「主イエスの母、そして主イエスの家族」

聖書箇所;マタイの福音書12:46~50/メッセージ題目;「主イエスの母、そして主イエスの家族」  私は韓国に留学した1995年、「ソウル日本人教会」という教会に通っていました。その教会は、韓国訪問の折に教会に訪れるさまざまな日本の牧師先生が、日本のキリスト教会で起きていることをリアルタイムに伝えてくださる場となっていました。その先生方のメッセージの中で、忘れられないものがありました。その年は阪神淡路大震災が起こった年でしたが、当時、日本基督教団新潟教会の牧師でいらっしゃった、春名康範先生という方がいらしたとき、こんなことを語っていらっしゃいました。 震災からの復興活動での炊き出しに参加され、そのときの様子に、ある韓国語を思い出したというのです。それは「シック」ということばでした。「シッ」は「食べる」と書き、「ク」は「口」と書きます。「食べる口」というわけですが、これは「家族」という意味です。春名先生は、ボランティアの炊き出しに群がり、一緒にご飯を食べる被災者の、ああ、ありがたいなあ、というその姿に、シック、という韓国語を重ね合わせた、とおっしゃったのです。まさに、同じ大きな災いを通して、避難所で家族のような立場になったどうしが、同じ食べ物を食べて、シック、つまり、家族……なるほど……私は唸りました。  当時私は、韓国の地方からソウルに上京していた7人の大学生たちとひとつ屋根の下で共同生活をしていました。朝には交替でごはんをつくります。食べるときは鍋を真ん中において、お椀にもつがずにスプーンで直接すくって飲みます。キムチもおかずも、取り皿なんてありません。そして朝ごはんがすんだらそれぞれキャンパスに散り、夜になると帰ってきます。寝る前には車座になって、一日のできごとの報告とお祈りの課題をそれぞれ話し、最後にみんなで手をつないで祈ります。まさに「家族」。  私はその、春名先生のエピソードに感動した日、家に帰り、同居していた学生リーダーにそのことを話すと、彼もとても感動してくれました。やがて私が留学生活を終えて日本に帰るとき、彼はみんなの前で、トシ兄弟が言っていた「シック」のエピソードにとても感動した、俺たちはいっしょに食事を囲む家族じゃないか、という意味のことを、わざわざ言ってくれたものでした。 今日は礼拝において「主の晩さん」を分かち合います。先週金曜日、私は保守バプテスト同盟の教職者の勉強会である「同盟アーカイブズ」というものにオンラインで出席しました。そのとき教えられたことですが、ほんらい「主の晩さん」というものは儀式ではなく、主にある交わりの一環として行われた食事の一部であった、ということです。それが、時代が下るにつれて宗教的な意味づけがされ、いつの間にか、とても畏れ多いものとなってしまった、ということです。   本日、ともにいただく「主の晩さん」は、どうか、イエスさまが手ずから裂かれたパン、イエスさまが杯を回されたぶどう酒をともにいただく、家族としてともにいただく、そういう気持ちであずかってまいりたいと思います。そんな「主の晩さん」を控えた私たちは、同じ主の晩さんのパンと杯を食して口にする「シック」、家族であるわけですが、それがどんな家族なのかを、イエスさまが端的にお示しになったみことばから、今日はともに学び、ともに家族とされている喜びを分かち合いたいと思います。 今日の箇所は、イエスさまの母であるマリアと、イエスさまの弟たちが、イエスさまに会いにやってくる場面から始まっています。マリアのことは申し上げるまでもありません、あのマリアです。イエスさまの弟たちというのは、マリアとヨセフの間に生まれた人たちで、「主の兄弟」という別名で呼ばれることもあります。名前はマタイの福音書13章の終わりの部分で明らかになってもいますが、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダで、このうちヤコブとユダは、新約聖書の「ヤコブの手紙」「ユダの手紙」を書いた人物で、つまりは初代教会の指導者になった人です。ついでに申し上げますと、イエスさまにはこの4人の弟のほかに、少なくとも2人の妹がいたことが、やはりマタイの福音書の13章からわかります。 また、これは類推ですが、イエスさまの公生涯の記述に、ヨセフのことが出てこないのは、イエスさまの公生涯の時期にはヨセフがすでに亡くなっていたからだというのが定説です。ヨセフがなぜ亡くなったかは、聖書はまったく沈黙しています。しかし、ヨセフは少なくとも、あまり健康が保てる仕事についていなかったのはたしかです。石で家を建てる時代のパレスチナで大工となったら、石を切ったり削ったりする作業で大量の粉塵が出て、マスクもない時代です、その粉塵を吸い込んで、健康をとても害したことでしょう。イエスさまがお生まれになったヨセフの家庭は、そのような厳しい労働者の家庭だったということを、私たちは覚えておきたいと思います。 イエスさまはもともと、そのような家庭の長男として、稼ぎ頭だったわけでした。しかし今やイエスさまは、神の国を宣べ伝えるお方でした。そのようなお方でしたが、ユダヤ人ならだれもかれもがイエスさまのことを受け入れていたわけではありませんでした。同じ12章をご覧ください。イエスさまはパリサイ人から、悪霊のかしら扱いされています。もちろんイエスさまは、それに対してごもっともな反論をしていらっしゃるわけですが、このように、当時絶対的な立場にあった宗教指導者たちに睨まれていたことは、マリアや弟たちを動揺させるに充分だったのではないでしょうか。そんな彼らがイエスさまに話しにやってきたわけです。お願いだから、悪いことは言わないから、こんな働きはやめて……。そんな彼らの心の声が聞こえてくるようです。 親兄弟が会いに来たならば、会うべきだと思いますでしょうか。しかし、イエスさまは取り継いだ人に対し、みなの聞いている前でおっしゃいました。48節から50節です。……イエスさまは、ご自分に弟子としてついてきていた人たちのことを、わたしの母、わたしの兄弟たち、とおっしゃいました。それはなぜであるか、50節に語られているとおりです。彼ら弟子たちは、天におられるイエスさまの御父のみこころを行なっているからだとおっしゃいました。 ここから、2つのことが分かります。ひとつは、イエスさまのお働き、神の国を宣べ伝えるお働きをとどめようとすることは、いかにイエスさまの肉親であろうとも、とどめることはできないし、また、とどめるべきではない、ということです。もうひとつは、天の父なる神のみこころを行うならばその人がほんとうの弟子である、その、神のみこころを行うとは、イエスさまに弟子としてついて行くことである、ということです。 イエスさまは、「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら」とおっしゃいました。ここでマリアたちも、群衆も、弟子たちも、そして私たちも、イエスさまの父とはどなたなのかを考える必要があります。 マタイの福音書の13章に入ってみると、イエスさまの故郷ナザレの人たちは、イエスさまはヨセフのせがれ以上の見方をしなかったわけです。マリアたちも、イエスさまのことをそのようにしか見ることができなかったからこそ、このようにイエスさまのお働きに関係なく、お働きの最中でも呼びつけるようなことをしたわけです。しかし、イエスさまの父なるお方はヨセフではなく、天のお父さまであることを知るならば、人はイエスさまの弟子になるならば、すなわち天のお父さまのみこころにお従いすることになります。イエスさまは、肉親の関係でご自身のご家族を決められるお方ではありません。天の父なる神さまを父としてイエスさまに従う人ならば、だれでも家族としてくださるのです。 天の父のみこころを行うなら、とは、それは、天の父をイエスさまのゆえに信じる、ということです。イエスさまを通してでなければ、だれも天の父のもとに行くことはありません。しかし、イエスさまを通すならば、人はだれでも、創造主なる神さまをお父さまとお呼びする者としていただけます。これが、信仰を持つ第一歩であり、それはまた同時に、イエスさまの弟子となる第一歩でもあります。しかし、イエスさまは私たちにとって遠いお方ではありません。私たちのことを家族として受け入れてくださいます。 さて、家族、というとき、「兄弟姉妹」なら、まあ私たちはわかるのではないでしょうか?例のベートーヴェンの「第九」のメロディの聖歌、25番の4番の歌詞は、「御神はわれらの父親なれば/御子なるイエスをば兄上と呼ばん」とあります。私たちはあまりイエスさまのことを「お兄さま」と呼ぶことはないように思いますが、まあ、論理的にそうなのはお分かりだと思います。私たちは同じ御父によって、イエスさまの兄弟姉妹にしていただいている存在です。 しかし「イエスさまの母」となりますと、これはどうでしょうか? イエスさまのこのみことばはかなり難解です。私たちは百歩譲って、イエスさまの弟や妹に加えていただけるとは思うでしょうが、「母」となると、あまりに畏れ多い、と思えませんでしょうか? しかしこのイエスさまのおことばは、ほかならぬマリアがどういう理由で訪ねてきたか、ということを考えると、謎は解けます。イエスさまは「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの……母なのです」とおっしゃっています。ということは、このときマリアは、天の父のみこころを少なくとも行なっていなかった、ということになるわけです。 マリアは何をしたのでしょうか? マリアは主の兄弟たちとともに、群衆のいる家の外にいました。要するに、イエスさまについて行っていたわけではありませんし、イエスさまが説いておられるメッセージそのものに関心があったわけではありませんでした。 ということは、マリアも含め主の肉の家族は、イエスさまの語っておられる神の国に無関心な態度を示していた、ということになります。それだけでしょうか? イエスさまがいっしょうけんめい、神の国の福音を語っていらっしゃるというのに、そこに主の兄弟たちとやってきて、イエスさまを呼びつけたということは、結果的にその行動は、イエスさまのそのお働きを中断させてしまうことになるわけです。 それはどういうことでしょうか。神の国の福音が、それだけ聞く人に伝わらないということになります。人が救われて神の国に入る可能性は、それだけ損なわれることになります。それはイエスさまの、神の子キリストとしての働きを邪魔することであり、つまりは天のお父さまのみこころをきわめて損っているということです。 しかし、さすがはイエスさまなのは、そのような無理解なマリアたちの行動さえも、神の国の福音を人々に解き明かす機会へとお用いになったことでしたが、ともかく、マリアは、ルカの福音書1章で告白したように、神の子イエスさまをこの世に送り出した主のはしためとしての立場を堅持している必要がありました。 それこそが、神の子キリストの母であるということです。キリストを生んだ人、というよりは、主のはしため、主に用いられることに至上の喜びを覚える謙遜な器、だからこそ、御父はイエスさまをこの世に送り出す人としてマリアをお選びになったのであり、私こそはイエスの母親でござい、というような振る舞う人は、いちばんイエスさまの母親と呼ばれるのにふさわしくない人です。 しかしこの、イエスさまに「わたしの母」と呼んでいただいた、その場でイエスさまのメッセージをお聴きしていた弟子たち、とくに女性の人たちがどんなに面映(おもはゆ)い思いをしたことか、想像するにあまりありますが、イエスさまの母、という面映ゆい呼び名は、イエスさまにそう呼んでいただいた人以外にふさわしい人などいないと考えるべきです。言うまでもないことだと思いますが、間違っても自分たちの間で、あら、あなたは神のみこころを行なっているわね、あなたはイエスさまのお母さまね、というようなレベルの話ではありません。あまりに畏れ多くて、そんなことはとても口にできないのがクリスチャンとしてのまともな神経でしょう。 マリアの話に戻りますが、マリアもまたひとりの人として、父なる神さまのお取り扱いのもとに身を低くする必要がありました。 イエスさまの献児式のためにエルサレムにヨセフとマリアが赴いたとき、シメオンがイエスさまについて、このような預言をしました。ルカの福音書2章、34節と35節です。……まさにさばき主なるイエスさまによって、マリアの心さえも、まるで剣が刺し貫くようにさばかれる、というわけです。マリアはこのとき、イエスさまのお働きを妨害したとは、自分は実は神のみこころを行なっていなかった、という現実を見せつけられました。マリアもまた、悔い改める必要があったのでした。 しかし、このようなマリアでしたが、聖書は、イエスさまの十字架のできごとにおいて、マリアがどうだったかを記しています。マリアは、イエスさまの十字架の前に立っていました。イエスさまの十字架をじっと見つめていたのです。イエスさまはそんなマリアに、ご自身の愛弟子ヨハネこそ、これからあなたと親子になる人です、とお語りになり、神の家族としての新しい家族の関係にマリアを導き入れられました。 マリアはもはや、私はイエスさまの母でござい、の人ではありませんでした。神の家族に生きることによって父のみこころを行うことで、マリアはようやくほんとうの意味で「イエスの母」となることができたのでした。 私たちは自分から「イエスの母」を目指すことなどできませんし、ましてや、名乗ることなどできません。しかし、「神のみこころを行う弟子となる」ことで、イエスさまの家族に加えていただくことはできます。イエスさまに肉親の家族が実際にあったわけですが、それ以上に強い関係として、私たちのことを家族にしていただけるのです。 私たちは今日、主の晩さんをもってパンとぶどう酒をともにいただきます。それは、イエスさまのみからだと血潮という主の食卓にともにあずかる、ひとつの家族であることを確かめる、おごそかにして麗しいひとときです。 私たちはイエスさまが、わたしの家族と呼んでくださった、特別な関係です。イエスさまと家族にしていただいている、これ以上素晴らしいことがあるでしょうか? 私たちは血を分けた家族との関係に、時に傷つき、いやな思いをします。しかしそれは、地上の家族が完全ではないからです。しかし、イエスさまと家族にしていただいている関係は、この世の何ものにも代えがたい関係で、私たちはこの、教会という共同体の中で、神の愛を体験し、兄弟愛をはぐくみます。 イエスさまは、私たちが家族としてますます愛に進むことを願っていらっしゃいます。そしてそれだけではなく、私たちに与えてくださったこの愛を、さらに多くの人に広げることを願っていらっしゃいます。私たちは今週、どのようにしてこの愛を味わいますでしょうか? そして、この愛をだれかに対して表現しますでしょうか? 私たちはだれかに愛をあらわしてこそ、イエスさまに愛されていることをほんとうに理解し、体験するようになります。

自由のための二つの警告

聖書箇所;コリント人への手紙第一3:18~23/メッセージ題目;自由のための二つの警告 先週私たちは、私たち聖徒は神の建物であると学びました。礼拝堂という目に見える建物のことを言っているのではなく、パウロのような働き人がキリストという土台の上に建てた存在が聖徒、キリストを土台としているだけの価値ある献身で建てるべきなのが聖徒、そして何よりも、主ご自身を迎え入れた神の宮なのが聖徒です。 そのような存在とされていることを教えられなければならないのは、コリント教会がそれにふさわしい歩みをしていなかったからです。私たちも下手をすると、そのようなふさわしくない歩みをしてしまう、だから私たちは、みことばが何を語っているかをよく聴き、みこころにかなった教会形成に献身する必要があります。 今日の箇所を見てみますと、パウロは2つの警告を発しています。ひとつは「だれも自分を欺いてはいけません」、もうひとつは「だれも人間を誇ってはいけません」です。 コリント人への手紙は全体に、彼らコリント教会のレベルに合わせてやさしい表現が用いられています。しかし、この表現だけを抜き出してみると、パウロはちょっとわかりにくい言い方をしています。しかし、安心してください。わからないのは私たちが不勉強だったり、霊的に鈍すぎたりするからではありません。ほかならぬペテロが言っています。……その中には理解しにくいところがあります。……第二ペテロ3章16節にはっきり書かれています。わかりにくいからと不安がらなくていいのです。 しかし、わかりにくい内容を曲解するようで困ります。この第二ペテロ3章16節には続きがあります。……無知な、心の定まらない人たちは、聖書の中の他の箇所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます。……みことばをふさわしい教理どおりに理解していないならば、滅びてしまいます。いわゆる異端と呼ばれる人たちは、聖書を用いていても「キリストのからだなる教会」、すなわち、救いの恵み、永遠のいのちの恵み、天国の恵みを私たちとともに味わう人たちと言えないのは、彼らが正しい教理で聖書を解釈せず、聖書を曲解しているからです。 どうすればいいのでしょうか? 何よりも私たちは、この姿勢で聖書をお読みする必要があります。ヤコブの手紙1章、5節と6節です。…… みことばを理解する知恵は、神さまに求めるのです。神さまに求めるならば、私たちは礼拝でのみことばの解き明かしも、ふだん読むディボーションのテキストも、聖書や信仰に関する書籍も、より真剣に理解しようとするでしょうし、神さまはそのような人に、ふさわしい知識を与えてくださいます。それをしないと、いざというときに大風に吹かれて揺れ動く船のようになってしまいます。イエスさまの語られたとおりに表現を変えると、砂の上に家を建てた人のようになります。要するに、イエスさまという土台の上に根ざしていないのです。 前置きが長くなりましたが、「だれも自分を欺いてはいけません」という警告も、「だれも人間を誇ってはいけません」という警告も、それにふさわしい解釈を必要としています。どうか気分や雰囲気でわかったつもりにならないで、しっかり学んで、岩なるイエスさまの上に家を建てる人として、ともに成長してまいりたいと思います。 ではまず、「だれも自分を欺いてはいけません」の警告からまいりましょう。 18節のみことばを見てみましょう。……コリント教会の信徒は自分を欺いている、パウロはそう警告しています。どのように自分を欺いているのでしょうか?「この世で知恵がある」と思い込んでいる、ということです。 ここまでの一連の流れから、コリント教会の信徒たちは、「だれにつくか」ということで人よりも知恵がある、あるいは、自分は絶対的な知恵を得ている、と考えていることがわかります。パウロという大先生に教えられたから自分には知恵がある、ですとか、アポロという大先生に教えられたから自分には知恵がある、ですとか。 しかし、これもここまで述べられてきたとおり、パウロもアポロも、神の建物である聖徒たちを立て上げる「しもべ」にすぎません。本来、コリント教会がつくべきは、「イエスさま」であって、「パウロ」や「アポロ」のような、人間の働き人であってはいけません。 そのようなコリント教会の聖徒たちに、パウロは「自分を知恵のある者と思うなら愚かになりなさい」と語ります。しかし、彼らは知恵を最高の価値あるものとして求めるような者たちです。そういう者たちが、パウロの命じるように「愚か」になるには、どうしなければならないでしょうか? 19節のみことばです。……そうです。彼らが「知恵」と思っているものは、「神の御前で愚かである」と、徹底して認めることが必要です。そう認めることもみことばが根拠になっていて、パウロはここで、2つのみことばを引用しています。 まず、19節のほうのみことばから見てみますが、人間はどんなに自分に知恵があるように思えても、神さまはその知恵を用いて、かえってその者が知恵のない者のように振る舞わせます。 そして20節、人間にはいかに知恵があったとしても、それはしょせん、被造物の中から出てきた知恵にすぎません。創造主の知恵にははるか遠く及ばないものです。 この2つの真理の例として挙げられる聖書の記述があります。先週、マクチェイン式聖書通読の箇所になっていた、アブサロムの軍師だったアヒトフェルのことをご記憶でしょうか? サムエル記は、アヒトフェルのことばは人が神に伺って得ることばのようだったと評価しています。相当な評価です。しかし、その知恵たるやどういうものだったかというと、エルサレムをあとにして落ち延びたダビデが王宮に残したそばめたちを、アブサロムに白昼堂々衆人環視のもとで寝取らせたような、悪魔のような恐ろしい知恵です。これで全イスラエルをアブサロムのほうになびかせたわけですから、ただごとではない知恵です。 その知恵を用い、アヒトフェルは作戦を立てました。この作戦のとおりにいったならば、ダビデは確実に死にました。それは、神さまがダビデのすえとしてイエスさまを生まれさせられるというご計画さえ水泡に帰するような知恵で、人間的には完璧な作戦であった一方で、悪魔的などす黒い知恵によるものでした。 しかし神さまは、ダビデがひそかにアブサロムの陣営に放ったフシャイの作戦をアブサロムが受け入れるように働かれました。結局、これほどの知恵者(ちえしゃ)だったアヒトフェルは、自らいのちを断つという悲劇的な結末を迎えました。まさにアヒトフェルは、反キリスト的な自らの知恵にとらえられて滅びたのでした。アヒトフェルにはむしろ、知恵がない方がどんなによかったかしれないとさえ言えそうです。 このような箇所をお読みすると、どんな知恵のある者も神さまの知恵には遠く及ばないことを思い知らされます。私たちはそれでも知恵ある者として振る舞いたいでしょうか? 主のみこころは、私たちが愚かであることを選択することです。 愚かであるということは、自分の知恵がむなしいことを認めるのと同時に、主こそがまことの知恵であることを認めることです。以前も学びました、第一コリント1章25節をご覧ください。……神の愚かさとは、イエスさまの十字架です。人は自分の知恵にしたがって、イエスさまの十字架など信じないし、信じたくもないというでしょう。しかし、それこそがつまずきとなり、神さまの前にへりくだって救いを得られるかどうかの境目となります。 そうです。自分を欺くということは、十字架という「神の愚かさ」によって救われたことにより、あらゆる「人間につく知恵」がむなしくされているにもかかわらず、この期に及んで「人間の知恵」に執着し、イエスさまを見失ってしまう、ということです。 このような愚かなことは、私たちもしばしば犯してはいないでしょうか? よく私たちクリスチャンがつい口にしてしまうことばですが、どこかの教会のことを話題にするとき、その教会の牧師先生の名前を挙げて、「だれだれ先生の教会」という言い方をしてはいないでしょうか? しかし、厳密に言えば、この言い方は正しくありません。教会はキリストのものであり、特定の牧師のものではありません。「だれだれ先生の教会」という呼び方をすると、まるでその先生の存在が、教会を教会ならしめているキリストにまさるかのようにしてしまいかねません。そういうことでは、あえて厳しい言い方をしますが、「私はパウロにつく」、「いや、私はアポロにつく」といって分裂した、コリント教会の幼い状態と五十歩百歩ということになってしまいます。 私たちは、イエス・キリストという岩なる土台の上に立てられた存在です。つまり、キリストのものです。父なる神さまがこのお方を、私たち聖徒の身代わりに十字架につけてくださった、それが神さまの知恵であった以上、その知恵を超える知恵はありません。その知恵を愚かだと決めつける者こそ愚かです。いわんや、この十字架によってもろとも神さまに贖われた教会を、人間的な知恵につこうとする党派心によって分裂させるなど、もっとも知恵のない愚かな行いです。 私たちは、イエスさまの十字架という知恵をいただいていることを、自分を欺かずに自分のものとして、その十字架の知恵によってすべて振る舞ってまいりましょう。この、私たちがひとつとなり、犠牲をもって隣人に仕える生き方は、この世のあらゆる知恵にまさる知恵、キリストの知恵を世に示すことです。 そのようにして自分を偽らない人に、主は豊かな祝福を与えてくださいます。ともにこの十字架の知恵を今週も、そしてこれからも求め、その知恵をもってこの世に生きる者とならせていただきましょう。 それでは21節にまいります。……次の警告は「だれも人間を誇ってはいけません」です。 人間を誇る、それはここまで見てくればお分かりのとおり、「あなたがたはパウロについているというが、パウロという人間を誇ってはいけない」、「同じように、アポロという人間を誇ってはいけない」ということです。 21節のみことばは続きます。「すべては、あなたがたのものです。」どういうことでしょうか? パウロやアポロのような教職者があなたがたを持っているわけではない、ということです。 22節に入ると、この論理はさらに具体的に展開します。……「私はパウロにつく」、「私はアポロにつく」、「私はケファにつく」などと分裂していたのが、コリント教会の現状だったわけですが、そのパウロやアポロやペテロは、あなたがたのものである、というわけです。これは誇張ではありません。ペテロは聖徒たちに向かって、あなたがたは王である、と語っていますし、使徒ヨハネも聖徒たちを指して、彼らは永遠に王である、と言っています。彼ら教職者は、その王なる聖徒たちに仕えるしもべであるわけで、したがって聖徒たちは彼らしもべを所有していると言えます。 いまは放送伝道の時代で、信徒たちは自分の霊的養いのために、手軽にパソコンやスマートフォンにアクセスして、福音放送の番組に耳を傾けますが、そのような番組は多くが、牧師たちの無給のボランティアで成り立っています。聖徒からお金を取っているわけではないのです。しかし聖徒はいつでもどこでも好きなだけ、そのような福音放送にアクセスして霊的に養われます。これは言ってみれば、聖徒が福音放送に関わる教職者たちの霊的財産を所有しているということです。 いえ、もっと根本的なことを言えば、私たちがいま聖書を手にしているということは、モーセに始まり、ヨハネに至るまで、みことばを取り継ぐということをもって私たちに献身者たちが仕えている、ということであり、さらに言えば、聖書が書かれて以来2000年にわたるキリスト教会の歴史において献身してきたすべての働き人は、いまこうして教会形成をしている主体である私たち聖徒のものである、ということになります。 私も今こうしてみなさまにお語りすることで、歴代の働き人たちの末席を汚(けが)させていただいているものですが、私はみなさまを所有する立場になどありません。水戸第一聖書バプテスト教会が「武井先生の教会」など、もってのほかです。このことについては、ぜひ今日みなさまにお配りした月報のコラムをお読みいただけたらと思いますが、ともかく、私はみなさまを所有する者ではなく、むしろ反対に、みなさまに所有していただいている者です。このことを私は片時も忘れずにお仕えしたいと願っています。 しかし、聖徒たちが所有するのは、霊的教訓を施す教職者、献身者にかぎりません。世界であれ、ともあります。これは宇宙万物、森羅万象です。ローマ人への手紙8章28節によれば、神さまはすべてを働かせて益としてくださるお方です。文字どおり、すべてです。そのような宇宙万物、森羅万象を、私たち聖徒が所有しているとは、なんと素晴しいことでしょうか。 いのちであれ、死であれ、ともあります。ピリピ人への手紙1章20節と21節をご覧ください。生きるにせよ、死ぬにせよ、キリストの御名があがめられて、主のご栄光が顕される、これが私たちクリスチャンの生き方です。私たち人間は、この地上において、生きるか、死ぬかのどちらかですが、そのどちらであれ、私たち聖徒のものだというのです。私たち聖徒は、世の人たちが執着している「生きること」からも、世の人たちがひたすら怖がっている「死ぬこと」からも、自由な存在とされていることを、しっかり受け止めてまいりたいと思います。 現在のものであれ、未来のものであれ、とあります。ここでは「過去のもの」とは語られていません。過去は変えられないものであり、つまりは、私たちの責任の及ばないものです。しかし、私たちがいまを、また未来をどう生きるかは、神さまが私たちに託してくださった事柄であり、この「現在」、また「未来」において主が私たちを用いられ、主が私たちをとおしてみわざを行なってくださるゆえに、私たちは「現在」また「未来」が私たちのものとされていることを知るのです。過去は変えられません。しかし、現在と未来は私たちが変えられます。喜んでいいのです。確信を持っていいのです。 しかし、23節に入りますと、そのようにすべてを持つ私たち聖徒のことを、やはり所有しておられる方がいらっしゃることを、私たちは教えられます。「あなたがたはキリストのもの」、そうです、私たちは、イエスさまが十字架の血潮をもって買い取ってくださった存在、すなわち、イエスさまのものです。私たちがイエスさまのものであるということは、イエスさまが私たちのかしらとなられ、私たちがイエスさまのからだにしていただいた、ということです。 そして、キリストは神のものです。イエスさまは神のみこころにどこまでも従順であられ、実に十字架の死に至るまで従順であられました。神さまはどのようなお方でしょうか? ローマ人への手紙11章36節です。……イエスさまの十字架は、神から発し、神によって成り、神に至る、神の栄光を顕すできごとでした。同じように、神さまは被造物にとってすべてのすべてであられ、私たち聖徒もまた、神から発し、神によって成り、神に至る、神の栄光をとこしえに顕す存在です。 そのように、私たち聖徒をキリストにあってご自身の民として所有していらっしゃる神さまは、私たちにすべてのものを所有させてくださいました。そのような私たちがどうして、だれか人間に所有されるべきでしょうか。私たちがだれかに属しているからと、その人を誇るべきでしょうか。私たちが誇るべきは、神さまだけです。 私たちは自分が思っているよりも、もっと自由な存在です。私たちはだれか人間に所有されている存在ではなく、むしろすべてを所有する存在です。私たちを所有しておられるのは、イエス・キリストだけです。私たちはもしかして、不自由さをどこかで感じていないでしょうか? 私たちはイエスさまとの個人的な関係の中で、また、イエスさまとの共同体全体との関係の中で、自由を味わいましょう。 しばらく祈りましょう。私たちはだれか人に自分自身を所属させてはこなかったでしょうか? イエスさまにだけついて、ほんとうの自由を味わいますように。

「私たち聖徒は神の建物」

聖書箇所;コリント人への手紙第一3:9~17/メッセージ題目;「私たち聖徒は神の建物」 先週のメッセージの聖書箇所は、9節で締めくくっています。そのときの解き明かしで、終わりのことば「あなたがたは……神の建物です」ということについては、今週のメッセージで詳しく扱うことをお話ししました。そこでお約束したとおり、今日は、「あなたがたは……神の建物です」という、パウロのことばから学びます。 私がみなさまからお伺いして知っていることですが、うちの教会は長年、自前の礼拝堂を手に入れるために、聖徒のみなさまで一生懸命祈り、また、献金してこられました。基本的に外部の業者に頼まず、自分たちで一生懸命に建てられました。そうして建ったのがこの礼拝堂ですから、この礼拝堂が献堂されたときのみなさまの喜びはどれほどのものだっただろうかと思います。 教会というと私たちは真っ先に、礼拝堂をイメージするかもしれません。もちろん、聖書における「教会」というものは、そのような「建物」というよりはむしろ「人の集まり」「会衆」と解釈すべきです。それは今までも学んできたとおりです。しかし、「教会」を「建物」というイメージで受け取っても、あながちピントが外れていないかなと思えるのは、もしかしたら、今日学ぶ箇所のイメージが私たちクリスチャンにあるためかもしれません。 しかし、コリント教会に特定の礼拝堂がなくても、この群れをパウロが建物になぞらえたのは、やはり「神の建物」とは、目に見えて手でさわれる礼拝堂、チャペル以上に、主によって贖われた聖徒たちの群れを意味するということが前提になります。コリント教会が聖なる民、聖徒たちであるのと同様に、私たちも聖徒です。ゆえに、私たちも神の建物ということになります。 今日の聖書箇所はあらためて9節からを本文にして、17節まで、建物ということを扱った本文から、私たちはともに学びたいと思います。それではいつものように、3つのポイントからお話しいたします。 ①第一のポイントです。神の建物の土台はイエス・キリストです。 9節のみことばにあるとおり、神の目から見て私たち聖徒は、神の建物です。それでは私たちは、どのような建物なのでしょうか? まず、土台からして独特です。10節と11節のみことばをお読みします。 10節でパウロは、自分のことを建築家になぞらえています。ここでいう建築家は、家を建てる働きそのものをする「大工」ではなく、建てる作業の図面を描く「設計士」また、作業全体を見張る「監督」ともいうべき、大局から教会形成に関わる人です。どのようにすればこのコリントという都市に立てるにふさわしい教会がつくれるかを考え、それにふさわしく土台を据えるのです。 現実のコリント教会を見てみると、争いがあったり、派閥に分かれた分裂があったりと、目を覆わんばかりの醜態をさらしていて、それは主の教会としてとても証しにならないような状態にありました。しかし、忘れてはならないことがあります。そのような醜い有様をさらしていても、そのような者たちをイエスさまは十字架の血潮によって救い、あがなってくださったということです。彼らはどんなに醜くても、イエス・キリストを土台とした「神の建物」であることに変わりはありません。神さまのものです。救われているのです。 「あんなことをするような人が救われているのか?」などと思える言動をするクリスチャンというのはいるものです。しかし、これは間違えてはなりません。イエスさまを信じているかぎり、その人は救われています。ただ、イエスさまという土台にしっかり立て上げられるために、まだまだそのプロセスの中にある「工事中」の段階なだけです。工事中ならば騒音もします。セメントや溶剤のかぎたくないにおいもします。ほこりも立ちます。しかし、それらのことは、しっかり立て上げられるために必要なプロセスと考えれば、受け入れられるのではないでしょうか? 少なくとも「こんな人は救われていない!」などと、さばくものではありません。 さて、土台の上に家を建てるといえば、イエスさまのおっしゃったおことばを思い出します。マタイの福音書7章、24節から27節のみことばです。 洪水のような事態というものは、つねに変転する人生にはつきものです。現に今こうしていても、コロナという事態が起きていて、この洪水のような事態にもう1年半以上も私たちは翻弄されっぱなしです。しかし、仮にコロナが起きていなかったとしても、この平和な日本にかぎっても、地震だの台風だの、どうしようもない自然災害は起きるものです。これは不可抗力の災害のケースですが、私たち個人個人の人生にも、そのような嵐のごとき事態というものはつねに起こり得るものです。 このようなときに問われるのが、私たちが何に土台を置いているかです。私たちの土台がイエスさまであるならば、その人は安全です。言ってみれば、土台が人生全体を支えてくれるようなものです。イエスさまが土台でないということは、みことばを聴かないか、あるいは、聴いてもそのみことばを守り行わないということであり、そのような人の人生はいざというときにめちゃめちゃになります。 イエスさまと関係のない教会形成や教会生活というものは、イエスさまと交わりのない生活であり、そのような生活が、砂の上に家を建てる生き方です。私たち教会がほんとうに、土台がイエス・キリストであるというならば、いついかなるときも、イエスさまとの交わりの中に、各自が、そして教会全体が、生きる必要があります。私たちはその生き方を目指していますでしょうか? 実践していますでしょうか? イエスさまを土台とする生き方、教会形成にともに取り組む祝福を、ともにいただいてまいりましょう。 ②第二のポイントにまいります。神の建物は火によって判別されます。 12節、13節のみことばです。 何で建てるか。このみことばを見ると、その材料が、金、銀、宝石、木、草、藁とあります。 言うまでもないことですが、金や銀や宝石は、小さなものでもとても高いものです。宝石店や貴金属店に行くと、あんな小さなものがなんであんなに高いのか、と思うでしょう。 いわんやこの金、銀、宝石が、家を建てるほど大きな塊だったら、それはどれほど高く、また重いことでしょうか。だいいち、それを建材にするために加工するのもひと苦労です。それで建物を建てるということは、想像を絶するほど大変なことです。 これに比べると、木や草や藁で建物を建てることなど、実に簡単です。材料は手に入れやすく、建材として加工しやすく、軽いのですぐに建ちます。しかし、このような建物には最大の弱点があります。火です。火事になったらひとたまりもありません。 みことばを読むと、どのように建物を建てたかは「その日」における火の審判が明らかにするとあります。その火の審判はどれほどのものでしょうか? ペテロの手紙第二3章10節をお読みください。 怖ろしいばかりの描写です。しかし、これは現実です。私たちは知らなければなりません。私たちの地上の歩みは、ことごとく、このように火によってさばかれる終わりに向かっているということをです。その火が来たら、この世界に存在するものはことごとく焼き滅ぼされます。 その火の審判は何を明らかにするのでしょうか? 私たちクリスチャンが、イエス・キリストを土台として、いかに人生をともに立て上げてきたかということです。そもそも、木や草や藁のような建材で建物を建てるということは、イエス・キリストを土台にした生き方にしては安易なことであり、土台さえしっかりしていればあとは何をしてもいい、何をしても許される、という発想の産物です。そんな生き方は終わりの日には、何も残してはくれません。 逆に、イエスさまという土台は何にも増して素晴らしいから、その土台にふさわしいだけの犠牲を払って建物を建てようという行動につながっていくならば、それは金や銀や宝石で建物を建てるということになぞらえられます。たいへんなことですが、終わりの日にすべてが火によって焼き払われても、地上にキリストのからだなる教会をしっかり立てた、神の国を拡大した、ということのゆえに、神さまは私たちに対し、「よくやった、よい忠実なしもべだ」という、最大級の賞賛を与えてくださいます。 しかし、もし、イエス・キリストを土台にしたわりには大したことをしなかったならば、それは木や草や藁で建物を建てるようなもので、火で焼き払われておしまいです。 とはいっても、その人は救われないわけではありません。15節のみことばをお読みします。 土台がイエス・キリストであるかぎり、イエスさまに根ざした信仰のゆえに、その人は火をかいくぐって、天国に入れていただけます。しかし、それ以上のものではありません。やはり価値のない建て方をしたならば、それは永遠につづく神の国に益する働きと見なしてはいただけないのです。 しかし、このようなことを言うと、クリスチャンの歩みとはしょせん業績主義なのか、とか、亡くなる直前にイエスさまを受け入れるような回心を体験した人はどうなるのか、その家族が感動したことはどうなるのか、というようなことが気になってはこないでしょうか? しかし問題は、過去私たちがどうだったか、ちゃんと業績を残していたか、それが査定されている、ということではありません。問題は過去ではなく、現在なのです。もし、自分たちが今まで、イエスさまを土台としているクリスチャンとして、その土台にふさわしくない人生を立て上げていたということを知ったならば、私たちのすることは、ああ、こんな人生しか歩んでいなかったから、終わりの日の炎に焼かれてしまう、と、恐れることではありません。 私たちが求めるべきは、14節に書かれているとおりの生き方です。 報い、それは、神さまのために天国をともに立て上げたことを、神さまに認めていただけるという報いです。「よくやった、よい忠実なしもべだ」、この御声をお聞きしたいでしょうか? 今からでも金、銀、宝石を求め、それを加工して建物を建てるがごとく、神の栄光のため、主の御国のために生きることです。チャンスはまだ残されています。そのチャンスのあるうちに、聖徒という神の建物をともに立て上げる働きに献身してまいりましょう。私たちの共同体はこの地上に天国をあらわす存在です。ヨハネの黙示録の21章に描かれた天国の描写、ちょっとだけ見ましょう、18節から21節です。 この天国の麗しさは、そっくりそのまま、天国を地上に実現する私たちのことです。これが私たちなのです。 パウロのことばの意味はこうではないでしょうか? 麗しい金や銀や宝石で建てられているのがあなたたち、コリント教会なのですよ、木や草や藁で建てるような、安易な生き方をどうかやめなさい。 私たちも、終わりの日に神さまの栄光のために何が残せるでしょうか? 生きるチャンスが与えられているかぎり、最高のものを神さまのためにささげ、残す生き方を全うする私たちとなりますように、天国の麗しさを実現する私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 ③最後に、第三のポイントです。神の建物は神の宮です。 16節、17節をお読みします。 私たちは何だとこのみことばは語りますか? そうです、「神の宮」です。私たちがひとつとなって、ひとつの宮、ひとつの神殿を形づくるのです。 コリントにも、創造主なる神さまを祀るものではなかったにせよ、神殿はありました。また、やはりコリントにはユダヤ人がいましたので、エルサレムで神殿を見たことがあるという人も多かったでしょう。神殿のイメージはそれぞれにそれなりにあったはずです。しかし、ほんとうの神殿はあなたたちなのです、あなたたちは、イエス・キリストの父なる神ご自身が神殿とされた存在です。パウロははっきり語りました。 神殿は何があってもけがされてはなりません。ましてや、壊されてはなりません。もし、けがれや破壊を神殿に持ち込むような者がいたならば、その者は制裁されなければなりません。その制裁を下すのは、神さまご自身です。 そもそも、神さまにとって神の宮、神殿をは何を指すのでしょうか? それは、目に見える建物ではありません。 究極的にそれは何を指すのか、さきほどお読みしたヨハネの黙示録21章のみことばの続きを読むと、このようにあります。ヨハネの黙示録21章22節です。 神殿とは聖徒たちであるとともに、イエスさまご自身、神さまご自身です。まさしく私たち教会が、キリストのからだであるゆえんです。絶対に壊されてはならないし、けがされてもなりません。その神殿が聖徒たちであるということならば、神殿をけがし、壊すということは、どうすることでしょうか? そうです、主にあって保たれるべき交わりを乱すことです。教会の中に派閥をつくり、争いを起こすなど、言ってみれば、宮をけがし、壊すということです。私たちが罪を犯してはならないのは、私たちが聖なるキリストのからだの一部分だからです。まさしく、第一コリント6章15節のみことばが戒めるとおりです。 もちろん、それだけではありません。信仰の共同体というものは、それを形づくる私たち一人ひとりの歩みも関わってくるものであり、もし私たちが不従順、不品行の歩みをしているならば、その歩みは自分ひとりの中だけで完結するものではありません。教会という神の宮全体に関わってくるものです。もし、宮のどこかに壊れた場所や、きたない場所があったならば、それで宮全体のイメージががた落ちするもので、それと同じことです。私たちは宮とされているものにふさわしくあるべきです。 私たちが神の宮であるという自覚は、2つの次元で持つべきものです。まずは、私たち一人ひとりが神の宮であるということです。私たちは一人ひとりが、心の中にイエスさまを迎え入れ、イエスさまを宿している存在です。私たち一人ひとりの生活を通して、私たちに関わる全ての人が、私たち一人ひとりの心の中におられるイエスさまに触れ、イエスさまの御名をあがめるようにするのです。 また、私たち教会という共同体が神の宮です。私たちの交わりの真ん中に神さま、イエスさまをお迎えしているわけです。私たちは今こうして、礼拝という共同体においてともに神さまを礼拝しています。また、私たちは礼拝が終わると、それぞれの場所に散っていきますが、それでも私たちは、水戸第一聖書バプテスト教会に属する兄弟姉妹という立場で、ひとつの共同体、ひとつの主のからだ、神の宮をなす存在です。 私たちはどうでしょうか? 私たちの土台はイエスさまであることをつねに自覚し、この岩なるお方の上につねに建物を建てるがごとき生き方を志していますでしょうか? この生き方はひとりひとりがするものですし、また、ともにするものです。 また、私たちはこの、だれよりも素晴らしいお方という土台の上に建てるにふさわしい生き方を目指していますでしょうか? いいかげんに生きることなく、それぞれが、また、ともに、イエスさまという土台にふさわしい最高の生き方を目指してまいりましょう。 そして、私たちはイエスさまをお迎えした、神の宮です。私たちをとおして神さまが礼拝されるのです。ひとりひとりが、また、ともに、神さまを証しする生き方に献身してまいりましょう。 そのようにしてともにこの地において、私たち聖徒たちがふさわしい生き方をすることによって、やがて来る終わりの日に恥ずかしくなく御前に立つものとなりますように、主の御名によって祝福してお祈りいたします。

「パウロに見る『宣教者とは何か』」

聖書本文;コリント人への手紙第一3:1~9/メッセージ題目;「パウロに見る『宣教者とは何か』」  3週間ぶりに第一コリントから学びます。本日は3章の1節から9節のみことばより、「パウロに見る『宣教者とは何か』」と題してみことばに聴きましょう。  パウロのことを「パウロ先生」と呼ぶ牧師先生がいます。主に年配の方です。聖書の人物を「先生」と呼ぶとは、いい呼び方だな、と思ったものですが、新約の登場人物を呼ぶ際に「先生」という呼び名が似合うのは、パウロくらいではないでしょうか? ペテロ先生? ヨハネ先生? なんだかしっくりこないような気がします。やはり「パウロ先生」という呼び方が、いちばんしっくりくるようです。 パウロは、現代人の私たちにも「先生」と呼ばれるだけのことはあるでしょう。その深い神学的解き明かし、そして、その神学に裏打ちされた宣教と牧会の熱心……教会形成に献身した人たちにとっては、学ぶところばかりです。天に召されて2000年ちかくたっても、やはり「先生」と呼びたくなる、信仰の先輩、それがパウロです。 私たちはこのような「先生」になりたいでしょうか? 私たちもみことばを託された者であり、教会を形成する働きを託された者です。私たちは一方的にみことばを聴くだけではありません。みことばを語り、またみことばを守り行う模範を示す者です。そういう意味では私たちもパウロと同じ、宣教をする者、「宣教者」です。 本日の箇所の学びにまいりましょう。パウロはコリント教会の信徒たちを相手にして、嘆いていました。主にあって愛するゆえの嘆きです。しかしこの嘆きをよく見てみると、パウロが神さまから託された「宣教者」としての働き、キリストの御国の福音を宣べ伝えるとはどういうことなのかを知ることができます。3つのポイントに分けて見てまいります。 ①第一に、宣教者とは説教者、みことばを語る人です。   1節のみことばをお読みします。……パウロは、コリント教会の信徒たちに対して「兄弟たち」と語りかけています。兄弟として呼びかけているわけで、あなたがたは私にとってとても親しい存在であるという、親愛の情をこめて呼びかけているわけです。   しかし、実際のところ、パウロはやさしいばかりのことばをかけるわけではありません。そのことばはとても厳しいものです。しかしまずは、パウロは福音宣教の種を蒔いたばかりの頃の彼ら、コリント教会の信徒たちの様子を語っています。  コリントという町に住む人はもともと、福音の何たるかを知っている人たちではありませんでした。パウロはそういう人たちが霊的には幼子、よちよち歩きの初歩の段階であるということを責めているわけではありません。何も知らない人に、神学校で講義するようなレベルのことを語ったって、何がわかってもらえるというのでしょうか。それに、このコリントの人たちの行動は、みことばの基準からははるかにかけ離れたものでした。それをみことばに従ってもらおうとするならば、とにかくコリントの人たちの目線に降りて、噛んで含めるように語らざるを得ません。  信徒が霊的に成長するためには、赤ちゃんがミルクをいっしょうけんめい飲むように、みことばを慕い求める必要があります。新約聖書ペテロの手紙第一2章2節に「霊の乳」とあるとおりです。――生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。――そう、赤ちゃんにとってのミルクのようなみことばを読んで学べば、救われますし、霊的に成長します。しかし、赤ちゃんにミルクを飲ませるには人肌に温めたり、消毒した哺乳瓶に入れたり、飲んだ後は吐き出さないように背中を軽くたたいてげっぷをさせたりするように、とかく手がかかるもので、単に飲ませればいいというものではありません。同じように霊的な幼子にみことばを語るには、相当な工夫をする必要があります。 あらゆる聖書の学問に通じていたパウロはもちろん、コリントの信徒たちにどんなメッセージを語るべきかということはわかっていました。2節のみことばです。……人は成長すれば、ミルクのような口当たりのよいものだけではなく、野菜のような大人の味を、ちゃんと噛んで味わえるようになります。 コリント教会の信徒たちは、もう初歩的なみことばの学びを卒業し、もっと難しく、もっと実際的なみことばを身に着けていてしかるべきでした。ところが実際はというと、その段階からとても遠いところにいました。 このように、指導者の期待に信徒が応えられないという現状に関しては、ヘブル人への手紙の著者が具体的に語っていますので、見てみましょう。5章の12節から14節です。――あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。/乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。/固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。―― うちの母は教会生活を最初、家からとても遠くはなれた教会で始めたこともあり、そのために車の運転免許を取りました。そのような中で信仰を持ち、免許も無事に取れたのですが、母はそのように信仰生活を始めたことを「若葉マークのクリスチャン」と、うれしがっていました。言い得て妙ですが、信仰生活をするにあたって、若葉マークをいつまでも外さないような振る舞いをするようでは困ります。もう、人にみことばを教えられるほどにみことばに通じ、自分自身もみことばを守り行う人になっているべきなのに、いまだに幼い。未信者のお客さんのように、初歩のクリスチャンのように、私のことを扱ってほしい。これでは困ります。 コリント教会にも、まさにこのような成長しない信者たちのもたらす問題が横たわっていたわけでした。それでは、それはどんな問題だったのでしょうか。3節のみことばです。……問題は、ほかの信徒をねたんだり、教会内に争いを起こしたりするような、「聖徒の交わり」に関するものでした。聖徒たちは同じ神さま、同じキリストによって罪赦され、愛されている存在ですから、主にあって愛し合ってしかるべきです。それがねたみ合う、争い合うのもやむなし、となっているならば、そのように神さまに赦され、愛されているということは、その人たちにとっては何の関係もない、ということになってしまいます。 具体的にどのような争いが起きていたのでしょうか? 4節のみことばです。……1章12節でも取り上げられている分派の問題を、パウロはここでも取り上げています。つまり、分派をつくるということは、教会にとってそれだけ由々しき問題である、ということです。 パウロにせよアポロにせよ、そんな彼らに対してみことばを語りつづけることで教育してきました。しかし、彼らはまともに受け止めることをせず、結果このように、分派をつくるなどという形で、その霊的幼さをさらけ出してしまいました。 そんな彼らに対しては、何度でもみことばを語りつづけるしかありません。ご覧ください。パウロは教会開拓に当たって彼らにみことばを語るだけではなく、このような問題を取り扱う必要があるため、今度は手紙という形でみことばを語っています。相手が理解してそのとおりに振る舞えるまで、何度でもみことばを語る説教者でありつづける、これが宣教者としてのありかたです。 私もこうして講壇をお預かりしている以上、みことばを語り告げる責任があります。しかし、みなさまにお願いしたいことですが、どうかこの、みことばを語るという働きを、私ひとりの働きにしないでいただきたいのです。 みなさまは日々お読みになるみことばを通して、どれほど多くのことを教えられているでしょうか? それをほかの兄弟姉妹に、ほかの未信者に語るのです。みことばを聴く者はもちろん霊的に成長しますが、語る者はそれ以上に成長します。みことばを語るという責任が伴い、その責任を果たすように生きるようになるからです。私たちはみことばを聴く者であるのと同時に、お互いが成長してキリストの満ち満ちた身丈にまでになるために、みことばを語る者となりましょう。 第二のポイントです。宣教者とは奉仕者、仕える人です。   5節のみことばをお読みします。……あなたがたは「パウロ派」とか「アポロ派」をつくって、私たちのことを派閥の頭目のように扱っている。しかし、私たちはあなたがたコリント教会の信徒たちが、キリストを信じるために神に用いられる奉仕者である。私たちは、奉仕者にすぎないのだ。  この奉仕者とは、しもべ、です。人は高い地位、尊敬されるような地位につきたがり、そういう人に対して下へも置かない扱いをするものですが、しもべのような立場の人に対しては、ぞんざいに扱って後ろめたさを覚えることをしません。パウロは、そのような世の価値観にどっぷり浸かっているコリントの信徒たちに、私たちは奉仕者にすぎないよ、しもべだよ、と語っているわけです。  そもそも、分裂や分派を起こすということは、相手の陣営よりも自分の陣営の方が上だ、と主張し、よって自分は人よりも偉い者である、と見なすことにほかなりません。しかし、それはこの世の価値観であり、間違っても、神の国にふさわしい態度ではありません。  イエスさまの十二弟子も、しばしばそのように、この中でだれがいちばん偉いか、ということを議論しました。イエスさまにいちばん近くあるべき彼らが、なんともふさわしくないことをしたものです。イエスさまはそんな弟子たちに対し、子どものようになれ、とおっしゃったり、みなに仕える者になりなさい、とおっしゃったり、さらにはご自身がしもべの姿を取って、彼らの足を洗ったりなさいました。子どものようになる、しもべのようになる……それはこの世が目指す生き方とは正反対のありかたですが、イエスさまご自身が、それでこそ偉い、という、逆説的なメッセージをその身をもって弟子たちにお伝えになりました。  神の国を地上に実現する教会において、ほんとうに私たちが目を留めるべき存在は、奉仕者です。奉仕者は、あの時代の華やかな都市、コリントにおいてそうだったように、いまの世においても人から注目されません。私たちもできることならば、奉仕ということはしたくありません。することをするのが当然と見なされるうえに、だれもほめてくれないからです。  しかしパウロは、自分はそういう存在であってもかまわない、自分はそういう存在である、と語っています。そう言えるのはなぜでしょうか? 私たちの主、イエスさまがしもべだったからです。イエスさまがしもべならば、イエスさまにならう私たちクリスチャンは、当然、しもべになれるはずです。  しかし、しもべ、奉仕者と申しましても、教会における奉仕は、この世において「奉仕」と呼ばれているものと、決定的な違いがあります。5節の後半をご覧ください。――主がそれぞれに与えられたとおりのことをしたのです。――  大事なのは主との関係です。6節を見ると、私が植えて、アポロが水を注ぎました、とあります。コリント教会を畑に見立て、苗を植える働き、すなわち、何もないところに宣教をして教会を開拓する作業そのものを、私パウロがした、そしてアポロが水を注いだ。 すなわち、そのあとの教会形成の働きを私パウロから引き継いで、アポロが教会形成に取り組んだ、それは言うなれば、パウロとアポロが神さまにあってコリント教会形成の役割分担をしたということである。間違っても、派閥づくりをしたわけではない、勘違いはしないでほしい、ということです。   奉仕は報いが与えられないように思えます。それでも励めるのはなぜでしょうか。神さまからのあふれる愛を受けているからです。神さまの愛によって、キリストのからだなる教会の益になるように奉仕したい! あふれる思いです。教会にはいろいろな奉仕の働きがあります。ざっと数えただけでも、日曜学校の教師、受付と案内、音響と録音、導入讃美の演奏、パワーポイント操作、司会、礼拝讃美の演奏、献金の集計と会計管理、そして忘れてはいけないのは、お掃除……みんな、しもべになって働いていらっしゃいます。奉仕者なのです。  世の中の人から見れば、なにもわざわざそんなことを日曜日にしなくたって、と見えるでしょうか? しかし私たちは、これが最高の喜びだからしているのです。神さまに愛されている、その愛の精一杯の表現として実践しているのです。 パウロにしてもそうでした。イエスさまの愛に触れられて、その愛の精一杯の表現として、異国の大都市コリントにて宣教しました。その結果パウロを待っていたものは、コリントの人たちの勘違いでしたが、それでもパウロは偉い人として振る舞わず、私はしもべですよ、奉仕者ですよ、と、コリント教会に告げ、そのとおりに振る舞ったのでした。 弟子たちの足を洗われたイエスさまの愛に触れられて、コリント教会にて奉仕者として振る舞ったパウロは、私たちのモデルです。私たちの目に見えない奉仕は、キリストのからだなる教会を立て上げるということにおいて、決してパウロの働きに引けを取ってはいません。 私たちはときに、教会での自分の奉仕はだれにも評価してもらえない、と思ってはいないでしょうか? 思い出してください。私たちは神さまの愛に触れられて、その愛を表現しているわけです。神さまとの関係で奉仕に取り組みましょう。神さまが私たちの存在を喜んでくださっているから、私たちはキリストのからだなる教会において喜びの奉仕のわざをささげられるのです。そのことそのものに喜び、イエスさまにならい、パウロにならい、奉仕者とされていることに、喜びと感謝をいだいてまいりましょう。 第三のポイントです。宣教者とは神の同労者です。   6節から7節をお読みします。……パウロもアポロもたしかに働いています。奉仕しています。しかし、いちばん大事なのは、成長させてくださる神さまです。  先週、教会のそばにある小学校の隣の田んぼが、稲刈りを行いました。あるのはもう刈り 株だけです。ついこの間田植えだと思ったのに、もう早いものです。田んぼは、田植えと稲刈りの時に特に農家の方が奮闘しますが、四六時中田んぼを監視するわけではありません。ほとんど、稲が成長するに任せるわけです。 作物や果樹によっては、農家の人が殊の外手入れをしなければならない品種もあります。それでも、それがちゃんと育つかどうかは、創造主なる神さまの御手にかかっています。大事なのは成長させてくださる神さまです。   教会もこれと同じものだというわけです。教会開拓をする人、その後の教会成長を担う人、役割は別々ですが、いちばん大事なのは、成長させてくださる神さまです。  8節のみことばをお読みします。……このみことばによれば、パウロとアポロは一つです。ひとつのコリント教会を立て上げるという、おひとりの神さまから託されたひとつの使命を果たすということにおいて、彼らはひとつでした。 とは申しましても、だれかが汗をかいてさえいれば、ほかの人は労さずとも同じ報酬を天の御国にて受けられるというものではありません。パウロが頑張りさえすればアポロは頑張らなくていい、というものではなく、あるいは、パウロやアポロが頑張りさえすればコリントの信徒たちは頑張らなくていい、というものでもありません。キリストのからだなる教会を立て上げる、このひとつの働きにともに取り組むために、自分に託された働きをいっしょうけんめいにすることが大事です。それは、天にて受けられる報酬をいただくにあたって、自分が失格者となることのないためです。 私たちはそのために、できるかぎりの努力が必要です。だれもが天の報酬をいただけるので、そのために努力するのです。私も天の御国にて報酬がいただけるように努力しますが、この水戸第一聖書バプテスト教会をこの地に立て上げたことの報酬を、みなさまもしっかり努力して、同じだけ受け取ってほしいと、切に願います。 9節のみことばです。……私たちパウロとアポロは同労者。これは、2つの意味があります。ひとつは、パウロとアポロの2人は、神「のために働く」ということにおいて、同労者である。もうひとつは、パウロもアポロも、神「と」の同労者である、ということです。 これは、どちらも真(まこと)です。主にある働き人は同労者である……これは今まで語ってきたとおりですが、それは同時に、主にある働き人は、主とともに働く同労者である、言い換えれば、主がともに働いてくださる、主の同労者である、ということです。 この素晴らしさがお分かりでしょうか? このことを説明するには、やはり聖書のみことばをお読みするのがいちばんです。旧約聖書、伝道者の書4章の9節から12節です。――9 二人は一人よりもまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。10…

「神を『アバ』とお呼びする祝福」

聖書箇所;ローマ人への手紙8:14~16/メッセージ題目;「神を『アバ』とお呼びする祝福」  先週私は、グレゴリー・スレイトンという方の書いた『働き方改革より父親改革』という本を読み終わりました。買ってから何か月も持っていましたが、読めば読むほど考えさせられる箇所が多く、なかなか読み進めることができませんでした。それに、この本は一方的に考えを述べるタイプの本ではなく、読者に考えさせるための質問が豊富に込められていて、その質問にぶつかるたびに、私はいろいろと考えさせられたものでした。  さて、私がそのような『父親改革』のような本を好んで買って読むのは、私がよい父親であろうとするからです。私は正直に申しまして、主のみこころにかなったといえるよい父親のモデルにめぐり合うという経験を、ほとんどしてこないで育ってまいりました。あの人のようにすればよい父親である、聖書的にふさわしい父親である、というモデルが、周囲になかったのです。  さらに根本的なことを申しますと、私にとっての父親像というものは、神さまに対する見方に大きな影響を与えていることを認めなければなりません。私は講壇の上からみことばを語るなどして、聖書の語る神さま、天のお父さまとはどのようなお方かを伝えてまいりました。しかし、その当の自分が、ひょっとしてまだまだ律法的なイメージで神さまをとらえてはいなかったか……それは、自分にとっての父親という存在は、厳しいばかりのものと捉える存在だったからではないか……あらためて思わされるものです。  そこで今日は、私も含め、神さまが私たちに願っていらっしゃる、ご自身とのふさわしい関係を私たちが結ばせていただくために、特に「神さまが私たちの父であること」にスポットを当てて学んでみたいと思います。今日はいつもとパターンを変え、みことばを本文に沿って解き明かす方法ではなく、主題を先に決めてみことばを学ぶやり方で学びたいと思います。「神さまが私たちの父であること」、これが主題です。  私たちが「父」というと、それには大きく分けて2つの意味があります。ひとつは、○○の父、といったような、漠然とした概念として、何かを生み出した偉大な男性、という意味です。児童福祉の父、石井十次(いしいじゅうじ)、というような使い方をします。  もうひとつの「父」は、言うまでもなく、私たちにとって身近な「父」、つまり、○○君のお父さん、○○ちゃんのパパ、という意味の、だれかにとっての肉親の父親、ということです。本来なら「父」とは、こちらの意味です。 しかし、王族のような一部の例外を除き、多くの場合、これはきわめてプライベートなものです。たとえば、いま石井十次のことを挙げましたが、石井十次にはお嬢さんがいます。岡山の大原美術館の基礎をつくった、洋画家の児島虎次郎の奥さんになった人です。この方から見た場合の十次は、「児童福祉の父」ではなく、単なる「私のお父さん」です。  私たちは神さまのことを、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神という、三位一体のお方であると知っています。それで私たちは神さまを「父なる神さま」ですとか、「天のお父さま」とお呼びするわけですが、もしかして私たちは、「○○の父」というような、きわめて漠然としたイメージで、父なる神さまをとらえていないでしょうか? 私たちにとって父なる神さまは、「私のお父さんだから」、父なる神さまという感覚はありますでしょうか?  たとえば、私たちが神さま、特に父なる神さまに向かって呼びかける場合、普通、どのように呼びかけていますでしょうか?  「神さま」でしょうか? いい呼びかけです。私たちはそのように呼びかけて、かぎりない安心感をいだくのではないでしょうか? 天地万物を創造された唯一のお方、偉大なお方は、どこにでもおられ、そして、今、ここにおられる。そんな安心感を、私たちは「神さま」という呼びかけに抱くものではないでしょうか? 日本のキリスト教会における信仰の先輩たちは、そのような信仰をもって「神さま」とお呼びしてきたはずで、そこには、同じ「神さま」ということばを使おうとも、八百万の神々と創造主をごっちゃにするような節操のなさは存在しないはずです。  あるいは私たちは「天のお父さま」と呼びかけていますでしょうか? いい呼びかけです。「天のお父さま」というと、天の偉大な御座に座しておられる、偉大な万物の父、という印象を持たないでしょうか? むかし、いいおうちのお坊っちゃんやお嬢ちゃんが、膝をついて頭を下げて「お父さま」と呼びかけるようなイメージに似ているかもしれません。  私が教会に通いはじめてしばらくの間、それは中高生の頃のことですが、その頃私は神さまに対しては「神さま」とお呼びするか「天のお父さま」とお呼びするものと決まっている、と思っていました。実際、ときどき訪問するよその教会でも、普通にそう呼んでいました。  しかし、大学に上がり、学生宣教団体のキャンパス・クルセードに出入りするようになって、驚いたことは、学生やスタッフが神さまに対して呼びかけるそのことばでした。 こんな風に呼びかけるのです。「お父さま」……「天の」もついていません。「お父さま」、こう言ってお祈りを始めるのです。最初はちょっとぎょっとしました。これがキャンパス・クルセードという宣教団体独特の文化なのだろうか……。  さらにびっくりしたのは、別のスタッフのことば、「お父さん」……いいんですか!? こんな風にお呼びして! 圧倒されましたが、実は私はこのスタッフから、聖書の知識やクリスチャンとしての在り方など、とてもたくさんのことを教えていただいてもいたので、だんだんと、このスタッフが持っておられる神さまとの親密さを、心底うらやましいと思うようになりました。  うらやましいと言えば、大学に上がって韓国語を学ぶようになって、だんだんと韓国教会との交わりを持つようになり、韓国の民族や韓国語が、いかに聖書の教えと親和性を持っているか、ということを知るようになり、ああ、これだから韓国教会はすごいな、とうらやましさを覚えるようになりました。そのうらやましさをおぼえた理由を、いくつかお話ししたいと思います。  みなさん、韓国語で「アンニョンハセヨ」といえば、「こんにちは」という意味なのはご存知だと思います。朝なら「おはようございます」、夜なら「こんばんは」の意味で、一日中いつでも使えます。このことばの「アンニョン」は「安寧秩序」の「安寧」と書きます。これは「平穏無事」という意味でもあり、つまりは「平安」です。「ハセヨ」は、「~でありなさい」「~しなさい」という意味で、ということはこれは「平安がありますように」という意味にもなります。お分かりですね、これは聖書の世界のあいさつ「シャローム」と同じです。韓国語とはそういうことばです。  しかし、それ以上に、日本人としてかなわんなあ、と思うことばが、まさに今日の主題にかかわってくることばで、それは「アッパ」ということばです。お分かりの方はお分かりだと思います、これは「お父さん」、というより「父ちゃん」ですとか「パパ」という意味のことばです。ことばが話せるようになった赤ちゃんがお父さんに呼び掛けることば、それが「アッパ」です。  なにかに似ていると思いませんか? はい、「アバ」です。イエスさまは御父に、ゲツセマネの園の祈りにおいて「アバ、父よ」と呼びかけられた、とマルコの福音書にあります。あの「アバ」は、まさに幼児がお父さんに呼びかける「パパ」ですとか「父ちゃん」なのです。イエスさまがそのように御父に呼び掛けられた意味についてもあとで扱いますが、ともかく「アバ」は「父ちゃん」「パパ」つまり、「アッパ」なのです。  ただし、韓国語の聖書では、日本の新改訳聖書と同じように、「アバ」と表記します。韓国語でも「アバ」なのです。しかし、私は韓国人の牧師先生のメッセージを今までずいぶん聴いてまいりましたが、先生の中には、「アバ」というべきところを「アッパ」と、しかも感情を思い切り込めて「アッパー!」とおっしゃる方がおられました。韓国でならまだしも、日本にある教会でもそういうメッセージをなさる先生がいるのを見て、私はなんというか、韓国語という言語に、日本人のクリスチャンとして、ほとんど嫉妬にも近い感情をいだいたものでした。なにしろ日本語の「パパ」も「お父さん」も、「アッパ」が「アバ」に似ているほどには発音がまるで似ていません。  そこで、ここからが本論ですが、父なる神さまに対して大胆にも「アバ」と呼びかけられたオリジナルのお方は、もちろんイエスさまです。先ほども申しましたが、イエスさまはゲツセマネの園、十字架を前にした祈りにおいて、血の汗を流してお祈りされましたが、マルコの福音書には特にこのとき、「アバ、父よ」と呼びかけられたことが記録されています。まるで小さな子どもがお父さんに呼びかけるように、イエスさまはお父さんの名を呼ばれたのです。  現代にクリスチャンとして生きる私たち、神さまが三位一体のお方であり、父なる神さまであると理解している私たちにとっては、神さまを父とお呼びすることは特段おかしなことではないように感じられるかもしれません。しかし、ヨハネの福音書5章18節をご覧ください。イエスさまが父なる神さまを「わたしの父」とお呼びすることは、神の民の中においては、絶対にあってはならないことだったのです。「わたしの父」というイエスさまのおことば、この当たり前すぎることばは、ユダヤの宗教指導者たちを震え上がらせるに充分でした。何を恐ろしいことを口にするのか! こんなやつを生かしておくこと自体が神への冒瀆だ!  もちろん、そんなことを思う者こそが、神を冒瀆していた者でした。どれほどの冒瀆を行なったか? 神の子イエスさまを十字架につけるほどの冒瀆です。そして、神の霊なる聖霊をけがれた霊とみなし、そう口にする冒瀆です。決して赦されず、永遠の罪に定められる冒瀆です。  しかし、この決してけがされてはならないお方、聖霊なる神さまはどのようなお方なのでしょうか? ガラテヤ人への手紙4章6節をお読みしましょう。……御霊、聖霊なる神さまとは、「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊であると書かれています。まさに、御父に「アバ、父よ」と叫ばれた、イエスさまの霊、それが御霊です。 その霊が人に注がれるということは、御霊が人をして「アバ、父よ」と叫ばせられるとも言えるわけです。それが、私たちが父なる神さまを「アバ、父よ」とお呼びする御力です。  先ほどお読みいただいたローマ人への手紙8章15節のみことばは、そのことをさらにストレートに語っています。……まさにこの箇所の語るとおり、私たちは御霊によって、アバ、父、と叫びます。イエスさまが祈られるように、大胆に御父の御前に出ていいのです。イエスさまが御父の御怒りを十字架で受け止めてくださった今や、もはや御父を恐れることはありません。「お父さーん! アバー!」イエスさまのように、その御胸に飛び込んでいいのです。  さて、イエスさまは絶えず永遠に、御父と交わりを持っていらっしゃるお方です。しかし今から2000年前、地上において生活されたときは、そのような御父との交わりのうちに、サタンが妨害を仕掛けてくることが何度もありました。神に仕えるとは名ばかりの宗教指導者や、愚かでなかなか変わってくれない弟子たちとつきあうこと……十字架に至っては、御父との交わりの断絶に至る、御父への完全な従順という、途方もない不条理でした。イエスさまは御父への従順を果たすため、どれほどの御力を必要とされたことでしょうか。その御力に満たされるためにも、まだ朝早く暗いうちに起きて、だれにも妨害されない時間と場所で御父との交わりを持つことは、イエスさまにとって必要なことでした。  しかし、イエスさまにとっての朝のこの祈りは、いわば「宗教行為」のような「義務」ではありませんでした。むしろ喜んで御父の御前に出ていかれる時間だったと考えるべきです。  お祈りから喜びが奪われたらどうなるでしょうか? ましてや、毎朝のお祈りにおいては? 私たちも実際にトライしてみればわかることですが、このような早天の祈りがもし「お勤め」のごとき宗教行為となってしまったならば、途方もなく苦しいことになります。  私はかつて、いくつかの教会で義務として早天祈祷に毎日出ていたものですが、それはきわめてきつい体験であり、その頃その早天祈祷で祈ったことがどれほど応えられたか、はっきり申しまして、今となってはほとんど思い出せません。  早天祈祷が大事なのは知っている、なぜならばイエスさまがなさったお祈りにならうことだから、そうわかっていても喜びが全くありませんでした。言うなれば私にとっての早天祈祷は、宗教行為以上の何ものでもなかったわけです。イエスさまのように、御父を「アバー!」とお呼びするような生ける神との交わりのない時間です。 ほかの方はわかりませんが、少なくとも私にとってははっきり申しましてその時間は、御霊の満たしもお働きも体験できない時間でした。  しかし、2013年の12月末、私は水戸第一聖書バプテスト教会とつながりを持つようになったとき、聖霊なる神さまは私の心に大いなる飢え渇きを起こしてくださいました。私は毎朝4時20分に起き、翌年2014年の7月に日本に帰るまでの間ほぼ毎朝、家の近くにある教会に通って早天祈祷に出席しました。このとき私は長年夢見てきた、日本での教会の働きに専念するという夢がいよいよかなうことを前にして、ひたすら祈りました。神さま、私は日本で牧会するには、あまりに無力です! 力をください! このときは私は間違いなく、父なる神さまに「アバー!」と呼び求める信仰が育っていたと思います。  イエスさまにとっての朝のひそかな祈りは、ミニストリーのエネルギーを得るための儀式などというものではありません。もっと単純なものだったと考えるべきです。世のしがらみの中で、人として生きられるゆえの肉体の限界の中で、御父との時間に飢え渇き、思い切り甘えられるように「アバー!」と、その御胸に飛び込んでおられた、イエスさまにとって朝のお祈りとは、そういう時間だったと考えるべきではないでしょうか? だとすると、早天祈祷というものは、肉体に鞭を打って眠い目をこすってひたすら祈りに徹する荒行(あらぎょう)、などととらえるのは、見当違い、ということになります。 イエスさまは、それしかなかったからお祈りされた、というべきです。あたかもそれは、いのちをつなぐために食べ物を食べ、水を飲むのと同じことです。御父に祈らなければ、御父の御胸に飛び込まなければ生きられないから、イエスさまはお祈りされたのです。そこから御国の福音を宣べ伝える力、弟子を訓練する力、ついには十字架におかかりになる従順の力に、イエスさまは満たされてゆかれたのでした。   私たちはあまりにも祈っていません。神さまに拠り頼まないでも生きていられるなどと思うほど、私たちは思い上がっています。イエスさまをご覧ください。イエスさまはどれ一つとして、ご自身のご意志、またお力で行われたことなどなく、御父に祈られ、御父に示されるとおりに、御父に拠り頼まれながら、すべてのことを行われました。  神さまに祈らなくてもいいなんて、いったい私たちはイエスさまよりえらいのでしょうか? 私たち凡人、弱い者、愚かな者が祈らないで、何ができるというのでしょうか? 祈らないでことをするなら、私たちは肉に従って生きるしかなくなります。肉に従うということは、肉を利用して私たちを操作するサタンに従い、サタンの心を成し遂げることを意味します。そんなことでいいのでしょうか?  もっといえば、私たちにとって神さまとは「アバー!」とその御胸に飛び込まないでもいいほど、遠いお方なのでしょうか? 神さまは私たちを子どもとしてくださったのに、子どもである私たちが、神さまの御胸に飛び込まなくていいのでしょうか? 子どもとして神さまの御胸に飛び込むことは、決して「甘えている」と非難されるべきことではありません。 「甘えている」と非難すべきことはむしろ、神さま以外のもの、テレビでもゲームでもインターネットでも、あるいはお酒でもギャンブルでも、そういう快楽におぼれて、決して神さまのほうに行かないことではないでしょうか? そんな私でも神さまは見過ごしにしてくださる、赦してくださる、と神さまを甘く見ること、これこそが神さまに対する非難すべき「甘え」ではないでしょうか?  というわけで私たちは、イエスさまの霊なる御霊を受けて、「アバ、父」と大胆に神さまにお近づきする権限をいただいたのですから、堂々と「アバー!」と近づくべきです。しかし「アバー!」ではちょっと、聖書原語のカラーが強すぎるとお思いでしょうか? なら、「お父さん」でどうでしょうか?  今からちょっと祈りましょう。 これまで私たちは「神さま」とか「天のお父さま」とお呼びしてきました。それを「お父さん」と呼びかけてみてはいかがでしょうか? なにしろ「アバー!」なのですから。さらに言えば、祈りの途中で「あなた」ですとか「あなたさま」と呼びかける、その呼び方も考えましょう。私たちは自分の父親に「あなた」とか「あなたさま」とは言いません。「お父さん」と言うでしょう。「うん、お父さんの言うとおりだね」ですとか。  だからお祈りの中でも、たとえば、「神さま、私はあなた(さま)のみこころに従います」と今まで祈ってきたそのことばを、「お父さん、私はお父さんのみこころに従います」というように祈ってみてください。大丈夫です。だって、「アバ」なんですから。ほんとうは「お父さん」でもまだ堅いぐらいですが、「パパ」じゃいくらなんでもあれですから、まあ、それくらいにしましょう。さあ、一緒にお父さんに祈りましょう。しばらく祈りましょう。神さまが「アバ」、いや、「お父さん」と呼びかけていいお方であることを、ともに体験しましょう。  いかがでしたか? なかなかことばが出てきませんでしたか? 恥ずかしかったですか? それとも、もっと神さまを身近に感じられましたか? 私たち全員にとって、神さまはお父さんです。アバと呼びかけるべきお方です。私たちには、神さまをアバ、お父さんとお呼びかけできるイエスさまの霊、聖霊が注がれているのですから、安心して「お父さん」と呼んでみてください。そしてそうお呼びかけしても平安なほど、近しい交わりを神さまと毎日分かち合ってまいりましょう。

兄弟姉妹を愛するために

聖書箇所;ヨハネの手紙第一2:1~11(新p478)/メッセージ題目;「兄弟姉妹を愛するために」 私たちクリスチャンは、教会外部の人たちからどのように見られているでしょうか? えらい人でしょうか? きよい人でしょうか? もちろん、そんなたいそうな人たちではないことなど、私たち自身がいちばんよく知っていることですが、以前教会に通っていなかった頃の私の経験から言わせていただければ、クリスチャンという存在には、一般の人たちはそのような、一定のイメージを持っているようです。  イエスさまは、人々が私たちクリスチャンに対して抱くイメージを特徴づけるものは、私たちクリスチャンの兄弟姉妹の間の「愛」である、という意味のことをおっしゃいました。ヨハネの福音書13章34節と35節をお読みいただきたいと思います。……それでは、私たちはいかにしてその「愛」を実践していくものなのでしょうか? ヨハネの第一の手紙から、この「愛」について、私たちは学んでいきたいと思います。  まず1節から見てまいります。……最初に、私たちは「罪を犯さないようになる」ことが要求されています。なぜでしょうか? 私たちは、罪を犯すことのふさわしくない存在にされているからです。エペソ人への手紙5章8節には、このように書かれています。……私たちは、光であられるイエスさまを心の中にお迎えしているので、私たちもまた、イエスさまという光を照らす「光」となりました。私たちはその光を照らす、神の子どもらしく歩む必要があるわけです。  コリント人への第二の手紙6章14節には、このようにあります。……光の子どもである私たちにとって、暗闇は似合わないのです。私たちは、暗闇の勢力に仲間入りすべきではない存在なのです。 そういうわけで罪はどんな罪でも避けなければなりません。それでも私たちは、罪を犯してはしまわないでしょうか? 時に、暗闇のわざに仲間入りしてしまいはしないでしょうか? そんな私たちが罪を犯さないようになるとは、どういうことでしょうか? 1節のみことばの後半を改めてごらんください。私たちには、御父の御前で私たちのことを弁護してくださる、イエスさまがいらっしゃいます。  イエスさまご自身がとりなしてくださるのです。何と感謝なことでしょうか! それでは、イエスさまはどのようにして、私たちの罪をとりなしてくださるのでしょうか? 2節のみことばです。……宥めのささげ物、とあります。宥めのささげ物については、ローマ人への手紙3章25節と26節に書かれています。  神さまはまず、人々のあらゆる不敬虔と不義に対し、怒っておられます。その怒りがもし人にそのまま注がれたならば、人はひとりとして生きることはできませんでした。しかし神さまは、人を愛しておられ、人がひとりとして滅びることを望んではいらっしゃいませんでした。その神さまの怒りを宥めるささげ物……それは、神のひとり子イエスさまが十字架にかかって血潮を流してくださることだったのです。  本来ならば人の側で、神の怒りを宥めるささげ物を供えなければならなかったのではないでしょうか。しかし、人は不完全であり、かつ罪深いので、どんなものを用意したとしても、完全な神さまのみこころにかなうささげ物を用意することはできませんでした。 このままでは人は神さまの怒りに触れて滅ぼされてしまいます。そこで神さまの側から、宥めのささげ物を備えられました。神さまが供え物とされたのは、完全なるお方、イエスさまだったのです。そのささげ物は、「私たちの罪だけでなく、世全体の罪のため」とあります。すべての時代のすべての人にとって有効なものです。   ここに、人に対する神さまの愛を見ることができます。神さまは人を愛しておられることを、ご自身のひとり子を十字架におつけになるということをとおして、人の前に示してくださったのです。  そのようにして神さまの愛をいただいた私たちのすることは何でしょうか? 3節です。  ……神さまを知っているとはどういうことでしょうか? ただ「神は父、子、御霊の三位一体のお方である」とか「神は愛である」とか、そういうことを知っていればいいのでしょうか? もちろん、それもとても大事なことですが、それで完結してしまうならば、単なる「情報」にすぎません。3節のこのみことばは、神を知っていることは、「神の命令を守る」ことによって証明されると語っています。ということは、聖書に対する知識がいっぱいあっても、生活がとても主のみこころにかなわないような人は、実は神を知っていることにはならない、ということがわかるわけです。 続く4節にはこのようにあります。……この4節のみことばをお読みして、私たちはどのように感じたでしょうか? 「私は神の命令を守っているから、神を知っていると言っても偽ってはいない」と思いますか? もしそうお思いでしたら、1章の、8節と10節をお読みください。……そうです、私たちはどこかで罪を犯しているものです。神の命令に反する生き方をしている者、それが私たちです。うぬぼれてはなりません。 ならば、「ああ、自分は神を知っていたつもりになっていた、実際はご命令を守らないことばかりだ! 自分は真理がうちにない、偽り者だ!」と思いますか? もしそうならば1節のみことばに戻りましょう。私たちのその罪は、イエスさまが十字架によって赦してくださいました。私たちは、神の恵みによって罪のさばきから守られている存在です。自分の罪深さに思いを巡らすよりも、イエスさまの完全な赦しに信頼していただきたいのです。 5節のみことばにまいります。……このみことばは何を語っているのでしょうか? みことばを守る人には、神の愛が実現している、ということです。誤解のないように申し上げますが、みことばを文字どおりに守ることで神の愛を獲得するのではありません。言い換えれば、私たちがみことばを守り行う理由は、神さまに愛してほしいからではありません。 神さまがすでに自分のことを、ひとり子イエスさまを十字架につけてくださるほどに愛してくださっているから、その愛に応えて、みことばを守るのです。神さまが愛しておられるその愛を感じて、みことばを守り行いたくてたまらなくなるのです。そのようにみことばを守りたくてたまらない人は、間違いなく、神さまのうちにいます。私たちが目指すべきは、このような人ではないでしょうか? そういうわけで、神さまのうちにとどまることが私たちの目標ですが、どのように生きる必要があるのでしょうか? 6節のみことばです。……キリストが歩まれた歩みは、4つの福音書に記されています。そのイエスさまの歩み。これこそ、私たちの目指すべき歩みであるというわけです。このような歩みは、イエスさまを信じバプテスマを受ければ、ひとりでにできるようになるものではありません。だからといって、私たちが人間的な努力を積み重ねればできるようになるというものでもありません。私たちの力でイエスさまのような歩みができないことを素直に認め、神さまの力に拠り頼みつつ、神さまの恵みの中で少しでも努力を重ねていく必要があります。 そのように、キリストに似た者になるために私たちは、毎日聖書を読んで、イエスさまがどのように歩まれたかを常に学ぶ必要があります。この取り組みは、ひとりでするものではありません。教会の兄弟姉妹でともに取り組むものです。教会のみなさまでともに成長してまいりたいものです。 さて、このようにヨハネが読者に命じていることは、どのような性質を持っている命令でしょうか? 7節と8節をお読みします。……7節ではこれが古い命令であると言い、8節では新しい命令であると言っています。いったいどういうことでしょうか?……まず7節では、古い命令とは「あなたがたがすでに聞いているみことば」のことであると書かれています。 この時代におけるみことばとは、今で言う旧約聖書です。いうまでもなく旧約聖書の時代には、キリストはイエスさまというお名前では登場していません。しかし、神さまの示された人間の守り行うべき基準については、旧約聖書には書かれています。その意味で、使徒ヨハネはこの命令を「古い命令」と語ったのです。 この「古い命令」は、人間的な努力で守り行えるものではありませんでした。しかし、時が満ちて、イエスさまがこの地上に来られました。旧約に啓示されていた救い主のおとずれは、イエスさまが来られたことによって成就したのです。そしてイエスさまを超える啓示は、もはや存在しません。イエスさま以上に新しいお方はいないのです。このイエス・キリストの恵みによって、この古い命令は「守り行わなければならない」ものから「守り行いたい」ものへと昇華されました。 ゆえに、キリストのように歩めと説くこの命令は、旧約のみことばに根差している分、古い命令であり、永遠に新しいお方であるイエスさまゆえに、新しい命令なのです。古い命令であると同時に新しい命令である。ということは、この命令はどの時代にも通用する、時代を超えた真理であるということになります。「それはイエスにおいて真理であり、あなたがたにおいても真理です」と語っているとおりです。 私たちはその真理の光に照らされるべく召された者です。しかし、実際の私たちの姿はどうでしょうか? 9節のみことばをお読みします。 ……この世の中で、イエスさまという光にあずかることほど素晴らしいことはありません。私たちはそれを知っているから、教会にも来ますし、聖書も読みますし、お祈りもします。しかしこのみことばは、兄弟を憎んでいる者は今もなおやみの中にいる、つまり、光の中にはいない、と語っています。 私たちの心が問われています。私たちにはだれか、憎んでいる人がいないでしょうか? もし、だれかのことを憎んでいるならば、表面的にどんなに取り繕ったとしても、やみの中にいるという事実を覆すことはできません。 10節を飛ばして先に11節をお読みします。……このみことばは、兄弟と呼ばれている人、つまり、神さまが私たちの隣人としてそばに置いてくださっている人を憎む、そのメカニズムを語っています。それは、そのように兄弟を憎む人は、神の光の中にとどまるよりも、神の光に照らされないほうがいいと思っている領域、すなわち闇というものを心の中につくり出し、その闇の中にあえてとどまろうとするから、と語っています。その結果、その闇の力のゆえに、兄弟を憎むということをしてしまうのです。   逆に言えば私たちは、兄弟を憎む心を温存することによって、私たちの心はどす黒いやみが支配するようになります。口ではいかにも立派なことを言っていようと、実際に兄弟を憎んでいるならば、その人は神の光に照らされることを拒んでいるということになるのです。 そんな私たちはどうすればいいのでしょうか? 10節のみことばに答えがあります。そうです、神の光の中にとどまるためには、とにかく兄弟を愛すればいいのです。しかし、こう申しますと、非常に事は簡単に済みますが、私たちの実際の姿はどうでしょうか? すぐそばにいる人を愛していると、心から言えるでしょうか? 夫婦の間で衝突があったらどうでしょうか? 親子の間ではどうでしょうか? 嫁姑の間ではどうでしょうか? 教会の兄弟姉妹の間ではどうでしょうか?  このようにひとつひとつ見ていくと、私たちはみな、神さまが定めておられる「愛」の基準からとても遠いところにある……それが私たちの姿ではないでしょうか? しかし、私たちの目指すべきは光の中にとどまることであるのは変わりません。私たちに愛がないことを悟らされたならば、どうすればいいのでしょうか? そうです、このような者を御父の御前でとりなしてくださる、イエスさまのみもとに行けばいいのです。 そもそも、完璧に隣人を愛する歩みができた人なんて、イエスさま以外にいらっしゃいません。私たちの愛という歩みはどこかが不完全なものです。しかし、イエスさまが愛されたように隣人を愛するならば、私たちの愛は完全な愛、神さまのみこころにかなう愛に近づくのです。それこそが、神さまの光の中にとどまる歩みです。 もう一度、メッセージの冒頭でご紹介したみことば、ヨハネの福音書13章34節と35節をお読みします。……私たちが互いに愛し合うためには、まず、イエスさまがどんなに私たちのことを愛しておられるかを知る必要があります。だから私たちは聖書をいつもお読みするのですし、また、お祈りをするのです。その結果、教会という場で奉仕のわざをとおして、愛の実を具体的に結んでいくのです。 そのようにお互いが、キリストの愛によって愛し合う姿……私たちにとってこれ以上、この世に対して、神さまを証しする生き方はありません。私たちが互いに愛し合っているならば、目に見えないイエスさまというお方に従っているんだなあ……ということは、イエスさまというお方は実際にいらっしゃるんだなあ……このお方は信じ従うべきお方なんだなあ……ということが、世に対して伝わっていきます。いくら論理的に聖書の正しさを証明しようとしても、私たちが互いに、イエスさまの愛によって愛し合っていなければ、世の中にどうやって、神さまが信じ受け入れるべき真理なるお方であることを伝えることができるでしょうか。 そうは言いましても、何度も申し上げているとおり、私たちはなかなか愛することのできない者です。ならば、そのような私たちであることを正直に主の御前に認め、赦していただきましょう。ヨハネの手紙第一の1章の9節をお読みします。 兄弟姉妹を愛さないということも、罪です。その罪を抱えているかぎり、私たちは暗闇の中に今もなおいることになります。暗闇の中にとどまっていてはいけません。私たちは主の光に導かれ、主の光へと向かって歩むように召された存在です。主の光の中を歩んでいる証拠は、互いに愛し合うという形で実を結びます。 私たちがいま生きている世の中は、ソーシャル・ディスタンスということが言われています。同じ物理的な空間をともにする形で愛し合うことには、ハンディがあるのが現実です。もちろん、この礼拝堂に日曜日にやってきて時間を共有するのがベストにはちがいありませんが、それができる状況になくて悩んでいる方がおられるのが現実です。 しかしそれでも、私たちは愛し合えないでしょうか? 私たちの生きる社会は幸い、文明の利器というものがあります。私たちには電話もありますし、手紙もあります。ラインもあります。私たちが愛し合う共同体の中にいることを、文明の利器を用いることで確かめるのも一つのありかたでしょう。それはちょうど、使徒のヨハネの時代に手紙を介してみことばをやり取りしたのと同じことと言えないでしょうか? 信仰の家族として愛し合う共同体を形づくるうえで、いまはかなり制限が加わって難しさを覚えますが、このようなときだからこそ互いのために祈り、励まし合い、力づけ合う共同体として成長するものとなりますように、そして、その歩みが神さまを示すまたとない証しとしてこの世界に伝わりますように、私たちの群れに祝福があるようにお祈りいたします。

三位一体の神の知恵

聖書箇所;コリント人への手紙第一2:6~16(新p328)/メッセージ題目;三位一体の神の知恵  先々週のメッセージは、フォーク歌手早川義夫のレコード「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」をもじって、「知恵あることはなんて愚かなんだろう」と題して、この世の知恵と神の知恵を対比して学びました。先週はさらに進めて、その愚かさの正体についてキリスト者にとっての弱さの正体とともに学び、「愚か」とは選択するもの、十字架につけられたイエス・キリストにこだわることであるということを見てまいりました。 今日は第一コリント2章の後半の方に入ってまいります。第一コリント2章は後半に入ると、弱さや愚かさということを扱っていた内容から、その反対の、知恵ということを扱う内容へと変わります。 パウロはここで、この世の知恵ではない、まことの知恵を語っています。それでは、ここでパウロが語るまことの知恵とはどのようなものでしょうか? 3つのポイントから見てまいりたいと思います。 第一のポイントです。まことの知恵とは、神に属するものです。 6節をお読みします。……先週も学びましたとおり、パウロはコリント宣教を始めたばかりのときには、あえて十字架のイエスさまのことしか知らない、いわば「愚か」な者になるという選択をしました。しかしこの6節をご覧ください。パウロは、成熟した人たちの間では知恵を語ると言っています。 知恵といっても、ここにあるとおり、この世の知恵でも、この世の過ぎ去っていく支配者たちの知恵でもないということです。この世の知恵とは、一般人が常識として普通に身に着ける知恵です。支配者たちの知恵とは、社会の支配者が民衆に啓蒙するように教える知恵であり、その支配者も過ぎ去っていくということは、この知恵はきわめて限定的です。そのどちらも、この世に属する知恵であるという点では変わりがなく、パウロの語る知恵は、そのどちらでもない、ということです。 それでは、パウロは成熟した人たちの間では、どのような知恵を語るのでしょうか? 7節のみことばです。……そうです。知恵とは、隠された神の奥義です。神に属するものです。これこそ、成熟した人たちの間で語られるべき知恵です。 それでは、クリスチャンにとっての成熟とは何でしょうか? 何によって測られるのでしょうか? パウロが、この世に属する知恵を語らないと言っている以上、この世の知恵に満たされていることがクリスチャンにとっての成熟ではないことは明らかです。この世の知恵を充分身に着けているからと、その人が成熟したクリスチャンであるとはかぎらないのです。クリスチャンにとっての成熟の度合いは、神さまをどれだけ愛し、隣人をどれだけ愛しているかにかかっています。その前提として、イエスさまが自分のことをどれだけ愛していらっしゃるかを日々の主との交わりの中で体験し、その感謝の表現を、生活の中で具体的に行なうのです。 そのように成熟することで、神の奥義を受け入れるにふさわしく成長します。そしてその一方で、神の奥義を学んで成長することによって人は成熟するともいえます。私たちは、普通の人には難しいように思われる隠された知恵、奥義を普通に受け入れることができます。なぜならば、この7節のみことばによれば、この奥義の知恵は、私たちの栄光のために、神さまが世界の始まる前からあらかじめ定めておられたものであり、それはことばを換えると、世界の始まる前から神さまは、私たちを選び、奥義の知恵が理解できるようにしてくださっていたということだからです。私たちは、人の目には難解にも愚かにも映るみことばを、素直に理解できる力が備わっているのです。 しかし、この知恵は、先週も学んだとおり、強い者、知恵ある者、この世界の主導権を取るような者には理解できない仕掛けになっていました。彼らは、自分の罪を明らかにするイエスさまのことを決して受け入れず、ついには十字架につけてなぶり殺しにしました。神の子をのろわれた存在と見なしたのです。神の子を否定する。それが、この世の力ある者、知恵ある者のしたことでした。世は自分たちの肉の力、罪深い力によっては、神さまの奥義、知恵を知ることはなかったのでした。 しかし、9節をご覧ください。……人の知恵によっては到底理解できなかったことを、理解する力を、神さまは特別な人に与えてくださいました。どんな人に対してでしょうか? 神を愛する人たちにです。 神さまを知ったら、神さまを愛するようになってしかるべきです。ああ、こんなにも大いなる創造主が、私に目を留めていてくださっているなんて! こんな小さな者を罪から救うために、イエスさまを身代わりに十字架につけてくださっただなんて! 毎日、何年繰り返し読んでも読み切れない、こんなに分厚いラブレターを書いてくださっただなんて! ひとつひとつのみことばによって、ときどきにささげる祈りによって、私たちは神さまの愛を知り、ますます神さまを愛するようになります。 そのように神さまを愛することにおいて成長するならば、神さまはみことばに奥義として秘められたその知恵を、私たちに教えてくださいます。私たちはときに、神さまのみこころがわからなくなることはないでしょうか? 聖書を読んでいても、何を言っているのかわからない。いや、わかっているようには思えても、それがいまの自分とどんな関係があるかわからない。そんなとき、私たちにはすることがあります。神さまを愛していることを確認するのです。あえて、神さま、私はあなたさまを愛しています! と告白するのです。 サタンは言います。特に、私たちが霊的に弱っているとき、サタンの声が聞こえてこないでしょうか。こんなに神のみこころのわからないおまえなんか、神を愛していない、と、嘘を吹き込みます。しかし、そのような攻撃が臨むような、霊的に弱っているときこそ、神さまを愛していることを告白するのです。神さま、いま私はあなたさまのみこころを計り知ることができないでいます。けれども私は、あなたさまを愛します。あなたさまを愛する私に、あなたさまはみこころをお示しくださり、何をどうすればよいかを必ず、あなたさまの時にしたがって教えてくださると信じます。 そう告白していいのです。私たちは、みこころを必ず示してくださる神さまとひとつとなっているということを、少なくとも教えていただいています。その知恵を得させるように、神さまは世界の始まる前から私たちのことを選んでくださいました。自分は選ばれている、奥義を授けていただくにふさわしいものとしていただいている、そのことに感謝して、今日も、そしてこれからも、神さまの知恵を求め、神さまの知恵に満たされてまいりましょう。 第二のポイントです。第二に、まことの知恵とは御霊によるものです。 10節のみことばです。……人がまことの知恵、神の知恵を知ることができるのは、神さまが御霊によって、その知恵を啓示してくださるからです。神さまの奥義というものは、何やら難しい聖書の学びを積み重ねることによってようやく得られるといった性質のものではありません。奥義というと、何やらとても難しいもののように思えるかもしれませんが、神さまのみこころを知らされている私たちが経験上言えることで、それが難解なものではないことを、私たちはよく知っていると思います。イエスさまの十字架の贖いは、あまりにもわかりやすい真理ですが、これはだれにでも理解できるという性質のものではありません。だからこそ奥義なのです。 この奥義をわかりやすいものとして、受け入れやすいものとして私たちに示してくださるお方が、御霊なる神さまです。では、御霊なる神さまとはどのようなお方でしょうか? 11節です。……そうです、御霊とは、唯一、神さまのみこころをことごとく知っておられるお方です。 このことをパウロは、「人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、だれが知っているでしょう」と、神さまに霊的存在として形づくられた人間のことを例に挙げて説明しています。人は、会話をしたり、意見を表明したりして、自分の内面を人前にさらします。これはある意味、自分の霊が何を思うかを、他人に示すわけです。あるいは、口に出さなくても、顔の表情やしぐさで、何を考えているかがある程度他人に見えたりします。 それでも、そのようにして他人に見えるものはその人のほんの一部にすぎません。その人の霊の部分は、ほとんどが人に見えないところにあり、それこそがその人を形づくっていますが、それは少しずつでも人に対し、ことばなどを通して分かち合わないかぎり、わかってもらえません。 同じように、神さまのことをすべてご存じなのは御霊です。私たちは雄大な自然という被造物を見て、神さまの偉大さ、繊細さを見ることができますが、それは神さまがどういうお方かを知るうえでの、実は限られた情報にすぎません。 しかし、12節をご覧ください。神さまは、ご自身のことをだれよりもご存じの御霊によって、私たちにご自身を余すところなく啓示してくださいました。聖書のみことばのみ、そしてみことば全体によって、聖霊なる神さまは私たち信じる者に、神さまご自身を完全に示してくださいました。 それでも私たちにとって聖書は、何の心構えもなく読もうとしたら、相変わらず難解な書物です。そのような私たちが神さまのみこころを知るためには、どうすればいいのでしょうか? 13節です。……そうです。人間の知恵で聖書を読もうとしないことです。人間の知恵で聖書を読もうとすると、うまくいきません。わからなくなります。聖書は、聖霊なる神さまに教えられるとおりに読むことです。そうすると、聖霊なる神さまがその知恵によって、聖霊なる神さまご自身の書かれた聖書のみことばを解き明かしてくださいます。 そうです。聖書をお読みするときに、聖霊さまの助けをいただくのです。毎日のディボーションや聖書通読のとき、聖書を読む前に静かに祈り、聖霊なる神さまが解き明かしてくださるように助けを求めることが大事になります。ただし、さきほども申しましたとおり、そこには神さまを愛する心が必要になります。神さまを愛するならば、神さまの霊に自分を従わせようと、へりくだることになります。へりくだるからこそ、自分の知恵では聖書が読めないことを心底認め、聖霊なる神さまに拠り頼むようになるのです。そうすると、人間の知恵ではわからない神の奥義を、聖霊なる神さまは教えてくださいます。 私たちは本来が罪人であり、神さまのみこころを知る権利などありませんでした。しかし、あわれみ深い神さまは私たちを救ってくださり、聖霊さまによって神の奥義を知る知識をことごとく、私たちに知らせることをよしとしてくださいました。このことはどれほどもったいない恵みでしょうか? それでも神さまは私たちに御霊をくださり、ご自身のみこころを示すことをよしとされたのですから、私たちのすることは、そのみこころを御霊によって教えていただくことだけです。 しかし、14節をご覧ください。……この箇所を読むと、「生まれながらの人間」という表現が出てきます。聖霊によって新しく生まれていない人、それが生まれながらの人です。 イエスさまはニコデモにおっしゃいました。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」人は聖霊さまによって新しく生まれていなければ、神の御霊に属することを愚かなこととしか考えません。聖霊さまに属することで得られる神の国、永遠のいのちがどんなに素晴らしいものか、理解できないし、それ以前に、理解する必要もないと考えるのです。それは、神の国や永遠のいのちといったものの素晴らしさは、御霊によってわかるものであり、御霊の臨んでいないその人には、何のことだかさっぱりわからないからです。 前にこのメッセージの時間に申しました。人は、もしまことの神さまに対する信仰がなかったならば、神さまのことをどのように理解するのでしょうか。父なる神さまはわかるかもしれません。イエスさまのこともわかるかもしれません。しかし、聖霊なる神さまはわからないはずです。 果たして私たちは、未信者の人に聖霊なるお方のことを説明して、理解していただける自信があるでしょうか? 私にも自信がありません。なぜならば、聖霊なる神さまは頭の知識によって理解できるようなお方ではなく、実際に体験することによってはじめて理解できるお方だからです。ゆえに、聖霊を理解している人は、神さまが聖霊を体験させてくださった人です。異言のような超常現象があるなしにかかわらず、聖霊を正しく理解できている人は、神さまがそのように選び、聖霊を注いでくださった人です。 そのようにして御霊に属する人となった人は、どうなるでしょうか? 15節です。……そうです。全能なる神さまの霊が臨むゆえに、すべてのことをわきまえる力を授けていただきます。すごいことです。 その一方で、「その人自身はだれによっても判断されない」とあります。これは、その人の霊以外に自分のことを知っている者はいない、ということ以上の意味です。 その人自身というのは、神さまの霊なる聖霊によって神さまご自身と一体化した、その人、という意味です。その人のことは、もしかするとある程度は、その人と交わす会話などを通して、他人にはわかるかもしれません。しかし、その人のうちに働く御霊の働きは、だれにも推し量れませんし、また、勝手に推し量るようなことをしてはいけません。 もちろん、たとえば子育てなどをしていて、子どものためにとりなして祈るとき、その子どもに聖霊なる神さまが働かれてみこころを示されることを、クリスチャンの親としては祈るものです。私も、信徒のみなさまのためにお祈りするとき、やはりそのように聖霊なる神さまのお働きがみなさまにありますように祈らされます。その祈り自体は必要です。 しかし、子どもなり信徒なり、人をみこころにかなう人へとつくり変える御霊さまのお働き、みこころに関しては、御霊さまはきっとこのように働いてくださるだろうと推し量ったりすることは、控えるべきです。そのように祈ったならば、もしそのとおりに事が進まなかったら、私たちは神さまに対して不信仰になりはしないでしょうか? 神さまは私たちのちっぽけな願望をはるかに超えて働かれるお方です。ここはひとつ、神さまのみこころに委ねるべきです。 愛知県で牧師をしている私の友達が、このような神さまのお働きについて、うまいことを言っていました。「餅は餅屋」。言い得て妙ではないでしょうか? 御霊のことは人間的なレベルであれこれ詮索するのではなく、委ねてまいりましょう。 私たちクリスチャンは、同じ聖霊さまによって、すべてを判断する知恵があるとともに、人からは判断されない知恵を持つという、たぐいまれな知恵を与えていただきました。なんと私たちは特別な恵みをいただいているのでしょうか。聖霊さまがこのように、つねに特別な知恵の恵みに満たしてくださることに感謝しましょう。 第三のポイントです。第三に、まことの知恵とはキリストの心です。 16節のみことばをお読みします。……この中に旧約聖書のみことばが引用されていますが、その聖書箇所は、イザヤ書の40章13節のみことばです。実際にひらいて読んでみましょう。前後の12節と14節も合わせてお読みしたいと思います。 主は創造主です。大いなるこの方の知恵と御力には、だれもかなうことができません。ヨブ記を読むと、主ご自身がみことばをもってそのみわざをこれでもかとお示しになったとき、ついにヨブは降伏し、悔い改め、その結果ヨブは大いなる回復をいただきました。 ヨブにしてそうだったなら、いわんやちっぽけな私たちはどれほど、創造主なるお方のその壮大さの前にひれ伏さざるを得ないことでしょうか。 しかし逆に、私たちは鈍く、ヨブのようには神さまと深い交わりを持っているわけではないので、私たちはこの期に及んで、まだ神さまを自分の思いどおりに動かしたいと思ったり、勝手にみこころを推し量ったりするような愚を犯すものです。そのような私たちは、どうしなければならないでしょうか?「しかし、私たちはキリストの心を持っています。」キリストが私たちとひとつとなってくださっていることを自覚することです。 この箇所は文脈からすると、パウロのことを霊的に充分な教師と見なしきれない、コリント教会の一部の信徒たちに対する警告の意味を込めたことばと読むことができます。パウロのことを判断する、つまり、彼らコリント教会の信徒たちは霊的に幼子であるにもかかわらず、実際に御霊の働いているパウロを判断しようとする愚かさを戒めているわけです。 ガラテヤ人への手紙2章20節のパウロの告白は有名ですが、あらためて開いてみましょう。……キリストとともに十字架につけられ、自分のうちにはもはや自分ではなく、復活のキリストが生きておられる。これがパウロなのです。それゆえに、自分を判断しようとすることはキリストを判断することであると強く警告するのです。 それは私たちも同じです。私たちはもはや自分が生きているのではありません。キリストが自分のうちに生きておられるのです。すべての救い主、すべてのさばき主、王の王、主の主がうちにおられるならば、だれが私たちに敵対できるでしょうか。だれがそのような私たちに対して偉そうに振る舞えるでしょうか。私たちはイエスさまの十字架と復活のゆえに、勝利者なのです。このことを忘れてはなりません。私たちが誇るとすれば、このように私たちに絶対的な勝利を与えてくださったキリストが、私たちの心のうちに住んでくださっているということです。神さまが私たちに与えてくださった知恵とは、キリストご自身です。私たちはイエスさまとの日々の交わりを通して、この世の何ものも与えることのできない知恵をいただきます。 改めまして、ガラテヤ人への手紙2章20節をお読みして、私たちが何者であるかを思い起こしましょう。十字架にかかられ、復活されたイエスさまが私たちの心の中にお入りくださり、いつまでもともにいてくださり、たえず神の知恵なるみことばを与えつづけてくださることに、心から感謝してまいりましょう。そして、今日も、明日も、これからも、イエスさまとの交わりの中で、みことばをいただきつづけてまいりましょう。 結論にまいります。クリスチャンとして生きるということは、神さまに属するその知恵によって生きること、聖霊さまが与えてくださるその知恵によって生きること、キリストご自身というその知恵にしたがって生きることです。そのようにして、愚かで知恵のなかった私たちは、この世の何ものにもまして強い者、知恵ある者にしていただけます。このことを心から感謝し、今日も三位一体の神さまに知恵を求めてまいりましょう。 では、お祈りします。

「キリストのほかには何も知るまい」

聖書箇所;コリント人への手紙第一2:1~5(新p328)/メッセージ題目;「キリストのほかには何も知るまい」  このメッセージの原稿に取りかかる朝、私は娘たちと、あのマンガの『ドラえもん』の話をしていました。私自身が『ドラえもん』を読んで育ってきたために、『ドラえもん』はわが家の食卓では共通の話題となっています。  大人になって私が気づかされたことですが、『ドラえもん』が人気なのは、ドラえもんの出してくれる道具が何でもかなえてくれることそのものよりも、その道具に頼ることではじめてなんとかやっていける、のび太の弱さに、物語を見る者がシンパシーを感じるせいではないかと思います。  あの、何をやらせてもダメ、勉強もスポーツもダメ、そのくせ愚かとさえ思えるような言動……それを見て、人はのび太のだめさ加減を笑いながら、どこか自分にもそういうところがあるのではないかと思い、そんな自分もドラえもんの秘密道具のようなものに助けてほしい、と思うから、あのマンガは人気なのではないかと思います。  実際、のび太のモデルになったのは、作者の藤子・F・不二雄自身だそうで、それはご本人がそう言っているから確かなことです。マンガを子ども雑誌に新しく連載することが決まり、その予告に何も思いつけなくて、「机から何かが飛び出した」というシーンだけを描いたはいいけれども、肝心の「何が飛び出した」ということはまったく考えていなくて、刻一刻と迫る締め切りにパニックになったそうです。  彼は両手を挙げ、「わしゃ破滅じゃー!」と叫びながら階段を駆け下りました。そのとき、そこにおいてあった娘の人形「ポロンちゃん」をうっかり蹴飛ばして、お嬢さんに叱られました。しかし、それがきっかけで、ポロンちゃんの形からドラえもんのキャラクターを思いつきました。そして、今こうして締め切りに追われてパニックになっている自分のような、ダメな子どもを助けてくれる未来のロボット、という物語へと、一挙につながったのだそうです。  そういうわけでのび太は、作者自身です。のび太が子どもにお大人にもあれだけ愛されているのは、作者自身のダメさ加減をさらすような素直さが作品に反映されているからではないか、それに読者が共感するからではないかと思います。  さて、導入はここまでにして、聖書の本文に入ってまいりたいと思います。今日の箇所は短いですが、パウロはこの箇所に至るまで、神さまがお選びになる人間の、弱さ、ですとか、愚かさ、ということを強調してきました。それがここに来るとどうでしょうか、弱く、愚かなのは、パウロ自身であると告白しています。  弱い、とか、愚か、というと、私たちはあたかも、それは『ドラえもん』ののび太のような人のことであり、碩学のパウロなどとても当てはまらない、と思うかもしれません。何をご謙遜を、と。しかし、ここはパウロの告白に耳を傾け、そのような告白をするパウロはいったいどういう人か、ということを、みことばから学んでみたいと思います。  今日の箇所を順番に見てまいりたいと思います。まずは1節からです。……パウロはコリントにおける宣教と教会形成においては、このように、ことばの巧みさや学問の深さを用いて行なってはいませんでした。  それはなぜでしょうか? まず言えることは、コリント教会の信徒のレベルに合わせた、ということです。コリント書第一・第二と読み進めていくとわかりますが、ローマ書の格式高く難解な表現とは、ずいぶん違っていることがわかります。コリント書は第一も第二も、全体にとにかく具体的、実際的で、わかりやすい表現に満ちています。  実際、コリント教会は、取り扱わなければならない問題だらけでした。それは現代日本で教会を形成する私たちから見れば、そんなこともわからないのか、と、あきれてしまうほどのレベルの問題さえ含まれています。しかし、異邦人の社会に宣教するということは、神の民にとっては常識として普通に通用することも、まるで通用しない、そういう非常識が常識となっている中にチャレンジしていくということです。  聖書の学問に深く精通したパウロとしては、あらためて異邦人のありさまにあきれることばかりだったかもしれません。しかしそれでも、パウロはこの群れが、宣教者である自分に対して神さまが割り当てられた群れであると信じ受け入れて、責任をもって牧会しました。こういう人たちには、難しいことばを用いても始まりません。どこまでも彼らの目の高さに降りて、それでも彼らの生活が変えられるように、語るべきことをやさしく実際的なことばで語る必要があります。    こういうメッセージをパウロから聴けたコリント教会は幸いだったと思います。群れをふさわしく束ねる倫理もないような中にあって、ほかならぬみことばの語る倫理を具体的に、みことばの最高の教師であるパウロから聴けたとは、この上なく素晴らしい恵みだったということができます。    それでも彼らが聴かされることばは、「すぐれたことばや知恵を用いた神の奥義」ではありませんでした。パウロにはわかっていました。自分の極めた学問のレベルの高さに合わせて彼らに語ると、彼らにはわからない。彼らには奥義など語れない。    なぜ、彼らにはそのようなすぐれたことばや奥義に満ちたことを語るまいと、パウロは決めたのでしょうか? それは、そのようなことは、彼らの実生活から、あまりにも距離がありすぎることだったからです。パウロは巡回しながらメッセージを語り、教会をほうぼうに立てる人です。コリントにもそう長い間いたわけではありません。そんな中で、コリントの人が聞いてもわからなかったり、彼らの生活に何の影響も及ぼさない、いわゆる「ありがたい」メッセージを語ったりしても、時間が無駄になるだけでした。    それなら、コリントの信徒にとって、実際に何がいちばん必要なメッセージだったのでしょうか? 2節のみことばです。……イエス・キリスト、しかも十字架につけられた方……パウロは何を語るにしても、このことしか語らなかったということです。    イエス・キリスト、つまり、神のひとり子なる救い主イエスさまを、パウロは徹底して語りました。しかし、イエスさまのこと自体を語るのは、ありていに言ってしまえば、だれにでもできることです。パウロはただ単に、イエスさまを語ったのではありません。「しかも十字架につけられた方」と語っています。十字架の死をもって私たち人類を罪と死から贖い、御父なる神さまと和解させてくださり、死からよみがえって私たちを罪と死に永遠に勝利させてくださったイエス・キリストのことしか、私はあなたがたの間で知らないことにした、と語っているのです。    猥雑な港町コリントの庶民を惹きつけるには、新興宗教のような有難そうなメッセージを語るのでしょうか? 自己啓発めいた生き方のヒントを語ったりして、彼らの知的好奇心を満たすのでしょうか? しかし、それでは彼らを表面的には喜ばせられても、永遠のいのちを与えることなどできません。それをキリスト教会と呼ぶことなどできません。むしろ彼らはこの世の知恵や有難さではなく、イエス・キリストの十字架の福音こそ聴くべきだったのです。    一般的に私たち保守バプテストを含む、キリスト教会におけるひとつの陣営を「福音派」と呼ぶのはご存知でしょう。うちの教会のように新改訳聖書を用いる教会は、ほぼ例外なく「福音派」に分類されます。しかしこの「福音派」という呼び方には、なんとなく、その陣営に属する人たちのことを見下すような響きを感じないでしょうか?  いわく、アメリカの前の大統領に象徴される、保守陣営における反知性主義を形づくっているのは福音派である、とか、福音派の用いる新改訳聖書は護教的で学問的ではない、とか、まるで私たちのことを何も考えていない人のように扱うわけです。  護教的、とは、教えを護る、と書きますが、作品がみな福音を伝えるものである三浦綾子の文学は護教的である、という言い方をします。普通、護教的という言い方は、批判的に使われる表現です。そういうわけで、福音派は護教的な、愚かな人たちだというわけです。  しかし、あえて主張させていただきますと、福音派とは、イエスさまの十字架のみに救いがあることを高らかに謳う、誇り高き教会の群れです。この第一コリント2章2節のパウロの告白は、新約聖書のうち13にもなる書をしたためたほどの指導者パウロの、最も欠かしてはならない告白です。  パウロがそうだったならば、私たちもパウロにならって、イエス・キリスト、しかも十字架につけられた方のほかは何も知らない、と言うべきです。私たちがクリスチャンであるというならば、このこだわりを捨ててはなりません。私たちのことを指して、あの人たちは学問的ではない福音派、と陰口をたたく人には、たたかせておけばいいのです。彼らは何をどう頑張っても、パウロのことも、イエスさまの十字架も否定できないのです。  本文に戻りますが、ともかく、十字架につけられたイエス・キリストに徹底してこだわったのは、コリント教会のレベルに合わせることもさることながら、もうひとつ理由がありました。3節のみことばです。……パウロはコリントに足を踏み入れたとき、弱さを感じていました。  パウロがどういう印象を与える人だったかは、このコリント書や、ほかにもガラテヤ書などをあわせて考えると、威厳に満ちた教師のような印象を与えることのない、弱々しい印象の人だったということが見えてきます。ガラテヤ書の表現から類推するに、パウロは眼病を患っていたように見えます。学者によっては、それはトラコーマだと主張する人もいますが、いずれにせよ目を患っていたようです。むかしは現代のように眼鏡などかけませんから、目の力のなさは見る人に対し、いかにも弱々しいという第一印象を与えたのではないでしょうか。  それだけではありません。使徒の働きを見ると、パウロがコリントに入ったのは、18章に記録されているできごとです。このときパウロの身には何があったのでしょうか? 直前の17章を見ると、ギリシアの宗教や哲学の総本山ともいえるアテネにたまたま滞在し、アレオパゴスで大伝道集会を開くというチャンスが与えられましたが、成果らしい成果といえば、わずか数人の人がイエスさまを受け入れただけ、というものでした。  パウロがコリントに赴いたのは、そんな身体上の弱さと、アテネ宣教の失敗の体験という背景があったわけです。パウロは、律法学者として研鑽するかぎり未知の世界だった、異国の港湾都市に赴いたわけです。荒くれ者たち、律法も創造主も知らない者たちのなかに飛び込むパウロの心情を考えてみましょう。そんな彼らには何を語るべきなのでしょう? 十字架のイエスさましかなかったのでした。  4節のみことばをお読みします。……彼らコリントの人たちが福音に触れるには、頭での理解以上に、御霊ご自身が力をもってお働きになることが必要でした。この第一コリントを読み進めると、コリント教会にはさまざまな霊的現象が起きていたようですが、そういうさまざまな現象も、イエスさまが証しされ、そうして彼らがイエスさまを受け入れるためには必要なことでした。  しかし、パウロの宣教はもっとよく考えれば、超常現象が起こる、起こらない以前に、御霊の力ある働きそのものだったということができます。パウロは見るからに弱々しい、貧相なユダヤ人の学者です。それがギリシアの港湾都市、大都市コリントに飛び込んだわけですから、たいへんな冒険をしたことになります。  どれほど緊張したことでしょうか。この町で宣教しなさい、という御霊の働きに従順になることに、大いなる葛藤を覚えたはずです。しかしいざ宣教してみると、プリスキラとアキラ夫婦という同労者を得て、彼らの仕事を手伝うことでコリントへの定着を果たし、宣教が展開できるようになりました。これぞ御霊の力です。    御霊の働きは不思議です。弱い人が用いられ、主の証し人となるのです。私が何度も語っていますが、ダウン症のあっこちゃんは、聖書に対して深い学問的探究をしたわけではありません。聖書を語る裏づけとなる社会的な経験をたっぷりしたわけでもありません。しかし、あっこちゃんのひとこと、「私は神さまが好きだから」ということばは、私にとって、一万人の牧師の説教をはるかに凌ぐメッセージとなったのでした。これこそが、弱さのうちに働かれる御霊の力です。    そのような御霊の力の現れる信仰は、働き人のものにとどまりません。5節をお読みしましょう。……そうです。この御霊の働きによる宣教は、宣教の対象となる教会と兄弟姉妹の信仰において、神の力、すなわち御霊の力をあらわします。    パウロは、弱さのうちに宣教しました。また、十字架につけられたイエス・キリストのほかは何も知らないとは、あえて愚か者になることを選択したとさえ言えます。しかし、そのように弱く、また愚かな中でなされる宣教は、大いなる御力であり知恵であられる御霊の働きの介在を可能にします。    私たちは宣教とか、伝道というと、何か難しいことをしなければならないのではないかとか、考えてはいないでしょうか? しかし私たちがすることは、キリスト「教」にまつわるいろいろなことを伝えることではありません。ありていに言ってしまえば、私たちは弱くてもいいのです。愚かでもいいのです。ただ、十字架につけられたイエス・キリストを知ってさえいればいいのです。御霊の力が現れていさえいればいいのです。    何度も申し上げていることです。伝道における成功とは何ですか? もう一度言いましょう。「伝道における成功とは、ただ単に聖霊の力によってキリストを伝え、結果は神におゆだねすることである。」その力と知恵が現れるためには、自分の愚かさ、無力さを認めることです。パウロにはそれができていました。それはもちろん、パウロがコリント宣教の現場で感じさせられた弱さ、選択した愚かさでしたが、そうさせたのはコリントの環境である以上に、神さまご自身の前に自分を差し出す態度でした。    そのようにおのれをむなしくしたパウロが神の力を体験したように、パウロの宣べ伝える十字架の福音は、聴く人に神の力、神の知恵を体験させます。まことに、聖霊なる神さまの力によって宣べ伝える福音は、人を神の力に満たします。私たちもそうして力に満たしていただいた存在です。今度は私たちが、人が神の力と知恵に満たされるように働く番です。    私たちは弱く、愚かだということを、主の御前にて徹底して認め、愚かは愚かでもイエスさまの十字架のことしか知らない愚か者になり、弱いことは弱くても、御霊の力によって強くされる者となることを願いますでしょうか? もし、そのように愚かさ、弱さの中でも、十字架の力、御霊の力をいただくならば、私たちは必ず、主の栄光を現す器として用いていただけます。そのような生き方を心からめざし、今日も祈りつつ励んでまいりましょう。

知恵あることはなんて愚かなんだろう

聖書箇所;コリント人への手紙第一1:18~31/メッセージ題目;「知恵あることはなんて愚かなんだろう」  今日の礼拝メッセージのタイトルはパロディです。何のパロディかぴんときた方は、1970年代のフォークソングに通じていらっしゃる方だと思います。これは、早川義夫という歌手の、『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』というレコードの題名のパロディです。  私がそのタイトルを知ったのは大学生のときでしたが、とにかくこのタイトルに衝撃を受けました。すごいことを言っている! かっこいいと思われていることは実はかっこ悪い。かっこ悪いと思われていることは実はかっこいい。このタイトルは、二律背反のこの真理を同時に表していて、恐らくこれまで日本で発売されたすべてのレコードにつけられたタイトルの中でも、最高傑作の部類に属するのではないかと思います。  今日お読みいただいた箇所は、「知恵あること」と「愚かなこと」の二律背反を語っており、そういうわけで、こんなタイトルをつけさせていただきました。「知恵あることはなんて愚かなんだろう」。  今日のメッセージも3つのポイントから語ります。今日は、3つのフレーズでまいります。  第一のフレーズは「知恵あることはなんて愚かなんだろう、十字架は」第二のフレーズは「知恵あることはなんて愚かなんだろう、宣教は」そして第三のフレーズは「知恵あることはなんて愚かなんだろう、クリスチャンになることは」  いずれのフレーズもちょっと過激な表現で、教会や聖書に対して初心者の方や、クリスチャンにことばづかいの上品さを求める方からすれば、ぎょっとするような言い回しになっているかもしれません。でも、どうかよく聴いていただければと思います。  まずは第一のフレーズ、「知恵あることはなんて愚かなんだろう、十字架は」からまいります。  前回のメッセージでお語りしたことは、パウロは、福音というものをことばの知恵によらずに宣べ伝えた、それは、キリストの十字架が空しくならないためである、ということです。福音、すなわち、イエスさまが私たちを救うために十字架にかかって死んでくださったという知らせは、ことばの知恵によらない、ということです。  その前提で18節から20節のみことばを読みましょう。……特に18節に注目します。ここでは、十字架のことばをめぐって、2つのことが対比されています。その前に、「十字架のことば」というフレーズの意味を、もう少し考えたいと思います。 この「十字架のことば」の「ことば」は、言語のギリシア語では「ロゴス」ということばが用いられていますが、これは英語の聖書と韓国語の聖書では、少々ニュアンスのちがう訳し方がされています。英語の聖書の場合は「メッセージ」と訳されています。つまり、「パウロが宣べ伝える十字架のメッセージとしてのことば」という側面が強調されています。 これに対して韓国語の聖書は「道(みち)」と書いて「道(どう)」です。これは、ロゴスという単語が単なる「ことば」という意味を超えて、「教訓」のような「教え」という意味があることが考慮されているためと思われます。そう考えると、どうなるでしょうか?「十字架のことば」は、「十字架を宣べ伝えるメッセージ」とも「十字架を生きる生き方」ともなります。   どちらに取るにしても、意味は通じるはずです。「十字架を宣べ伝えるメッセージは愚か」とも「十字架を生きる生き方は愚か」ともなるわけです。しかし、だれにとって愚かなのでしょうか?「滅びる者たちに」とって愚かなのです。  先週も学びましたが、十字架という福音、よき知らせは、あっけないほどに単純です。こんなに簡単に救われていいのかしら、というレベルです。また、別の見方をすれば、十字架刑に処された者を神とあがめ、救い主とみなすなど、荒唐無稽というものだということでしょう。  前にもお話ししたことがありますが、私は高校時代、倫理の授業で、とても口惜しい思いをしたことがあります。それは「キリスト教」についての授業で、先生がこんなことをおっしゃったのでした。「イエス・キリストはね、十字架にかかって死んだんだよ。それで、墓から生き返ったんだよ!」先生は真面目に話していらっしゃったのですが、これを聞いたクラスは爆笑の渦になりました。 また、「宗論(しゅうろん)」という演目の落語をご存じでしょうか? クリスチャンになった若旦那を笑いものにする噺で、彼が天地創造とか、イエスさまの復活とか、まじめに聖書の話を父親である店の主(あるじ)にすると、主(あるじ)がこう返すわけです。「なに!? おまえ、大学出たんだろ!?」客席が爆笑の渦になります。 あのときのクラスメートにせよ、「宗論」に受ける寄席の観客にせよ、十字架のことばは愚かと思うわけです。十字架を宣べ伝える宣教のことばは愚かですし、そんな愚かな十字架の道を生きるなど、なおさら愚かでしょう。 そんな彼らのことを、このみことばは「滅びる者たち」と一刀両断しています。私はあの爆笑の渦の中にいて、彼らは滅びる定めなのだろうか、と悲しくなったものでした。しかし、悲しんでいてはいけません。18節のみことばは続きます。救われる私たちには神の力です……。 救うのは神さまのお働きです。人にはできないことを可能にしてくださるのが神さまです。十字架が愚かではなく、神の知恵、神の力として、これ以上ないほど確実なものとして信じ受け入れるようにしてくださる……その神さまのみわざが臨むのです。 パウロもそのようにして、十字架の道を迫害する者から、生涯十字架の道を歩むものへと変えられました。「十字架のことばは、救われる私たちには神の力です」、パウロは本来、十字架の道を歩まないどころか、迫害する者、それがパウロの本来の生き方でした。しかし今や、パウロは十字架の道を歩めるように、神さまから特別な力をいただいていました。 私たちもそのように、神さまから特別な力をいただいています。その力をいただきつづけて、ついにその生涯の終わりに、救いを完成します。私たちは本来、滅びる者でした。ゆえに十字架のことばを愚かとしか受け取ることのできなかった者でした。しかし今や、十字架を救いとして受け取る力をいただきました。 その力は神さまが最高の知恵をもって、その力を受けるにふさわしい人に授けてくださったものです。私たちはそのようにして、神さまの知恵にかなう者となり、したがって神さまの知恵をいただく者となりました。未信者から見れば私たちは、とても愚かな道を歩んでいるように見えるでしょう。しかし私たちは、神の力と知恵に満ちた道を歩んでいます。 いま未信者と呼ばれている人、十字架のことばを笑う人の中からも、主が救ってくださらないとだれが言えるでしょうか。いずれそのような人たちも、十字架を笑う生き方から、十字架に従う生き方へと変えられないと、だれが言えるでしょうか。私たちをご覧ください。私たちもまた、十字架を軽んじる生き方から、十字架ほど大事なものはないように生き方が変えられてはいないでしょうか。私たちは世を挙げて人々が十字架を笑うからと、がっかりしていてはなりません。この十字架という最高の知恵をいずれ、私たちがそうだったように、人々が最高の知恵として受け入れることができるように、祈りつつ取り組んでまいりたいと思います。 そこで第二のフレーズにまいります。「知恵あることはなんて愚かなんだろう、宣教は」 十字架を伝えるのは、宣教という手段によることです。しかし宣教というものは、実際にはどのようなものでしょうか? 21節から25節のみことばです。……特に、「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します」ということばに注目しましょう。コリントにおいては、ギリシア人に交じって、いわゆるディアスポラ、離散したユダヤ人もいました。そのような地で宣教すると、しるしを求めるタイプの求道者もいれば、知恵を追求するタイプの求道者もいるわけです。 それは世界のどこにおいてもそうでしょうし、この日本においても例外ではありません。論より証拠で神を見せてほしいという人もいるでしょうし、納得のいく教えに触れたいという人もいるでしょう。 イエスさまは、そのどちらの人の視線にも降りてこられたお方です。多くのしるしと奇蹟をもって、ご自身が神の御子であることをお示しになりましたし、また、多くの教えを語られて、そのみことばのうちに神さまをお示しになりました。 しかし、イエスさまがほんとうに、ご自身が神の御子であることをお示しになったできごとは、十字架でした。それは多くの人にとって、大いなるつまずきとなりました。熱狂的にイエスさまについて行った人々は、そのお方を十字架につけました。もはやこのような人を神の御子と見なすことはなかったのでした。 それでもペテロは、徹底的に十字架にこだわり、ユダヤ人たちに悔い改めを迫り、一日で何千人もの人を悔い改めに導きました。このときペテロがしたことは、奇蹟によって神を示すことでも、小難しい論理によって人々を納得させることでもありませんでした。ただ、十字架を語っただけです。 このように、十字架を徹底して語る宣教のありかたは、パウロに引き継がれました。しかしこれは、人から見ればとても愚かに見えるありかたです。それでもご覧ください。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」十字架を宣べ伝える者には、この神の知恵、神の力が伴ってきます。 宣教ということは第一に、イエスさまの十字架を語ることです。もちろん、十字架を語ることは勇気がいります。聖書やキリスト教や教会に関することは語れても、十字架だけは語りにくい、語っていない、私たちはそういうものではないでしょうか? しかし、私たちは愚直なまでに十字架を伝えてくれた信仰の先輩によって、いまこうして罪の赦しをいただき、神さまの子どもとして永遠のいのちの中に生かされていることを覚えたいものです。今度は私たちの番です。 そうして、十字架を語る知恵と力を、私たちはいただくのです。このように十字架を宣べ伝えることにこだわるならば、人は私たちのことを愚かとみなすでしょう。しかし、それでこそ私たちは、主の弟子となることができます。私たちも、イエスさまのあとにしたがって、十字架を背負うのです。心の中で日々十字架を背負ってイエスさまについて行くならば、私たちの口から、ひとりでに十字架を誇ることば、十字架を宣べ伝えることばが語られるはずです。 私たちは今週、だれに十字架を語ることができるでしょうか? 職場の方針その他で、イエスさまのこと、わけてもイエスさまの十字架を語ることはなかなかできない、という方はいらっしゃると思います。しかし、主が選んでおられる方に出会えたならば、主は必ず、私たちをとおしてその方にイエスさまの十字架を伝えさせてくださいます。どこかでその機会が与えられ、私たちの愚直なまでの宣教の働きを通して、その方がイエスさまの十字架を受け入れることができますようにお祈りいたします。 第三のフレーズです。「知恵あることはなんて愚かなんだろう、クリスチャンになることは」。 26節から31節のみことばをお読みします。……ここに、私たちは何者であるかを見る基準が示されています。私たちはそれなりの努力をして、何らかの社会的地位についているかもしれません。私たちはそれゆえに、人から認められているかもしれません。しかし、私たちは、自分自身のことをそのように見てはならないのです。私たちは、身分が低い、弱い、知恵がない、愚か……そのように自分自身を認識することからすべてが始まるのです。 イエスさまの周りにいた人たちを考えてください。そのお生まれからして、周りにいた人たちはユダヤの主流の人たちではありませんでした。まずやってきたのは羊飼い、ユダヤの社会から追放されていた者たちです。東方の博士たち、ユダヤから見れば忌まわしい異邦人で、しかも星占いを生業(なりわい)とする人たちです。取税人や遊女たち、ユダヤの宗教社会から隅に追いやられていた庶民たちは、言うまでもありません。 イエスさまの弟子になった者たちも、ガリラヤの漁師たちや取税人、政治活動家、いろいろいましたが、社会の主流派といえそうな者はいませんでした。このようなものをイエスさまはお選びになり、弟子とされたのでした。 それなら、現にこのようにしてみことばを宣べ伝えるパウロはどうでしょうか? 彼はガマリエル門下のエリートのパリサイ人です。その影響力は相当なものがありました。彼はペテロたちとは育ちが根本的に異なっていました。 しかしパウロは、そんな自分もこのコリント教会の信徒たちのように、見下されている人、弱い人、愚かな人と同じものであると主張しています。もはやパウロは、人から尊敬されるパリサイ人のありかたを完全に捨て、神によってしか強く知恵ある者とされない、クリスチャンの立場を選びました。いや、選んだというより、そのような立場にもはや自分がされていることを、積極的に認めるようになりました。 そんな私たちが誇るべきは、もはや自分自身ではありません。救ってくださった神さまこそを誇るべきです。30節をご覧ください。「キリスト・イエスのうちにあります」、これは別の訳によれば、キリスト・イエスに結ばれているとも、キリスト・イエスとの交わりのうちにあるともなっています。イエスさまに結ばれ、イエスさまと交わっている、それが私たちです。 私たちに知恵がなくても、イエスさまが知恵であるとこのみことばは語ります。その知恵とは、「私たちにとって義と聖と贖いになられた」ということです。イエスさまは義、絶対的に正しいお方、正しい基準であるということ。イエスさまは聖、この世の何ものからも分かたれた神さまご自身であられるということ。イエスさまは贖い、このお方が十字架によって私たちをご自身のもの、神さまのものとしてくださったということ。その知恵が私たちに与えられている以上、私たちはもはや愚かな者ではありません。この世のだれよりも知恵ある者、賢い者とならせていただいているのです。 私たちは収入の十分の一からのお金を献金します。日曜日の時間をしっかり礼拝の時間として神さまにささげています。世の人たちが享受するような快楽をむしろ避けて生活します。しかしそれは、あえて禁欲生活をすることで天国を手に入れるためではありません。すでにイエスさまの十字架を信じて天国に入れていただいているから、その十字架の喜びに満たされて、神さまに献身する生き方を選び取っているからです。 その生き方を人は愚かだと笑い、なじるでしょう。しかし私たちは、人に愚かに見えるこの生き方こそ、何よりも知恵があり、力がある生き方であると知っています。人は自分自身を誇ることを当然と思います。しかし私たちの誇りは、このように十字架によって私たちを救って永遠のいのちをくださり、私たちにほんとうの知恵と力を満たしてくださる神さまです。 今日もそのような生き方が与えられていることに感謝し、知恵と力に満たされて生きてまいりましょう。 私たちは弱く愚かな者です。しかし神さまは私たちを選び、十字架を信じる信仰を与えてくださいました。私たちは強くされました。その強さの中で、私たちはイエスさまの十字架を宣べ伝えます。今週もそのように、与えられた知恵と力に感謝しつつ、主の御前に徹底して生きる私たちとなることができますように、主の御名によってお祈りいたします。

「教会は一致して十字架に歩む」

聖書;コリント人への手紙第一1:10~17/メッセージ題目;「教会は一致して十字架に歩む」  私が教会に通うようになったのは、母に連れられてでした。外国人宣教師から英語を習っていた母はやがて、教会に通いたいと強く願うようになり、行った先は埼玉の北本にある教会でした。母は幼いころ、聖公会のクラシックな礼拝堂の教会の日曜学校に通っていただけに、北本のあまりに飾り気のない礼拝堂に拍子抜けしてしまったようですが、母について教会にやってきた私は、ステンドグラスも何もないシンプルなその礼拝堂を、すっかり気に入りました。  礼拝堂は取り立てて特徴はありませんでしたが、集まっている人たちはとても個性的な方々でした。無医村伝道の診療所の礼拝から教会にまで成長させた石黒先生ご夫妻と吉住先生ご夫妻、その先生方の診療を受けて小児がんを克服した少年、大使館職員とピアニストのご夫妻、はるか横浜から埼玉の田舎まで夫婦で通ってこられる苗木会社の社長さん、テレビ局の方、暴走族出身の方……そして、牧師先生は大きなコンサートまで開くような福音歌手!……なんともバラエティに富んだ方々で、いやあ、教会って面白いところだなあ、と中学生なりに思ったものでした。  その後もいろいろな教会に所属し、神学生時代の奉仕教会や、受験生時代に客員として通った地元の教会を含めると、いまのうちの教会で通算12番目の教会になるかと思います。どの教会も愛すべき方々のいらっしゃる群れでした。中には教会自体が大きな問題を抱えた群れもありましたが、ありがたかったことに、私はどの群れの中にいても、信徒のみなさまのお祈りによってしっかり支えていただいていました。 そして私はいまこうしてうちの教会にいさせていただいているわけですが、うちの教会はこれまでのどの教会ともちがい、主任牧師という形で奉仕させていただいているわけで、みなさまの特別なお祈りの力を日々ひしひしと感じています。ほんとうに感謝なことです。 さて、そのようにして私はいろいろな教会で学んできたわけですが、最後に所属していることになるうちの教会においては、これまでそれぞれの教会で学んできたことの集大成のような形で牧会を展開してきたと思いますし、牧会8年目を迎えた今は、ますますそのように励んでいきたいと思います。 そんな私からすると、教会とは何かということを説くパウロの書簡はどれも、とても考えさせられるもので、学ばねばと思います。 そこで私たちは、聖書の語るふさわしい教会を立てるために、教会全体でともにみことばを学びたいと願わされるものです。本日の箇所も教会の本質を考えさせるみことばです。ともに学んでまいりたいと思います。 本日の箇所は、それまで続いてきたコリント教会に対するほめことばが、一転して強い勧め、それに引きつづき、苦言、叱ることばに変わります。コリント教会を愛するゆえの叱責です。そしてこの叱責は、こんにちの私たち教会が聞くべきことばであり、もし私たちがこのみことばに問われるならば、悔い改める必要があります。見てまいりましょう。 第一にパウロは、教会に一致を求めました。 10節のみことばをお読みします。……パウロは、あなたがたコリント教会は仲間割れしてはならない、語ることばにおいても、心においても、考えにおいても一致しなさいと語ります。 ここで問われているのは、教会において一致しないということです。しかし、教会というものは、身もふたもない言い方をしてしまえば、もともとが他人の集まりです。育ってきた背景も価値観も一致していません。そんな人たちは、一致しないのが当たり前なのではないでしょうか? しかしパウロは、一致しなさい、と願います。なんと言っていますか?「兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの名によって」……。まず、この他人の集まりは、兄弟なのです。兄弟ということは、親が同じ人々です。父なる創造主が親という、神の子どもたち、兄弟たち。 「兄弟は他人の始まり」なんていうことばがあります。うちの兄を見ても、つくづくそう思います。しかし兄も私も、同じ父と母から生まれています。同じことで、どんなに育ちや価値観の異なる人々も、同じ神さまを父とする、他人のようでいて実は兄弟なのです。兄弟愛をもって愛し合うべく召されている兄弟なのです。 それというのもご覧ください、「私たちの主イエス・キリストの名によって」とあります。……そうです。信徒たちが創造主なる神さまを父とする兄弟となっているのは、イエス・キリストを主、救い主と受け入れているからです。同じイエスさまによって、よりはっきり言えば、イエスさまの十字架を信じる信仰によって、兄弟なのです。 港町コリントでは当たり前だった不品行やけがれの生活を悔い改め、その罪に代表されるあらゆる罪を十字架で赦してくださったイエスさまを主と受け入れる、聖霊なる神さまのみわざを体験した兄弟、それがコリント教会のひとりひとりでした。 教会とは何でしょうか? キリストのからだであるとみことばは語ります。からだの器官どうしが調和しないならば、それは不健康とも病気とも言います。どんな人のからだもその器官が調和してしかるべきなように、キリストのからだは器官どうしが調和してこそしかるべきです。 キリストは全能なる神さまです。ということは、そのみからだは健やかに調和しているべきではないでしょうか? しかし主は、このみからだが調和した状態に保つ責任を、コリントの信徒たちに与えられました。 クリスチャンは教会に属してさえいれば、自動的に聖人君子のようになり、みんな仲良くなるわけではありません。仲良くなるようにという主のみこころに従うには、その従順をもたらす聖霊さまのみわざを受け入れるべく、へりくだって、主の助けをいただきつつ努力する必要があります。そうです、みからだが調和を保つのは、神さまと人との共同作業です。 では、そのようにパウロがあえて勧めなければならなかったのには、どんな問題があったからでしょうか? 第二のポイントです。パウロは、教会内に派閥による分裂があったことに苦言を呈しました。 11節をお読みします。……コリント教会の中には派閥争いが生じていました。どういう派閥だというのでしょうか?「私はだれだれにつく」という派閥争いです。12節によれば、「私はパウロにつく」「私はケファに」「私はアポロに」「私はキリストに」といった派閥があるということです。便宜上、「パウロ派」「ケファ派」「アポロ派」「キリスト派」としておきます。なにやら自民党の派閥みたいですが、一応これは便宜上私がそう呼ぶだけで、聖書がそう呼んでいるわけではありません。 教会が分裂のあってはならないキリストのからだだというならば、だれかにつくことによって派閥ができることなど、あってはならないことです。しかし、この4名の顔ぶれを見てみると、成熟していないコリント教会が人について派閥をつくるのは、なんとなく一理があるように見えないでしょうか? パウロ、彼はコリント教会を開拓し、指導してきた人です。現にこのようにして手紙を送り、コリント教会の牧会を続けています。 コリント教会を離れた今もなお、強い影響力を及ぼしています。 ケファ、これはペテロのことですが、なんといってもイエスさまの教えを直接受けた十二弟子、それも十二弟子のリーダーで、現実にはエルサレム教会のリーダーです。神の教会、キリストの教会に属するからには、ペテロに属すると言ってみたいものでしょう。 アポロ、使徒の働きを見ると、雄弁な指導者です。コリント教会から「実際に見ると弱々しく、その話しぶりはなっていない」などと陰口をたたかれていたパウロに比べると、実に堂々としていたことでしょう。それだけではありません。使徒の働きの記述から類推するに、彼はバプテスマのヨハネからバプテスマを受けていた可能性があります。ことばはあれですが、なにやら「ありがたい」人であり、十二使徒を超える評価をその点で受けていた可能性もあります。 では、「私はキリストに」は何でしょうか? パウロ、ペテロ、アポロは、現実に存在して影響を受ける可能性のある人物でしたが、「キリスト」となると、みことばの教えを受けて、ともにおられることを体験するお方です。このお方にこそつき従うべきであり、「私はキリストに」と主張する、いわゆる「キリスト派」は、その意味でほかのだれよりも説得力があると言えます。 しかしパウロは、この「キリスト派」を特別扱いせず、「パウロ派」「ペテロ派」「アポロ派」とまったく同じ扱いをしています。それは、なぜなのでしょうか? それは、派閥をつくることそのものを問題にしているからです。 このみことばは、私たちの陥りがちな罠を語ってはいないでしょうか? よく、私たちは言わないでしょうか?「私はだれにもつきません! 私がつくのはイエスさまです!」一見するともっともなことを言っているように聞こえますが、それでも問題です。なぜならば、このことばには、「あなたたちは人について派閥をつくる霊的に幼稚な人だ、でも私はキリストにつく霊的にすぐれた人だ」というふうに、高いところから人をさばく、霊的高慢の罪の中にいるとも言えるからです。 ともかく、このような分裂と派閥争いを教会の中に持ち込む人たちは、どういう人たちだというのでしょうか? 13節です。……第一に彼らは、キリストを分割する人です。教会がキリストのからだである以上、教会に分裂と争いを持ち込むのは、キリストを引き裂く人です。まさしく、十字架の上でみからだを引き裂いたその罪を現実に犯していることになるわけで、心からの悔い改めを必要とすることです。 さらにパウロは語ります。あなたがたのために十字架についたのは私パウロか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのか。 言うまでもなく、パウロが宣べ伝えたのはイエスさまの十字架であり、御父、御子、御霊の名によるバプテスマを彼らに授けました。しかし実際には、コリント教会の信徒のうち、クリスポ、ガイオ、ステファナの家族だけにしかバプテスマを授けていないことを、パウロはわざわざ強調しています。これはパウロが、自分がコリント教会に与える影響力の根拠となるカリスマ性を自覚していたからと言うことができます。 私たちはクリスチャンとして公に生きるにあたって、バプテスマを受けますし、十字架を記念した主の晩さんにあずかります。それをだれが司式するかということは大事なことにはちがいありませんが、それを過度に意識し、凝り固まったプライドを持つのは良くないことです。牧師はイエスさまではありません。誇るべきはイエスさまです。 もちろん、イエスさまを誇るといっても、さきほども申しましたが、上から目線で振る舞い、かえって教会に分裂をもたらすためであっては困ります。教会全体でともにイエスさまにつながるのです。間違っても、「あなたはだれだれさんにつくけれども、私はイエスさまにつきます」、「あなたはだれだれ先生につくけれども、私はキリストにつきます」であってはなりません。そういう言い方が許されるのは、その兄弟や先生によほど問題があり、その問題が教会全体で問題だと共有されている場合だけです。パウロやペテロやアポロがそういう人ではなかったことは、言うまでもありません。 第三のポイントです。パウロは、自分が教会に遣わされているほんとうの理由を理解してもらおうとしました。 17節のみことばです。……「キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく」とあります。しかしイエスさまは最後に弟子たちに残された大宣教命令において、「父、子、聖霊の名においてバプテスマを授けなさい」と語っておられたのをご記憶でしょうか? イエスさまがはっきりおっしゃっているのに、パウロは、キリストが私を遣わされたのはバプテスマを授けるためではない、と言う。これはどういうことでしょうか? これは、ことばの綾というべきでしょう。たしかにパウロは使徒であるゆえに、世界に出ていって、父、子、聖霊の名においてバプテスマを授けて、みことばを守らせ、弟子とすべく遣わされています。しかし、バプテスマというものは、授けた側の責任もさることながら、受けた側もまた、霊的に成長するという責任を負っています。 さきほども触れましたが、バプテスマを受けることに代表される、指導者の教えを受けることは、その指導者につくという形で派閥をつくるためであってはなりません。人がバプテスマを受けたならば、その人にバプテスマを授けた指導者をカリスマ視するような幼稚な霊的理解を卒業して、イエスさまとの一対一の交わりに、教会はともに入る必要があります。それが、パウロが本来与えられた、バプテスマを授けるという使命に忠実になることです。 これはパウロひとりで完成することではなく、バプテスマを受けた側、指導を受けている側もともにそのパウロの使命を完成するのです。というわけで、パウロがここで「バプテスマを授けるためではなく」と言っているのは、「あなたがたの理解しているような形のバプテスマを授けるためではなく、人のカリスマについてこさせる宗教儀式を行うためではなく」という意味に捉えるべきです。 それではパウロは、どんな使命を帯びていると語っているのでしょうか?「キリストが私を遣わされたのは、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるため、それは、キリストの十字架が空しくならないようにするため」ということです。 パウロはもともと、聖書学者として名の通ったパリサイ人でした。そんな彼はいまこうして使徒として諸教会を指導しており、その指導に用いられた手紙類は、神学的に深く、緻密に構成されています。さすがはもともと聖書学者だっただけのことはあります。その学者として努力した経歴を、主は宣教者として用いてくださったわけです。 しかし、そんなパウロも、自分の働きはことばの知恵によらないと告白します。語ることはことばの知恵ではない、福音を語る、と言います。イエスさまの十字架による罪の赦し、それをひたすらに語るのです。 十字架の福音を人に語るのは、ことばの知恵によることではありません。あれだけ聖書の学問に通じているパウロのことばだけに、説得力があります。それでは、何によって語るのでしょうか? それは何よりも、「十字架の福音を生きることそのもの」によります。 十字架によって罪赦され、神の子どもとされ、永遠のいのちが与えられたことをほんとうに知るならば、生き方が変わります。イエスさまを誇りとして生きるようになります。隣人への愛の人、奉仕の人、証しの人へと変えられます。その、イエスさまが十字架を背負われたあとを追って、自分の十字架を背負って生きる生き方を示すことこそが、十字架が空しくならない生き方です。 福音というものはあまりに単純です。難行苦行で悟りに達すると考えるような人から見れば、拍子抜けするほど単純なものです。イエスさまの十字架を信じるだけ。永遠のいのち、天国への入口は、こんなにも単純なものでした。しかし、福音が単純であることと、何も考えない、ただの人のように生きることとはまったく異なります。 単純な福音にほんとうに感謝しているならば、献身がついて来ますし、生き方が変わります。それもなしに、「自分は何をしても救われている」とうそぶき、ただの人のように生きるならば、そんな生き方がどうやって、十字架を証しできるでしょうか。周りの人に「私もこの人が信じているように、イエスさまの十字架を信じたい!」と思わせるでしょうか。実に信仰とは、頭での理解を超えて、生き方に反映するべきものです。 というわけでパウロは、学問の人、ことばの人である以上に、十字架の人でした。ましてやパウロは、バプテスマを派閥づくりと勘違いするような者たちをたきつけて、教会の中に自分の王国をつくるような人では決してありませんでした。あらゆる学問を差し置いても、キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないとまで断言するほどの、キリストの十字架のことしか考えられない人、それがパウロです。 私たちはどうでしょうか。私たちもまた、よって立つ立場があると思います。社会人であれ、主婦であれ、お仕事にプロ意識を持って取り組んでおられることと思います。学生であるならばプロを目指した大事な準備の時間です。しかしそれ以上に私たちにとって大事なのは、「キリストの十字架が空しくならない生き方」をすることです。私たちがつねに主との交わりの中で十字架を体験し、日々の悔い改めの中で遣わされ、この世においてキリストの弟子として生きるのです。人々の救いを祈りつつ、よい生き方を証しとして立てていくのです。 その生き方をともにする共同体、それが教会です。ともにその生き方ができるように、お互いのために祈り励ます、そういう共同体となるために、派閥のような人間的な発想を捨て、キリストのからだにふさわしく、一致して歩むものとなりたいものです。それではともに祈りましょう。