礼拝は生活、生活は礼拝

聖書箇所;ローマ人への手紙12章1節/メッセージ題目;礼拝は生活、生活は礼拝 今年度、2022年度の標語は、「礼拝は生活、生活は礼拝」に決めさせていただきました。みなさま、今こうしておささげしている礼拝は、生活なんです。そして私たちの日々の生活は、礼拝なんです。この前提で私たちは、礼拝し、生活してまいりたいものです。 今お読みしましたみことばは「ですから」ということばで始まります。何が「ですから」なのでしょうか? そう、それは、ここまでの11章分の、ローマ人への手紙の内容を受け取っての、「ですから」ということです。 みなさま、ローマ人への手紙は毎日の通読とは別個にでも、何度でも繰り返しお読みいただきたいのですが、ローマ人の手紙が語っていることは、人間は全面的に堕落してしまっているということ、自分の力では一切、救われる道はないということ、しかし、私たち人間がまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神さまは私たち人間に愛を示してくださった、ということです。 私たちは行いによって救われるのではない、信仰によって救われた。そのように、救っていただいた者としてふさわしくあれ、ということで、「ですから」と語っているわけです。私たちはそれまで、罪と死と悪魔を主人としてそれらのおぞましい存在に奴隷として仕える存在でした。希望などありません。しかし私たちは今や、自由にしていただきました。今からはこのように自由を与えてくださったお方、神さま、イエスさまのしもべとして生きることが、私たちのすることです。 ということは、神さま、イエスさまが主人なわけですから、主人でいらっしゃる神さまが、私たちに何を求めていらっしゃるかを知ることが、私たちにとって何よりも大事になります。こうすれば神さまを喜ばせることができる! 私たちもいろいろ考えるでしょう。しかし私たちが、何かの行いをしたとしても、そのピントが外れていては、何にもなりません。 19世紀のアメリカの大衆伝道者、D・L・ムーディが、面白いたとえ話を語りました。ある男の子が、お父さんを喜ばせたいと思った。どうしたら喜んでもらえるかな? そうだ! お父さんは魚のマスが大好きだ! そこで男の子は、マスを釣りに行きました。……学校を休んで。……私たちクリスチャンもしばしば、こういう間違いを神さまに対して犯してしまう、というわけです。そこで私たちは、神さまが何を願っていらっしゃるかを、聖書から正確に知ることが必要になってきます。 このローマ12章1節によれば、そのみこころとは、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げる」ことです。旧約聖書を読んでみますと、祭司が神さまにささげものをいかにささげるべきか、という規定が繰り返し出てきます。しかし何よりも、そのささげ物は「傷がないもの」でなければならない、ということです。 しかし現実の私たちを見てみましょう。傷だらけではないでしょうか。きたないではないでしょうか。こんなものが果たして、神さまに受け入れられるのでしょうか? 答えは「イエス!」。ただし、条件があります。そのままではいけません。よく「そのままでいいんだよ」ということが語られますが、私たちにはそれでも条件があります。それは「イエスさまの血潮によって洗いきよめられる」ということです。 そのために私たちは、信仰を用いるのです。「私のすべてはイエスさまの十字架の血潮によって洗いきよめられた!」こう宣言するのです。そうなるともはや私たちは、傷のある者ではありません。きたない者ではありません。 しかし、そうなったら、私たちのすることはなんでしょうか? イエスさまの血潮によって洗いきよめられた者として振る舞うことです。もう、罪の性質を発動させないことです。「そのままでいい」といっても、捨てるべき罪の性質、悪意、むさぼり、姦淫、深酒、そういったものを捨てないままの「そのままでいい」ということではありません。 私たちがもし、主との交わりをしっかり持っているならば、そのような罪の性質から私たちは遠ざかることになります。もし、そのような生活の変化が現れないで、ただの人のように生きているならば、その人は神さまとの交わりを充分に持っているとは言えません。 私たちは日曜日ごとの礼拝をとおして、神さまの御前に出ます。このとき、私たちは聖霊の交わりをいただいて、みことばと祈りと賛美によって、神さまの御前にきよめをいただきます。また、毎日のディボーションと聖書通読をとおして、私たちはきよめをいただきます。それが大前提となりますが、しかし、それ「だけ」では私たちは「聖なる生きたささげ物」になりきることは極めて難しいです。私たちは、礼拝のたびに、また、ディボーションのたびに、みことばが何を語っているか、すなわち、自分に対して神さまはどのようなみこころを持っていらっしゃるかを知ることが必要になります。 つまり、みことばを聞くことだけで満足してはならない、ということです。単にみことばを聞くだけで満足して、それで生活が何も変わらないようでは、「宗教」をやっているにすぎません。私たちは、生活が変わっていく必要があります。 しかし、生活が主のみこころに従うように変わることは、私たちの力で何とかなることではありません。なぜならば、私たちは主のみこころにかなう歩みをすることなど、愚かなこと、面倒くさいことと思うような、肉の性質が意地悪く自分の中に存在するからです。 聖霊なる神さまに働いていただく必要があります。瞬間瞬間、聖霊さまのお導きに明け渡すのです。それゆえ私たちは、普段どんな働きをしているとしても、お祈りが欠かせませんし、聖霊さまのお導きに敏感になる必要があります。 そのようにして聖霊に導かれた生活をするとどのようになるか、と申しますと、神さまの栄光を顕す生き方が実践できるようになります。そのように、神さまのご栄光を顕す生き方こそ、礼拝の生き方、自分自身を神さまにおささげしつつ生きる生き方です。その生き方によって神さまに喜んでいただけるならば、これほど素晴らしいことがあるでしょうか? いや、神さまは私たちの存在そのものを喜んでおられるのだ、そのようにおっしゃいますでしょうか? それは確かにそのとおりです。しかしそれは、こういうことではないでしょうか? だれも、自分の子どもの存在を喜ばない親はいません。子どもはいてくれるだけで、親はうれしいものです。しかし、その子どもが親の心をしっかり受け取り、親に従って生きるのと、親に無関心で、親のことなどどうでもいいという態度で生きるのとでは、どちらがよりうれしいでしょうか? 神さまとの関係にも同じことが言えます。神さまは、神さまに背を向けていた私たち人間を愛して、ひとり子イエスさまを十字架につけてくださいました。私たちはこれほどの愛を受けているのですから、その神さまのみこころである、神さまを礼拝すること、日曜日の礼拝においても礼拝し、毎日時間を割いてでも礼拝し、そして、普段の生活のさまざまな取り組みをとおして、神さまのご栄光を顕すということをもって、神さまを礼拝する、そのような生き方をしてしかるべきではないでしょうか? この、礼拝の生活を、私たち水戸第一聖書バプテスト教会の兄弟姉妹で、ともにしてまいりたいのです。この生活は一人の取り組みでできるものではありません。その取り組みができるように、励まし合い、祈り合う共同体を築いてまいりたいと思います。 毎週日曜日の礼拝をともに充実させましょう。そして、毎日の礼拝の生活をともに充実させましょう。そのようにして、神さまに喜ばれる歩みをする私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 お祈りしましょう。今年私たちは、「礼拝が生活、生活が礼拝」とますますなるために、ひとつ決心したいと思います。 毎日ディボーションします、と決心したならば、「毎日何時何分から何時何分まで」という目標をつくりましょう。毎日お祈りします、と決心したならば、「何時から何時まで」という目標をつくりましょう。また、週に1回は礼拝堂にお見えになり、お祈りされることを心からお勧めします。あるいは、礼拝にいらっしゃるのもコロナ下という状況で難しい、という方も、せめて、オンラインによる礼拝の同時中継に協力していただければと思います。パソコンを置くスペースは、きちんと片づけましょう。そこを祈りと礼拝の場として整えましょう。

「ダビデの武器 その4」

聖書;サムエル記第一18:17~30/メッセージ題目;「ダビデの武器 その4」  旧約聖書の創世記を読みますと、ヤコブがラケルに恋して、ラケルと結婚するために7年もの間、ラケルの父親であるラバンのもとで重労働に明け暮れるという場面が出てきます。なんとも、愛の力の偉大さを見る気がします。 今日のみことばの学びも今年のシリーズの続きで、「ダビデの武器」という内容でお話しますが、この箇所における「ダビデの武器」、それは「愛の力」です。 ダビデにとって愛の力は、ペリシテ軍との戦闘におけるやる気を高めるうえでまたとない力となりました。その愛の力は何であったかは、あとで詳しく見ることにしますが、サウルは、愛の力というものを利用して、ダビデを戦わせようとしました。 まず、サウルはダビデの前に娘のメラブを連れてきて、もし、主の戦いを勇敢に戦うなら、おまえとメラブを結婚させよう、と、ダビデに持ちかけます。一見すると、神の民であるイスラエルの王さまらしい発言、その戦いで功績をあげる者には自分の大事な姫もあげよう、という、サウルの献身的な態度のように見えます。しかしサウルの腹の中はといえば、この戦いによってダビデを滅ぼしてしまおう、という魂胆でした。 このようなサウルの命令、また、契約の持ちかけに対し、ダビデはこのように答えています。「私は何者なのでしょう。私の家族、私の父の氏族もイスラエルでは何者なのでしょう。私が王の婿になるとは。」 しがない羊飼いの一族など、王家の一族になるのに最もふさわしくない、ここにダビデのへりくだりを見ますが、だからといってダビデは戦わなかったわけではありません。ダビデはそのようにへりくだってはいても、やはり戦いました。それは主君サウルのためであり、何よりも、神の民であるイスラエルという国と民族のためでした。すなわち、王を立てられたお方、この地にご自身の国と民族を置かれたお方、神さまのために戦いました。 そうです。ダビデの動機にはもちろん、メラブと結婚したいという愛の力も働いていたでしょう。また、戦いで勝利さえすれば、しがない羊飼いの地位から一族を王族に引き上げてもらえるという、一族の栄誉もかかっていました。神の栄光のために戦って勝利することには、このような恵みもついて回りました。 それが、イスラエルに勝利をもたらしていざ結婚となったら、サウルはメラブのことを、アデリエルという男に嫁にやってしまったのでした。メッセージの冒頭でも申しましたヤコブのこと、ヤコブはラケルと結婚する際にレアまで押しつけられましたが、そんなことをするラバンは実に食えない男でした。しかし、サウルはそれ以上にひどいことをしたと言えないでしょうか。何しろ、イスラエルが負ければダビデは死ぬか人望を失うか、イスラエルが勝てば勝ったでその手柄をダビデから奪い、よそ者にくれてやったわけです。 しかし、このような屈辱を体験したダビデのことを、神さまはお見捨てになりませんでした。やはりサウルの娘だったミカルが、ダビデを愛していたのでした。ダビデが歴戦の勇士、英雄であったからというのもありますが、王族であるミカル王女はそれ以上にダビデのことを知りうる立場にありました。 ダビデはかつてサウルの護衛でもありましたし、ミカルの兄であるヨナタン王子の一の親友でもありました。その分、ミカルはダビデの人柄をよく知っていました。ミカルはまた、ダビデのメラブへの愛を利用した父親のひどい仕打ちを、間近で見てもいたわけです。私こそがダビデと結婚してあげたい……そんな思いにもなったことでしょう。父サウルは、ミカルがダビデと結婚したい思いがあることを知りました。しかしこの事実は、サウルをますます恐れさせたのではないでしょうか。愛娘のほうからダビデを恋い慕っているとは! このわしの敵(かたき)を恋い慕うとは何事か! だが、ここでもサウルは一計を案じます。ミカルと結婚させてやろうと考えたのです。これで愛娘の思いは遂げられますし、ダビデのほうも、一族もろとも王族になるという恩恵を受けられます。しかし、このことにより、ペリシテ軍の攻撃を受けてダビデは今度こそ滅びる、しめしめ……。 サウルが食えない男なのは、こんなことを家来に命じてダビデに伝言させたことからも明らかです。「ご覧ください。王はあなたが気に入り、家来たちもみな、あなたを愛しています。今、王の婿になってください。」家来たちはダビデのことを愛していたかもしれませんが、少なくともサウルは、ダビデのことを気に入ってなどいません。気に入っているとすれば、忠実なダビデは王に栄誉をもたらす鉄砲玉だから、ということ以上のものではないでしょう。 しかし、王の婿になることはどれほど難しいことでしょうか。家柄ももちろん問題です。王族と羊飼いなど、釣り合わないことこの上ありません。さらに大変なのは、花嫁料というものを用意して貢がなければならない、ということです。王家のお姫さまと結婚するには、たいへんな金額の花嫁料を用意しなければなりません。そんなものをしがない羊飼いが、どうやって用意するというのでしょう。 それ以上に、ダビデはすでに、メラブを別の男に嫁がせられてしまったという屈辱を経験していました。どんなに功績をあげても、王の差配を前にしてはどうしようもありません。ダビデはいやでも、自分の出自の貧しさ、卑小さを身に染みて悟らなければなりませんでした。どんなにいのちを懸けても、王の婿になるなど、夢のまた夢だ……。 私は王さまの婿になどなれません。ダビデはそう言うしかありませんでした。それで、この返事をもらったサウルは、また考えました。これでは結婚を餌にダビデを葬り去ることは難しい、ならばこうしよう。ペリシテに勝利した証しとして、ペリシテ人の「陽の皮」を百枚持ち帰れ。 陽の皮とは、男子が割礼をした際に余る、性器の包皮の皮です。ダビデはゴリヤテとの闘いにおいて、彼のことを、イスラエルの生ける神の陣をそしる無割礼のペリシテ人と言いました。神の民にとっては、割礼を受けていない異邦人の軍勢に敗北することは、すなわち神の栄光が汚されることであり、それゆえ、神の栄光のために必ず勝利しなければならなかったわけです。神の陣に敵対するペリシテの兵士の陽の皮を切り取ってイスラエルの王のもとに持ち帰るとは、神に敵対した勢力がさばかれた、ということを示す、何よりもの証しでした。 ダビデにとって、この申し出はよいことに思えました。それはまず、サウルがそう言ったことによって、ダビデはこの戦いが、神の栄光のための戦いであることを意識するようになったからでした。 そしてそれ以上に、この戦いは、自分のことを愛してくれるミカルのその愛にいのちを懸けて応える、愛の戦いとなりました。この戦いに勝利するならば、いよいよミカルの愛を自分のものにします。まさにメッセージの冒頭に申し上げました、愛の力、それがダビデにとっての武器となりました。 もちろん、戦いは大変な危険が伴います。剣を振るって倒すことまではできたとしても、それで倒れた兵士の「陽の皮」をいちいち切っているうちに、次の兵士が襲いかかってこないともかぎりません。弓矢を打ち込まれて命中したらおしまいです。単に「100人倒せ」ではなく、「100枚の陽の皮を持ち帰れ」は、ただごとでなく困難なミッションです。 だが、ダビデは100枚どころではなく、200枚持ち帰りました。なんと2倍です。それだけ、この結婚を何としてでも成し遂げたい、という思いがダビデにはあふれていました。このように、愛の力を用いて、神さまは人を用いてくださるということを私たちは見ることができます。ダビデにとっての武器であった愛……それは多方面に張り巡らされた愛でした。 もちろん、ミカルに対する愛のなせるわざでしたが、それだけではありませんでした。ダビデを愛しているサウルの家来たちに対する愛、しがない羊飼いの暮らしから王族に引き上げようという実家の家族に対する愛、ともに勝利を味わうことで喜びを分かち合おうというイスラエル軍の兵士に対する愛、勝利をもたらして喜ばせようというイスラエルの国民に対する愛、そして、サウルに対する愛、そしてすべては、神さまに対する愛でした。 私たちも日々、生活の中で戦いを展開します。それは言ってみれば、私たちが神さまの子どもとして、神さまのしもべとして生きるゆえに、神さまにあって展開する戦いです。 バプテスト教理問答書の第一問答、これはとても大事なので何度でも取り上げますが、こう語っています。「問1 人のおもな目的は何か。/答 人のおもな目的は、神の栄光をあらわすことと、永遠に神を喜ぶことである。」私たちは仕事をとおして、家庭生活をとおして、神の栄光をあらわし、神を喜ぶように召されています。 しかし、サタンと悪霊どもの軍勢は、人がそのように神の栄光をあらわし、神を喜ぶことをさせないように、さまざまな妨害をしかけてきます。仕事にはしくじりがつきものですが、そのしくじりをいつまでも思い出させ、くよくよさせて、神さまを見させなくする。人から言われたことを真に受けさせ、感情的にならせたりする。怒りで支配したり、落ち込みで支配したりする。要するに、神さまのご栄光をあらわすことも、神さまを喜ぶこともさせなくするのです。 人には感情というものがあります。また、多かれ少なかれ、人は周りの状況に左右されるものです。それはクリスチャンであっても例外ではありません。しかし、私たちは落ち込んだままでいることはありません。怒りに支配されたままでいることはありません。 それはなぜなのでしょうか。神さまを愛する愛が私たちの中にあるからです。神さまを愛する愛の力は、神さまが私たちの周りに備えてくださったひとりひとりに対する愛へと実を結びます。むかし、「愛は勝つ」というタイトルのヒット曲がありましたが、私たちクリスチャンにとっては、「神の愛は勝つ」なのです。 しかし、神さまに対する愛というものは、私たちがまず神さまを愛することによって生まれるものではありません。ヨハネの手紙第一、4章の7節から12節をお読みすると、私たちが互いに愛し合うべきということが書かれていますが、その愛は「神のみこころだから愛さなければならない、愛し合わなければならない」という、律法的なものではないことがわかります。読んでみましょう。 どのようにして私たちは愛し合うのでしょうか? そう、神さまが私たちのことをまず愛してくださったゆえに、御子イエスさまを私たちの受けるべき罪の罰の身代わりに十字架につけてくださったということ、その神の愛を受けて、私たちは神を愛し、その愛する神さまのご命令だから、神さまへのあふれる愛を、人どうし互いに愛し合うという形で実践するのです。 ダビデは、イエスさまがこの地上にお生まれになる、1000年もむかしの人でした。しかしダビデは、御子キリストの存在をはっきり認め、キリストをほめたたえていました。 詩篇110篇でダビデが歌ったのは、まさにその御子キリストへの賛美であり、それはキリストへの賛美なのだと、イエスさまご本人が明らかにしていらっしゃいます。ゆえにダビデの神さまに対する愛は、主キリストへの愛であり、このお方の御力をもって敵サタンとその軍勢は滅ぼされることを知って、キリストをほめたたえました。もちろん、このお方キリストの存在をダビデが知っていたのは、ダビデには神さまからの霊感があって、神さまから教えていただいていたからでした。 ダビデは、神の民に敵対するペリシテとの戦いをもって、このお方キリストへの愛を実践しました。それはキリストというお方が、神に敵対するサタンの軍勢を滅ぼされるお方だということを理解していたゆえです。 しかし、私たちにとっての戦いは、人を相手に勝ち負けを競うものではありません。人はただ、愛する対象です。しかし、そのように愛する対象であるにもかかわらず、あたかもその人に勝つことが主の戦いに勝利することであるかのように、サタンは私たちをミスリードし、愛し合うべき愛の絆を断ち切り、敵対させます。 しかし、このような仲間割れ、同士討ちは、なんと非生産的なものでしょうか。このようにクリスチャンが同士討ちをするならば、サタンの軍勢は戦わずして勝ちます。そもそも同士討ちというものは、神さまが、ご自身の民が敵に勝つために用いられた手段です。それをサタンは真似をし、私たちがサタンの計略に引っ掛かって同士討ちをするようになるのです。どれほど愚かなことでしょうか。私たちはこのような愚かなふるまいをするのではなく、愛し合うものにしていただく必要があります。 そのためにも、まず神を愛する愛を増し加えていただく必要があります。讃美歌にあるとおりです。「わが主イエスよ ひたすら 祈り求む 愛をば 増させたまえ 主を愛する 愛をば 愛をば」しかし、神さまへの愛が増し加わるということは、神さまが変わらずに愛してくださっている、その愛をなお受け取ることによって可能になります。 間違えてはいけません。神さまはひとり子イエスさまをくださるほどの最高の愛を、すでに私たちに注いでくださっています。あとはその愛を私たちがどれだけたくさん受け取るかです。私たちにかかっています。そのように神の愛をより多く受け取った人が、人をより多く愛する人になることができます。 神さまの愛はどのようにしたら多く受け取ることができるのでしょうか? それには、私たちは本来、神さまの愛を受け取る資格のない罪人であることを、日々悟り、それにもかかわらず変わらずに私たちのことを愛してくださっている神さまの愛に感謝することです。 しかし、時に私たちは、聖書を読んでも、お祈りしても、ディボーションに打ち込んでも、神さまのそのような愛を実感できない、ということがないでしょうか。そんなときは、こうすればいいのです。これはむかしある牧師先生からお聞きしたことばですが、こうおっしゃっていました。「聖書は読みたくないときに読み、お祈りはしたくないときにする。」論より証拠、ぜひやってみてください。それまでわからなかった神さまの愛が、わかるように変えていただけます。 ダビデにしても、戦いでいつ自分のいのちが取られるかという大変な中に置かれ、それでもミカルへの愛、ひいては神さまへの愛をかなえるために、どれほど祈らされたことでしょうか。文字どおり、戦いの現場では、祈るしかありません。しかし祈るならば、聖霊の交わりによりダビデは御声を聴くことができました。その御声、みことばを握りしめて、ダビデは愛という武器を手にした愛の戦いに出ていき、そのようなダビデに神さまは勝利を得させてくださったのでした。 私たちもそうです。私たちもいま戦いを体験していて、たいへんな思いをしているかもしれません。コロナ下に置かれての経済的な戦い、仕事の責任を果たすための戦い、精神的、体力的に追い込まれての、自分の限界との闘い……しかしその戦いはとどのつまり、その戦いに負けさせて主のご栄光を損なおうとする、サタンと悪霊どもの軍勢との戦いです。その戦いをとおしてもしも私たちが人を愛することをやめたり、人をさばくようになったりしたとするなら、そのときこそ私たちは「負けた」ことになります。 私たちがその戦いに勝つには、神さまを愛する愛を増し加えていただくのみです。神さまを愛する者に、神さまは味方してくださいます。神さまを愛する表現をしましょう。神さまとの時間を取りましょう。テレビを視る時間、インターネットを見る時間を、少しでも神さまとの交わりに向けてはいかがでしょうか? そのぶん、みことばを読むのです。そのぶん、お祈りをするのです。神さまはそのような私たちに、ご自身の愛を注いでくださいます。その愛にあふれて、いよいよ隣人を愛する、そのような私たちとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

「ダビデの武器 その3」

聖書箇所;サムエル記第一18:6~16/メッセージ題目;「ダビデの武器 その3」 高校野球であれ、軍隊であれ、血気盛んな男たちの戦いに、若い女性が声援を送るならば、底知れぬやる気が出てくる……それは古今東西変わらないはずです。しかし、もし戦いに臨む者が、俺よりもあいつのことをみんな応援しているぞ、くやしい、なんて思いになったならば、盛り上がるべき士気もなにもあったものではありません。しかし、そんないじけた考えをするのが、一兵卒ではなくて、王さまだったらどうでしょうか? 今日の箇所に登場するサウルは、まさにそんな自己憐憫に陥っていじけていました。だれと比較したのでしょうか? 女の人たちは楽器を手に手に、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と喜び歌い、それにサウルは激怒しました。 でも、もし、サウルにもっと度量があったならば、サウルはこう言ってもよかったのではないでしょうか。「ほっほっほっ、わしは、わしの十倍仕事をするダビデを従える、強い王だ。神さまはこれほどまでの祝福を、わしに与えてくださった。神さま、万歳!」 しかし、サウルにはそんな器の大きさなどあるわけがなかったのでした。なぜならば、王に霊的権威を与えるお方、大いなるお方である聖霊が去られ、サウルはまるで王にふさわしくない、ちっちゃな男に成り下がってしまったからでした。 サウルから聖霊が去られたのは、サウル自身の責任でした。祭司がささげるべきいけにえを勝手にささげた、勝手な誓いを立ててあやうく息子ヨナタンを殺すところだった、聖別すべきいけにえを取っておく罪を犯した、その程度の霊的状態にしかない者からは、聖霊は去られるべくして去られたのでした。 ダビデは、ペリシテと戦う戦士でしたが、今度は、こんな愚かな王までが戦いを挑んできました。ダビデは、このようなサウルが相手になって挑んでくる闘いにおいて、やはり武器を用いました。ただしこの「武器」は、サウルを傷つけたり、屈服させたりするために振るう「武器」ではありません。むしろ、サウルの背後にうごめく悪魔と悪霊どもの策略に戦いを挑むための「武器」です。以下、今日の本文をもとに、その「武器」とは何か、3つ見てまいります。 第一にその「武器」は、「賛美」です。 サウルには悪霊が下っていました。10節をご覧ください。「その翌日」とあります。女たちが「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」と喜び歌ったことに大いに怒ったその次の日です。怒りの感情をそのままにしていると悪霊にやられる、という、格好の例であるわけで、こんなことからも、私たちは怒りの感情を治める必要があることを学ぶわけですが、ともかく、その日サウルには凄まじいまでに悪霊が臨みました。 サウルにこのような「霊の障り」があったことは、前からサウルにとって問題となっていましたが、それは何よりも、聖霊がサウルから去られたことが最大の理由でした。その「霊の障り」は、サウルに代わって油注がれたダビデが竪琴を弾くことにより消えたわけで、そういうことからも、悪霊を治めるほどの霊的権威はサウルではなく、ダビデにあったことが証明されるわけです。 しかしこの日は様子がちがいました。サウルはダビデの竪琴に落ち着きません。むしろダビデを槍によって壁に串刺しにし、殺そうとしました。ダビデは身をかわしましたが、サウルはなんと、2度もダビデに槍を手に襲いかかりました。 ダビデが手にしていた竪琴という楽器は、単なる音楽セラピーの次元で奏でていたものではありません。一国の王、神の民イスラエルの王であるサウルを発狂させるほどの怖ろしい力を持った悪霊と戦いを交えるための武器です。 ダビデが竪琴で奏でたものは、賛美の歌です。新約聖書・エペソ人への手紙5章19節は、賛美とはなんであるか、ということを語っています。このみことばは前の節、18節の、「御霊に満たされなさい」というみことばを受けて語られています。すなわち、御霊に満たされるために賛美するのであり、賛美すると御霊に満たされるのです。 ダビデが竪琴をもって賛美の歌を奏でたとき、そこには聖霊と悪霊どもとの戦いが交えられました。サウルを操るサタンの軍勢は、聖霊を呼び起こすダビデを殺すことで、自分たちが勝利しようとしました。しかし、聖霊さまはダビデのことを守ってくださいました。 ダビデがゴリヤテと一戦を交えるまでは、サウルの前で竪琴さえ弾けば悪霊は去りました。しかし今度は、悪霊どもは去らなかったばかりか、サウルをより一層猛り狂わせ、この賛美を奏でる者、聖霊の人を殺そうとさえしました。 それでもダビデが死ななかったのはなぜでしょうか? それは、聖霊の油注ぎがあったからでした。神さまはサウルに悪い霊が下ることをお許しになりましたが、王として神の民を治めるべき人を殺すことまでは、お許しになりませんでした。 ここからわかることは、賛美のうちに戦いが起ころうとも、私たちは決して負けない、ということです。賛美というものは、聖霊の働きがなければ絶対にできないことです。賛美と一般の歌の間には、越えがたい断絶があります。極端な話、一般の歌はだれにでも歌えますが、賛美は御霊に満たされようというへりくだった心のある人でなければ、決して喜んで歌うことができない歌です。 私たちはときに、怖ろしい霊の戦いを体験します。悪霊は存在して働きます。しかし、こういうことを言うと、それはないと否定したがったり、触れようとしなかったり、はなはだしくは、こういうことを口にする者はおかしいなどとのたまったりする人がいます。でも、たしかにこういう霊的な世界は存在します。否定してみても始まりません。 しかし、一方で、そういう存在をいたずらに恐ろしがったりするのも正しくはありません。私たちには聖霊がおられるのです。聖霊が戦ってくださり、私たちに勝利をくださるのです。私たちがすることは、エペソ書6章に書かれているとおりの、神のすべての武具を取ることですが、その6つの武具のうち、攻撃に使うものは「みことばという剣」だけです。基本的に武具は、身を守るためにいただくものです。 武装は聖霊なる神さまとの交わりの中でしていただくものだということを、私たちは忘れないこと、これに尽きます。真理の帯、正義の胸当て、平和の福音の備え(という履物)、信仰の盾、救いのかぶと、以上の装備は、聖霊さまとの交わりの中でいただくものです。ダビデの友となってくれたヨナタンが武具をくれたように、私たちの友となられた主は、私たちに武具をくださり、守ってくださいます。 忘れないでください。私たちはもちろん戦うのですが、私たちが戦う前に、聖霊さまが戦い、勝利を与えてくださっているという事実……私たちはすでに勝利しています。イエスさまが十字架の上で死とサタンに勝利してくださったゆえに、イエスさまを主と信じ受け入れた私たちは、勝利しました。勝利は主にあってわがもの、この主をほめたたえる賛美をもって、それでも私たちを勝利者の座から引きずり降ろそうとするサタンの軍勢、私たちを敗北者のように錯覚させて落ち込ませようとするサタンの軍勢に、御霊の満たし、喜びをもって、圧倒的な勝利をするのです。 この2022年、私たちはますます、主を賛美しましょう。賛美をもって満ちあふれる喜びは、大いなる勝利をもたらします。ハレルヤ! 第二のその「武器」は、「主の臨在」です。 12節、14節で繰り返されていること、それは、「主がダビデとともにおられた」ということです。主がダビデとともにおられたゆえに、もはや神の人とは言えなくなったサウルはダビデを恐れました。 主がダビデとともにおられたゆえに、ダビデは行く先々で勝利を得ました。 サウルはダビデを遠ざけました。王の護衛をしていたダビデを、千人隊長に任命しました。サウルには思惑がありました。ペリシテの攻撃によって、ダビデを葬り去ろうという思惑です。そうでなかったとしても、もしダビデがペリシテに負けたら、その責任は敗軍の将のダビデにあるわけで、ダビデはイスラエルの信頼を大いに失うことになるわけです。 しかし、ダビデは死にもしなければ、失脚もしませんでした。かえって、サウルの思惑がどうであろうとも、ダビデは勝利に次ぐ勝利をイスラエルにもたらしました。それは、神さまがダビデとともにおられたからです。 神さまがともにおられる者に敵対できるものは何もありません。神さまご自身が味方なのです。そのような者には何者も敵対できません。打ち倒すことはできません。これに対していろいろ解説するのは野暮というものでしょう。みことばをごらんください。ローマ人への手紙8章31節から39節、これは、聖書全体の最高峰にも等しいみことばです。お読みしましょう。 私たちも時に、負けた! と思えてならないことはないでしょうか? 仕事や人間関係でしくじった、ですとか、健康を害した、ですとか……しかし、ほんとうのところ、私たちは負けてはいないのです。勝っているのです。私たちの主、イエスさまが勝っておられるからです。ヨハネの福音書、16章33節をご覧ください。 十字架の上で死と悪魔に勝利してくださったイエスさまが、私たちのためにすでに勝利してくださったのです。この、イエスさまの勝利こそが絶対であり、真実であるわけで、私たちが「負けた!」と思うことは、正しくありません。嘘です。サタンの嘘にだまされて、落ち込むようなことがないようにしてください。 ご覧ください。ダビデはサウルがどんなふうにダビデを操ろうと、神さまご自身がダビデに勝利を与えられました。私たちのことをだれが何と操ろうとも、神さまが私たちとともにおられる以上、私たちは勝利する以外にあり得ないのです。勝利は我がものです。勝利の主をほめたたえましょう。ハレルヤ! ダビデの武器、第三にその「武器」は、「神の民の愛」です。 ダビデは神の民イスラエルに愛されました。それはダビデが神の人であったからでした。ダビデは神の人として、サウル王のもとで身を低くし、千人隊長という自分に割り当てられた仕事に最善を尽くしました。イスラエルとユダ、神の民は、そのようなダビデを認め、愛しました。 民はダビデを愛しました。サウルのようなひどい王が治める中にあっても、それでもイスラエルがまとまることができたのは、民がダビデを愛することで、ダビデを中心にイスラエルの民の間に、愛という名の絆ができていたからだったと言えます。 私たち神の民をひとつにするものは、神さまが私たちを愛してくださっているゆえに、私たちが互いに愛し合う、その愛です。ヨハネの福音書13章34節と35節をご覧ください。 ……神の民が互いに愛し合うことこそ、世に対して主を証しする何よりもの証しです。愛の力によって結び合わされたイスラエルとその軍隊は、ペリシテに対して大勝利を得ました。同じように、私たちも神さまの愛をともに受け取り、そのそれぞれが受け取った愛によって互いに愛し合うとき、この世のいかなる勢力も対抗することのできない力を私たちはいただいて、サタンとその軍勢に勝利することができるのです。 私たちはもちろん、各自が家庭であれ、職場であれ、それぞれの持ち場で主のご栄光を顕す戦いを繰り広げます。仕事に取り組む力を神さまからいただきます。どうしようもない人間関係に苦しむとき、私たちとともにおられる神さまに祈りながら難しい局面を乗り越えます。 そういう戦いをそれぞれがするわけですが、私たちが覚えておくべきことは、その戦いはすべて、この「水戸第一聖書バプテスト教会」の共同体の一員として繰り広げるものである、ということです。つまり、戦いは各自のものを越えて、水戸第一聖書バプテスト教会のものです。水戸第一聖書バプテスト教会の戦いを、茨城県の各地において展開するわけです。茨城県の各地で、水戸第一聖書バプテスト教会が戦うのです。 その戦いに勝利することで主の素晴らしさが現れるわけで、もし私たちがヨハネの福音書13章のみことばのとおり、互いに愛し合おうという召命に生きるならば、私たちはその、各自が繰り広げている戦いをおぼえて、祈るようになってしかるべきです。私たちは、こうして同じ共同体で時間と空間をともにする兄弟姉妹のそれぞれの戦いに、無関心であってはなりません。何で戦っているか、何で苦しんでいるか、つねに心に留めて祈ることで、私たちもその戦いに参戦するのです。まさしく、愛の絆でダビデと結びついたイスラエルが、国のために戦ったようにです。 今日のみことばを振り返りましょう。私たちの武器である、賛美、神の臨在、愛の絆……どれも私たちが神の戦いを繰り広げ、勝利するために必要なものです。特に、今の自分に必要なものを覚えて、求める祈りをささげましょう。主よ、その武器を自分のものにしてくださり、その武器を用いて、サタンに勝利する者とならせてください! 祈りましょう。 ①神さまの御力で、賛美という武器を用いさせていただくように。 ②神さまの臨在により、どんなおびやかしにも勝利できるように、主がともにいてください。 ③私の戦いが教会全体の戦いであるという事実を受け止め、ともに戦って勝利すべく、教会の兄弟姉妹を愛の絆で結び、互いのために祈る者とならせてください。 聖歌284/献金/讃美歌541(頌栄)/祝福の祈り;「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちすべてとともにありますように。アーメン。」

天地万物の主権者、所有者を礼拝せよ

聖書箇所;創世記1:1/メッセージ題目;「天地万物の主権者、所有者を礼拝せよ」 みなさま、今年もよろしくお願いします。 「一年の計は元旦にあり」と申しますが、今年私たちは、去年までの人生とひと味違った生き方をするために、どのような決断をしますでしょうか? 私も、この教会を牧会して、今年で丸8年を迎えることになります。やはりこれだけ長くなりますと、私も、これまで続けていたことを引きつづき行うことと、今年から新しく始めることとのバランスを考えるようになります。 しかし、やはり、この教会という共同体で何かできないだろうか……神と人を愛するために何をしよう? と、ともに考え、行動する群れになっていければ……そういうことをいつも考えています。 さて、今日の本文、創世記1章1節は、言うまでもなく、聖書の最初のみことばです。短いみことばです。しかしこのみことばを解き明かすと、神さまはどのようなお方か、そして、神さまは私たちに何を求めていらっしゃるかが見えてまいります。ともに見てまいりましょう。 今日の本文を、3つのポイントから学びます。第一のポイントです。神さまは、天地万物の主権者です。 神さまが主権者でいらっしゃるということは、被造物であり、そのご主権によって支配を受けているだけの私たち人間には、いくら想像をたくましくしても理解することがとても難しいことです。私たちは、私たちの生活をとおして、神さまが主権者であるということの、その一部をわずかながらでも知ることができる程度です。 私は趣味で、小説を書きます。いま私は、東京に住む男子中学生が主人公の話を書いていますが、小説を書いてみると、世界に対して主権を持つとはどういうことか、ほんとうに、ほんのちょっぴりですが、知ることができます。彼の通う学校の様子、彼の出席する教会の人間模様、彼が友達や先生と交わす会話、町の様子や食べに行くレストランの様子……そういったことを、人や学校といった固有名詞をいちいち考えて命名しながら書き綴っていく作業は、とても楽しいものです。 このように、人間もその気になれば、自分なりのワールドというものをつくることができますが、作者という存在はそのワールドに対する、言ってみれば主権者です。なんとでもその世界を変えることができますし、展開することができます。できるかぎり美しく、面白くしようとします。そしてそのように世界をつくってみると、何と申しますか、その世界や登場人物に対する「愛情」のようなものがわき上がってくるのが自分でもわかります。 しかし、人間が小説のような創作物に対して「主権者」であることと、神さまがこの天地万物において「主権者」でいらっしゃることとは、決定的な違いがあります。それは、人間はどんなに頑張っても、その小説の世界を「存在」させることはできません。一方で、神さまがお造りになった天地万物は、「存在」そのものです。 その「存在するもの」そのものに対して、神さまは主権を持っていらっしゃるのです。神さまは、この「存在」すべてを、そのみこころのままに動かされる。この事実を知るとき、私たちは謙遜にならざるをえません。 人間は権威の前にひざをかがめてこその存在です。子どもであるときは親に従い、学生であるときには先生に従い、新入社員であるときには管理職に従います。そのように、神さまは自分に対して権威あるお方だから、その権威の前にひざをかがめ、お従いするのです。 そのように神さまが、権威あるお方ということは、また、どのようなことを意味しているのでしょうか? 第二のポイントです。神さまは、天地万物の所有者です。 唯一の神さま、全能なる神さまがこの天地万物をお造りになったということは、また、神さまがこの天地万物の持ち主であるということも意味します。創造主がその壮大なみこころを実現する場、それが、私たちの置かれているこの大宇宙であり、地球であるわけです。 創世記第1章の記述を見てみますと、天体から地上のあらゆる環境、動植物が創造され、存在させられていく様子が描かれています。それらのものはみな、神さまのものである、ということです。 みなさまもご存じのお話かもしれませんが、木村清松(きむらせいまつ)という、むかしの牧師先生のお話をしましょう。 今から100年以上むかしの1908年、木村清松はアメリカで、現地の人にナイアガラの滝に案内され、「どうです、アメリカにはこんなすごいものがあるんですよ」と自慢されました。それに対して清松は、「このナイアガラの滝は、私のお父さんのものだ」と答えました。 案内したアメリカ人はびっくりしました! なに! 彼のお父さんは「アメリカ先住民の大首長」かなにかか! このことばは話題になり、清松がその地域を巡って行なった伝道集会には、こんなキャッチフレーズが掲げられました。「ナイアガラの滝の持ち主の息子、来たる!」 木村清松のお父さんは、私たちのお父さんです。私たちのお父さんは、ナイアガラの滝の持ち主です。筑波山や霞ケ浦の持ち主です。天地万物のあらゆるものの持ち主です。そして、私たちのこともこのお方、天地万物を創造されたお父さんが持ち主です。 ただの持ち主ではありません。私たちのことを、宝物にしてくださっています。私たちは宝物のようなものを手に入れたら、大事にするでしょう。 私には大学時代に親友になったクリスチャンがいます。彼はのちに音楽家になり、CDアルバムを出しました。それを知ったとき、私は彼に「ちょうだい」とか「安く譲って」とねだることはしませんでした。キリスト教書店でちゃんと定価でお金を出して買いました。そして、そのCDは大切にし、今も牧師室の本棚に置いてあります。 私たちは神さまにとって宝です。だから、たとえ自分に何かよくないことが起こったとしても、「神さまは私のことを見捨てている!」などとおっしゃってはいけません。神さまは私たちのことを見捨てたりなどしません。私たちは宝物だからです。 ただし、宝物だから、あえて厳しいところを通らされる、ということは、ありえるかもしれません。そのようにきびしい思いをさせられるのは、それだけ、神さまが私たちを愛しておられ、もっとご自身に拠り頼むようにされるためです。 小説家の石川達三がうまいことを言っていましたが、「磨くということは同時に無数の傷をつけることである」。私たちが宝石のような宝物なら、もっと輝きを増すために、神さまはあえて無数の傷をつけることをお許しになることもあると考えるべきです。 今年、私たちを待ち受けるできごとは、もしかすると私たちを傷つけるかもしれません。しかし、信じてください。その傷は、私たちがもっと多く実を結ぶために、神さまご自身が私たちのことを刈り込んでくださるゆえにできるものです。 だから、私たちは傷つくのではありません。実を結ぶのです。だから、ときに私たちが体験する厳しいできごとに、私たちが神さまの愛を見出すことができるならば、私たちは幸いです。私たちは神さまのものとして刈り込まれます。そのようにして私たちはもっと多くの愛の実、御霊の実を結ばせていただきます。感謝しましょう。 第三のポイントです。神さまは、天地万物の礼拝を受けるべきお方です。 神が天と地を創造された、ということは、神さまと被造物である天と地の間にどのような関係が成り立っている、ということを意味するのでしょうか? これは、天地創造に関するみことばとして、ネヘミヤ記9章6節のみことばをお開きいただきたいと思います。 ……そうです、天の万象は神さまを伏し拝んでいる、すなわち、天地万物のあらゆる被造物は、神さまの御手によって創造されたことにより、創造主なる神さまに大いにひれ伏し、礼拝している、ということです。 しかし、これは少し説明が必要です。人間を除く被造物は霊が吹き入れられているわけではなく、したがって神さまを礼拝することはありません。類人猿、なんていいますが、チンパンジーやゴリラはイエスさまの御名によってお祈りすることはしません。動物だからです。 そうはいいましても、被造物はその雄大さ、その美しさをもって、創造主なる神さまの雄大さや美しさ、秩序、奥深さを現しています。それは、自然の中に人間が出ていくとき、その自然の背後におられる創造主を認めざるを得なくなることからも明らかです。 そうです。天地万物が伏し拝む、というのは、その天地万物を目にし、体験する人間が伏し拝む、ということです。天地万物の長として創造された存在として、天地万物を代表して礼拝するのです。 当教会が支援している組織に「シオン錦秋湖」というキャンプ場があります。4年前には英語教室を中心にはるばる水戸から岩手の山奥まで行きました。コロナ下になる前には同盟総会を毎年そこで開催し、年に1回は必ず足を運びました。今年はコロナさえ収まってくれていれば、久しぶりに総会をシオン錦秋湖で開きます。 あの、シオン錦秋湖には、荒木さん一家、伊藤さん一家という、スタッフ家族が常駐していて、一年中キャンプ場を守ってくださっています。豪雪地帯なので、冬になるとしょっちゅう除雪作業を頑張ってくれたりします。 あそこに行くたびに楽しみにしているものは、山の幸です。木の芽ですとか、山菜ですとか、キノコですとか。それももちろんですが、あのシオン錦秋湖の発信するニュースレターなどを読むと、季節ごとの山の様子、四季折々のスポーツにいかに取り組んでいるか、まことに、スタッフのみなさんはあらゆる自然の姿にふれているのがわかります。スタッフのみなさんは、さぞかし、創造主なる神さまのご臨在に「生で」触れていらっしゃるんだろうなあ、うらやましいなあ、と思います。 シオン錦秋湖には負けるかもしれませんが、でも、茨城の自然もなかなかのものです。長年、首都圏やソウルのような都会に身を置いた者からすれば、茨城のこの自然はとても素晴らしいものに思えます。 私たちはこの自然の中で、創造主なる神さまに出会う機会を少しでもつくれればと思います。ほんの少しでも空を見上げて、木々や草花に目を留めて、神さまを礼拝できれば……神さまを賛美できれば……私たちがそうなれれば、と、心から思います。それは、この自然豊かな土地に暮らす私たちにとっての特権ではないでしょうか。 今年私は、この自然を心から堪能し、意識して創造主なる神さまを礼拝することに努めたいと願っています。いや、努める、なんていうと、義務みたいで大げさですが、要するに、堪能しよう、喜ぼう、というわけです。みなさまとともに喜びたい、私はそう願っています。 思えば、聖書の書かれた昔は、今の世の中みたいに、こんなに都市化が進んでいたわけではありませんし、もっときれいな空気の中、夜になれば真っ暗で、満天の星空、そんな中で暮らしていました。そんな中でイエスさまが、空の鳥を見なさい、野の草に目を留めなさい、とおっしゃったのです。 イエスさまのこのおことばを、単なる象徴とらえてはいけません。ほんとうに空飛ぶ鳥をこの目で見ましょう。ほんとうに道端の花をこの目で見ましょう。山を見ましょう。星を見ましょう。そうすることではじめて、私たちひとりひとりに御目を留めてくださり、私たちを礼拝者として成長させてくださる主のみこころがわかるようになるはずです。 私たちは礼拝者として創造されましたが、礼拝を堅苦しいもの、形式的なものと捉えないようにしたいものです。 もちろん、いまこうしてささげている礼拝のように、形式的であることが美しい、と言える側面もあるわけですが、それだけが礼拝ではありません。野に出て、自然の中に出て、その創造主である神さまを思い、神さまをほめたたえるならば、それこそ礼拝、私たちはこの2022年、そのようにさりげない礼拝、しかし心のこもった礼拝をささげてまいりたいと思います。 今年2022年、私たちは、私たちに対する主権者なる神さまのご存在とみこころ、みことばとみわざをますます認め、その御手のうちに整えられることを喜んでまいりましょう。そして、美しい被造物の中にあって、ますます麗しい礼拝をささげてまいりましょう。2022年、主が私たちにますます大いなる祝福を与えてくださいますよう、主の御名によってお祈り申し上げます。

イエスさまを迎える準備

聖書箇所;マタイの福音書25:14~30/メッセージ題目;イエスさまを迎える準備 一年終わりの日曜礼拝となりました。今年教会は、「イエスさまを迎える準備をしよう」という標語のもと、コロナ下2年目のこの年をともに歩んでまいりました。この年を締めくくるみことばに、マタイの福音書25章14節から30節のみことばを選ばせていただきました。このみことばは、イエスさまの再臨に備える私たちに、極めて大事なことを教えています。 さて、このみことばですが、当然みなさまにも、初めて聖書を読んだときというものはあるわけですが、初めてこの箇所をお読みになったとき、みなさまはどうお思いになったでしょうか? 私の最初の印象は、「理不尽だ!」主人から財産を預かっていたしもべたちは、預かれ、と言われたのであって、それを勝手に増やしたりしていいのか? しかも、そうして増やしたら主人にほめられたりしているし? そして、主人から預かっていただけのこの1タラントのしもべは、怒られるわ、タラントを取り上げられるわ、外の暗やみに放り出されるわで、踏んだり蹴ったり、主人はあまりにもひどい! これが、最初に聖書を読んだときの、私の正直な感想です。 もちろん、これからお話しすることは、そういう意味じゃないですよ、ということですが、ともかく、今日の箇所でイエスさまが旅に出る主人に例えておられることは、イエスさまが十字架にかかって葬られ、復活され、昇天されて天の御国に行かれるということです。旅に出るということは、また帰ってくる、ということです。そのようにイエスさまも、この世界の主人として、再びこの世界に帰ってこられます。その間、私たち主のしもべたちはどのように過ごすべきかということを、イエスさまはこのたとえ話をとおして、私たちに教えてくださいました。 主人は3人のしもべたちに、それぞれの能力に応じて、5タラント、2タラント、1タラントを預けます。1タラントは成人男子20年分の賃金に相当しますから、年収が300万円としてざっと6000万円、といったところです。とんでもない大金です。2タラントや5タラントとなると数億円にもなります。 いったい主人はしもべたちに、何のためにこんな大金を預けたのでしょうか? 預けてはおくが、手をつけるな? だったら、イエスさまはこんなありえないようなたとえをお語りになるはずがありません。 ちょっと脱線しますが、イエスさまがお語りになったたとえというものは、実際にあり得ることをわざわざたとえという形で語っていらっしゃるわけではないことにご注意いただきたいと思います。あり得る話ならば、ストレートに「教え」としてお語りになります。 「たとえ」というものは、あり得ない話を聴き手に投げかけられることによって、そのたとえの語る神の国というものの奥深さを聴き手に深く考えさせ、神の国を自分のものにしてほしい、という、イエスさまのいわば親心のようなものがもとになっています。 ですから、この「タラントのたとえ」も、あり得ないような話で神の国というものを考えさせるためにイエスさまがお語りになっているわけですが、これは、ルカの福音書19章の「ミナのたとえ」と読み比べれば、主人がどういう目的でしもべたちにタラントを預けたか、主人のその動機を知ることができます。そうです、「商売をしなさい」です。 商売をするのは言うまでもなく、お金を儲けるためです。それはことばを換えれば、「お金を増やす」ためです。主人がしもべたちにタラントを託したのは、そのタラントを増やすためです。 さて、5タラント預かったしもべは、5タラントもうけて主人にほめられ、2タラント預かったしもべも2タラントもうけて主人にほめられています。このしもべたちはなせほめられたのでしょうか。それは、主人のことばから読み取ることができます。 まず「よくやった」。主人は努力したことを評価しています。主人から預かったタラントを増やすために、商売という海千山千を相手にする厳しい世界に飛び込み、失敗や損失もものともせず努力したことを評価しています。 私たちの生きているこの世界も、イエスさまを証しするにはあまりにも厳しいです。反抗にあったり、無関心の反応を示されたりします。それでも私たちが、イエスさまによって救われた喜びにあふれて種を蒔きつづけるならば、たとえ人は評価しなくても、私たちの主人である神さま、イエスさまが充分に評価してくださいます。 主人はしもべを評価しますが、その評価はどれほどすばらしいものでしょうか?「良い忠実なしもべだ」。良いしもべです。私たちは、良い人、と評価されたくて努力するでしょう。 しかしその評価が、ほかならぬ主人からもらえるのです。どんな評価がしもべとしてもらえる最高の評価でしょうか? それは、あなたは忠実だ、という、この評価につきるのではないでしょうか? そのように神さま、イエスさまは、私たちが恵みの中で努力したことを、ご自身に対して忠実であったと認めてくださり、良いしもべだ、と、最高の評価を与えてくださいます。 主人はどのような点で、このしもべが忠実であると評価するのでしょうか?「おまえはわずかな物に忠実だったから、多くの物を任せよう」。私たちにとって大事なのは、イエスさまがここでおっしゃった、わずかな物とは何を指すのか、ということを、きちんと理解しているかどうかということです。それは端的に言って、わずかな物に比べての多くの物、つまり、神の御国を任されるにふさわしいだけの備えを、ふだんから積み重ねているか、ということです。 主人の財産を商売という形で増やしたしもべたちは、その商売を展開するにあたって、だれのしもべであるか、ということを前面に出して営業をします。私のこの商売は、主人の命(めい)を受けていしていることです。そうしてしもべに対して、と同時に、主人に対して、相手の信用を勝ち取り、主人に対する信用と信頼という領域をこの世界に増やしていくわけです。 私たちも同じことで、私たちも自分の名前や顔を売るためにこの世界に生きているのではありません。私たちの主人であるイエスさまをこの世界の人に知ってもらおうと、私たちはこの世界の必要とされている領域に行って愛の奉仕をし、ささげものをします。イエスさまの福音を宣べ伝えます。人々をキリストの弟子にします。そうすることで、私たちの周りから神の国が広がっていきます。 このように、つねに神さまの御国とその義を第一とする生き方をするならば、神さまはわたしたちのその歩みを覚えていてくださり、私たちがのちの世ではるかに素晴らしい天の御国に入ることができるように、私たちを祝福してくださいます。 そしてこの歩みは、「主人の喜びをともに喜ぶ」ことなのです。主人に喜んで忠実に仕えるしもべは、主人が喜びの人だということを知っていて、自分も主人とともに喜びたい一心で、今日の働きに種を蒔くのです。 私もこれまでのクリスチャン生活で、たくさんのクリスチャンに出会ってまいりましたが、いい信仰を持っている人は、喜びを絶やさない人です。 「いつも喜んでいなさい」とみことばが語っている、そのとおりの喜びを、実に自然に表現できています。そういう方は、神さま、イエスさまが、私たちのことを喜んでおられることを知っていて、その喜びを知るから自然と喜びがあふれてくる、という印象を与えてくれます。 さて、ここまでが、主人に喜ばれた働き人がどうであったか、という、イエスさまのみことばであるわけですが、これと対照的な働き人、そう、主人の1タラントを土の中に埋めたしもべについて、今度は反面教師として見てみましょう。 24節、25節を見てみましょう。……このしもべが主人に対して抱いていた感情は「怖れ」でした。「蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方……」 この主人の姿、聖書のどこかで見たことはないでしょうか? そう、出エジプト前夜のファラオの姿です。藁はやらないがれんがを今までどおりつくれ。つくれない者を厳しく打ちたたく。そのように民をいじめ、搾取するひどい権力者。このしもべにとっての主人のイメージは、そういうものだったというのです。 このしもべは何を怖れていたのでしょうか。もし、商売に失敗したら、主人からどんな目にあわされるかわからない。主人は、1タラント以上のことを自分に期待しているはずだから、その期待に応えられなかったら、何をされるかわからない。 とにかく、ほかのしもべたちとちがい、このしもべはタラントを増やすことをしていませんでした。しかたがなく、このしもべは言い訳に終始するしかありませんでした。ところがこのしもべが言い訳に選んだことは、なんと、主人の人となりはこんなだから私は怖くなった、ということだったのでした。 それを聞いた主人はどうしたでしょうか? わかった、私のことが怖かったんだね、許してあげよう、あなたに1タラントも預けた私が悪かった、そう言ったのでしょうか? とんでもありません。主人は激怒しました。 まず、15節を見てみるとわかりますが、主人はしもべの能力に応じてタラントを預けています。1タラント預けられたしもべは、ちゃんと1タラントを運用する能力があったことを、主人は知っていました。その能力があることは、しもべ自身も自覚していたはずです。問題は、その能力を持っていながら、ちゃんと行動しなかったことにあります。 しかし、もっと根本的な問題がありました。それはこのしもべが、主人とは自分にとってどのような存在かということを、はなから勘違いしていた、ということでした。 主人をこわい、と思うのはなぜでしょうか? 自分が、罰を受けるにふさわしいだけの悪を行い、それをやめようとしないからです。どこかで後ろめたい思いにさいなまれているわけです。それが、主人は理不尽に怖い存在、と間違ってとらえることにつながるわけです。 主人とはどういう存在かを間違ってとらえることは、主人が自分に望んでいることをまったく行おうとしない、不真面目な態度につながります。そのことは、このしもべが取った行動からも証明できます。 しもべは、自分に行動する力がないと認めるならば、その財産を銀行に預けてでもして、財産を増やすべきでした。銀行に預けるとはどういうことでしょうか? 銀行はむかしも今も、資産運用のプロです。お金の信用のないところに、人は大事なお金など預けません。主人の大金をあずかる銀行は、それを主人のために大切に運用し、ついには利息をつけて返します。銀行は、そのように運用するのは、自分たちをプロと見込んでお金を任せてくれた主人のためであることを理解しているわけです。 しもべにとっては、1タラントをまるまる銀行に預けることは、自分は主人に期待されるだけの能力がない、ということを公言するに等しいことでもあり、ちょっと恥ずかしいことではあります。しかしその恥は、最後の清算の時に主人からタラントを取り上げられ、出ていけ、となる恥に比べたら、何ほどのこともありません。 私たちはみな、賜物が異なっています。ある人は表に立ってバリバリ働くでしょう。ある人は裏方になってこつこつ働くでしょう。要はその働きを、神さまのためにしているかどうかです。 教会というものは、その賜物の欠けたどうしを補い合う働きをする場所であり、そう考えると、賜物というタラントが行き来しているうちに増やされる、銀行のような場所です。 私たち一人ひとりにも賜物はあります。しかし、この賜物とは神さまからお預かりしているものであり、やがてイエスさまが来られたとき、この賜物をどのように増やしたかということを主はご覧になります。 だから、賜物というものは、自分の財産のように思ってはならないわけです。ところが、もしイエスさまがやがて来られることを意識しないでいるならば、この賜物をあたかも自分のもののように思い、自分勝手に用いるようになってしまいます。逆に言えば、賜物を自分勝手に用いている人は、イエスさまが再び来られることを意識していない、ということです。 今、自分勝手、と申しましたが、それなら自分勝手ではない用い方とは何か、ということになりますが、それは、神の国のために用いる、ということです。 神さまが私たちに求めていらっしゃるとおり、貧しい人や病気の人、疎外されている人、捕らえられている人をケアする働きへと実を結ぶ、そうすることによって隣人を愛し、神の栄光を顕す……神の国はそのようにして私たちのうちから実現するものです。 しかし、このように神の国のために賜物を用いることには、多くの犠牲が伴います。頑張りすぎて肉体的にも精神的にも健康を害することもあるでしょう。周りの無理解や中傷によって傷つくこともあるでしょう。誤解されて人間関係にひびが入ることもよくあるものです。お金も出ていく一方です。自分自身の不勉強や人格の欠けを思い知らされて落ち込むこともあります。自分がよかれ、と思ってした行動がかえって問題を引き起こすこともあるかもしれません。 まことに、主の恵みがなければ、一日も続けることができません。そんな思いをするくらいなら、せめて楽に生きたい……そう思いますでしょうか? しかしそれなら、神さまはなぜ私たちのことを、この世界において、世の光、地の塩として召されたのでしょうか? それは、私たちがそう生きられると見込んでくださったからです。わたしの創造したこの世界は荒れ果てている……あなたなら、この世界にわたしの国を拡大できる……。 しかし、このように主が託されたみこころが重荷に感じられる方が、もしかしたらいらっしゃるかもしれません。主が再び来られることはわかっている、しかし、賜物を活用することは重荷でしかない。 そういう方はそれでも、どうか、賜物を土に埋めるしもべにならないでいただきたいのです。この賜物のあるままに、霊の銀行である教会に、ご自身もろとも委ねていただければと思います。それこそが、私たち一人ひとりに委ねられた賜物を、もっとも効果的に運用し、増やし、ついには再び来られるイエスさまの御前に堂々と立つ道です。 今年もこれで最後の日曜礼拝になります。さらにイエスさまのご再臨に近づきました。私たちにはどんな賜物がありますでしょうか? この賜物を増やすことができましたでしょうか? 終わりの日の清算を前にして、今日このとき、清算してみましょう。充分に励むことができた、と確信できるならばそれで充分、まだ励むことができるならば、何に取り組めるか、考えましょう。 そして、自分は神さまの期待に耐えきれない、と思うならば、せめて、この霊の銀行なる教会の交わりにとどまりましょう。間違っても、自分でその賜物を何とかしようとしないことです。 しばらくお祈りしましょう。

羊飼いのクリスマスを、私たちにも。

聖書箇所;ルカの福音書2:8-20/メッセージ題目;羊飼いのクリスマスを、私たちにも。 みなさん、クリスマスおめでとうございます。 クリスマスといいますと、みなさんはどのようなイメージをお持ちですか? なにやら美しい、なんだかわくわくする、そんなイメージを思い浮かべる方が多いのではないかと思います。 昨年来のコロナ下で、そんなことも言っていられない……私たちは憂鬱な毎日を過ごしてきました。せめてクリスマスくらいは、ぱーっと明るくなりたいものです。でも、クリスマスはなんでうれしいのでしょうか? なんでめでたいのでしょうか? イエス・キリストは、2000年前のユダヤでお生まれになりました。当時ユダヤは、ローマ帝国の属国でした。なにやら世界史の授業みたいで恐縮ですが、ちょっとおつきあいください。イエスさまのお誕生のとき、ローマ帝国では、皇帝アウグストゥスによって、すべての国民は本籍地に行って住民登録をするように命じられていました。ユダヤの人も例外ではありませんでした。 それでマリアとヨセフも、家のあるナザレからはるかかなたのベツレヘムまで、旅をしてきたのでした。彼らの先祖はイスラエルの歴史に名高い王さまダビデ、そのダビデの町がベツレヘムなので、彼らはベツレヘムまで行かなければなりませんでした。 そして、マリアのおなかの中には、赤ちゃんがいました。そう、その赤ちゃんこそイエスさまです。そのような中ではるか荒野を旅しなければならなかったのでした。余計に大変でした。 やっとのことで、彼らはベツレヘムにたどり着きました。でも、どこに行っても、宿屋は満員で、どこにも泊まることはできませんでした。しかたがなくて泊まったのは、馬小屋です。そのとき、マリアは赤ちゃんを産みました。馬小屋の中でイエスさまは生まれました。世界で最初のクリスマス、それは、いま私たちの知っているクリスマスとは程遠い、真っ暗で臭くて汚い馬小屋のできごとでした。 その、世界で最初のクリスマスに立ち会えた人たち、それは、羊飼いたちでした。今日私たちが生きている社会にも差別というものがあります。同じように、当時のユダヤにも差別はありました。羊飼いというものは、社会からのけ者にされている人たちの就く仕事でした。犯罪者、罪人扱いされている人たち。ほかのユダヤ人と一緒に礼拝に行くこともできない、嘘つきというレッテルを貼られている人たち。だから、裁判で証言することもできない。住民登録のことを申しましたが、ほかのユダヤ人とちがって、羊飼いは住民登録もさせてもらえませんでした。要するに羊飼いとは、ユダヤの宗教の世界からは疎外され、ローマ帝国の国民扱いもしてもらえない人たちだったのです。差別されて、疎外されている人たち。 その日もそんな羊飼いたちは、夜通し、羊の番をしていました。羊泥棒や野獣から群れを守るために、眠ることもできません。そんな時……突然、天使が現れ、まばゆい光にあたりが照らされました。羊飼いたちは突然のできごとに、恐ろしくなりました。 しかし、天使は恐がっている羊飼いたちに言いました。恐がってはいけません。私は、うれしいニュースを伝えに来たのです。……きょう、ダビデの町、ベツレヘムで、あなたがたのために、救い主、主キリストがお生まれになりました。その救い主は、布にくるまって飼い葉桶の中に寝かされている赤ちゃんです。 馬小屋の中、飼い葉桶の中に寝かされている赤ちゃんだなんて、なんて貧弱な格好なことでしょうか。でも、このお姿が、救い主の印だというのです。神の御子という天の輝く栄光を捨て、馬小屋のような、社会の最底辺のようなところに赤ちゃんとしてお生まれになったお方、このお方こそ、私たちのことを罪から救ってくださる救い主です。羊飼いたちはそれをその目で見たのです。 この世の最底辺に追いやられていた羊飼いたちにとって、それはどんなに大きな慰めとなったことでしょうか! 私たちはこのように、この世の最底辺まで降りてきてくださったキリストを礼拝するために、本日クリスマス礼拝のひと時をお持ちしているのです。 そして天使のことばに引き続いて、大勢の天使が現れ、神さまをほめたたえる讃美の歌を大合唱します。天においてはすばらしい栄光が神にあるように、地上においては神のみこころにかなう人に、平和があるように! やがて天使たちは天に帰っていきました。あたりは再び真っ暗になりましたが、羊飼いたちは互いに言いました。さあ、ベツレヘムに行こう。主が私たちに知らせてくださったこのできごとを見に行こう。羊飼いたちは急いで行きました。あとは、赤ちゃんがいる馬小屋を探すだけです。ほどなくして、羊飼いたちはマリアとヨセフ、そして生まれたばかりのキリストを捜し当てます。みんな、天使の告げたとおりでした。羊飼いたちは神をほめたたえながら帰っていきました。 この世は、出世すること、お金持ちになること、人に認められることを、人生の目標、また最高の価値のように教えます。しかし、あの時代の羊飼いたちは、どんなに頑張ってもそのような人になることができませんでした。彼らは、絶望を宿命と受け入れて生きるしかありませんでした。しかし、神さまは、そんな羊飼いのことを、救い主のお生まれに立ち会うように選んでくださったのでした。彼らはどれほどうれしかったことでしょうか! そして、羊飼いを選んでくださった神さまは、私たちのことも選んでくださいます。これが、聖書のメッセージです。この教会に普段集う私どもは、神さまに選んでいただいた者であるという自覚をもって日々過ごしております。自分たちは選んでいただいたけれども、それはなにかいっしょうけんめい努力したからとか、なにかいい行いをしたからではありません。ただ、神さまが一方的に私たちを選んでくださり、イエス・キリストの救いを信じる信仰を持たせてくださったと信じています。私たちは、神さまが私たちのすべての罪のために、ひとり子イエス・キリストを十字架につけてくださったことを信じるだけで救われるのです。救われるためには信じるだけ、そこには何の行いもいりません。 そして、この信仰を持てることは、神さまの一方的な恵み、プレゼントです。だから、神さまとその救いを信じているからといって、私たちは何か自分が特別だとか、自分のことを誇ることなどできません。ただ謙遜に、神さまが私たちを愛してくださるこのあふれる愛と恵みにあふれて、神さまと隣人にお仕えするのみです……。救い主の誕生に立ち会わせていただいた羊飼いのように、私たちも、特別に選んでいただいたことに感謝して、神さまをほめたたえる生き方を目指しております。 私どものこの生き方は、世の中の多くの人の目指すような、出世することとか、お金持ちになることとかとは、異なる生き方であるかもしれません。しかし私たちは、この生き方こそが、最高の生き方であると信じています。 羊飼いを最初のクリスマスをお祝いする人に選んでくださった神さまは、今日ここにいらっしゃいました私たちを、ほんとうの意味でクリスマスをお祝いするために、特別に選んでくださいました。みなさん、ぜひとも今日は、この礼拝の場所を、神さまが私たちに備えてくださったお祝いの場所として、喜びをもって受け入れていただければ幸いです。

「不思議な助言者イエスさま」

聖書本文;イザヤ書9:6~7/メッセージ題目;「不思議な助言者イエスさま」  先週私たちは、アドベントの第二主日で、水谷潔先生から「クリスマス前の自己点検」というタイトルでみことばを取り継いでいただきました。私も久しぶりにメッセージをお聴きする立場になりました。  みなさまはどの部分が心に残りましたか? 私は、「クリスチャンはキリストを指し示す矢印である」というメッセージでした。山道で絶対にしてはいけないいたずら、それは矢印の立て札を別の方向に向けること、山登りをする人は矢印のとおりに行けば迷わない。私たちもそれと同じ、私たちはキリストを指し示す矢印でいい、矢印は純金なんかでできている必要などない、段ボールの切れっぱしでもいい、要は、イエスさまを指し示していれば価値がある……。あなたはイエスさまを指し示していてこそ価値がある……ほんとうにそうだと教えられました。  水谷先生のメッセージをお聴きして、私自身のメッセージの語り方を反省させられました。私はあまりにも、イエスさま以外の情報を入れまくって、肝心のイエスさまを指し示していなかったのでは……? これからはメッセージをもっとシンプルにして、イエスさまが伝わるように工夫しよう。  正直に考えていただきたいのですが、メッセージにポイントがいくつもあってあとで忘れるくらいなら、ポイントはひとつでも、あとまでちゃんと覚えていた方がいいと思いませんか? というわけで、今日からメッセージはシンプルにいたします。イエスさまがみなさまに伝わるように努力します。そのかわり、ちゃんと聴いていただけたら幸いです。  今日の箇所はイザヤ書9章6節と7節のみことばです。イザヤ書とは南王国ユダの預言者イザヤによる預言であり、この9章の預言は、アハズという王が治めていた時代に語られたものです。  アハズ王……この王は悪いことをしました。まことの神さまの道を真っ直ぐに歩まず、偶像礼拝におぼれました。どれだけその歩みがひどかったかというと、第二列王記を読むと、自分の子どもを火の中に通すことさえした、とあります。それほど主に忌み嫌われる偶像礼拝の宗教行為に手を染めていたわけです。  このような王が統べ治めるとなると、ユダがいかに創造主なる神の民の国であるといっても、きわめて不安な中にありました。分裂王国の片割れであった北イスラエルは、9章1節に「ゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けた」とあるとおり、国の北方ガリラヤ地域一帯がアッシリアに侵略されて奪い取られ、南王国ユダも、心ある人は、明日はわが身、と意識せざるを得なかったはずです。  イザヤ書9章のみことばは、このような悲惨な目にあったガリラヤから、救い主キリストがデビューされるという驚くべき預言のみことばであり、それはこのみことばがマタイの福音書4章に引用されていることからもたしかなことです。その流れの中で、さきほどお読みしたみことば、6節と7節のみことばが登場してまいります。  この6節、7節のみことばは、特にキリストの誕生を預言しているみことばであり、アドベントの時期になるとあちこちの教会で礼拝メッセージとしてよく取り上げられます。この中の「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」という呼び名、これはまさに、イエス・キリストというお方がどのようなお方かを語っている呼び名です。  この中で今日は、「不思議な助言者」という呼び名について集中的に学びます。その前に、あとの3つの呼び名についてもざっと見ておきますが、「力ある神」、言うまでもなく、創造主なる唯一の神さまですが、このお方がみどりご、赤ちゃんとしてこの世界にお生まれになるという、驚くべき預言です。この人が、力ある神なのです。そしてこの預言どおり、イエスさまはあらゆるしるしと奇蹟をもって、ご自身が「力ある神」であることを人々の前にお示しになりました。  「永遠の父」、この呼び名は、イエスさまが三位一体の神における「御子」であることを知っている私たちにとって、若干の混乱を覚えさせる呼び名になってはいないでしょうか? キリストは「子」であって、「父」ではないのではないだろうか? しかし、この「父」は、三位一体の「父」という解釈ではなく、「私たちの上におられ、私たちを守ってくださる保護者(という意味での父)」と解釈すればよろしいです。  「平和の君」、神に敵対していた人間が神と和解する道を、イエスさまはご自身の十字架によって開いてくださいました。まさしく、神との平和を実現してくださったのでした。そしてキリストは、十字架を信じ受け入れた者どうしを、国や民族を超えて、ひとつにしてくださいました。まさにキリストは、神との平和、人との平和を実現してくださる王の王、すなわち、平和の君です。  さあ、それではこの4つの呼び名の中で、いちばん最初に出てくる「不思議な助言者」ということばをじっくり学んでみたいと思います。  この「不思議な助言者」は、聖書の訳によっては「不思議」であり「助言者」である、と訳しています。そうです。イエスさまというお方は、存在そのものが不思議なお方です。旧約聖書の士師記に、サムソンの父マノアが神の使いを目の当たりにする場面が出てきますが、マノアが神の使いに名前を問うと、神の使いは「わたしの名は不思議と言う」と答えました。神さまという領域を名前で形容すると、そのものずばり「不思議」なのです。  神さまは「聖」である、といいます。聖書の「聖」です。この「聖」は、「きよい」と読みますが、聖書の語る「聖である」ということは、人間的な努力や修行、宗教行為で到達する領域ではありません。罪人である人間にとっては、どんなに努力しても到達できない、言ってみれば「異次元」です。神さまというお方、イエスさまというお方は、その「異次元」のお方であり、神さま、イエスさまが「聖である」ということは、人間の罪に満ちた次元からはまったく異なる「異次元」におられる、ということです。  イエスさまが「不思議」ということは、「聖である」ということと密接な関係があります。聖である、人間とは異次元だから、人間の罪に汚れた霊的感性では到底理解できないお方である、ということです。見てください、イエスさまが大いなるしるしと奇蹟を行われたとき、だれよりもその素晴らしさを理解できず、それどころかイエスさまを殺そうとさえしたのは、ユダヤの宗教家たちではなかったですか。彼らは神さまに仕えているつもりだったことでしょう、しかし、どんなに努力していようとも、彼らの努力はしょせん人間的なものにすぎず、神さまに認められるものではありませんでした。  また、理解できないということは、到達できないということでもあります。あまりにも次元が違いすぎて、人間の努力でどんなに頑張ってみたところで、修行してみたところで、イエスさまの域には到底及ばない、ということです。  そのように、存在そのものが不思議なお方が、助言者、すなわち、不思議な助言者、ということです。それでは、「助言者」ということを見てみましょう。  「助言者」は、いくつかの意味に解釈することができます。まず、この「助言者」というのは、単にアドバイスをくれる人、という意味ではありません。単なるアドバイスという次元ならば、アドバイスをもらう人が主であり、アドバイスをくれる人が従です。しかしキリストは、そういう次元で助言者なのではありません。  まず、英語の聖書を見てみると、「カウンセラー」とあります。現代においては心理学が社会や人々に対して持つ役割がますます重要になり、それにしたがって「カウンセラー」も重要な働きになっています。この「カウンセラー」の中でも、まことの「カウンセラー」はイエスさまである、というわけです。何でも相談できるカウンセラー。素晴らしい導きをくださるカウンセラー。  もちろん、私たちの暮らす社会における役割という面では、カウンセラーは万能ということは期待されず、臨床心理士のような資格を持つ人も、精神の病を治療することはしません。しかしイエスさまはどうでしょうか? 社会のつまはじきにされている取税人や罪人の食事会に招かれたイエスさまは、「医者を必要とするのは健康な人ではなく病人です」とお語りになり、ご自身こそは罪人を招いて悔い改めさせ、罪に病んだ人を癒して健康にする医者であるとお語りになりました。それがおできになるのも、イエスさまは人を創造され、人にいのちを与えられる、まことの神さまであられるからです。  私たちが毎日、お祈りとみことばにおいてイエスさまとの交わりを持つ必要があるのは、私たちが罪によって病む病人、罪人であるからです。だから私たちは何よりも、自分は癒されなければならない罪人である、病人である、という自覚が必要です。私たちが日々イエスさまに近づき、お祈りとみことばによってイエスさまと交わるならば、イエスさまは私たちの罪の病を明らかにしてくださり、私たちをいやしてくださいます。そんなお医者さん、そんなカウンセラー、それがイエスさまです。  さて、このようにイエスさまはカウンセラーであるわけですが、イエスさまは単に私たちの問題を解決してくださるだけの「カウンセラー」ではありません。そこで私たちはこの「助言者」ということばの意味を、もう少し別の角度から考えてみたいと思います。  韓国語の聖書を読みますと、この「助言者」は「モサ」ということばに訳されています。この「モサ」ということばは、「謀(はかりごと)」「謀議」というときの「謀(ぼう)」ということばと、「軍師」というときの「師(し)」ということばを組み合わせて、日本式に発音すれば「謀師(ぼうし)」です。日本語でいちばん近いことばがあるとすれば「参謀」といったところでしょうか。しかし「謀師」となると、「参謀」よりさらに主体的なイメージです。日本人にとって近しいところでは何といっても、三国志の諸葛孔明でしょう。 三国志の軍師である諸葛孔明のアドバイスが、蜀の王である劉備玄徳と蜀の国の行く末を左右したように、聖書においても王のかたわらには、このような王と国の命運を左右する「謀師」が存在しました。ときに、指導者がどの「謀師」を起用したかによって、イスラエルの命運が決まったということさえ起こりました。アブサロム王子がどのような謀師、アドバイザーを起用したかが、ダビデのいのちとイスラエルの行く末を救ったという記述が、サムエル記第二に出てきます。 アブサロムがもし、アヒトフェルのアドバイスを受け入れたならば、ダビデは滅びました。しかし、ダビデの陣営からアブサロムの陣営に放たれたフシャイがアブサロムにアドバイスをすると、その意見が通り、ダビデのいのちは救われたのでした。このように、軍師のアドバイスひとつでダビデ王とイスラエルの行く末が決まった、ということがあったわけで、どの軍師がどんなアドバイスをするか、ということは、国を左右するたいへんな重みを持つことです。 いみじくも聖書協会共同訳という訳の聖書では、この「助言者」は「指導者」と訳されています。つまり、従の立場で主の立場に対して「助言」するのではありません。主の立場で従の立場に対して「指導者」として「指導」を行うのです。 この預言が語られたこの時代、イザヤのような心ある神の人にとって、アハズ王はとても「指導者」と認めることのできるような王ではありませんでした。アハズは本来ならば、ダビデの血を引く者として、神の人にふさわしい指導力を神の民の国であるユダ王国に対して発揮してしかるべきでした。しかしそのような期待はアハズに対してはとてもできませんでした。人間的な王の血統が神の民を治めるにふさわしい指導力を保障してくれたわけではなかったのでした。 しかしイザヤは、まことの指導者であるキリストはダビデの王座にとこしえにつく、すなわち、ダビデの子孫としてお生まれになるのと同時に、ダビデを王としてお立てになった神さまのみこころをもっとも忠実に実現してくださる、ダビデも人であったゆえに弱さをまとっていたが、キリストは神さまがダビデに期待されていたとおりをことごとく実現される、王の王である……。 この王の王、神の民ユダ王国の王の分際で偶像礼拝におぼれるようなアハズなど足元にも及ばない王、ほんとうの意味でダビデに与えられた王権をこの地に実現してくださる王……このイエス・キリストという王さまは、主権をもって導いてくださる王です。 私たちクリスチャンのただ中に存在する「神の国」……それはイエスさまが王として治めてくださる国です。私たちの住むこの世界のどの国家も、この「イエスさまの治める神の国」を実現することはできません。地上の国家は、しょせん人間が治め、人間が導くものでしかないからです。 しかし私たちはどうでしょうか。私たちは自分が罪人であることを認めています。イエスさまという主人に導いていただく、指導していただく必要があることを知っています。自分の人生の主人が自分ではなく、イエスさまであることを知っています。 しかしイエスさまは、単に君臨する王ではありません。悩む私たちに、いつでも耳を傾けてくださいます。迷う私たちを、いつでも捜し出してくださいます。なんということでしょうか、仕えてくださる王さまなのです! 仕えてくださる王さま! そんな王さまがいるでしょうか! でも、イエスさまは仕えてくださる王さまなのです! 私たちのきたない足を洗ってくださる王さまです。私たちに手を置いてくださり、病を癒してくださる王さまです。そして……十字架にかかってくださり、私たちを罪から救い出してくださった王さまです。私たちのためにいのちを捨ててくださった王さまです。私たちのためによみがえってくださった王さまです。私たちのために今この瞬間も、とりなして祈っていてくださる王さまです。 そしてイエスさまは……今度こそほんとうに王の王として、この世界に来られる王さまです。しかし、イエスさまを信じる私たちのことも、永遠に王としてくださるのです。私たちは主とともに統べ治めるのです。 そのように、私たちに御国を任せてくださる日に至るまで、今この地上のどんな小さなことにも忠実になれるように、イエスさまは私たちに、忠実であるとはどういうことか、忠実に振る舞うとはどうすることか、なぜ私たちは忠実であるべきかを、ひとつひとつ、たしかに教えてくださいます。 私たちが忠実になれないで悩むならば、すなわち、隣人に対してほんのわずかでも愛する行いができないで悩むならば、イエスさまは親しく、私たちの悩む祈りに耳を傾けてください、どうすればいいか、みことばによって教えてくださいます。イエスさまはそんなカウンセラーです。その積み重ねはやがて、私たちがイエスさまとともに御国を統べ治める指導力を得ることにつながります。イエスさまはそのように導いてくださる指導者、まことの指導者です。 さあ、イエスさまの前に私たちはいま出ましょう。私たちは神さまの御前で、悩んでいることはないでしょうか? イエスさまの導きを特別に必要としている領域はないでしょうか? 祈って、イエスさまの助けをともに求めましょう。具体的に求めましょう。

「クリスマス前の自己点検」

ルカの福音書1章5~17節 「クリスマス前の自己点検」   物事には、前触れとか、準備というものがあります。偉大な人物が登場する前に、人々がふさわしく受け入れられるように、備えや予告をします。たとえば、大名行列は奴さんたちで、王様のパレードの鼓笛隊で、大相撲で横綱が登場する時も、太刀持ち露払いが先頭となります。   そのことはクリスマスも同様です。多くの神の器が、イエス様が来られる準備に用いられました。乱暴に言えば、旧約の預言者たちは、奴さんであり、鼓笛隊であり、太刀持ち露払いです。そして、最後の仕上げ役が登場します。それがバプテスマのヨハネです。彼こそが、人類がクリスマス、イエスキリストのご降誕を迎えるための最後の仕上げをしたのです。   今、私たちは、クリスマス迎えようとしています。自らが今年のクリスマスを迎える備えとして、この朝はバプテスマのヨハネに学び、倣いたいと願います。この箇所にはバプテスマのヨハネの誕生とその働きが預言されています。17節によれば、その中心は主の前触れをする事、民の心の向きを変えること、すなわち整えられた民を主の前に用意することでした。  そのために、遣わされたバプテスマのヨハネがどのような人物であったかが15節と16節に記されています。今からの時、「クリスマス前の自己点検」と題しまして、その15節と16節の御言葉を中心にみ言葉をお取次ぎします。バプテスマのヨハネのありようを基準に、三つのポイントで、自己点検をしながら、クリスマスに向けて自らを備えてゆきたいと願います。 ~本論A~   では、さっそく一つ目です。「クリスマス前の自己点検」その一つ目は、「主の前に優れた者かどうか」です。人の前ではなく、主の前です。人の評価でなく、主の評価を第一に生きようとしているかどうかです。それは15節最初に一文に書かれています。「その子は、主の御前に大いなるものとなるからです。」 「彼は主の前に大いなる者となる」とあります。ここには、ヨハネが人にどう評価されるかは書かれていません。それほど大切なことではないからです。一方で、はっきりと神様からは、大いなる者と評価されると約束されているのです。イエス様もマタイの11章の中で「女から生まれた者の中でバプテスマのヨハネより優れた人は出ませんでした」とおっしゃっています。 それでは、神様の前に大いなる者とはどういう人でしょう。人ではなく主の評価に生きるとはどのような歩みなのでしょうか。開かなくて結構ですが、同じルカの14章に分かりやすいたとえが登場いたします。   イエス様はおっしゃいまいした「結婚の披露宴に招かれたときには、上座に座ってはいけません。(中略)招かれたなら、末席に行って座りなさい」と。このたとえ話のポイントはただの祝宴でなく、婚礼の席である事です。今の日本でもそうですが、披露宴の席はお客が選んで決めることはできず、招待主の側が一方的に決めます。   ですから、末席に着くとは、招待主の決定に委ねることを意味します。末席で招待主から、もう少し前へと言われたら、その席に着くのです。つまり、自分で地位や立場を選んで得ようせず、主に委ねなさいという事です。このたとえ話の結論は「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする物は高くされ」です。低くするとは、自らを仕える者とするという事です。  まず末席に着いて、それから案内される席に着きなさいという事は、主が召して下さった地位や立場にあって、それにふさわしく仕えなさいという事です。そのような者を主は高くして下さると聖書は教えます。そのような人物こそが主の前に大いなる者なのです。主の召しに従い、召された立場で忠実に仕える、これこそが主に評価される生き方です。   バプテスマのヨハネは、実に召された立場に忠実な器でした。ヨハネの福音書によれば、使徒ヨハネとアンデレは、そもそもバプテスマのヨハネの弟子でした。ある時、バプテスマのヨハネがイエス様を指差して「見よ。神の子羊」と言うと、二人はイエス様の弟子になってしまいました。 普通なら、面白くないでしょう。弟子に去られたのですから。しかし、彼は、それでよしとしたのです。なぜなら、イエス様を指し示し、人々をイエスに導くのが彼の役割、使命であったからです。イエス様が栄えるためなら、自分は衰えてよい、忘れ去られてよい、省みられなくてよいと考えていたからです。あくまで、中継ぎ、橋渡し役に徹していたのです。   最後に彼は、主の正義の故に殉教しました。正しくない結婚をしたヘロデ王の罪を責め、それが原因となり処刑されました。まさにバプテスマのヨハネは自分の立場で忠実に仕えきった器です。神の前に優れた者であったのです。   以前、ラジオで昭和歌謡を代表する作詞家である中西礼さんがこうおっしゃっていました。「僕は職業に貴賎はないと思うのです。むしろ、それぞれの職業の中に貴賎があると考えています。作詞家が他の職業より立派なく、他の職業と同等だと思うのです。ただ、作詞家にもいい作詞家と悪い作詞家がいます。サラリーマンにもよいサラリーマンと悪いサラリーマンがいます。魚屋さんにも良い魚屋さんと悪い魚屋さんがいます。職業それぞれの中に貴賎があると思っています。」   それを聞いて、神の前での評価も同じだなあと思いました。伝道者が一般の職業より優れた職業ではありません。人それぞれ主に召された職業や立場が最高なのです。そこに貴賎も優劣もありません。ただ、それぞれの職業や立場に貴賎があるのでしょう。   職業や役割などの召しにふさわしく、それぞれ置かれた立場で誇りをもって忠実に仕えているかどうか、主はそれをご覧になり、私たちを評価しておられるのです。私たちは、自らの座るべき席の決定を主に委ねるべきです。婚礼の席のように召して下さった方が一方的に決めて下さった席に座るのです。そして、そこで忠実に仕えるのです。それが神の前に優れたもののあり方です。   ヨハネは皮衣、野蜜とイナゴ食ばかり食べていました。ヨハネは当時の宗教家たちからは、「飲まない、食べない」ので気が狂っているという評価を受けていました。つまり変人扱いされていたのです。バプテスマのヨハネに対する宗教界の評価は「奇人、変人。狂人」でしかありませんでした。しかし、主の前に彼は大いなる者だったのです。 世俗化したこの社会では人間の価値は、その所有によって測られます。つまり、何を持っているかで人間の価値が測られるのです。財産、学歴、職歴、家柄、社会的地位、能力、資格、美しい容姿、それらを持っている人間が優れた者とされるのです。   しかし、主の前で優れているかどうかは所有に関係ありません。ヨハネのようにたとえ、所有がゼロであったとしても、与えられた立場で忠実に仕える者を主は優れたものと評価して下さるのです。そして、そのような人物こそがクリスマスの最後の仕上げに用いられたのです。   聖書は言います。「彼は主の前に大いなる者となるからです」。クリスマス前の自己点検、その一つ目は「主の前に大いなる者であるかどうか」です。お互いは、主の前にどうでしょうか。人の前での評価は二の次です。クリスマスを前にして、お互いは、主が召された席で忠実に仕えたいと願います。それぞれの遣わされている家庭、職場、学校、地域、教会において、忠実に仕え、神様の前に優れた者としてクリスマスを迎えられたらと願います。 ~本論B~ 続いて二つ目です。「クリスマス前の自己点検」、その二つ目は、「自らの内側はどうか」ということです。お互いは、クリスマスを迎えるにあたり、バプテスマのヨハネを模範とし、「自らの内側はどうか」を点検したいと願います。それは15節の後半に書かれています。15節の後半の一文をお読みします。「彼はぶどう酒や強い酒を決して飲まず、まだ、母の胎にいるときから聖霊に満たされ」   「母の胎内にあるときから聖霊に満たされ」とあります。バプテスマのヨハネは、神様の前に大いなる者でありました。しかし、それは彼の肉の努力や能力によるものではありませんでした。彼の内側は常に聖霊に満たされていたのです。私たちも神様の前に優れた者であるためには、聖霊に満たされている事が大切です。   では、聖霊に満たされるとは、この文脈では、どういうことでしょう?15節にそれをうかがわせる内容があります。「ぶどう酒や強い酒を決して飲まず」とあります。ここでは、聖霊に満たされる事と、お酒を飲む事、飲酒が呼応関係で対称的に書かれています。   聖霊とお酒と言えば、エペソ5章18節です。「また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい」とあります。聖霊に満たされる事とお酒に酔う事とは類似性があることを、ルカの1章もエペソの5章も示唆しています。   お酒と他の飲み物は決定的に違います。お酒の特殊性は、その液体が、飲んだ人の考えや、、判断、行動に影響が及ぼすことです。は酒で取り返しのつかない失敗をすること、人生を棒に振る場合もあります。お酒というものはただの液体、飲み物に過ぎませんが、時と場合によっては私たちに計り知れない大きな影響を与えます。   聖霊も同様です。私たちが救われて聖霊を内に宿すと人格に影響が起こります。考え方、物事の判断、実際の行動や生活、そして人生そのものに大きな変化が与えられます。そして、さらに聖霊に満たされるとその人は聖霊から支配的な影響を受けるのです。 ちょうど、お酒に酔った人が自分の意思が働かない程、お酒に支配されてしまうように、聖霊に満たされると、その影響が人格と生活の全分野に支配的に及ぶのです。 もちろん、聖霊は力の霊です。宣教の力を与える霊です。しかし、聖霊を満たされることを元気が出る栄養ドリンクのように考えては、一面的になってしまいます。 なぜなら、聖霊は御人格をお持ちだからです。三位一体という人格のお一人なのですから、聖霊に満たされる時、私たちは聖霊の力を受けるだけでなく、聖霊から人格的な影響を受けるのです。   普段の人間関係でも、私たちは人と交わるとその人の人柄に感化されます。「朱に交われば赤くなる」と言う通り、人間は交わる相手から人格的影響を受けます。そのように聖霊に満たされるとは聖霊という御人格に支配的影響を受けることを意味します。 主なる神様とお交わり、お従いする歩みの中で、聖霊に満たされ続けていくのです。私たちが御言葉を聴き、それに従い歩むという神様のとの人格関係の中で、祈りという神様との会話の中で私たちは、聖霊というご人格に影響を受けます。さらに、人生の運転席を自分から神様にお譲りして歩み続けるなら、いよいよ聖霊に満たれた歩みがあるのです。  …