喜びがありますでしょうか? 病み上がりの身でありながら奉仕したくてたまらなくなるような、そんな喜び。もし、私たちが久しくこの喜びを忘れているならば、今こそ私たちは神の国の民としてふさわしく、この喜びを回復させていただきましょう。それは個人のレベルでもですし、家族のレベルでもですし、教会の交わりのレベルでもです。 その喜びにみなが満たされたならば、「御国をきたらせたまえ」というお祈りは、現実のものとしていただけます。信じて祈り求めましょう。 最後に、第三のポイントです。イエスさまは人々を集められて、神の国を体験させられます。   あらためて32節から34節までを見てみますと、カペナウム中の人々が集まってきた様子が描かれています。「戸口」とありますが、これはおそらく、ペテロの家です。家の中に入るには狭かったので、外の道、あるいは共同の中庭に面した戸口に、人々が集まってきた、というわけです。 それは、夕方になって日が沈んでからのことでした。ユダヤの一日は日が沈んでから日が沈むまでです。それまでは安息日で、イエスさまのもとに人を連れて行くことも、働いてはならないという律法に触れる「労働」だからということで、律法の解釈上戒められていました。それで、こんなとっぷりと日が暮れてからみんな集まったのでした。 しかし、イエスさまはといえば、安息日といっても、会堂で教えるという働きをなさったばかりです。人々はそんなイエスさまに休む間もあげません。しかしイエスさまは、そのように連れてこられた病気の人をひとりひとり癒され、悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出されたのでした。 このようにペテロの家の戸口に集まってきた人たちは、その日の礼拝で、イエスさまが人から悪霊を追い出された様子を目撃していました。またこのときにも、イエスさまがペテロのしゅうとめを癒されたことを知っていました。イエスさまならば、八方手を尽くしても治らなかった、私の愛する人も治していただける! 家族でしょうか、友だちでしょうか、カペナウムの人々は、そんな愛する人、しかし今はやんだり悪霊に取りつかれたりしてどうにもならなくなっていた人のことを、イエスさまのもとに連れてきたのでした。 このいやしのわざ、悪霊追い出しのわざをとおして、彼らカペナウムの人々もまた、神の国を体験しました。そのように、神の国が力をもって臨むさまに、彼らはどんなに驚いたことでしょうか。イエスさまはこうして、彼らの中にある救霊の情熱、家族愛、隣人愛を呼び起こして、神の国をこのカペナウムに実現したのでした。 ただ、神の国というものは、それがどんなにその場に臨もうとも、また、その力を人々が体験しようとも、その神の国の力を体験した人々が、悔い改めて神の国の民になることをしないならば、意味がなくなってしまいます。 このカペナウムは、これだけのイエスさまのみわざが行われたというのに、どうなったでしょうか? マタイの福音書11章20節と23節、24節をご覧ください。――それからイエスは、ご自分が力あるわざを数多く行った町々を責め始められた。彼らが悔い改めなかったからである。「カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。おまえたちに言う。さばきの日には、ソドムの地のほうが、おまえよりもさばきに耐えやすいのだ。」 ソドムとゴモラのことは言うまでもありませんが、性的にものすごく乱れた、実に罪深い者たちの町でした。その町にはロトの家族以外に正しい者はまったくいなくて、結局、神さまは天から硫黄の火を降らせて、この町を滅ぼされました。しかし、カペナウムはなんとそのソドムやゴモラよりももっとひどいさばきにあう、ということを、イエスさまはおっしゃったのでした。 カペナウムはあれほどイエスさまのみわざ、つまり、御国そのものを体験していたはずなのに、なぜイエスさまはこんなことをおっしゃったのでしょうか? それは、彼らは御国を体験していたにもかかわらず、悔い改めなかったからです。悔い改めない者に、神さまは容赦ないさばきを下されます。 カペナウムがこのように、神さまの容赦ないさばきを受けることになることを裏づけるみことばがあります。ヘブル人への手紙6章、4節から6節のみことばです。――一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となって、神のすばらしいみことばと、来たるべき世の力を味わったうえで、堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです。 どうしなければならないのでしょうか? 主のみことばとみわざを体験し、神の国にあずかった者としてふさわしく、つねに悔い改めることです。 この日本は、かつて多くの人々がイエスさまを信じ、教会を津々浦々に形成していった国です。みな、御国を体験し、その喜びにあふれていたわけです。しかし、いま日本の教会は、ひと頃の力がないように見えます。 これは、御国の素晴らしさを味わったうえで、しかも堕落してしまった姿なのでしょうか? 神さまがご存じです。私たちはしかし、まだここで希望を持つべきです。私たちには悔い改めるチャンスが残っています。だから、悔い改めることです。悔い改めなくして、御国の力、救いの力をほんとうに体験することはできません。 いったい、悔い改めない者たちの群れに、神さまは教会成長を起こしてくださるでしょうか? そのような群れにおける教会成長など、むしろないほうがいいようなものです。 私たちがもし、かつて御国の素晴らしさを体験した過去があって、今そのようになっていないと嘆いているならば、信仰生活がマンネリに陥っているならば、今こそ神さまとの関係を結び直す必要があります。それは、悔い改めをとおして実現します。あれほどのみわざを見て体験したカペナウムに対するようなイエスさまの叱責を、私たちは聞きたいでしょうか? そんなはずはないでしょう。 私たちは悔い改め、今度こそまことの神の国を体験するものとなりますように、そして、このときのカペナウムの人々がそうだったように、まだイエスさまを知らない人々をイエスさまのもとにお連れして、すなわち、私たちがイエスさまをお伝えすることで、ともに神の国を体験するものとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 ①私たちは神の国の民としてふさわしく、回復されるべきところがありますでしょうか? 悩み、病を告白し、いやしを受けましょう。 ②私たちは神の国の民として、喜びを回復していただきましょう。このところ、内側からあふれ出る喜びがありませんでした。主よ、喜びに満たしてください。…

「最も大切な福音――十字架と復活」

聖書箇所;コリント人への手紙第一15:1~8/メッセージ題目;「最も大切な福音――十字架と復活」 あらためまして、主イエスさまのご復活をお祝いいたします。 講壇のお花をご覧ください。今日は白百合を飾っていただきました。白百合はキリスト教会においては、イエスさまのご復活の象徴として、特にこの復活祭において飾られるお花です。 白百合を飾ることについては、聖書に根拠があります。旧約聖書に、「雅歌」という文学的なみことばがありますが、その中にこんな一節があります。「私はシャロンのばら、谷間のゆり。わが愛する者が娘たちの中にいるのは、茨の中のゆりの花のようだ。」茨とは、十字架を負われたイエスさまの頭にかぶせられた冠です。先週も導入賛美で歌ったとおり、血に染む茨は栄えの冠、イエスさまの御頭(みかしら)を痛めつけ、血に染めた茨は、しかし、私たちのために苦しみを受けられることによって神の栄光をあらわされた、イエスさまの栄えの冠でした。 その茨の中にあって、暗闇の谷間の中にあって、イエスさまの麗しさは百合の花に例えられます。百合の花というものは、もともとが芳しい香りを放っていますが、踏みつけられれば踏みつけられるほど、さらに香りを放つといいます。イエスさまは私たちの罪のゆえに痛めつけられましたが、やがてイエスさまは白く輝くお姿をもって復活されました。イエスさまはまさしく、白百合に例えられるべきお方です。 メッセージはあまり長くしません。でも、このメッセージのあとに歌う讃美歌「うるわしの白百合」という歌は、メロディも歌詞もとても美しい歌です。メッセージのあとにはぜひ、この歌の美しさをじっくり味わいながら、歌っていただけたらと思います。 今日のメッセージのテーマは「福音」です。私が教会生活を始めた教会は、「北本福音キリスト教会」という名前でした。埼玉の田舎にあり、そこはちょうど、この教会の立っているあたりのような雰囲気でした。「福音」というものは、教会の名前にするくらい大切なことなのだな、と、当時中学生だった私は、わからないなりに思ったものでした。私たちキリスト教会は、「福音」というものを何よりも大切にします。 「福音」とは「よい知らせ」という意味です。英語では「グッド・ニュース」と言います。 聖書が語る「福音」、「グッド・ニュース」というものを知るには、もちろん、聖書を読むのがいちばんです。先ほどお読みした箇所は、まさしくこの「福音とは何か」について、私たちにはっきりした答えを語ってくれています。 まず、1節の箇所をお読みすると、こうあります。「私があなたがたに宣べ伝えた福音」、福音とは「宣べ伝える」ものです。この「コリント人への手紙第一」を書いたパウロは、聖書の教師、神学者でありましたが、同時に、今でいうところの「宣教師」でした。宣教師とは、別の民族、別の国家、別の言語を用いる人々のところに行って、聖書の教えを宣べ伝える人のことを指します。うちの妻は韓国人ですが、宣教師になるための訓練を受け、今から14年前、結婚式の翌日に、韓国の教会から宣教師として日本に派遣されました。 パウロもまた、宣べ伝える人でした。福音を宣べ伝えます。ユダヤ人のパウロはユダヤを離れ、ギリシャのコリントの教会に福音を宣べ伝えていますが、1節のみことばを読みますと、コリント教会の信徒たちは、パウロから聴いた福音を受け入れ、その福音によって立っている、とあります。 教会とは、福音を聴いて受け入れ、その福音によって立つ人々の群れです。福音はまず、聴いて教わることなしには、何を信じたらいいのかわかりません。聖書をしかるべく解き明かし、教えてくれる人が必要です。そして、ただ教わるだけではありません。その福音によって立つ、つまり、聴いて教わった福音を人生のあらゆる土台にする、ということが必要です。 人生のあらゆる場面において土台となる、福音とはそれほど大切なものであるのはなぜなのか、それは2節で語られているとおりです。人は、福音によって救われるからです。ただし、単に聞いてさえいればいい、というものではありません。「私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら」救われる……条件があります。聞いて学んだことをしっかり覚えるのです。 クリスチャンが教会に通って聖書を学びつづけるのは、福音とは何かをつねに心に留め、自分に対する神さまの救いを完成していただくためです。そのように、しっかり学んで教えにとどまらなければ、「あなたがたが信じたことは無駄になってしまう」のです。せっかく学んだことを無駄にしてはなりません。 福音によって救われる、とありますが、救い、ということは、聖書においても教会においてもよく語られることです。私たち人間はきよい神さまの御前に罪人です。 私たちは、しなければならないとわかっているのにできない、そういうことはないでしょうか? あるいは、してはならないとわかっているのにしてしまう、そういうことはないでしょうか? それだけではなく、頭の中で、あんな人にはいなくなってほしい、とか、人を呪うようなことを考えてしまう、そういうことはないでしょうか? 聖書は、そういったことをすべて、罪、と語っています。 このような罪を犯すから、私たちは罪人なのでしょうか? もちろん、そうとも言えますが、さらに根本的なことを言えば、私たちは「罪人だから罪を犯す」のです。 聖書は、この世界を創造された唯一の神さまのご存在について明確に語っています。人は、そのほかのあらゆるものと同様、神さまによって創造されました。しかし、人とほかの被造物の間には、明確な違いがあります。人だけが、神さまと人格的な交わりをすることができます。人だけが、神さまを礼拝することができます。 しかし、そのような存在に創造されたにもかかわらず、人は神さまに背を向けました。それぞれが自分勝手な道に向かっていきました。それは言ってみれば、神さまに対する手ひどい裏切りです。神さまはそのような人間に対し、怒りを注いでおられます。その怒りに触れ、人は滅ぼされる定めとなりました。 けれども神さまは、人を愛していらっしゃいます。ご自身に立ち帰るように、道を備えられました。全人類を救い、神さまご自身の民とするために、時至って、ご自身のひとり子、イエス・キリストを、人を救ってくださる救い主として、この世界に送ってくださいました。この、イエス・キリストというお方を神さまがこの世界、私たちのもとに送ってくださったということこそ、福音そのものです。 ただし、それなら、イエス・キリストというお方がこの世界に来られたということが福音、よき知らせなのはなぜなのか、それも私たちは心に留める必要があります。その福音の内容、それは、3節から8節のみことばに書いてあるとおりです。 要約すると次のとおりです。第一に、イエス・キリストは、私たちの罪のために死なれました。イエスさまは、十字架におかかりになりました。私たちが罪人ゆえに神さまから受けるべきその罰を、イエスさまは十字架の上で身代わりに受け、死んでくださいました。 そして、お墓に葬られました。ユダヤのお墓は横穴式で、ご遺体はそこに横たえられますが、イエスさまのお墓はご丁寧にも、入口に大きな石が転がしかけられて蓋がされていただけではなく、その蓋には十字架刑を下した総責任者であるローマ総督ポンテオ・ピラトの封印がされ、勝手に開ける者は重罰を受けるようにされていました。さらには番兵たちが配備されて、だれにも近づけないように番をしていました。 しかし、4節のみことばにはこうあります。「聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられた」……イエスさまが死なれて3日目に復活されることは、聖書をしっかり学べばわかることでした。そのように、むかしから聖書が予告していたとおり、イエスさまは墓からよみがえられました。天使が現れ、石の蓋は封印もろとも打ち破られ、番兵たちは倒れて死人のようになり、イエスさまはよみがえってお墓は空っぽになりました。 そのようにしてよみがえられたイエスさまは、弟子たち、イエスさまにつき従っていた人たちに現れ、ご自身が復活されたことを確かにお示しになりました。コリント教会に向けてパウロがこの手紙を書いたとき、中には殉教するなどして亡くなった人もいましたが、大部分は生きていて、そんな彼らは確かに復活の証人でもありました。 さて、この中で、8節のみことばはやや事情が異なります。パウロが自分のことを「月足らずで生まれたような者」と言っているのは、どういうことでしょうか? パウロは、生前のイエスさまに弟子として従っていた人物ではありません。イエスさまがこの地上で生きていらしたときは、全く関係ない律法学者、パリサイ人でした。 やがてイエスさまが天に上られ、教会が誕生していく中、イエスさまを十字架につけるもっとも大きな役割をしたパリサイ人の教えを受けていたパウロもまた、教会を迫害する者として悪名をとどろかせていました。 しかしある日、ユダヤの宗教指導者のかしらである大祭司の、教会から信者たちを逮捕してエルサレムに引っ張って来いとダマスコの宗教指導者に命じる手紙を手に、エルサレムからダマスコへと向かっていたとき、その途上で、イエスさまが現れました。パウロはまぶしい光に照らされ、地に倒れました。そして、声を聞きました。「なぜわたしを迫害するのか。」パウロは思わず、「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねました。すると天からの声は、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答えました。 この体験はパウロをまったくちがう人へと変えました。それまで彼は、どんなに聖書を研究しても決して、神のひとり子イエスさまに出会うことはできず、イエスさまのあがめられる教会を迫害することしかしませんでしたが、この体験以降、彼はイエスさまを宣べ伝える者となりました。そして、福音を宣べ伝え、教会を形づくり、聖書を執筆する人として、神さまの働きのためになくてはならない人となったのでした。 これは、単なる奇跡ということ以上に、「復活のイエスさまに出会った体験」でした。パウロにとってそれまで、このイエスという人物は、十字架にかかって死んだ人物、それこそユダヤの掟によれば、木にかけられて呪われた人間以上のものではなく、そのようなイエスを主とあがめるなど、とんでもない連中だ、と、迫害を加えることしかしませんでした。しかし、パウロはここで、十字架に死なれたが今生きておられるイエスさまに出会ったのでした。 月足らず……イエスさまと寝食をともにし、3年にわたって訓練を受けてきた十二弟子に比べると、パウロはイエスさまのことを知らないも同然でした。しかし、復活のイエスさまは、そんなパウロにも現れてくださり、救ってくださったのでした。 これが、もっとも大切なことです。それをもっと要約すると、3節、4節のとおりになりますが、特に2つのことを語っています。キリストは聖書の語るとおりに私たちの罪のために死なれた、もうひとつ、キリストは聖書の語るとおりによみがえられた。 私たち罪人は、自分でこの罪を解決することができません。どんなによい人になろうとしても、どこかで悪いことを考えてしまう、どこかで悪いことを口にしてしまう、どこかで悪いことをしてしまう、それが私たちです。神さまはそんな私たちのことを憐れんで、私たちの罪の罰を身代わりに、ひとり子イエスさまに負わせてくださいました。 私たちは聖書を学ぶならば、イエスさまの十字架の贖い、またそれを実現してくださった神の愛のすばらしさを知ることができます。この教えの中にとどまるならば、私たちは幸いです。 そして、キリストは復活されました。イエスさまは死んで終わりのお方ではありません。イエスさまの復活にあずかって、私たちも罪と死に勝利します。それだけではありません。私たちもまた復活します。永遠に神さま、イエスさまとともにいるものとしていただきます。 ある神学者が言っていました。キリスト教はひと言で言って「神との交わり」であると。私たちにとって最も大切なこと、それは神さまとの交わり、十字架と復活を信じつづけるべく、聖書の教え、福音の中にとどまる、神さまとの交わりです。この復活祭、この恵みをともに味わい、神さまの御名をともにほめたたえましょう。そして、イエスさまの十字架と復活に感謝する復活祭は、ほんとうのことをいうと今日だけではありません。毎日です。毎日、イエスさまの十字架と復活をお祝いするのです。この恵みをともに味わい、心からの感謝を神さまにおささげする私たちとなりますように、主の御名によってお祈りします。

「十字架の道」

聖書箇所;マタイの福音書26:47~56/メッセージ;「十字架の道」  ひとつ、仮定してみたいと思います。仮に、私たちがイエスさまにつき従う群れだったとしましょう。十二弟子の立場でも、十二弟子と一緒に行動をした女性たちの立場でもいいです。  イエスさまの日ごろの正しい言動が腹に据えかねていた宗教指導者たちが、夜の暗闇にまぎれて、イエスさまを捕まえにやってきました。それも、剣で武装した軍団を引き連れてです。さあ、私たちならそのとき、この群れを見てどのように振る舞いますか?  イエスさまが十字架におかかりになる前の夜、ついによい機会が訪れたとばかりに、裏切り者の弟子、イスカリオテのユダの手引きで、宗教指導者の軍団がやってきました。そのとき弟子のひとりは、大祭司のしもべに打ちかかり、その耳を剣で切り落としました。ほかの福音書を読むと、その弟子とはペテロであるということですが、イエスさまはそのペテロの行動を諫められ、しもべの耳をいやされました。  私たちもまた、もし剣を持っていたら、暴力で解決しようとするのでしょうか? 私たちにもはやる思いがあると思います。私たちの王、イエスさまに手を出す者は、この私が容赦しない……。  しかし、イエスさまはなんとおっしゃったのでしょうか? 私たちはこのおことばから何を学び取り、どんな決断をすることができますでしょうか?  52節のみことばからまいりましょう。――「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」  イエスさまがこのようにおっしゃった意味を考えてみましょう。なぜこのようにおっしゃったのか? 大前提として、神さまがその民に「殺してはならない」と戒めのみことばをお語りになったからです。モーセの十戒にあるとおりです。  人を殺すことがなぜ罪なのでしょうか? それは、そのいのちは神さまのものであり、その人を生かしていらっしゃる神さまのご主権を奪い取る行為だからです。いのちの主なる神さまの領域に挑戦する行為だからです。そのようなことをする者には神ののろいが臨みます。  出エジプト記や申命記には、「目には目を、歯には歯を」とあります。争っていて目を傷つけたなら、傷つけた者は目をもって償う、歯なら歯をもって償う、これがみこころの原則です。 イエスさまはしかし、このみことばの語るほんとうの意味を解き明かされ、「目には目を、歯には歯を、とみことばにあるのをあなたがたは知っているが、悪い者に手向かってはいけない」と、新たな戒めを与えられました。  ペテロは弟子として、このようなことをイエスさまから聞かされていたというのに、愚かにもこのとき、剣を振るいました。彼は、王でいらっしゃるイエスさまが捕らえられていくなど、到底受け入れられなかったのでした。 彼はイエスさまを守ろうとしましたが、しょせんそれは彼なりの肉に属したやり方にすぎず、とてもみこころにかなったやり方とは言えませんでした。それどころか、彼のしたことはいのちの主の領域に挑むことであり、彼の身に神ののろいを招きかねない野蛮な行いでした。「目には目を」ということでいえば、ペテロは耳を切り落とされるべき振る舞いをしたのでした。いえ、もし打ちどころが悪くて、耳どころではすまなかったら、ペテロはいったい何を差し出せばよかったというのでしょうか。  しかし、ルカの福音書を読みますと、イエスさまはそのようにしてペテロに耳を切り落とされたマルコスというしもべの、その耳に触って癒やしてくださったとあります。どういうことかというと、イエスさまは、ペテロのすべき償いを帳消しにしてくださったということです。言い換えれば、ペテロが自分の身に招いたのろいを帳消しにしてくださったということです。  それでも私たちは、イエスさまがペテロにおっしゃったみことばをよく心に留める必要があります。イエスさまはペテロにおっしゃいました。「剣をもとに収めなさい。」  主のしもべたち、弟子たちが争うのはみこころではありません。イエスさまはその争いをやめさせてくださいます。しかし、争いをやめる決断を下し、それこそ剣をもとに収める行動をする選択は、ほかならぬ主のしもべたちにかかっています。主のしもべたちが、「剣をもとに収めなさい」という主イエスさまのみことばを、まことに自分に語られたご命令であると受け取り、そのみことばに従順にお従いすることなしには、争いというものは絶えることはありません。  しかし、そのように「剣をもとに収める」ことを実際に実行することは、なんと難しいことでしょうか。今なおウクライナの地では、戦いがやむことがありません。これは国と国との争いの問題ですが、争いというものは私たちの日常生活にもついて回る問題です。 私たちはいろいろな場合に、人間関係の葛藤に投げ込まれるものですが、もしそのとき、自分の正しさだけを主張してそれに固執するならば、その正しさを主張することは相手に対して、もしかすると、剣を振るうような作用をしないでしょうか? もちろん私たちは、身体的な暴力など用いないかもしれません。しかし、たとえ身体的な暴力を用いなくても、ことばも充分に暴力になりえます。ことばで相手を傷つけるのです。  もちろん、そのようなことばを語るのは、クリスチャン、主のしもべとしてふさわしくないことは、私たちもよく知っていると思います。それでも、私たちが何かの拍子に、人を傷つけることばを語ってしまう、そういうことはあるのではないでしょうか?    私たちが、人を傷つける剣のようなことばを治める者になるためには、それだけ、主との交わりを欠かしてはなりません。主との交わり、それは御霊の満たしを生みますが、御霊に満たされるならば、ガラテヤ書5章22節と23節に書かれたとおりの9つの御霊の実を結びます。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制……。ことばがそうなりますし、品性がそうなります。 残念ながら、暴力で物事を解決しようとしたペテロは、祈るべき時に祈らなかった分、霊的な武装ができていなくて、愛してもいない、平安でもない、寛容でもない、柔和でもない、自制もできていない……ペテロはまさしく、御霊の満たしと反対の状態に陥っていたのでした。  剣をもとに収める。それができるのは、御霊に満たされている人です。そういう人こそが平和をつくり出す者として、神さまに用いていただけます。ウクライナを見ていても、平和に至る道はまだ遠いように思えます。しかし私たちはあきらめずに祈りましょう。私たちの祈りが平和をつくり出します。  そして私たちは、周りの方々と平和を保つために、御霊の満たしを心から求めましょう。それこそが、剣をもとに収めよというイエスさまのみことばに従順にお従いする道です。  さて、それなら、イエスさまは彼らと戦って勝つことができなかったのでしょうか? まずは53節をお読みしましょう。――「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。」  当然、イエスさまの配下に御使いの大軍隊を置いていただくことなど簡単です。イエスさまは全能の神さまであり、父なる神さまは子なるイエスさまのことを愛していらっしゃるからです。必ず守ってくださいます。  御使いの大軍隊がここに現れたらどうなるでしょうか? ただ単にイエスさまが守られるだけではありません。このようにイエスさまを逮捕しにやってきた宗教指導者の一味など、ひとたまりもなく滅ぼされます。第二列王記18章35節を見ると、神の民ユダを攻撃するアッシリアの軍勢18万5千人が、御使いによって一晩で全滅したという、ものすごい記述が出てまいります。日本の自衛隊員は14万8千人ですが、それよりも3万人以上多い数の兵士が、一晩で全滅……御使いの力はものすごいです。 その御使いの軍団が12軍団、それよりも多くの軍団、そんな御使いが臨んだら、死ぬのはこのとき逮捕しにやってきた一味どころでは済まないはずです。イエスさまを十字架につけようと考えた宗教指導者はことごとく、完膚なきまでに滅ぼされたはずです。 イエスさまが王の王であられる以上、十二軍団よりも多くの御使いをもって戦い、この地上において正真正銘の王になることがおできになりました。そうなさってもよかったのです。しかし、イエスさまは何とおっしゃったのでしょうか? 54節をお読みしましょう。――「しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」   イエスさまの受難、十字架は、旧約の時代、はるかむかしからみことばにおいて何度となく予告されていたことでした。その神さまのご計画が成し遂げられないならばどうなるでしょうか? 人は罪と死から解放されることがなく、滅びてしまいます。イエスさまが王になられるということは、彼ら宗教指導者が反キリストだからと、彼らのことを暴力的に滅ぼすことで成し遂げられることではありません。イエスさまはみことばが成就するために、十字架にかかりなさいという御父のみこころに、黙々と従順に従われたのでした。  そのみこころを妨げてはならない、イエスさまがペテロをお叱りになったのは、そういうことです。イエスさまがかつて、ご自身が十字架におかかりになることを弟子たちにほのめかされたとき、ペテロはイエスさまを脇にお連れして、そんなことがあってはなりません、と、イエスさまを諌めるような真似をしました。しかしイエスさまはそんなペテロに向かって、「下がれ、サタン」と一喝されました。  イエスさまの歩まれる道を妨げる者は、たとえイエスさまの一番弟子であろうとも「サタン」呼ばわりされて激しく叱責されるものです。しかし、ペテロに対して、「サタン」と呼びかけられたイエスさまは、間違ってはいらっしゃいません。ほんとうにそれはサタンのわざでした。サタンは、十字架によって自分が永遠に滅ぼされることを、何よりも怖れていました。その神さまのご計画がならないようにするためには、一番弟子の愛情たっぷり、思いやりたっぷりのことばを用いることさえしました。しかし、イエスさまのみこころは一貫していました。十字架におかかりになる。それだけです。  しかし、ここへきてペテロは、あのように叱責されたことを忘れたか、またもや人間的、肉的な方法を弄して、イエスさまを守ろうとしました。しかし所詮その行動は、十字架によって自分も含めた全人類が救われるというみこころを損なう手助けをしかねなかったものだということに、彼は気づく必要がありました。  私たちも気づく必要があります。イエスさまの十字架は、暴力と正反対の、神の愛の実践そのものです。戦争やけんかを含めた暴力的手段は、所詮人の怒りに起因するものであり、神の義を実現する手段にはなり得ません。神の義を実現する手段、それは、私たちのために身代わりに十字架にかかってくださったイエスさまの十字架の愛、それだけです。  イエスさまがこの地上に実現される御国は、私たちが十字架の愛をもってへりくだってこの地に住む人々に仕えることをとおして成し遂げられます。私たちは全能にして唯一の神さまにつく者だからと、この地を人間的に支配するのではありません。  私たちはそれでも、暴力的な力で解決したい欲望に駆られるような、強いようでいても実は弱い、そんな弱さを身にまとっているものです。自分がことばなどで攻撃されるようなとき、怒りをもって報いたくなるような、そんなことはないでしょうか? つい、そのような攻撃をしてくるような人に神の怒りが下されるようにと、そんな祈りをしてしまうようなことはないでしょうか?  イエスさまは祈られました。父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです。イエスさまを十字架につけた宗教指導者たち、それに扇動されたユダヤの群衆、総督ポンテオ・ピラト、イエスさまを十字架に釘打ったローマの兵士たち……みんな、神の御子に迫害を加え、十字架の死に追いやった者たちです。 彼らは父なる神の怒りをまさしくこの瞬間、受けて滅ぼされるべきでした。しかしイエスさまは両手を広げ、御父が今まさに注いでおられる壮絶な御怒りを全身で受け止められ、彼らを、そして今なお何をしているかわからないで主の御前に罪を犯しつづけている私たちを、その御怒りからかくまってくださいました。  私たちが赦される道はただひとつ、このように神の怒りから私たちをかくまってくださった、イエスさまの十字架を信じることだけです。そうすれば私たちは神の怒りから救われ、罪赦され、永遠のいのちが与えられ、天国に入れていただけます。  私たちはそうして救っていただきました。しかし、私たちはこうして罪赦されてもなお、神の御前にふさわしくない罪人でありつづけてはいないでしょうか? 十字架を背負われたイエスさまのみあとを、自分の十字架を負ってお従いする、自己否定の道を歩むよりも、自分の力でなんとか生きることを選んではいないでしょうか? それでは、イエスさまが十字架につかないようにしようとあれこれ策を弄したペテロと五十歩百歩です。  それでもイエスさまは十字架の道を歩んでいかれました。私たちがすることは、イエスさまの十字架の前に自分自身を差し出し、心から悔い改めることです。そして、このように救いを成し遂げてくださったイエスさまのまことの弟子になりたいと願うならば、私たちもイエスさまにならって、自分を否定して十字架を背負う生き方をすることです。私たちも、十字架の道を歩むのです。神さま、イエスさまは、そのような私たちのことを喜んでくださいます。  しかし、私たちはまた同時に、十字架に至る道は歩もうとしても、なかなか歩めない弱い者であるということを、謙遜に認める必要もあります。55節、56節をお読みしましょう。――また、そのとき群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮で座って教えていたのに、あなたがたはわたしを捕らえませんでした。/しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。 彼ら宗教指導者の一味は、いかにもイエスさまを捕らえられそうな時を狙っていました。別の福音書を読むと、それはあなたたちの時、暗闇の力だからだと、イエスさまは彼らに対して喝破されています。  この、もっとも暗闇の支配するそのときに、弟子たちはイエスさまを見捨てて逃げ出しました。ここにおられたイエスさまからは、もはやユダヤを解放してくださる雄々しい王の姿など、少なくとも彼らの目には、まったく見出すことができませんでした。哀れな捕らわれ人にしか見えませんでした。自分たちも捕らえられたら、何をされるかわからない……弟子たちにものすごい恐怖が襲いかかってきました。われ先にと逃げ出しました。  こうして見ると、弟子たちはいざとなると極めて薄情なように見えます。ああはなりたくないものだ、私たちはそう思いますでしょうか? しかし、忘れてはなりませんが、弟子たちが去っていくことは、イエスさまがお許しになったことでした。ヨハネの福音書を見てみますと、宗教指導者の一行にイエスさまは、わたしがそれだ、ここにいるわたしの弟子たちはそのまま去らせなさい、とおっしゃっています。ここは彼ら弟子たちが去ることがイエスさまの願いでした。イエスさまは彼らのことを守ってくださったのでした。  さきほども申しましたが、私たちはイエスさまのみあとを、十字架を背負って生きるべき存在です。しかし、いざとなると十字架の道に行けない、そういう弱さもまた私たちが持っていることを、へりくだって認める必要があります。私たちは殉教した信仰の先達を見ていると、あのような生き方をしたいと思わないでしょうか。そう思うのはすばらしいことです。しかし、私たちはまた同時に、いざというときになったらそのように思ってきたほどイエスさまのために何かできるものではないことを知る必要があります。  しかし、聖書は続きまで読むべきです。このときイエスさまを見捨てた弟子たちは、その弱さを露呈してしまった過去を抱えたまま、のちにはイエスさまについて行く人に、聖霊なる神さまが変えてくださいました。そうです。イエスさまのみあとをついて行くのは、人間的な英雄信仰ですべきことではありません。すべては主の恵みによって主にお従いするのです。 私たちは今はまだ、いざとなったら主にお従いできないような弱さを抱えているかもしれません。しかし、祈ってみてはいかがでしょうか? このような私たちも、今はまだ弱い私たちですが、イエスさまの十字架と復活を経て、変えていただく、その御約束を握り、主が私たちを変えてくださるその御手にゆだねる私たちとなりますように。信じましょう。私たちは変えていただけるのです。終わりの日まで主にお従いする者にしていただけますように、主の御名によってお祈りいたします。

「論の権威、証拠の権威」

祈祷/使徒信条/交読;詩篇30:1~12/主の祈り/讃美;讃美歌461「主われを愛す」/聖書箇所;マルコの福音書1:21~28/メッセージ題目;「論の権威、証拠の権威」/讃美;聖歌200「うれしきこのひよ」/献金;讃美歌391「ナルドの壺」/栄光の讃美;讃美歌541「父、御子、御霊の」/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」 「バプテスト教理問答書」は、第23問答まで来ました。一緒に読みましょう。 問23 キリストは神の子でありながら、どのようにして人となったか。/答 神の子キリストは、真実の肉体と通常の霊魂とをとり、聖霊の力によって処女マリヤに宿り、しかも罪を持たずに生まれ、人となった。 イエスさまは、聖霊なる神さまの御力によって、完全な人としてこの世にお生まれになった神さまです。完全な神であり完全な人である、唯一のお方、それがイエスさまです。イエスさまは神として人々にみことばをお語りになり、神として人々にみわざを行われたのでした。 このお方、イエスさまは、神の権威に満ちあふれたお方です。今日のメッセージのキーワードは、「権威」です。イエスさまの権威を2つの側面から見てまいります。ひとつは「論の権威」、もうひとつは「証拠の権威」です。「論より証拠」ということわざがあります。「論」は説得力があるように思えても、ほんとうに説得力があるのは「証拠」のほうだ、という、とかく教えに走る人に対する皮肉を込めたことわざと言えますが、イエスさまにとっては「論」も「証拠」も、どちらも神の権威にあふれたものです。 今日の本文の内容ですが、イエスさまはペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネを弟子とされ、弟子たちを引き連れた群れで行動されました。その一行がカペナウムという町にやって来て、ユダヤ教の会堂に入りました。イエスさまは会堂で、人々に教えを語られました。するとそこに、悪霊にとりつかれた男がいました。イエスさまは彼から悪霊を追い出されました。 本文を読んでみますと、「権威」ということばが繰り返し登場します。イエスさまはまさしく、神の権威をもってこのカペナウムの会堂で振る舞われたのですが、神の権威は御教えと御業の両方で現れています。 まずは、御教えの権威のほうから見てみましょう。21節のみことばです。イエスさまは、安息日に会堂に入ってみことばを教えられました。 イエスさまは何を教えられたのでしょうか? 聖書を教えられました。ルカの福音書の中にもイエスさまが会堂で教えを語られる場面が出てきますが、それによると、まずみことばの書かれた巻物が渡され、それを朗読して、そのみことばに対する解説を述べられました。こんにち、私たちのような教会で説教者が、お読みしたみことばにメッセージという形で解説を加えるのに似ています。 しかし、イエスさまが教えられる場合と、牧師や伝道師のような説教者が教える場合とでは、決定的な違いがあります。牧師や伝道師はどこまでも人間であり、解説者にすぎません。むかし、ある牧師先生から、クイズを出されました。礼拝の中でいちばん大事なのはどの部分ですか? 私は、このちょっと意地悪な先生のことだから、「メッセージ」と答えたら、おそらくアウトだろう、と、先回りして、「使徒信条でしょうか?」とお答えしました。答えは、バツ。先生はおっしゃいました。「みんな、礼拝メッセージだと答えるんだよねー。でもそうじゃないんです。答えは、聖書を朗読する時間です。」 言われてみれば確かにそうです。礼拝は神さまにおささげするものですが、聖書のみことばをお聴きする時間は、神さまから御声を授けていただく時間であって、これほど重要な瞬間はありません。礼拝メッセージは、そのみことばに対する「解説」、身もふたもない言い方をすれば「添え物」にすぎません。 ところがイエスさまの場合はどうでしょうか? けっしてそれは、牧師や伝道師、当時でいえば律法学者のような宗教指導者のメッセージとは、根本から異なっていたのでした。22節のみことばです。 イエスさまは「権威ある者として」お教えになったのです。この権威の前に、聴衆はみな圧倒され、驚くばかりでした。ことばに権威があったのでした。ことばに権威があるということは、ことばを語るお方に権威が満ちあふれていた、ということです。聴衆はイエスさまのお語りになったみことばに、イエスさまの権威を認めるほかなかったのでした。 イエスさまの語られたおことばは、人間による聖書の解説とは次元を異にするものでした。それは神さまご自身による解説であり、すなわち、神さまご自身のみことばでした。権威があるのは当たり前です。 しかし、ここでひとつ、ガリラヤの人たちのみことばに対する態度にも注目したいと思います。彼らは普段、どのような教えをこの会堂で受けていたのでしょうか? ときの宗教指導者たちは、どんなことを教えていたのでしょうか? 彼ら宗教指導者がどのような人であったか、いみじくもイエスさまがおっしゃっているとおりです。「律法学者たちやパリサイ人たちはモーセの座に着いています。ですから、彼らがあなたがたに言うことはすべて実行し、守りなさい。しかし、彼らの行いをまねてはいけません。彼らは言うだけで実行しないからです。また彼らは、重くて負いきれない荷を束ねて人々の肩に載せるが、それを動かすのに自分は指一本貸そうとはしません。」 彼らは確かに、正しいことを語っています。神のみこころは何であるかを語っています。だからこそ、それを聴く聴衆も、それが神のみこころであることを分かっているので、聴かざるをえません。しかし、彼らはあまりにも、語ることと行なっていることがかけ離れています。彼らは律法の厳しいところを語りながら、そこから救ってくださるお方について一切語りません。だから、疲れた者、重荷を負っている者をみもとにて休ませてくださるイエスさまに、聴衆はいつまでたっても出会うことができず、ただ自分の至らなさに悲しむしかなかったのでした。 ところが、イエスさまがみことばを語られたらどうなりましたか? 彼らは神に出会いました。神のみことばを直接聞きしました。そこに彼らは、いやがうえにも神の権威を認めるばかりでした。 宗教指導者の語っていた聖書の解説は、薬の能書きのようなものでしかありませんでした。私たちはテレビで薬の宣伝を視ます。コンピューター・グラフィックなども使って、いかにも効きそうです。でも、あの画面を視ただけでは、病気は治りません。あるいは、その宣伝を見て薬が欲しくなって、薬局に行きます。薬を買います。薬には必ず、その成分や効き目を書いた文書がついてきますが、それを読んだら病気は治りますか? どうしなければなりませんか? そうです。飲むことが必要です。宗教指導者はどんなに立派なことを言っても、薬を飲ませることをしていなかったわけです。 イエスさまというお方はちがいます。私たちをいやす神のみことばを、ご自身で私たちに直接語ってくださるお方です。よく、韓国教会でジョーク半分に語られることば、クリスチャンには2つの薬が必要です、それは、「きゅうやく」と「しんやく」です……。まさに、「しんやく」そのものであるイエスさまが、「きゅうやく」を解き明かしてくださる、それを聴く聴衆はどれほど、普段から彼らを支配している罪責感の縄目から自由にされる、まことのいやしを体験したことでしょうか! 私たちはイエスさまのみことばを福音書をとおしてお読みするとき、その教えの権威の前に圧倒されます。 ただしそれは、イエスさまのみことばを、あたかも薬の宣伝や効能書きを眺めることで済ませるのではなく、「飲んで」からだの一部とするようにして耳を傾けるからではないでしょうか? ご覧ください。日本はこれしかクリスチャンがいないにもかかわらず、聖書のみことばに触れる機会はいくらでもあります。その気になったら聖書が読めるのです。 しかし、いざそのようにして聖書を読む機会があったとしても、それで人が変わらないのはなぜでしょうか? このカペナウムのガリラヤ人のような、イエスさまのみことばを聴いたら驚くだけの心の備えができていないからです。私たち日本に住む者たちは、あまりにもイエスさまに対する先入観が多すぎます。聖書に対する先入観が多すぎます。しかしもし、そのような先入観をすっかり捨ててみことばに耳を傾けるならば、人は必ず、その権威に圧倒され、そのみことばの教えによってつくり変えられます。 私たちはイエスさまのみことばを聴いたとき、そのような「驚き」を覚えているでしょうか? 権威を認めて、その前にひれ伏していますでしょうか? 私たちに必要なのは、その霊的感覚です。もし、みことばをお読みしても驚きも何も感じないようでは、自然とみことばをお読みしなくなるでしょう。 イエスさまのみことばを聴いても驚かない。何とも思わない。これではパリサイ人のような宗教指導者と同じです。神さまはいったい、世の中から尊敬されていても御前ではそのような宗教指導者と、無学でもイエスさまのみことばに権威を認めて驚いたガリラヤ人と、どちらを受け入れてくださったでしょうか? しかし私たちは、長年のクリスチャン生活の、いわば「慣れ」で、いつしかみことばを読むことにそれほどの驚きを覚えなくなってしまうようになるかもしれません。そんな私たちは、何に驚いていますでしょうか? みことばよりも肉的なもののほうに、より驚きを覚えているようなら、私たちの感覚はそれだけ肉的になっているということです。 みことばに対して驚きを回復してください、と、主に心からお祈りする必要があります。そして、聖書を開きましょう。主は必ず、みことばをお読みする私たちに、驚きを与えてくださり、みことばを愛する者へと私たちのことを成長させてくださいます。今日からこの祈りを始めましょう。 もうひとつの「権威」についても見てみましょう。23節から26節をお読みします。……汚れた霊につかれた人。そういう人もまた、みことばを聴く人々の群れの中にいた、というわけです。 彼はイエスさまの教え、神の権威に満ち満ちた教えに反応しました。ただしその反応は、ひれ伏す、ですとか、礼拝する、ですとか、いっしょうけんめい傾聴する、ではありません。まるでイエスさまの教えを妨害するかのように、大声で叫び出したのでした。 この人のことばを見ると、いろいろなことがわかります。まず、彼は「ナザレの人イエス」と呼びかけています。ナザレのイエスの名には力があります。悪霊をも震え上がらせる力です。そんな悪霊が、「私たちと何の関係があるのですか」と語ります。「私たち」と言っているので、この悪霊は集団でこの人にとりついていたことがわかります。悪霊どもはそろいもそろってイエスさまを恐れました。 その人は、というより、その人にとりついた悪霊どもは、「私たちと何の関係があるのですか」とイエスさまに向かって叫びます。それまでカペナウムは、イエスさまが来る前は、この悪霊どもは影響力を発揮していました。彼らの縄張りともいえましょう。しかし、そこに神の子なるイエスさまが来られたなら、もはや彼ら悪霊どもに働く余地はありません。 だが、悪霊どもはここで精一杯の抵抗をしました。「私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。」悪魔と悪霊の軍団は、私たち人間よりもよほど、イエスさまがどなたなのか知っています。イエスさまが王の王、主の主であるゆえに、そのきよいご臨在の前に震え上がる存在、それが絶対的な悪の存在である、サタンと悪霊どもの軍団です。それでもこの悪しき存在は、イエスさまのかかとにかみつくかのように抵抗します。群衆がみことばに耳を傾けることができないように、大声を出すなどして妨害します。 しかし、イエスさまの権威を前にして、悪霊どもが勝てるはずもありません。「黙れ。この人から出て行け」、このひとことで悪霊どもは去りました。 このできごとに彼らカペナウムの聴衆は驚きました。彼らはイエスさまのこの、みことばによる御業に対して、こう言いました。「これは何だ。権威ある新しい教えだ。」このことからわかるのは、神の権威に満ちたイエスさまの御業というものは、みことばと密接につながっている、ということです。 イエスさまの伝記物語は、子ども向きにいろいろなものが出ていますが、欠かせないのは、イエスさまがこのように多くの奇跡、しるしを行われた、ということでしょう。しかし、それらの奇跡やしるしは、本来何のために行われたのでしょうか? 父なる神さまと無関係にイエスさまがあがめられ、礼拝されるためではありません。しるしや奇跡が行われたのは、それをとおして、みことばの確かさが証しされるためでした。 実際に聖書をご覧になってください。イエスさまは実にいろいろな御業を行われましたが、みことばの教えと無関係に行われた御業など、ひとつも存在しません。すべての御業は、イエスさまの御口から出た御教えの正しいことを証ししています。 時に私たちは、奇跡のような体験をします。科学や常識では説明できないような体験をするものです。それは私たちにとってはもちろん、神さまの特別なあわれみによって与えられた恵みの御業です。その体験を通して私たちはますます神さまを信じるようになります。素晴らしいことです。 しかし、その奇跡的な体験をだれかに話すのはいいとして、それでもって神さま、イエスさまを信じてくださいと語ることにおいては、注意が必要です。私たちがもし、主のみことばと関係のないような、単なる超常現象だけを切り取って語ったとしても、そういうことはほかの宗教でも普通にありふれていることです。その現象を語ることそのもので、もしだれかがイエスさまを信じたとしても、その人がみことばによって養われることがないならば、その信仰はむなしいものです。 奇跡というものはありふれている、と語りましたが、特定の宗教を信じる人には、奇跡というものはよく起こるもののようです。そのような不思議な体験をしたことで、より一層その宗教を信じる根拠になったりします。私の友達にある宗教の信者がいましたが、その人はちょっと変わった体験をしたらしく、それが、その人の信仰をより一層強くしていたものでした。いわば「論より証拠」です。 しかし、私たちにとっては、「証拠」のない「論」など、信じるべきではありません。ヨハネの手紙第一4章1節から3節には、このようなみことばがあります。……超常現象、それは起こります。しかし、私たちが受け入れるべきは、その超常現象が主イエスさまを証しする、みことばに根差したものでなければなりません。超常現象とまで極端なことは言わなくても、ドラマチックな体験をしてイエスさまに出会う、主の御名をほめたたえる、それはもちろん「あり」なのですが、その個人的な体験がだれにでも同じような感動を呼び起こし、主の御名をほめたたえるようにさせるとはかぎりません。 私たちはだれかに伝道するにあたっては、最優先に語るべきは聖書に根差した真理です。自分の証しを語るのももちろん結構なのですが、それがみことばを関係がなかったり、関係が薄かったりするならば、それがどんなにドラマチックであったとしても、語るのは控えるべきでしょう。 私たち自身のことを考えてみましょう。私たちはさきほど、「イエスさまのみことばに驚く」ということを語りましたが、聖書のみことばをお読みすることは同時に「イエスさまの御業に驚く」ことでもあります。私たちの信仰生活は「驚き」の連続であるべきですが、さきほどの繰り返しのようになりますが、その「驚き」は何よりも、聖書をお読みするときに体験すべきです。イエスさまのみわざは、聖書をとおして体験するものです。実際の生活に奇跡が起こらないからと、私たちの信仰を働かせることをなおざりにしてはなりません。 しかし、こうも言えます。もし、聖書に書かれたイエスさまの御業に驚き、その御業がほんとうに行われたと信じるならば、私たちは今のこの生活のただ中にも、イエスさまがみわざを行なってくださると信じ、みわざを行なってくださいと祈り求めるべきではないでしょうか? これは、ご利益信仰ではありません。たとえば、家族や知り合いに病気の人がいるとして、その人の病気をいやしてくださいと祈ることは、イエスさまもそのお弟子たちをとおしても癒やしの御業が行われたことがこれでもかと聖書に登場する以上、祈っていいこと、いや、祈るべきことです。また、経済的に困っている人や団体のために、お金を与えてくださいと祈ることも、実際聖書を読むと、貧しいやもめの経済的な必要が満たされたという記録がある以上、みこころにかなっていることですから、祈るべきであり、祈らなければならないのです。 しかし、みことばの最大の成就は何でしょうか? 十字架と復活です。人はイエスさまの十字架によって罪と死から贖われ、復活によって永遠に罪と死に勝利します。この、復活して生きておられるイエスさまがともにおられることこそ、みことばの証しする最大の奇跡、証拠です。この、創造の初めから聖書において証しされてきた「論」がイエスさまの十字架と復活をもってそのとおりになったという「証拠」、それを信じ受け入れることで、人は救われ、永遠のいのちが与えられ、天の御国に入れられます。私たちが宣べ伝えるべき「証拠」があるとすれば、イエスさまのこの「十字架と復活」をおいてほかにありません。 今日のみことばを振り返りつつ、祈りましょう。 ①私は、イエスさまのみことばに驚いていただろうか? みことばに対してそれほど驚かなくなっているほど、霊的な感覚がこの世のものに覆われてしまってはいなかっただろうか? その程度の飢え渇きしか覚えていなかったから、みことばを読むこともいい加減になってはいなかっただろうか? 主よ! 悔い改めます。みことばに対する飢え渇きをください。そのように願いますか? ②私は、いつの間にか普段ドラマチックな体験をしていなかった分、聖書に書かれたイエスさまの御業が充分に信じられないでいなかっただろうか? それゆえ、みことばがそのとおりになると信じて、信仰をもって祈ることをしないで済ましていなかっただろうか? 主よ! 私が祈らなかったことを悔い改めます。悔い改めて、心に浮かぶこと、主の奇跡を必要としていることを覚えて、切に祈ります。特に、私の愛するあの人が、イエスさまの十字架と復活を信じ、イエスさまとともに歩む生き方をすることができますように。

「イエスさまの弟子とは」

聖書箇所;マルコの福音書1:16~20/メッセージ題目;「イエスさまの弟子とは」 今日の箇所にまいりたいと思います。イエスさまは何をしていらっしゃいましたでしょうか? 人をご自身の弟子とされました。イエスさまの弟子。今日の箇所は、これがキーワードです。イエスさまの弟子とはどのような存在なのか、ひとつひとつ説き起こしたいと思います。 第一に、イエスさまの弟子とは、イエスさまがお選びになった存在です。 イエスさまはガリラヤ湖のほとりを歩いていらっしゃいました。するとその湖上で、シモンとその兄弟のアンデレが、網を投げて漁をしていました。イエスさまは彼らに声をかけられました。「わたしについて来なさい。」 これだけをお読みしますと、イエスさまの呼びかけは唐突な印象を受けるかもしれません。しかし、ほかの福音書と合わせて読んでみますと、どうも、シモン、アンデレの兄弟とイエスさまは、これが初対面ではなかったようです。特に、ヨハネの福音書1章35節から42節に記録されているできごとを見ると、それがはっきりします。 アンデレはもともと、バプテスマのヨハネの弟子でした。しかし、彼らのところをイエスさまが歩いて行かれるのを見たヨハネが、アンデレたちに「見よ、神の子羊」と、イエスさまを指し示したところ、アンデレともうひとりの弟子は、イエスさまについていき、イエスさまの泊まっておられるところに行って、イエスさまと一緒にとどまりました。いろいろおことばも聴かせていただいたことでしょう。 そのアンデレは、自分はメシア、キリストに出会ったと、兄弟のシモンをイエスさまのもとに連れて行きました。そのときイエスさまはシモンを見つめておっしゃいました。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ)と呼ばれます。」 このことから、これがアンデレとペテロにとって、イエスさまのとの初対面がこのときだったことがわかるのですが、ともかく、アンデレは漁師でありながら、もともと、バプテスマのヨハネについていくだけの、弟子になる心構えのできていた人でした。イエスさまがお選びになったのは、そのような弟子の心を持つアンデレだったのです。 シモン・ペテロはどうでしょうか? あれほど熱心にバプテスマのヨハネについて行っていたアンデレと、何せ同じ舟の中でいつも夜通し漁をするような兄弟であり、仕事仲間です。アンデレとペテロの乗ったその舟は、有名な演歌のフレーズを借りれば「俺と兄貴の夢の揺り籠」といったところでしょう。まさしく「兄弟船」。 そのアンデレは、大好きな兄弟シモン・ペテロに、ふだんからバプテスマのヨハネのことを説いて聴かせていたはずです。いや、それだけでしょうか? そのヨハネの預言したとおりのお方、メシアがついに現れた! 聞いてよ、俺はメシアとご一緒して、いろいろお話ししたんだぜ! なあ、一緒に来いよ! アンデレは、シモンならば直接イエスさまに出会ったらきっと信じるはずだと、確信があったはずです。いや、それ以上に、何としても会わせたい! 大好きな兄弟だから! そんな思いがあったはずです。 聖書を読むと、アンデレはシモン・ペテロに比べると、ちょっと影が薄いという印象を受けないでしょうか? しかし、これはことばを換えれば、アンデレの存在がシモン・ペテロという偉大な使徒を生んだ、ということでもあります。アンデレがイエスさまの恵みを独り占めして、シモンをイエスさまに出会わせなかったら、あの偉大な使徒ペテロは生まれなかったわけです。 私の母教会、北本福音キリスト教会の日曜学校中高生科は、「アンデレ会」という名前がつけられていました。これは、連れてきた友達がペテロのようになる、という祈りが込められたネーミングです。私は中学2年から教会に集い、アンデレ会のメンバーになりました。最初はお祈りもできなかった私でしたが、今は、その世代で唯一の牧師になりました。私はペテロと比べるべくもない存在ですが、アンデレ会の存在が私を牧会者の道へと導いたのは確かなことです。そういう意味でもアンデレの役割をする人は必要です。 ペテロとアンデレの召命に関しては、ルカの福音書5章にきわめてドラマチックな描写が出てまいります。イエスさまはシモン・ペテロの舟に乗って、湖上から湖畔に群れなす群衆にメッセージを語られました。しかし、このとき、ペテロは夜通し漁をしても全く何も獲れなかったという、一晩の重労働が徒労に終わるという体験をしていました。 そんなペテロにイエスさまは、「深みに漕ぎ出して、網を下ろして魚を捕りなさい」とおっしゃいました。ふつうならば、とんでもない! となるでしょう。疲れています。魚が獲れないのはわかっています。しかしペテロはこのとき、「おことばですので、網を下ろしてみましょう」とお答えし、イエスさまのみことばに対する従順を、一晩中の重労働に優先させたのでした。そうして網を下ろすと……大漁、大漁、また大漁! イエスさまは、ヨハネに弟子入りするほどのアンデレの探求心、向学心、また兄弟愛を見抜いておられたことでしょう。そして、重労働による疲れよりもイエスさまへの従順の行動を優先させるようなペテロの純粋さ、行動力を見抜いておられたことでしょう。まさに、彼らは、弟子になるにふさわしい人だったわけです。 イエスさまは続いて、ヤコブとヨハネにも声をかけていらっしゃいます。やはりイエスさまは、彼らが弟子としてついていけるだけの素質があることを見抜いていらっしゃったわけでした。 さて、ここまで見てみますと、私たちはどう思いますでしょうか? いや、彼らはイエスさまに見いだされるだけの、弟子としての素質があった。私なんかはそんな人間じゃないです。そう思いますでしょうか? しかし、それはちがいます。私たちは聖書を開くと、「わたしについて来なさい」というイエスさまのみことばを目にします。これは、私たちひとりひとりに語っていらっしゃるおことばです。私たちからイエスさまに弟子入りを志願する前に、イエスさまの側から、私たちをのことを弟子に招いてくださるのです。 神の御子が私たちを弟子にしてくださるのです。なんと光栄なことでしょうか! このように、礼拝に集っている私たちはすでに、招いていただくにふさわしいと見込んでいただいています。私たちは自分の意志でこの礼拝に集っていると思ってはなりません。その意志を与え、礼拝させてくださっているのは、神さまです。そのようにして神さまは、イエスさまの弟子になるように、私たちのことを招いていてくださいます。 さきほど、素質のことを申しましたが、私たちはだれもが、イエスさまの弟子になれるだけの素質を持っています。なぜでしょうか? 私たちは神さまの似姿に造られているからです。神さまの似姿に造られているということは、私たちの創造主である神さまにますます似ていこう、そのためには神の御子イエスさまからしっかり訓練を受けよう、という意志が、私たちの中にある、ということです。もし、私たちが素直に、神さま、イエスさまの御前に出ていくならば、主は私たちのそのような、弟子としての素質を見抜き、ご自身の弟子に取ってくださいます。 ペテロやアンデレ、ヤコブやヨハネは、私たちと次元の違う人ではありません。平凡な漁師でしたが、イエスさまがご自身の弟子になれると見込んでくださった人です。私たちもイエスさまに、ご自身の弟子になれると見込んでいただいていると、信じていただきたいのです。イエスさまは私たちに声をかけてくださっています。「わたしについて来なさい。」 第二に、イエスさまの弟子とは、イエスさまに召されたとおりの働きをする存在です。 イエスさまはシモン・ペテロとアンデレをお招きになったとき、何とおっしゃいましたか?そうです、「人間をとる漁師にしてあげよう。」 ペテロはすでに、イエスさまからそれまでにも「あなたは人間をとる漁師になる」と言われていました。ペテロにはその意味が最初わからなかったかもしれません。しかし、イエスさまの教えを聴きに多くの人がついていっていた様子を見るに至り、そうか、このように、イエスさまと同じように働くことが、人間をとることなのか、と、わかっていったことでしょう。 先ほど挙げましたルカの福音書5章のみことばは、腕利きの漁師が創造主に完全に降伏したという内容でもあります。イエスさまに言われたとおりにすると、一匹も獲れなかったはずの魚が、網が破れそうになるほどに獲れた。まさしく、イエスさまが創造主であられたということですが、イエスさまはこの奇蹟をとおして、ペテロのことを、漁師からご自身の弟子、ひいては使徒へとお導きになったのでした。創造主であるわたしの言うとおりにしなさい。ペテロはその、イエスさまのお導きをいただいたのでした。 イエスさまは、魚を捕ることにいのちを懸けてきたペテロの生活にもっとも寄り添う形で、「あなたは人間をとる漁師になる」とおっしゃいました。ペテロにとってもっともふさわしい「天職」は、魚を捕る漁師ではなかったのでした。魚を獲れるようにも、獲れないようにもなさる神の御子、イエスさまにしたがって、人々を救いに導く働きをすること、これがペテロにとっての「天職」であったわけです。 それにしてもみなさん、「人間をとる漁師」という表現、味わい深いみことばだと思いませんか? イエスさまはシモン・ペテロとアンデレが、「漁師」という働きにいのちを懸けてきたことを否定していらっしゃいません。「あなたは漁師ではありません」ですとか、「あなたは漁師をしていてはいけません」とおっしゃったのではないのです。あなたは漁師です、ただし、あなたがこれから捕らえるのは、魚ではありません、人間です。これがイエスさまのみこころでした。 ペテロにとっては、漁師という仕事は、いのちを懸けて取り組んできた働きでした。イエスさまはそれを否定されていません。それは同時に、ペテロという人の刻んできた人生を否定せず、受け入れていらっしゃるということです。イエスさまはそれでも、魚を捕るために執拗に夜の湖に網を放つようなペテロの粘り強さが、人をとらえるためにいのちを懸ける献身につながると見込まれました。 イエスさまの弟子に招かれた人であるならば、イエスさまの望んでいらっしゃる働きを行うことで、神さまのご栄光をあらわすことが、最高の祝福につながります。私たちは何をすることが、イエスさまの願っている働きだと捉えていますでしょうか? さて、このように、イエスさまはご自分の弟子としてペテロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネを招かれました。彼らはどうしましたか? そこで第三のポイントです。第三に、イエスさまの弟子とは、イエスさまの招きに応える存在です。 ペテロとアンデレは網を打って漁をしていました。しかしイエスさまの「わたしについて来なさい」というおことばを聞くや否や、網を捨ててイエスさまについていきました。網はもちろん、漁師にとってはいのちの次に大事なもの、戦士にとっての刀のようなものです。仕事中にもかかわらず、彼らはいのちのような網を捨ててイエスさまについていったのです。 ヤコブとヨハネはどうでしょうか? 彼らは、舟の中で網を繕っていました。それは、これから漁に行くための準備をしていた、ということです。さあ、これから仕事だ、というタイミングで、イエスさまは彼らに声をおかけになったのでした。すると彼らは、父親のゼベダイと雇い人たちを舟に残して、イエスさまについて行きました。 あっという間の献身です。この聖書本文に「すぐに」ということばが繰り返し登場することにもご注目ください。ほんとうに「すぐに」だったのです。イエスさまというお方は、「すぐに」ついていくべきお方、それほどのお方なのです。ただ、この「すぐに」には、伏線がありました。 ルカの福音書5章をお読みになればわかりますが、ペテロとアンデレの大漁の奇蹟は、ヤコブとヨハネもすぐそばで目撃していました。そんな彼らが、イエスさまのそばに、あのペテロとアンデレが一緒にいるのを見て、あっ、ついに彼らはついていくことを決断したのか! そう思ったにちがいありません。するとイエスさまは自分たちにもおっしゃった。「わたしについて来なさい。」 イエスさまについて行くには、それにふさわしい「時」があります。このときが、彼ら4人にとってのそのふさわしい「時」であったのです。先週学んだみことばの中に「時は満ち」というイエスさまのおことばがありましたが、私たちもイエスさまの定められた「時」に従って生きていくとき、そこには最高の祝福があります。 イエスさまは、強制的に人を弟子とされるわけではありません。ついて行く側の決断が必要になります。その決断が可能になるのは、決断の向こうにある御国の祝福を確信できているからです。 ただし、その祝福をいただくためには、私たちはときに、後生大事にしているものを捨てる決断をする必要に迫られることもあります。彼らは仕事道具を捨てました。それは仕事を捨てたということであり、また、親を残していきました。 私たちはしかし、弟子になるにはこれほどまでに徹底したことをしなければならないのか、と、ひるみませんでしょうか? そんなことなど自分にはできない! 弟子じゃなくて結構! と、諦めたりしないでしょうか? しかし、間違えてはなりませんが、イエスさまはすべてのクリスチャンに、フルタイムの献身者、教職者になることがみこころだとおっしゃっているわけではありません。ただ言えることは、弟子になるには、それ相応の献身が必要である、ということです。 ただ、聖書をよく読めばわかりますが、ペテロはイエスさまの弟子になっていたときにはすでに結婚していた模様で、その妻の母親のところにイエスさまは行って、病気を癒していらっしゃいます。ヤコブとヨハネも、親子の縁を切った、というほどのものではなかったようで、母親がイエスさまに口出しする場面が出てきます。私たちはイエスさまに従う弟子になることを、この世の係累を断ち切ることのように、極端に捉えてはなりません。 それでも、私たちはイエスさまに従うために、自分が大事にしているものを「捨てる」ように、主から決断を迫られるときがあり、そのときどう決断するかによって弟子としての真価が問われるものです。 韓国にはオンヌリ教会という有名な教会があります。私の韓国留学時代、オンヌリ教会は、今もそうですが「ワーシップ&プレイズ」の働きが盛んでした。そのバンドのドラム担当の兄弟は日本人で、私はその方と同じ語学学校に通っていましたので、交わりのためにときどきお会いして食事をしたりしていました。この方のドラムは一級品で、私も聴いたことがありますが、とにかくすごい技術でした。 ところがある日、私がドラムのことを話題に出すと、彼は、今はドラムを叩いていない、とおっしゃるのでした。どうしてなのか聞いてみると、ドラムが自分にとっての偶像になってしまっていたから、とおっしゃるのです。 私はびっくりしました。その素敵なドラムで、神さまの栄光をあらわす賛美をするのではいけないのですか……それでも彼は、自分にとって偶像だからドラムは叩いていない、とおっしゃるのです。 しかし、あれから25年以上過ぎた今となっては、彼が自分のドラムを偶像と見なしたその気持ちがわかるようになりました。自分の肉的な技術に頼って、霊的でなくなったならば、ドラムを叩くたびに問われる思いになり、とても平安と言えなくなっていたことでしょう。 私たちはいろいろなものに囲まれて暮らしています。テレビやインターネット、噂話、趣味、食べ物や飲み物……そういったものが、純粋にイエスさまの弟子として歩んでいこうとする意志を阻むことは大いにあるものです。そんなとき、私たちは問われる思いになり、心の中から平安が失われることになりはしないでしょうか。 私たちは、イエスさまに従うための大きな決断はできないかもしれません。しかし、ほんの小さなことでも、イエスさまの弟子としてまっすぐな歩みをするために捨てて、その積み重ねでやがて、すべてを捨ててイエスさまに従う者となるようにしていただく、というお導きは、必ずいただくことができます。決断の積み重ねです。 ペテロたちにしても、復活のイエスさまに出会った後でも、あの捨てたはずの舟に戻り、漁をしにいくようなことをしています。捨てきれなかったのです。しかし、イエスさまはそのときにも現れてくださり、彼らに対して、イエスさまの弟子としての総仕上げをしてくださいました。 私たちも時に、すべてを捨てられない自分の姿を見てしまうかもしれません。しかし、信じていただきたいのです。主がひとたび私たちのことをご自身の弟子として召されたなら、私たちは必ず、すべてを捨てて主にお従いできるようになります。諦めないで、お導きに従ってまいりましょう。主が私たちの弟子の歩みを完成してくださるのです。私たちを弟子としてくださる、主のこのご主権に信頼し、主にお従いする私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。

「神の国に至る悔い改めと信仰」

聖書朗読;マルコの福音書1:14~15/メッセージ題目;「神の国に至る悔い改めと信仰」 先週水曜日の夜は驚きました。すわ、11年前の再来か! と思われた方も多いと思います。このようなときに私たちは、自分たちの暮らしているこの地上が有限な存在であることを思いませんでしょうか? 身の回りと世界に目を転じれば、コロナの流行、ウクライナの事態、恐ろしいことばかりです。テレビを視るのも憂鬱になります。しかし、私たちは、おっかない話に翻弄されてはなりません。私たちとともにいてくださるお方はどなたですか? イエスさまはどんなお方ですか? はい、それだけでも、私たちに恐れる理由はありません。聖歌総合版493番「やすけさは川のごとく」の4番に歌うとおりです。「よし天地(あめつち)崩れ去り ラッパの音(ね)とともに 御子イエス現るるとも などて恐るべしや すべて安し 御神ともにませば」これです。これが私たちの信仰です。 世の終わりは間違いなく、ただでさえ恐ろしいことが起きている現在よりも、はるかに恐ろしい事態が繰り広げられるでしょう。そのような中、さばき主として神の子イエスさまがこの世界に来られます。それは聖書の語るとおりです。しかし、私たちは恐れることはありません。神さまがともにおられるからです。私たちは平安なのです。 「バプテスト教理問答書」の問21を見てみましょう。 問21 神は全人類を罪と悲惨のうちに滅びるままに放置したか。 答 神は全くの好意によって、永遠よりある人々を永遠のいのちに選び、罪と悲惨の状態より救い出し、贖い主により救いの状態に入れるために恵みの契約を結んだ。 戦争は人類の罪の産物で、疫病や自然災害はそのような人間の罪によって自然全体に悲惨がもたらされた結果の産物です。これほどまでに世界が悲惨なのは、人間が罪を悔い改めないためです。しかし、そもそもだれに対して悔い改めればいいのか、その対象を知らないために、悔い改めようがありません。人間の側から、立ち帰るべきお方に出会うすべがないのです。それほど神さまは、私たち人間が罪を犯したその責任を、罪と悲惨の中に放置されるという形で取るようになさっています。 それなら、人間には一切、希望はないのでしょうか? いいえ、希望はあります。この問21の答えにあるとおりです。神さまは全くの恵みによって、救われるべき人を選び、その人と恵みの契約、「あなたを滅ぼさない」という契約を結ばれました。だれをとおしてその契約が結ばれたのでしょうか? 贖い主をとおしてです。贖い主とはだれでしょうか? そう、イエスさまです。 今日の箇所は短いですが、この短い箇所の中に、イエスさまのお働きは要約されています。そして、イエスさまと私たちとの関係もまた要約されています。今日の箇所をもう一度お読みしましょう。――ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。/「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」 まず、バプテスマのヨハネが捕らえられるというできごとが起こっています。ヘロデ王の不倫を告発したことで王の逆鱗に触れ、逮捕されたのでした。こうしてヨハネは、表舞台から姿を消しました。しかしそれは、イエスさまに人々を導く働きを全うした、ということでもありました。まさにヨハネが語ったとおり、イエスさまは盛んになって自分は衰えなければならないという、その告白のとおりとなったのでした。 イエスさまはガリラヤに赴かれました。マルコの福音書は、イエスさまの公の生涯をガリラヤでのお働きから描きはじめています。宗教社会の中心であったユダヤから見れば北の果ての辺境の地、疎外された地であるガリラヤ……しかし、イエスさまはまさしくその地において、お働きを展開されたのでした。 私たちがもし、自分は見捨てられている、疎外されていると感じるならば、忘れてはならないことがあります。イエスさまはそのような私たちの味方です。私たちのそばにいてくださいます。私たちに語りかけてくださいます。あとは私たちがイエスさまに近づき、イエスさまのみことばに耳を傾けることです。 今日のみことばは、イエスさまがこの地ガリラヤにてお働きを始められた、宣言ともいうべきおことばです。今日の箇所には3つのキーワードが登場します。神の国、悔い改め、福音です。順に見てみましょう。 まず、神の国です。イエスさまが来られて、神の国は近づいた、とお語りになりました。あなたがたガリラヤに住む神の民のところに、神の国は近づいたのだよ、ということです。 それまでもガリラヤの人たちにとっては、創造主なる神さまの律法に生きることは生活の一部となっていました。たしかに彼らは血筋でいえば、神の民の末裔でした。しかし彼らは、神の国を生きていたわけではありませんでした。 神の国は、神の御子イエスさまがもたらしてくださったものです。御子イエスさまが王として君臨され、王としてお治めになるのが神の国です。当時この地に住む人々は、ローマの圧政のもとにあり、ローマから解放してくれる神の民の王を待ち望んでいました。 しかし、イエスさまという神の国の王は、そのように目に見えるかたちでの国の君主ではありません。神の民ひとりひとりの心の中においてそれぞれを導く、そういう意味での王さまです。 その神の国が近づいた、とありますが、近づいた、ということばは、すでに実現している、という意味を含みます。神の国を来たらせるとき、イエスさまが神の国を実現してくださるときは、父なる神さまがすでに人間に実現してくださった。 近づいた、ならば、必ず来るのです。これはちょうど、駅のホームで電車を待つ気持ちに似ています。時刻どおりに電車が来ることがわかっていても、実際に電車が来るよりも早くホームに着き、待つならば、その待つ時間というものはとても長く感じるものです。私は中学から大学まで、電車に乗って通学しましたが、あのわずか数分の時間はとても長く、退屈に感じられたものでした。しかし、やがてホームにアナウンスが流れます。「間もなく、1番線に電車がまいります。危ないですから、白線の内側まで、下がってお待ちください。」……このアナウンスが流れると、それまで電車を待っていた数分間の苦痛をまったく忘れます。まだ電車に乗っていないにもかかわらずです。 ガリラヤの民は、数分間どころではありません。もう何百年も神の国の到来を待ち望んでいました。それが、イエスさまがおいでになったことで、まだイエスさまが何のみわざも行われる前から、そうです、究極的には、十字架による贖いを成し遂げられる前から、神の国はもうここに来ているというイエスさまの宣言を聞いたのでした。それだけでもどれほどの喜びを彼らは覚えたことでしょうか。 ただし、神さまは力ずく、腕ずくで私たち人間を支配されるお方ではありません。私たち人間の側が、イエスさまが王として支配されることを心から喜んで受け入れることが必要になります。羊飼いに従順に従う羊のように、師匠に従順に従う弟子のように、親に従順に従う子どものように、そのように、王であるイエスさまに従順に従う神の国の民として、私たちはお従いするのです。 そのときイエスさまは、私たちの心の中において私たちを統べ治め、また、私たち神の民の交わりのただ中において、私たちを統べ治めてくださいます。私たちはこの、神の民の国民であることを誇りとするものです。その誇りのゆえに、私たちはいついかなる時も、神の民として振る舞うことを喜びとします。その喜びを知るゆえに、私たちの側から喜んで、神の国の国民にしていただくよう、神さまにお近づきするのです。 しかし、このように近づいている神の国に入るには、条件があります。そこで第二のキーワードにまいります。「悔い改め」です。 「悔い改め」に関しては、先々週のバプテスマのヨハネについて学んだメッセージでも取り上げましたが、悔い改めとは、自分から神さまに方向転換することです。自分をご覧ください。罪だらけです。自分は神さまの似姿に創造されている、と教えられていても、この自分の姿には恥じ入りたくなります。 私たちは罪を犯します。陰口をたたきます。人を馬鹿にします。むさぼります。感情的になります。しなければならないこと、すなわち神と人とを愛することをしません。罪を犯すから罪人なのではありません。罪人だから罪を犯すのです。この罪人である自分の姿に目を留めるならば、きよい神さまの基準からはあまりにも遠く、自分は到底救われない、神さまの御前に達することなどできないと思うものです。 悔い改めとは、そのような罪にけがれた自分から、きよい神さまへと方向転換することです。私たちの見るべきはきたない自分ではありません。きよい神さまです。 とは言いましても、きよい神さまに自分の目を転じるには、まず自分自身の罪を認めることがどうしても必要となります。罪は醜いものです。できれば見たくないものです。そんな罪を犯している自分であることなど、認めたくはないでしょう。しかし、自分がそれほどの罪を犯す罪人であることを、どんなにいやでも認めることがなければ、その罪を犯すことを、そして、その罪を犯すほどの罪人であることを、「悔いる」ことなどできません。「悔い改め」において最初に必要なのは「悔いる」ことです。 しかし、自分の罪にいつまでもこだわってばかりいるようではどうでしょうか? 自分が過去犯してしまったことにいつまでもこだわり、くよくよする……それは「悔い改め」ではありません。「悔い」です。「改め」になっていないのです。「悔い改め」は、自分の罪を悔いることと、きよい神さまに向けて自分の視線を「改める」ことと一(ひと)セットです。 さて、悔い改めた結果、私たちの視線は自分から神さまへと向かうわけですが、そのとき私たちは、神さまがどのようにして私たちを受け入れてくださるか、そのことも理解している必要があります。 そこで3つ目のキーワード、それは「福音」です。イエスさまはおっしゃいました。「悔い改めて福音を信じなさい。」悔い改めてきよい神さまへと目を転じるうえで必要になることは、「福音を信じる」ことです。 福音とは何でしょうか? よき知らせです。それも、ただのラッキーなことではありません。 新しい時代が来たというよき知らせ、皇帝が即位したというよき知らせ、国が戦いに勝利したというよき知らせ、それが福音ということばの原語のギリシャ語「ユーアンゲリオン」ということばの持つ意味であると、先々週のメッセージで私たちは学びました。 新しい時代が来たというよき知らせ、イエスさまがこの地に来られ、罪の縄目に捕らえられていた人々を解放してくださる時代が来ました。皇帝が即位したというよき知らせ、イエスさまが王として永遠に君臨される時代が来ました。戦いに勝利したというよき知らせ、イエスさまが罪と死とサタンに勝利し、永遠のいのちを与えてくださるという時代が来ました。まことに、イエスさまという王さま、神の国の王さまが来られたということは、人間の世界を、人間の歴史を、根本から変えました。 そのような新しい時代に生きる民、イエスさまを王とする民にしていただくために必要なこと、それは消極的には悔い改めですが、積極的には福音を信じることです。私たちの宗教的な努力ではどんなに頑張っても、神さまに認めていただくことはできません。しかし父なる神さまは、そのような私たちがみもとに来ることができるように、道を備えてくださいました。それが「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」とおっしゃったお方、神の御子イエスさまという道です。 イエスさまを信じるだけ、それだけで人は救っていただけます。そこには何の努力もいりません。これほどのよき知らせはほかにありません。しかし、信じ方というものがあります。イエスさまが私の罪のために、十字架にかかってくださり死んでくださったお方、よみがえって罪と死に勝利してくださったお方と信じること、それが必要です。 さあ、悔い改めて福音を信じなさい、とおっしゃったイエスさまのみことば、それはどんな意味があるか、6つの問いから考えてみましょう。 まず、何をすることをイエスさまはお命じになったか、ですが、それは悔い改めることと福音を信じることです。それがどのようなことであるかは、すでに学んだとおりです。 そして、どのように、ですが、これもすでにお話ししましたとおり、イエスさまの十字架を信じることだけをする、です。しかしこれは、2つの意味があります。まず、まだイエスさまを信じ受け入れていない方の場合は、イエスさまの十字架を信じ受け入れることによって、心の中にイエスさまを招き入れることになります。そのように救い主としてイエスさまを心に招き入れることは、一度だけで大丈夫です。なぜならば、わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない、と、イエスさまご自身が語られていると、ヘブル人への手紙13章5節が語っているからです。 決して離れないならば、一度受け入れれば充分です。イエスさまを受け入れる祈りを何度もする必要はありません。人はそうして、神の国の民になります。 しかし、イエスさまの十字架を信じることは、クリスチャンの人生にとって一生もののことです。私たちはいかに神の子どもとされているとはいえ、まだ肉が生きていて罪を犯すものです。しかし私たちはその罪のゆえにさばかれてはなりません。私たちはどんな小さな罪でも、イエスさまの十字架の前に持っていく必要があります。日々のイエスさまとの交わりにおいて、私たちは罪を告白するのです。恥ずかしくはありません。イエスさまは私たちの犯した罪を、すべて知っておられます。 しかし、イエスさまは私たちが悔い改め、十字架によって罪が赦されていると信じるならば、その悔い改めのいけにえを喜んで受け入れてくださいます。十字架を信じることは求道者がクリスチャンになるためだけではなく、私たち主の子どもたちにとっても、いつでも必要なことです。それが神の国の民として生きる道です。 なぜ、信じなければならないのでしょうか? それは、これが神のみこころだからです。少し長いですが、ペテロの手紙第二3章3節から14節をお読みしましょう。 私は何も、この2022年はこのみことばにあるような時代になっているから信じるべきだ、と脅かしているわけではありません。このみことばは語られてすでに2000年が経とうとしていますが、2000年間有効でありつづけたみことばです。そういう意味では現代にかぎらず、イエスさまがこの地に来られ、十字架に死なれ、復活され、昇天されて以来、2000年にわたってずっと、この世界は世の終わりだったということができます。 ともかく、この世の有様が過ぎ去ろうとも、神さまは人間に対して新しい天と新しい地を用意してくださっている、そのことに希望を持っていただきたい、そして、そこに入るうえでの神さまのみこころは、この福音のみことばを信じるゆえに、悔い改めに進むことである、とおっしゃっているわけです。 では、だれが信じるのでしょうか? ここにいる私たちひとりひとりです。私たちひとりひとりが、神の国を受け継ぐために、悔い改めて福音を信じるのです。 いつ信じるのでしょうか? 今この瞬間からです。今までは充分な信仰をもつことができなかったかもしれません。しかし、神さまはそんな私たちに、チャンスを与えてくださっています。今からでも遅くありません。福音を信じるとは、福音を生きることです。神さまとひとつ、イエスさまとひとつの人生を生きることです。今から始められます。 どこで信じるのでしょうか? 今この場所からです。 そこでみなさまには、今この場で決心していただきたいのです。さきほどの第二ペテロ3章のみことばの、11節から14節をもう一度お読みします。 イエスさまの到来を待ち望んでいるならば、イエスさま、すぐにでも来てください、と、罪を避け、神さまに近づく生き方ができるはずです。それでもときに、とても神さまに見せられないような後ろめたい生き方をしてしまう、罪を犯してしまう、それが私たちです。しかし私たちは、イエスさまの十字架によって赦されています。私たちにあるものは、悔い改め、そして、かぎりない赦しと天の御国の福音を信じる信仰です。悔い改めて福音を信じる、神の民としての生き方を、今週も、そしてこれからも一生かけて全うする、その恵みを主が与えてくださいますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。 しばらく祈りましょう。だれが信じるのでしょうか? いつ信じるのでしょうか? どこで信じるのでしょうか?

「神の霊により荒野へ」

聖書箇所;マルコの福音書1:12~13(新約65ページ) メッセージ題目;「神の霊により荒野へ」 初めに、本日の礼拝から、「バプテスト教理問答書」の学びを、メッセージの導入の部分において行い、その学びをメッセージの導入としたいと思います。本日は20番目の問答です。このようにあります。/問20 人が堕落した状態の悲惨とは何か。/答 全人類は堕落によって神との交わりを失い、神の怒りと呪いのもとにあり、この世におけるすべての悲惨と死そのもの、さらに永遠の地獄の刑罰を受けるべきものとされている。 人が堕落したのは、自分の意志によることです。自分から望んで神さまから離れる道を選びました。そのようになった人間とは、もはやきよい神さまは交わりをお持ちになることはできませんでした。神さまはそのようにして、けがれて神と敵対するようになった罪ある人間に対しては、怒りと呪いを抱かれ、その神さまの怒りと呪いのもとにおかれているゆえに、あらゆる悲惨、そして死そのもの、永遠の地獄の刑罰に至るまで、人間は受けるようになってしまったのでした。 よく人は言います。神がおられるならば、なぜこのようにこの世界は不幸なのか? 戦争や飢餓や貧困があるのか? しかし、聖書がはっきり語っていることは、世界がこのようになってしまったのは、人間が神さまに背を向けたためである、ということです。人間は神さまに背を向けた責任を、このようにあらゆる不幸と悲惨を身に負うという形で取らなければなりません。私たち人間の不幸は、負うべくして負っているものなのです。 では、私たちの世界にはもはや、救いはないのでしょうか? いいえ。神の御子イエスさまは、そのような死の悲惨、地獄の不幸から私たち人間を救うため、この世界に来られ、私たち人間が受けるべき罪の罰を身代わりに、十字架の上で受けてくださいました。私たち人間はただ、イエスさまの十字架による罪の赦しを信じるだけで罪赦され、救っていただき、神の子どもとしていただけます。 そのように、人を救うためにこの世界に来られたイエスさま。時が来て、イエスさまが公の生涯を始められるにあたり、ヨハネという人物からバプテスマをお受けになったことについては、先週学んだとおりです。しかし、イエスさまの公生涯、世に対するデビューの前に、イエスさまには通られなければならない場所がありました。どこを通られたのでしょうか? 12節のみことばです。 ――それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。――そうです。イエスさまが行かれた場所は荒野でした。しかし、このみことばによれば、イエスさまはおひとりのご意思で荒野に行かれたわけではありませんでした。 そうです。「御霊は……追いやられた」とあります。御霊、神の霊によって、イエスさまは荒野に追いやられるようにして赴かれたのでした。その荒野にて、イエスさまはどのように過ごされたのでしょうか? 13節です。――イエスは四十日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。イエスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた。―― まず、荒野とはどのような場所でしょうか? 先週、バプテスマのヨハネについて学びましたが、ヨハネもまた荒野にいました。荒野は都会とちがって何もなく、シンプルにならざるをえない場所でした。しかしそれでも、ヨハネはいなごと野蜜を口にしていのちをつないでいました。イエスさまはといえば、マルコの福音書にはありませんが、まる40日40夜、断食をして過ごされました。荒野のような過酷な場所でそのように過ごされたのでした。こうなると、御父なる神さまに拠り頼む以外に生きるすべはありません。 40日、というのは、旧約聖書を読むと大事な数字であることがわかります。出エジプト記24章によれば、モーセが神の民のために神の教えを受けるべくシナイ山にとどまったのも40日でした。荒野の中の、さらに山の中、モーセはそこで主にまみえたのでした。また、列王記第一の19章、エリヤは主にまみえ、主ご自身から食べ物を授かって元気を回復してから、40日40夜荒野を歩き、神の山ホレブに着き、そこでまた主にまみえました。荒野における40日、それは主なる神さまにまみえるために、主が神の人に備えられた時であり、イエスさまもまたその時を荒野にて体験されたことを覚えておきたいと思います。 モーセとエリヤといえば、変貌の山にてイエスさまと、イエスさまのご最期について話し合っていた人物でもあったわけですが、彼らがそのような姿でイエスさまの御前に時を超えて現れたのは特別であり、そのことにおいても彼らは神の人でした。 しかし彼らは、単に神さまと親しい交わりを持つことができたゆえに特別だったのではありません。モーセはイスラエルの民をもろとも、神さまのみこころにしたがって出エジプトさせ、約束の地を目指して導いた神の人でした。エリヤも、偶像礼拝に腐敗したイスラエル全体にカルメル山の雨乞合戦をとおして神さまのご存在と御業を示し、彼らイスラエルをして「主こそ神です。主こそ神です」と言わせたほどの神の人でした。モーセにしてもエリヤにしても、神の民を神さまのご存在とみこころに導いた人でした。 イエスさまもまた、ご自身の民を神さまのご存在とみこころに導かれるお働きを、これからなさろうとしていらっしゃいました。それに先立って神の霊によって荒野に導かれ、そこで悪魔の試みをお受けになったのは、やはり、私たち神の民のためでした。イエスさまは神の民の初穂として、神の民を代表して荒野に導かれ、荒野にて悪魔の試みをお受けになったのでした。この「荒野」という場所において、神さまのみこころは少なくとも2つの形で現れています。 ひとつは、厳しいところを通らされる神さまのみこころ。神の霊はイエスさまを、荒野という厳しいところへと導きました。もうひとつは、厳しいところをお通りになる神の子イエスさまのみこころ。イエスさまは、荒野に行って40日40夜とどまれ、という、父なる神さまの厳しいみこころに従順になられました。 そうです。御父はイエスさまを厳しい環境に追いやられ、イエスさまはその厳しい環境の中に、御父への従順のゆえにとどまられました。その体験をイエスさまが人類の初穂、神の民の初穂としてされたということは、まずご自身が御父のきびしいみこころに従順になられることにより、神の民に対し、従順になることの意味、また、その厳しさの向こうにある祝福を、イエスさまがお示しになったということです。 先週も「荒野」という厳しい環境がむしろ祝福であることをお話しし、その繰り返しのようになりますが、人は荒野のような厳しい環境の中で神さまだけに拠り頼むようになる訓練をいただき、この世の過ぎ去るものから目を離し、神さまだけを見るようになる祝福をいただきます。この世はあらゆる情報にあふれています。悲しいニュース、人を快楽に走らせる情報、どうでもいいけれどもなぜか心惹かれてしまう情報……しかし、大事なもの、ほんとうに必要なものはひとつだけで、それは神さまとの交わりです。 神さまがほんとうに愛してくださっている人は、神さまが親密な交わりを持ってくださるために、あえて荒野のような環境に置かれることがあるものです。病気ですとか、事故ですとか、家族の問題ですとか、仕事の問題ですとか、経済的な問題ですとか……そういうことを私たちはつい、不幸のひとことで片づけてしまってはいないでしょうか? しかし、あえて申しますが、そのような、一般的には「不幸」と言えるできごとの中で神さまを尋ね求めるように導かれ、そこで神さまの深い慰め、また癒やしを体験できるならば、それはかえって祝福といえます。そうです、いわば「荒野の祝福」を私たちは体験します。この祝福については、のちほど詳しくお話しします。 イエスさまがいらっしゃった荒野には、3種類の存在がありました。悪魔、野の獣、御使いでした。まず、悪魔とはどのような存在でしょうか? イエスさまを試みる存在でした。悪魔は大胆不敵にも、神の子を試み、誘惑して、父なる神さまへの不従順に導き、人類を救ってくださる神さまのみこころを打ち壊そうとしたのでした。 今日の箇所にはありませんが、マタイの福音書とルカの福音書によれば、悪魔はイエスさまに対し、3つの試みを仕掛けています。まず、40日40夜の断食で空腹を覚えられたイエスさまに、「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい」と語りかけました。イエスさまはこの誘惑を退けました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」というみことばをお示しになりました。 イエスさまが悪魔の誘惑を退けられたのは、もし、悪魔の言うことを聞いたならば、それは神さまに対する不従順であり、悪魔に対する従順であるからです。それは絶対にしてはならないことです。たとえ肉体が空腹を覚えて、食べ物を必要としていたとしても、悪魔の言うことを聞いてはなりませんでした。 実際、イエスさまにとってのほんとうの食べ物は、「神のみことばをお聞きし、お従いする」ということでした。みことばをお聞きし、お従いすることをしなければ、飢え死にしてしまう、というほどのものです。イエスさまは、ほんのわずかな安逸のために悪魔のことばを聞くのではなく、厳しさの中でいのちを保つために神のみことばを聞くことが人に必要なことを示してくださいました。 また、悪魔はイエスさまを神殿の頂に立たせ、そこから飛び降りてみなさい、と、詩篇91篇のみことばを引用し、御使いたちがあなたを守るであろう、と誘惑しました。今度はみことばを用いての誘惑です。サタンに従っているようでも、みことばのとおりに振る舞っているではないか、正しいことをしている……しかしイエスさまは、「あなたの神である主を試みてはならない」というみことばを引用して退けられました。 いかにみことばが語っているとはいえ、イエスさまは肉体を持った人であり、人がそのような高いところから飛び降りたら死んでしまいます。そのようにして死んでしまったら、イエスさまが十字架で死なれるというみこころは永遠に成し遂げられず、サタンは勝利します。しかし、サタンはあくまでそれはみこころであるかのように偽装して、大胆不敵にもみことばさえ用いました。どうだ、神の口から出るひとつひとつのことばによって人が生きるというなら、このみことばに従うことでもあなたは生きるはずだ! みことばへの従順がいのちそのものであるイエスさまは、しかし負けてはおられませんでした。問題はみことばを文字どおりに行うことではなく、どのような精神で守り行うかにあることを、イエスさまはお示しになりました。サタンよ、おまえのみことばの用い方は、神を試みるという恐ろしい罪を犯していることだ。それをほかならぬ神のみことばがとがめている。ただちにやめよ。このようにイエスさまがお用いになったみことばは、神に示された、などと言って、教会の中には何の平安もないのに無茶な行動に出てしまうようなクリスチャンに対する戒めのことばともなっています。 そして悪魔は、世界中の国々とその栄華とをイエスさまに見せて、自分に対してひれ伏すならばこれらすべてを上げよう、と迫ってきました。これはどれほどの誘惑だったことでしょうか? イエスさまがその国々の王としてあがめられたいと思われたからではありません。 そのような栄華とは、サタンの支配下にあるかぎり、すべてはむなしく、また罪深いものです。世界中の人々はその派手さの中でサタンの奴隷として搾取され、傷つけられ、そして永遠に滅びていきます。サタンは、そのような地獄が必ず背後にあるこの世の栄華をあなたに渡す条件はただ一つ、俺さまを拝むことだ、と、イエスさまを誘惑しました。 しかし、これもイエスさまは退けられました。みことばは語っている、「あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい」。間違ってもサタンを礼拝してはならなかったのでした。そして、イエスさまにとって主を礼拝し、主に仕えることを実践することとは、十字架におかかりになり、ご自身のいのちをもって人をサタンの束縛から贖い出すことでした。十字架こそが人々をサタンの支配から救い出すことであって、間違っても、サタンにひれ伏して救ってもらうことではなかったのでした。 私たち人間も、この世の中をよくするためにあれこれ考え、行動します。その働きをする人の中にはクリスチャンも多く含まれます。もちろん、そのようにして世の中を良くしていこうとする人々の存在をとおして、神さまはこの世界に平和と秩序を保っておられ、それは素晴らしいことにはちがいないのですが、私たちクリスチャンは少なくとも、十字架にかかられたイエス・キリストのほかに救いはないことをどこまでも信じ、イエスさまによって平和を実現することをしていかなければなりません。 この世はあまりにも、イエスさま以外の道をとおして平和を実現しようとしていて、クリスチャンさえもその流れに迎合しようとしています。イエスさま以外にも救いがあると主張して他の宗教と妥協するような宗教統一の運動など、その最たるものでしょう。私たちは人から何と言われようと、イエスさま以外に救いはないことを声高らかに叫ばなければなりません。 このように、悪魔の試みを受けられ、その試みをことごとくみことばによって退けられ、サタンではなく父なる神さまに従順であられたイエスさまのお姿は、私たちもそのように生きるように模範を示されたお姿であり、私たちもそのように生きることができるという希望を示されたお姿です。 神さまはあえて荒野のような環境に人を導かれ、悪魔の試みにさらされることもありますが、私たちは最後には勝つ道もまた同時に与えられています。私たちがみことばを普段からお読みし、サタンの攻撃が臨むようないざというときにみことばをもって対処するならば、私たちはサタンに勝ちます。また、私たちがサタンではなく、神さまに最後まで従順であるとき、神さまは私たちに勝利を与えてくださいます。 このように荒野とは、サタンの待ち受けている環境ではありますが、それだけではありません。荒野とは野の獣のいる場所でもあります。 野の獣、それはおとなしい獣に襲いかかり、噛み砕くような猛獣も含まれていて、そのような猛獣がたむろするような場所ならば、だれが行きたいと思うでしょうか? しかし、神の霊はイエスさまをそのような、猛獣のたむろする場へと導かれたのでした。 しかし、創造主なるイエスさまに襲いかかる猛獣はいませんでした。イエスさまはかえって、このような野の獣とともにおられながら、そのような獣が襲いかからず、平和に過ごすことを実現されました。それは、イザヤ書11章に書かれた、メシアの来臨によって世界にはどんなことが起こるかという預言の成就と言えました。イザヤ書11章の6節から10節をお読みします。 ――狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜がともにいて、小さな子どもがこれを追って行く。/雌牛と熊は草をはみ、その子たちはともに伏し、獅子も牛のように藁を食う。/乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子は、まむしの巣に手を伸ばす。/わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼさない。【主】を知ることが、海をおおう水のように地に満ちるからである。/その日になると、エッサイの根はもろもろの民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のとどまるところは栄光に輝く。 草食動物と肉食動物の関係をひとことでまとめると、それは「弱肉強食」です。草食動物が肉食動物に襲われて食われ、血を流して死にます。それは平和の失われた状態であり、私たちはいかにそれを当然のこととして受け止めようとしても、やはりそれは残酷なさまであり、いざ目にしたら目を背けたくなるでしょう。そのような、動物の世界に展開する「弱肉強食」、その姿はそっくりそのまま、人間に当てはまります。強い者が偉い、弱い者は死ね……それが、アダムの堕落以来、人間の世界で繰り返されてきたことでした。人間はその意味で獣のようです。 しかし、イエスさまがともにおられることを認めるならば、人は弱肉強食の獣ではなく、平和をつくり出す「人」となります。人はお互いを見るならばお互いの立場のちがいや粗が見えてならず、受け入れられなくなったり争ったりするでしょう。しかし、そのような罪を同じイエスさまが十字架によって赦してくださったと信じるならばどうでしょうか? 私たちはだれが強いとか、だれが偉いと争ったりするのをやめて、ただ、イエスさまにだけともに栄光をお帰しするようになり、ひとつになれるのではないでしょうか? こうして、イエスさまによって平和が実現するのです。 私たちの生きる世界は荒野のように、弱肉強食の人間関係にさらされる場であり、神の霊はあえて私たちをそのような厳しさの中に送っていらっしゃいます。 しかし、私たちはあきらめてはなりません。この世界は獣ばかりではありません。ちゃんと、イエスさまと和解させられて平和を保っている「人間」がいる場所です。私たちはそのような「人間」とともにイエスさまのもとにいることによって、荒野の中でも平安を体験します。この「教会」こそは、まさに荒野の中でイエスさまを体験する場所です。お互いの顔を見ましょう。もう私たちはイエスさまによって、獣ではないのです。私たちの交わりをとおして、私たちを贖い、平和を与えてくださったイエスさまをあがめましょう。 そして、荒野のイエスさまとともに、だれがいたのでしょうか? 御使いがいました。御使いとはどのような存在でしょうか? ヘブル人への手紙1章14節の定義に従うと次のとおりです。――御使いはみな、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになる人々に仕えるために遣わされているのではありませんか。―― 御使いはまず、救いそのものでいらっしゃるイエスさまに仕えました。どのように仕えたかは具体的に書いていないので、聖書のほかの箇所から類推するのみですが、イエスさまが十字架を前にして血の汗を流してお祈りされたゲツセマネの園において、御使いが来てイエスさまを力づけたとありますので、ここでも、40日の断食の祈りを完遂して御父への従順を成し遂げられるように力づけた、という形でお仕えしたと見ることができるでしょう。 私たちもまた、救いを受け継ぐことになる者として、その救いが人生において完成するように、主が万軍の御使いを送ってくださっている存在です。私たちはときに、主にお従いすることにおいて孤独な戦いを強いられていると思うことはないでしょうか? しかし、そうではないのです。 私たちが厳しい戦い、荒野のような環境に置かれているとき、御使いは神さまの命(めい)を受けて、私たちを励ましてくれています。私たちが致命的な不従順を犯すことがないように、御使いはあらゆる道で私たちが石に打ち当たらないように守ってくれています。神さまはそのように御使いに命じて、私たちを守ってくださっています。なぜでしょうか? 私たちが神さまの大事な子どもだからです。 私たちは強くありません。神さまが送り出されるこの環境が、ほんとうに耐えがたいと思えることもあるものです。しかし、私たちが打ち倒されないでいるのは、このような荒野の生活の中においても、神さまご自身が私たちのことを心配してくださり、御使いに命じて私たちのことを守っていてくださるからです。 私たちは決して孤独ではありません。このような守りをつねに与えてくださる神さまに感謝し、神さまの御名をほめたたえましょう。 私たちが生きているこの人生は、決して楽ではないと感じていらっしゃることと思います。それは、私たちの人生が荒野だからです。 荒野にはサタンが待ち構えていますし、野の獣のような怖ろしい人間もたむろしています。しかし、忘れてはならないのは、神さまが主権をもってあえてそのような環境に私たちのことを送り込まれた、ということです。イエスさまがまず、そのような荒野でサタンにみことばをもって勝利されたように、私たちもみことばによってサタンに勝利します。 そして、イエスさまの周りには、野の獣も襲いかからないような平和がありました。イエス・キリストこそ平和です。私たちもイエスさまによって、弱肉強食を当然と思うような獣から、平和をつくり出す幸いな存在、人間、神のかたちにふさわしいものにしていただきます。イエスさまにあって平和を保ちましょう。そして、イエスさまによって平和をつくりましょう。私たちはだれと平和をつくりますか? さらに、この荒野のような人生においても、神さまは御使いを送って、私たちが救いを受ける者としてふさわしい人生を送れるよう、私たちのことを守ってくださいます。私たちのことを力づけ、励ましてくださいます。私たちは人生に絶望していないでしょうか? 逃げ出したい、と思ってはいないでしょうか? 今このときこそ、荒野の中でも瞳のように私たちを守ってくださる神さまに感謝し、ますます、神さまの守りを求めてまいりましょう。私たちは特に、どの領域に神さまの守りを必要としていますでしょうか? しばらくお祈りしましょう。 私たちはサタンに負けている、と思っていますか? サタンに勝利したイエスさまを思いましょう。イエスさまの勝利、十字架と復活の勝利によって、私たちもサタンに勝利していることを覚え、神さまとイエスさまに感謝しましょう。 私たちの荒野の生活において、なお苦しめるような存在、それが、獣のような人間です。しかし、私たち教会の兄弟姉妹が、獣の状態からイエスさまによって平和を与えていただき、神と和解させていただいたゆえに人どうしが和解させられていて、こうしてお互いに平和が保たれていることに感謝しましょう。そして、その平和を必要としている人の顔と名前がもしも心に浮かぶならば、その人にキリストの平和が与えられ、その人とイエスさまによって和解できるように祈りましょう。 最後に、神さまご自身が荒野のような私たちの人生において、たえず守ってくださり、ご自身にのみ拠り頼むように私たちのことを導いてくださっていることを覚え、感謝しましょう。私たちは特に、どんな領域で神さまの守りをいただいているか、具体的に挙げて、感謝の祈りをおささげしましょう。

「イエスさまへの導き手」

聖書本文;マルコの福音書1:1~11/メッセージ題目;「イエスさまへの導き手」/ 今日から私たちは、マルコの福音書の学びを始めます。著者のマルコは「使徒の働き」によれば、一度パウロとバルナバの率いる伝道チームから離れて故郷のエルサレムに帰ってしまったというしくじりをした人でした。そのマルコを次の伝道旅行に連れて行くかどうかをめぐって、彼は連れて行くべきではないと主張したパウロと、彼にチャンスを与えようとしたバルナバの間に激しい対立が起こり、結局、パウロのチームとバルナバのチームに分かれてしまいました。いわば分裂をもたらした原因をつくった人でもあったのでした。 しかし彼は、バルナバのもとでしっかり育てられ、のちにはパウロと和解し、パウロの役に立つ働き人となりました。そしてこのようにして、四福音書の中でも最初に書かれた福音書と言われている、マルコの福音書をものしたのでした。マルコの福音書は異邦人に読まれることに主眼が置かれていて、苦難を受けるしもべとしての神の子なるイエス・キリストを強調しています。 以上のことを踏まえたうえで、それでは本文へと入っていきましょう。1節のみことばです。――神の子、イエス・キリストの福音のはじめ。――このみことばは大事です。この「はじめ」ということばは、七十人訳という、イエスさまの時代のギリシャ語聖書、その創世記1章1節の「はじめに神が天と地を創造された」の「はじめに」と同じことばです。天地万物の存在を神さまが始めさせられたのと同じ次元で、イエスさまの福音というものが語られています。 マルコがこれから伝えようとしているのは、単なる人間イエスではありません。「神の子、イエス・キリスト」、「神は救い」という意味の「イエス」と名づけられたこのお方が、「キリスト」すなわち「油注がれた者」、このお方が「神の子」であるということです。イエスさまは神さま、王さま、救い主……この「イエス・キリスト」という名はあまりに偉大で、十戒のみことばのように「みだりに口にすべき御名ではない」ことがわかります。しかし、このお方の御名によってこそ、人は救われる、私たちも救われるのです。この名のほかに、天下に救いはありません。 このイエス・キリストの「福音」……福音とは何でしょうか? ギリシャ語で「ユーアンゲリオン」これは、新しい時代が登場した、皇帝が即位した、戦争に勝利した……そういった「よき知らせ」が本来の意味です。ウクライナとロシアの戦争が終結したとしたら、福音でしょう。コロナが終息し、人類がコロナとの戦争に勝利したとしたら、福音でしょう。そのような「よき知らせ」、イエス・キリストというお方が来られたことは、そのような「よき知らせ」に匹敵することであるというのです。 まことに、福音、よき知らせは、イエス・キリストから始まっています。イエス・キリストというお方は、その「よき知らせ」、福音そのものでいらっしゃり、その「はじめ」はこのようであった、という、天地創造のみわざに匹敵する救いのみわざの記述が、今から始まります。これは大事です。私たちはしっかり見届けましょう。 2節、3節のみことばにまいります。――預言者イザヤの書にこのように書かれている。「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。/荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」――預言者イザヤの書、とありますが、厳密に言えばこの箇所はいくつかの聖書箇所から引用されています。 「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす」、これは、出エジプト記23章20節のみことば、「彼はあなたの道を備える」、これは、マラキ書3章1節のみことばです。それ以降の3節のみことばがイザヤ書のみことば、イザヤ書40章3節ですが、あえて「預言者イザヤの書」と要約されているのは、この人物の出現は預言者イザヤの預言が成就したことであるのと同時に、旧約聖書そのものの預言のみことばが成就したことであることを示しています。 わたし、すなわち神さまが、あなた、すなわち神の子キリストの前に、道を備える使いを遣わされる、この使いは、荒野で叫ぶ者の声である、何と叫んでいるのかというと、「主の道を用意せよ、主の通られる道をまっすぐにせよ」……。 神の子なる救い主を迎えることにおいて、人は整った道にお迎えする必要がありました。あなたがたの人格は救い主を迎えるにふさわしく充分に整っていなさい、これが、神さまが人に対して発せられたメッセージです。この神の使いの人物は、まさにこのような備えを人々にさせるために、神さまがお送りになった人であったわけです。この人物、ヨハネは「さきがけ」とも言うべき人物です。 3節の終わりの部分から5節までをお読みします。――そのとおりに、/バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。/ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。――この旧約聖書のみことばどおりに神さまが送ってくださった人、救い主が来られるための道を人々に整えさせる人は、バプテスマのヨハネだったというのです。彼のしたことは、バプテスマを授けることでした。 当教会はバプテスト教会であり、水に沈んでいただくことで神に救われたことを公に告白します。私は教会に初めて出席した日、それは1987年の12月のことだったと記憶しますが、その日教会ではバプテスマが執り行われました。バプテスト教会を標榜していたわけではないのですが、浸礼によるバプテスマで執り行われました。 私はそれまで、滴礼による洗礼というものは知っていても、浸礼によるバプテスマというものは知らず、したがって初めて見たわけでしたが、人がガッと水に沈められ、そして引き上げられる様子に、なかば感動のようなものを覚えました。しかしその意味を知ったのはそれからだいぶ経ってからで、これはきたない身を清める儀式ではなく、悔い改めて古い人が死に、新しい人に生まれ変わらせていただいたことを公にすることであると知ったのでした。 そうです。ヨハネが説き、実践したバプテスマは、「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」でした。人々はそのとき、律法の細かい規則によって、自分の罪をいやでも認めざるを得ない状態にありました。 しかし、ヨハネはそんな彼らに、その罪を悔い改めるなら赦されることを説き、そのしるしとして彼らにバプテスマを授けました。悔い改めとは、自分から神さまに方向転換することです。自分は死に、神さまのいのちに生きる、それを象徴するのが悔い改めのバプテスマです。 律法を守り行うという神の基準に達しないこの罪人は水に葬られ、水から引き上げられて神さまによって新しいいのちに生かされる、この、わかりやすくも奥が深い「バプテスマ」というものを荒野を流れるヨルダン川にて行い、たちまちヨハネのもとに人々が押し寄せました。神さまはヨハネにバプテスマを執り行わせることによって、人々に必要なものは悔い改めと、新しく生まれることであることを教えられ、このようにして人々を救い主の到来に備えさせられたのでした。 そんなヨハネのライフスタイルもみことばは語っています。6節です。――ヨハネはらくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。――ヨハネのこの格好は、第二列王記1章8節の預言者エリヤの服装そのものです。もはや王に何の期待も持てなかった時代のイスラエルに燦然と輝く預言者エリヤ……エリヤはどこまでも、人々を神さまのもとに導く導き手でした。この格好で過ごしたヨハネは、まさしくエリヤの再来でした。 ヨハネは騒がしい都会を避けて、荒野に住みました。便利な生活をしていると、なんでわざわざ荒野に住むのか、と私たちは思いませんでしょうか? たしかに荒野は厳しい環境です。しかし同時に、荒野は、出エジプトを果たしたイスラエルの民が、約束の地に入るという希望をいだいて神からの訓練を受けた場所でもあります。ヨハネは荒野において、悔い改めの先にある救い主との出会い、それゆえに神さまが与えてくださる天国の恵みへと、人々を導いていたのでした。 しかし、荒野はやはり厳しい場所であることに変わりはありません。ヨハネが口にしたものはいなごと野蜜、最低限の栄養が取れれば充分というような、きわめてシンプルな食生活です。これは、イスラエルの食べたものがマナだったことをほうふつとさせます。 しかし、マナは神さまの恵みであり、マナがなければ飢えるか、栄養失調になるかして死んでしまいます。同じように、いなごと野蜜も神さまが特別に荒野に備えてくださった食べ物です。ヨハネは少なくとも、この何の変哲もない食べ物を感謝していただき、荒野での主の働きの糧としていたのでした。 私たちはときに、生きることに厳しさを覚えるでしょうが、それでも実際の生活を見てみるならば、暖衣飽食、ヨハネのことを思うと、あまりにもぜいたくな生活をしています。せめて私たちは、感謝することを欠かしてはならないのではないでしょうか。ヨハネが最低限の食べ物で養われたことを思うならば、私たちはあまりにも、感謝することでいっぱいでしょう。 また、ヨハネのことを思えば、いらないものも結構ありはしないでしょうか? 私たちはテレビや携帯電話にどれほど向かっているでしょうか? いや、まったく不必要とはいいませんが、そこに映し出される情報は、果たして私たちの生活にとって「どうしてもなければならない」ほど大事なものでしょうか? ヨハネのシンプルさを、私たちはどこかで見習えはしないでしょうか? しかし、ヨハネがこのようにシンプルな生活をしながら荒野にいたのには、理由がありました。見てみましょう。7節と8節です。――ヨハネはこう宣べ伝えた。「私よりも力のある方が私の後に来られます。私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません。/私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」 ヨハネがしていたバプテスマを授けるという働きは、たしかに大事なものでしたが、それは水によるという形式的なものにすぎないことをヨハネは自覚し、また、そのように人々に教えました。ほんとうのバプテスマは、人を新しいいのち、永遠のいのちに新生させてくださる聖霊によるものであり、このまことのバプテスマをあなたがたに授けてくださるお方が、私のあとからおいでになる。人々は私のことをすぐれた預言者のように思っているかもしれないが、その方は王なるお方であり、私はその方の足もとにひざまずいて、靴の紐を解いてさしあげる値打ちさえない、それほどすばらしいお方が、私のあとに来られるのである。さあ、この方を見なさい。 ヨハネが荒野にいたのはまさに、あとから来られる偉大なお方を人々に示すためでした。私たちの生きる目的も、このように、王の王なる救い主、神の子キリストを人々に指し示すためです。 私たちは自分のことをどう思いますでしょうか? ヨハネに比べればはるかに小物と思うかもしれませんが、何とイエスさまご自身が、天で最も小さなものでもバプテスマのヨハネより偉大です、と語っていらっしゃいます。私たちがもし、イエスさまを信じて永遠のいのちにあずかっているならば、このバプテスマのヨハネよりも偉大な存在としていただいているのです。しかし、そんな私たちの偉大さは、どのようにして現れるのでしょうか? まさに、神さまのご栄光、イエスさまのご栄光を、人々の前に現すことによってです。私たちの行いが、キリストを指し示すようにすることが必要です。 私たちの生きるこの地は、決して楽な場所ではないでしょう。なぜならば、神さまがあえてこのような厳しい場所、荒野のような場所に、私たちを送られたからです。私たちは茨城県央のこの荒野のような場所で、キリストを指し示す生き方をするように召されています。その生き方をするためにも、私たちはいなごと野蜜のようなシンプルなもので養われたヨハネの生き方にならう必要があります。 私たちがキリストを指し示す生き方をする上では、多くの物は必要ありません。イエスさまの弟子が宣教に出ていくとき、多くの物はいらないとイエスさまが送り出されたように、私たちもイエスさまを伝えるにあたっては、多くの物は必要としません。金銀はなくていいのです。私たちには全能にして偉大なるお方、ナザレのイエスの御名があります。この御名によって祈るとき、神さまはこの祈りを聴いてくださり、人々を癒し、立ち上がらせ、私たちをとおして神の国を拡大してくださるのです。 しかし、私たちはこのお方、イエスさまの御前に、まことの王であるゆえに日々ひれ伏しているでしょうか? イエスさまは私たちのことを友と呼んでくださいましたが、私たちの側からイエスさまを友とお呼びするなど、とんでもないことです。イエスさまはやはり、王さまなのです。私はイエスさまにお近づきする権限もない。そんな私たちだけど、イエスさまのほうから私たちを呼んでくださったわけです。これは恵みです。この恵みにただうち震えるようにして、イエスさまの御前に日々進み出ることが、私たちに必要です。この偉大なるお方を、その御力を、私たちは普段の生活において、力を尽くして宣べ伝えるのです。 さて、そのようにヨハネがイエスさまを宣べ伝えていたとき、イエスさまがヨハネのもとに来られました。そして、どうなったでしょうか? 9節から11節のみことばです。――そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。/イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。/すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」―― マルコの福音書はこのように、イエスさまがバプテスマをヨハネからお受けになったという事実を淡々と記しているだけですが、マタイの福音書では、最初ヨハネはイエスさまにバプテスマをお授けすることを拒みました。自分こそがイエスさまからバプテスマを受けるべきなのに、イエスさまにバプテスマをお授けするとは畏れ多い、とんでもない、というわけです。しかしイエスさまは、「正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしい」とおっしゃって、ヨハネからバプテスマをお受けになりました。 私たちはイエスさまが神の子であると知っています。そんな私たちからしても、イエスさまがヨハネからバプテスマをお受けになったことは、不思議だと思えないでしょうか? しかし、これには意味がありました。 まず、「正しいこと」とは、父なる神さまに対する従順を意味し、ヨハネがイエスさまの到来に備えたことを受けて、イエスさまが救い主としての使命を果たされることを意味します。その「正しいこと」には、ヨハネからイエスさまがバプテスマをお受けになることも含まれていました。 イエスさまがバプテスマをお受けになることはなぜ必要だったのでしょうか? それは、イエスさまがご自分の民をその罪からお救いになるためには、イエスさまご自身がその民の代表となられる必要があり、ヨハネからバプテスマをお受けになることによって、そのことが実現したのでした。イエスさまはヨハネからバプテスマをお受けになることによって、神の民イスラエルの代表としての立場が公になられました。 そのバプテスマにおいてイエスさまが水の中から上がられると、天が裂けて御霊が鳩のようにイエスさまの上に下られました。そして天から声が響きました。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」このように、イエスさまが救い主、神の民の王としての公の生涯に踏み出されるにあたっては、御父と御霊のお働きも同時にありました。イエスさまは人間イエスの単独の働きでメシア、救い主として歩まれたのではなく、父、御子、御霊の三位一体の存在としてこの地上で救い主として歩まれたことが、この箇所からもわかります。 さて、このように公生涯にイエスさまが出ていかれるにあたっても、神さまはバプテスマのヨハネをお用いになりました。このことにおいてヨハネは、イエスさまが救い主として公になられるうえでの、神の器でした。神さまはこのように、イエスさまのみわざのために人をお選びになり、お用いになります。 私たちもこのように、イエスさまが救い主、きよめ主、いやし主、王の王、神の御子としてこの地上で歩まれることにおいても、用いていただく存在です。私たちはこのように、神さまに用いていただき、イエスさまを顕すことにおいてこそ意味があります。ヨハネがこのように、徹底して神さまに用いていただいたように、そう、神さまがイエスさまを救い主としてこの世に送り出されるにあたってヨハネをお用いになったように、私たちも、救い主なるキリストをこの世に現すうえで、神さまがお選びになり、お用いになっている存在です。 私たちは、どこまでもイエスさまを指し示したヨハネの姿から何を思いますでしょうか? そして、イエスさまをこの世に指し示すために、私たちは何をすることがみこころであると思いますでしょうか? ヨハネは人々を悔い改めに導くために、荒野でバプテスマを人々に授けました。これは唯一無比の働きでした。 そのように私たちにも、救い主イエスさまを人々に示すために、自分にしかできない働きを神さまは備えてくださっています。それはどんな働きか、お分かりになっていますでしょうか? こればかりは牧師ですとか、ほかの兄弟姉妹にお尋ねになっても、ヒントぐらいしかお話しすることはできません。ご自身で神さまの御前に出ていき、しっかり祈り求める必要があります。 あなたにとってイエスさまはどんなお方でしょうか? イエスさまはあなたに、どんな生き方を願っていらっしゃいますでしょうか? しばらく祈って黙想しましょう。

「いのちのパンなるイエスさま」

聖書箇所;ヨハネの福音書6:41~59/メッセージ題目;「いのちのパンなるイエスさま」 聖書の中の有名なことばとされているものに、「人はパンのみにて生くるにあらず」ということばがあります。人は生きていくために食べる肉の糧を得るために汲々とするものですが、イエスさまは、それだけで生きるのではない、神の口から出るひとつひとつのことばによって生きるのである、とおっしゃいました。 今日の箇所においては、そのいのちのみことばとは、イエスさまのことである、と、イエスさまご自身がおっしゃっています。イエスさまは、5つのパンと2匹の魚で大勢の群衆を養われました。そんな群衆はなおもぞろぞろと、イエスさまについて行きました。そんな群衆に、イエスさまははっきりとおっしゃいました。「わたしがいのちのパンです。」   パンは、何のために存在するのでしょうか? それを口にすることで、人のいのちを保つために存在します。それと同じようにイエスさまといういのちのパンも、私たちのいのち、御父にある永遠のいのちを保つために存在します。  イエスさまといういのちのパンも、食べるものです。では、イエスさまといういのちのパンを「食べる」とは、どのようなことでしょうか? どうすることが、イエスさまといういのちのパンを「食べる」ことでしょうか? 以下、見てまいりたいと思います。  第一に、イエスさまといういのちのパンは、御父に選ばれた人が食べることができるものです。 まず、ユダヤ人たちは、イエスさまが、ご自身のことを「わたしは天から下って来たパンである」とおっしゃったことで、互いに小声で文句を言いました。あれは大工のヨセフのせがれじゃないか。あいつの家族のことはみんな知っているぞ。聖書には書かれていませんが、あんなことを言うなんて、何を思いあがっているのか、とか、おかしなことを言っているなあ、頭がおかしいんじゃないか、とか、そういうこともうわさし合ったかもしれません。  しかし、イエスさまはそのようにうわさし合うユダヤ人たちに向かい、「互いに文句を言い合うのはやめなさい」と一喝します。そのおことばに続き、イエスさまは44節のように語られます。……そう、イエスさまのもとに来る人というのは、御父が引き寄せてくださった人です。  イエスさまは弟子たちに向かって、あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです、と語られました。イエスさまのもとに来る人というのは、弟子たちだけではなく、私たちも含めて、イエスさまに選んでいただいた人たちです。 しかしイエスさまは、御父のご意向を無視して人をお選びになったのではありません。御父が引き寄せていらっしゃる、その御父のみこころにしたがって、人をお選びになるのです。したがって、十二弟子にしても私たちにしても、イエスさまに選んでいただいたのと同時に、御父に選んでいただいた存在です。   私たちはこの「選ばれている」ということを、どれほど大切にしているでしょうか? 私たちが選ばれたのは何のためでしょうか? 主のご栄光をこの地上において現すためです。私たちは主の御前で、徹底的に生きるべく召されています。  さて、北京オリンピックが始まりましたが、オリンピックに出場するスポーツ選手は、ベストのパフォーマンスをする上で、その体力と技術を維持するために、ふだんから徹底して節制します。トレーニングを欠かしませんし、食べるものや飲むものにも神経を使います。変なものを口にしてはいけないわけです。同時に、栄養のバランスの行き届いた食事をしっかり食べます。では、私たち主の「選手」にとっては、食べて霊的いのちを維持するものは何でしょうか? イエスさまという、いのちのパンです。  御父が私たちのことを引き寄せられたということは、私たちはもはや、自分の主人は私たち自身でもなく、この世の君であるサタンでもないということです。主人は、御父です。その御父の命(めい)を受けられたイエスさまが、ご自身のからだを私たちに差し出され、「取って食べなさい」とおっしゃるわけです。私たちはどうしますか?  もちろん、私たちは罪人です。御子のみからだを取って食べるなど、恐れ多くてできることではありません。しかし、それにもかかわらず、主は「食べなさい」と私たちを招いていらっしゃるのです。主がきよめられたものを、きよくないと言ってはならないのです。私たちはみからだをいただいてもよいほど、イエスさまの十字架の血潮によってきよめていただいたのです。ならば私たちは、いのちのパンなるイエスさまのみからだと血潮をいただくしかありません。いただかないことは主の招きを拒むことであり、それは謙遜でもなんでもなく、むしろ傲慢であり、無礼というものです。  今日私たちは、主の晩さんにあずかります。これは大変なことです。本来、主のみからだと血潮をいただく資格のない私たちに、イエスさまご自身がそのみからだを裂かれ、その血潮を流され、「取りて食らえ」とおっしゃっているわけです。私たちは畏れ多くもそのお招きにあずかっている者として、ただへりくだってこの糧を「いただく」ばかりです。  さて、このいのちの糧を「いただく」ことを、45節ではより具体的に表現しています。お読みします。……そうです。いのちの糧をいただくにあたって大事なプロセスは、「御父から学ぶ」ということです。私たちが日々みことばをお読みするのは、やはり「学ぶ」ことであることを忘れてはなりません。 ある牧師先生からお聞きしたことですが、教会という場所は、学校、一生卒業のない学校です。私たちはどんな仕事をするにしても、必ずなんらかのことを「学ぶ」ものです。勉強するのが仕事の学生は言うに及びませんが、仕事を引退された方でも毎日、新聞記事を読み、ニュース番組を視て、社会情勢を「学びます」。会社員も仕事の仕方を日々おぼえ、スキルアップのためにセミナーに参加したりしていろいろ取り組みます。主婦の方も得意料理の品目を増やすためにお料理の本を読んだりして学びます。みな、生きるために学ぶわけです。 しかし、何よりも大事な学びは、永遠のいのちを保つ学び、御父から学ぶ学びです。私たちは毎日みことばをお読みしていますが、ただ読み流すような読み方ではいけません。それでは、分量をこなした分いかにも素晴らしい人になれたなどと思いこむ、自己満足にすぎません。その日のみことばの糧(それこそ糧です)から、しっかり学んでいただきたいのです。そのとき私たちは、自分のいのちが養われることを実感し、よりいっそう、主に献身した歩みに踏み出す祝福にあずかります。  私たちは御父に選ばれた者としての生き方を全うするために、いのちのパンなるイエスさまをいただいて生きてまいりましょう。そのために、みことばを学んでまいりましょう。そのようにして、神さまの御前で徹底して生きる「選手」として用いられますようにお祈りいたします。    第二に、イエスさまといういのちのパンは、食べるならば死ぬことがないものです。  46節から51節までをお読みします。……イエスさまといういのちのパン、御父のもとから下って来たパンを食べるならば、その人は死ぬことはないとおっしゃいます。では、いのちのパンを食べるとはどういうことか? 47節でそれは、信じることであるとおっしゃっています。  そうです。まさに、信じる者は救われる、なのです。しかし、この「信じる」という日本語は、けっこう曲者です。信じる者は救われる、といいますが、このことばの前には、イエスさまを、ということばが必要です。神の御子イエスさまを信じるのでなければ、人はまことのいのちを得ることはできません。それも、鰯の頭のような信じ方ではいけません。これしかない、一生信じてついていきます、という「信じ」方です。  イエスさまの御前で文句を言ったユダヤ人たちは、先祖がモーセとともに荒野を旅したイスラエルであったことを誇りにしていました。彼らユダヤ人は、先祖が荒野にてマナという不思議な糧をもって養われたことに、特別な意味を見出していました。御父がマナをもって特別に養われたイスラエルの子孫にあたる自分たちユダヤ人も、特別な民だ、と思っていたわけです。しかし、イエスさまは、そのマナを食べたイスラエルの民も結局は滅んだことを指摘されます。そして、まことの天の糧は、ご自身であることをお示しになりました。  しかし、このようなことをイエスさまがおっしゃったならば、ユダヤ人たちは考えを変えたのでしょうか? 決して考えを変えなかったのです。目の前におられる神の御子を、大工のヨセフのせがれとしか考えられなかったのです。見たこともない、はるか昔のできごとである、マナでイスラエルの民が養われたできごとはありありと信じても、目の前のイエスさまのことは決して信じようとしない、何とかたくななことでしょうか、何と目がふさがれていることでしょうか!   しかし、私たちは本来どうだったでしょうか? この日本に生きているならば、イエスさまというまことの道を通って御父に出会うことなど、もはや絶望的としか思えないことです。プロテスタントにかぎっても、初めて日本に教会が設立された1872年から数えて今年でちょうど150年になります。それなのに、茨城町にはいまだに2か所、つまりうちの教会と、おとなりの創恵聖書教会茨城チャペルしか教会が存在していません。これは何を意味するのでしょうか? それだけ、日本宣教というものは難しいものであり、その分、日本人がイエスさまに出会う確率はとても低い、ということを意味します。  そのような中で私たちは、イエスさまを信じる信仰を与えていただいた、言い換えれば、イエスさまといういのちのパンを食べさせていただいて、永遠のいのちを与えていただいたのです。  何という選びでしょうか。何という恵みでしょうか。私たちがもし、ごくごく一般的な日本人として生きて、イエスさまに出会うこともなかったならば、私たちのいのちはどこに行ってしまうのでしょうか。しかし、私たちは今、たしかなことを知っています。いのちの糧であるイエスさまをいただいた以上、私たちのいのちは天の御国にすでに入れられています。  みことばには、ただの人のように歩むことを厳しく戒めることばがあります。それは、私たちがもはや肉という滅びるべき自我にしたがって歩むべき存在ではないからです。世に流される、ということばがありますが、私たちはこの世と調子を合わせてはいけません。何が正しいことで、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を、聖霊によって変えていただく必要があります。そのために主に、切にお祈りするのです。  心を一新していただいたならば、何が主の御目によいことで、何が完全であるのかをわきまえ知ることができるようになります。そのように、神さまの御目という基準にしたがって生きることができるようになれば、私たちはこの世と調子を合わせて生きることをしなくなります。肉にしたがって、滅ぶべきただの人のように生きることがなくなっていきます。イエスさまといういのちのパンをいただいて永遠のいのちを得ている人は、そのようにして生きるとき、最高の祝福を受け取ることができるのです。  私たちはどうでしょうか? 今、イエスさまをいただいて、永遠のいのちを生きている喜びを体験していらっしゃいますでしょうか? この喜びに満たされて生きてまいりましょう。そして、お互いの間に、このイエスさまにある永遠のいのちの喜びが満ちあふれるように、祈ってまいりましょう。  第三に、イエスさまといういのちのパンを食べるならば、人はイエスさまに永遠にとどまり、イエスさまもその人に永遠にとどまられます。 52節から58節をお読みします。……血とか肉とか、相当に強い表現です。「露骨」といってもいいでしょう。この表現に、イエスさまにぞろぞろとついてきた人たちはつまずきました。今風のいい方をすれば、イエスさまのことばに「引いた」わけです。「ドン引き」といってもいいくらいです。  しかし、イエスさまは時に、あえてこのような難解な表現を用いられることがあります。イエスさまはそのようなたとえを語られたあとで、「聞く耳のある者は聞きなさい」とも付け加えられました。群衆はイエスさまの教えを「ありがたい」と思ったか知れませんが、その程度で、それ以上お聞きして明確なみこころを知ることをしませんでした。しかし弟子たちは、イエスさまにたとえの意味を説明していただこうとしました。イエスさまは「どうして悟れないのか」とお叱りになりながらも、懇切丁寧にたとえの意味を解き明かしてくださいました。  イエスさまのみことばの意味がわからないのは、私たちがイエスさまの弟子になり切れないからです。もちろん、ヨハネの黙示録のように、まだ成就していない預言のような箇所は、慎重に学ぶ必要はあります。しかし、みことばはしっかりと学ぶならば、わかるようにできているものです。 もちろん、聖書はところどころ難しい箇所がありますが、ちゃんと学べば、神さまについて、この世界について、人間について、実に多くのことを深く教えてくれます。要は、学ぶことです。イエスさまに弟子入りした者として、授けていただいた「虎の巻」を熟読することです。そうすれば、免許皆伝の弟子、つまり、主に大いに用いていただける弟子となれるのです。  しかし、その弟子の歩みは、決して一人で行くような孤独な歩みではありません。イエスさまがいつでも、ともにいてくださる歩みです。56節のみことばをもう一度お読みしましょう。……もちろん私たちは、この「肉を食べ、血を飲む」とはどういう意味か、ちゃんとわかっています。イエスさまを信じて一生お従いすることです。キリストがわがうちにいてくださり、われがキリストのうちにいる、そうなることです。そういう人はイエスさまのうちにとどまり、また、イエスさまもその人のうちにとどまってくださいます。  このことを、ことばを変えて説明したみことばがあります。ヨハネの黙示録3章20節です。……だれも招けないような秘密の場所にイエスさまをお招きできるなんて、ステキなことではないでしょうか? そこでイエスさまは一緒にご飯を食べて交わってくださるというのです。みなさんならばイエスさまと、何を食べながら話しますか?  どんな秘密でも分かち合える関係。イエスさまといういのちのパンを「食べる」ように生涯イエスさまを信じてお従いすることは、主従関係、縦のではない、私たちのことを「友」と呼んでくださる、親しい関係です。イエスさまが一生、そして永遠に友でいてくださるこの永遠のいのちの恵みを、心から感謝しつつ味わいましょう。  イエスさまといういのちのパンをいただくべく私たちを召され、選んでくださった御父は、なんと素晴らしいお方でしょうか? ほめたたえましょう。この永遠のいのちの喜びに、私たちはともに満たされてまいりましょう。そのような私たちといつまでも友でいてくださるイエスさまをほめたたえつつ生きてまいりましょう。  今日のメッセージを振り返りましょう。イエスさまといういのちのパンは、御父に選ばれた人だけが食べることができます。私たちは御父に選ばれています。この選びのゆえに、神さまに、イエスさまに感謝しましょう。  そして、イエスさまといういのちのパンは、食べるならば決して死ぬことがありません。私たちがこのいのちのパンなるイエスさまをいただく恵みにあずかっていますことに感謝しましょう。  そして、イエスさまといういのちのパンを口にするなら、人はイエスさまにとどまり、また、イエスさまもその人のうちにとどまられます。イエスさまのうちに生きる恵みが与えられていることに感謝しましょう。  今日の主の晩さん、とてももったいない恵みですが、感謝して受け取りましょう。感謝して受け取るとき、主のあふれる恵みを私たちは体験するようになります。ではお祈りいたします。