「主は羊飼い、私たちは羊」
聖書箇所;詩篇23:1~6/メッセージ題目;「主は羊飼い、私たちは羊」 大学4年生のときのことです。私は卒業が見えてきてはいたものの、まだ進路に迷っていました。あるとき、私は学科の先輩に、そんな自分の身の上をこぼしたものでした。すると先輩はおっしゃいました。「羊飼いにでもなれば?」 私は何かにつけて、自分がクリスチャンであることを公言していたので、先輩はそんな私のことを考えてくれて、牧師になれ、という意味でおっしゃったのか、それとも、単なる冗談でおっしゃったのか、測りかねましたが、優柔不断な私の背中を押してくれたような、このおことばを有り難く頂戴し、やがて私は卒業式も待たず、韓国の神学校に入学してしまいました。 そんなこともあって、牧師とは羊飼いであるということが長年、私の中にひとつの概念としてあるわけですが、今回私は、日曜礼拝のみことばに、詩篇23篇を選ばせていただきました。 私も牧師の末席に連ならせていただいている者ですが、私もまた、一匹の羊です。何かにつけて私は、自分が羊であることを、年を追うごとに思わされるものです。私もか弱い羊、されどよき羊飼いに養っていただいている羊です。 それで、詩篇23篇です。あの王さまダビデが、なんとこともあろうに、自分のことを羊に例えているという、なんとも意表をつく組み合わせ、しかしその組み合わせをもって、私たちクリスチャンの本質を言い当てている、詩篇の中でも特に印象的な詩からお話をさせていただこうと思います。 今回のメッセージを語らせていただくにあたり、私はフィリップ・ケラーという人物の『羊飼いが見た詩篇23篇』という本を読みました。とてもいい本でした。フィリップ・ケラーは農学や牧畜学を学んだ学者でもありますが、長年にわたる羊飼いの経験を有した人物でもあり、伝道者でもあります。そのような、2つの意味での牧羊をどちらも経験された方の語るおことば、みことばの解き明かしだけに、並々ならぬ説得力を持った本であり、機会があればぜひお読みいただきたい名著です。 今回のメッセージはこの本から教えられたことをベースにお語りしてまいりたいと思います。もちろん、そのとおりになぞるのでは意味がありません。本を読んでいただいたら済む話ですので。今日は、ひとつの問いからはじめて、みことばを黙想し、私たち自身にみことばを適用してまいりたいと思います。 私たち自身に問うべき問いとは何か。「あなたにとって、だれが羊飼いですか。」 この問いを投げかけられたならば、私たちは模範解答のように、「主が羊飼いです。なぜなら、詩篇23篇1節にそう書いてあるからです」と答えますでしょうか。たしかに、聖書にはそう書いてあります。それはもっともです。 しかし、それなら私たちはつづけて問いかけなければなりません。「あなたにとって、ほんとうに、主が羊飼いですか。」 私たちは果たして、「はい」とお答えすることができますでしょうか。この問いに答えるためには、大前提として、私たち自身が「羊」であると認める必要があります。 以前私はこのメッセージの時間に、北海道で羊たちと戯れたお話をいたしました。しかし、それはもちろん、まったくほんものの羊と触れ合わないよりはよかったかもしれませんが、このたびケラー先生の本をお読みして、その程度で羊のことを知ったつもりになっていたことに、恥ずかしくなりました。 もちろん私は、いまだってケラー先生の本を読んだ程度のもので、ほんの少し羊のことが分かるようになったにすぎません。それでも、やはり学んではおくものでした。私はこのたびの読書を通じて、ああ、ほんとうに私たち人間は羊に似ている、と、あらためてしみじみ思ったものでした。「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。」まことに、預言者イザヤが語ったとおりです。 羊は、同じところにとどまろうとし、それは結果として同じところの草ばかり食べることになるので、うかうかしていると青々とした牧草地は荒れ果て、見るも無残になります。牧草地が荒れ果てたら自分でどうにかできるほど賢くはありません。 ほうっておくとやせ衰えて飢え死にします。だから牧者は、ちゃんと草の生えているところをリサーチし、そこに連れていきます。そこに毒草が生えたままにしないように手入れすることも、もちろん怠ってはなりません。 また、何かの拍子にひっくり返ったら自分では立てません。下手にもがいたりしてますます立てなくなり、やがて死んでしまいます。牧者は行ってちゃんと起こしてやる必要がありますが、これは相当に技術のいること、また、たいへんなことのようです。 また、やはり羊のことを放っておくと、毛がもこもこと生え、泥や糞尿がくっついて不衛生になりますし、長く生えてくると身動きが取れなくなります。したがって、牧羊をする人が定期的にきちんと刈り取ってやらなければなりません。この毛を刈る作業も、結果として羊を快適にすることであるにもかかわらず、羊はとてもいやがります。 きりがないのでこれくらいにしますが、羊というものは、ケアされることによってはじめて生きることのできる存在である、とさえ言えます。そうです。私たちも、まことの牧者なるイエスさまに牧していただくことで、生き生きと生きることができる存在です。「主は私の羊飼い」、なんと素晴らしく、また誇らしい告白でしょうか。 しかし、羊は愚かです。羊飼いによって飼われることではじめて生きるにもかかわらず、羊飼いの支配から逃れたところに自分の生きるテリトリーがあるがごとくに振る舞います。早い話が、羊飼いの目を盗んで群れから離れるのです。その結果どうなるか、といえば、くぼみに落ち込んでひっくり返り、もはや立てなくなっていのちを落とします。おおかみのような猛獣に襲われていのちを落とします。 しかし、ほんとうの羊飼いの牧する群れの中に身を置くかぎり、その羊は安全です。ダビデは自らが羊飼いで、身を挺して羊を守った体験を持っていました。ライオンや熊が襲いかかったらその口から羊を奪い返し、打ち殺すことさえしました。私がそのようにいのちを懸けて羊の群れを守ったように、主は私のことをいのちを懸けて守ってくださる羊飼い……ダビデはそう告白しています。 私たちの羊飼いが全能なる神さま、創造主であられるならば、私たちは何か乏しいことなどあるでしょうか。まさしく、「私は乏しいことはありません」。とはいいましても、私たちは生活が安定するとか、お金持ちになるとか、人間関係で成功するとか、そういうことを「乏しくない」ととらえるべきではありません。 ダビデもまた、サウルやアブサロムに追われる身になったなど、その人生が苦難の連続だったことを、聖書は克明に記録しています。しかし、ダビデにとって大きな祝福だったことは、そのような激しい困難の中にあって、主ご自身が変わらずにダビデのことを牧していてくださったことでした。 羊たちも、豊かな牧草地で養われるためには、いつまでも同じところにとどまっていては食べ尽くしてしまうので、高地の豊かな牧草地に移動する必要があります。そのとき羊たちは、いやでも、危険いっぱいの暗やみの谷を歩かされることになります。 そこがどんなに狭い道で、がけから落ちるかもしれなくても、猛獣にやられるかもしれなくても、歩くのです。そこを歩かないことには、死ぬのです。平安な場所にいれば死なないのではありません。平安な場所にいたらむしろ死ぬのです。平安な場所を出て、危険極まる暗闇の谷を歩くことで、羊は生きるのです。 ダビデもそうでした。ダビデは危険の中にいたとき、まことの牧者なる主との交わりの中で生きることができました。逆に、ダビデが死の道を選択したような状況とはどんなときでしょうか? そう、主が牧者であることを拒否したときです。バテ・シェバを寝取り、その夫のウリヤを謀殺したとき、ダビデは、主が自分の牧者であることを拒否し、悪魔にたましいを売っていました。しかしのちにダビデは真剣に悔い改め、悪魔が手にしていたダビデのたましいは買い戻されました。 むろん、このような罪を犯したダビデが無事で済むはずがなく、バテ・シェバとの間にもうけた子ども、長男のアムノンを次々に失い、三男アブサロムのクーデターでエルサレムから逃げ出します。要するに、ウリヤとバテ・シェバの家庭を破壊したダビデは、今度は自分の家庭の破壊に苦しめられることになったわけです。しかし、これはダビデに対するさばきというのとはちがいます。ダビデはすでに罪を悔い改めているので、さばかれて地獄に落ちるようなことはありません。しかし、したことの責任は取らなければなりませんでした。 それでもダビデが絶望せずに生きつづけることができたのは、このような最悪の状況にあっても、なお主が羊飼いとしてダビデを導き、養っていてくださったからです。ダビデは安らかな王宮を離れ、食べるものにも事欠いて眠れない野宿生活をしながら、あらためて自分のしてしまったことを悔いてならなかったことでしょう。しかし、ダビデは悔いるだけでは終わりませんでした。ダビデを養うまことの牧者の鞭と杖を、ダビデは体験していたのでした。 むちは、以前メッセージの時間にお話ししたような革製のものではなく、木の枝を切り出してつくるもので、これを投げつけることで猛獣を撃退します。イエスさまもみことばを用いてサタンの誘惑、実際はサタンの攻撃を退けられました。このようにむちとは、悪い者の攻撃から私たちを守るみことばを象徴しています。 杖もまた、牧者にフィットした、まるでからだの一部のような道具です。羊が出産するとき、牧者は杖を伸ばして生まれた子をやさしくその上に載せ、取り上げます。また、羊を連れ出すとき、からだにやさしく当ててあげて導きます。杖とはまさに、牧者と羊をつなげる役割を果たすものです。そうです、牧者なるイエスさまと私たちとの交わりをなしてくださる、聖霊なる神さまを象徴しています。 あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。ときにやさしく、ときにきびしく私たちを扱うむちと杖は、みことばと聖霊です。羊飼いなる主は私たちのことを、みことばと聖霊をもって守り、導き、励まし、力づけてくださいます。死を意識するような絶望の状況にあっても、主は私たちのことを死にとどまらせることなどなさらず、必ず、食卓を整え、油を注いでくださる恵みをくださいます。 例のケラー先生の本に教えられたことですが、5節のみことばは「夏」のことなのだそうです。谷間を抜けて夏の高地に導かれ、そこで草を食べるように、牧者は導きます。しかし、夏には夏特有の問題があります。それは、ハエのような小さな昆虫が顔にたかり、猛烈なかゆみを催す、そればかりか、その産んだ卵がかえって幼虫が鼻腔(びくう)などを通って脳に達すると、羊は頭がおかしくなってそこかしこにからだをぶつけ、ついには死に至る……そういうことのないように、防虫と殺虫の意味を込めて、頭部に特別な油を塗ってやることが大事なのだそうです。そうすると虫は寄りつかなくなり、健康に保たれます。羊の頭に油を注ぐとは、そういうことです。 主から注がれる油は、聖霊の象徴です。私たちは聖霊なる神さまのご臨在とお導きによって、私たちを教え導く聖書のみことばの意味を知り、実際に生活が導かれていきます。また、聖霊なる神さまは私たちを「悪い虫」から守ってくださいます。 うちも娘を持つのでしょっちゅう祈ることですが、将来娘たちが大きくなったとき、どうか悪い虫が取りつかないように、親としてそういう祈りをささげるのは当然ではないでしょうか? しかし、悪い虫がつかないためには、普段から娘たちを愛情たっぷりにケアする必要があります。 同じことで、この羊の囲いに属する私たちのことを、まことの牧者なるイエスさまは、ことのほかケアしてくださいます。悪い虫、サタンと悪霊どもが取りついて、人生を狂わせることのないように、守ってくださいます。何によってかといえば、みことばと御霊によってです。 杯、はどうでしょうか? ダビデの前に整えられる主の食卓には、食卓に必須のぶどう酒の杯があります。ぶどう酒によって人は力づけられます。さて、ぶどう酒には言うまでもなく、アルコールが含まれているわけですが、羊とアルコールとの関係に関しても、ケラー先生の本に新たに教えられたことがありました。野で迷って衰えた羊を探し当てたら、羊飼いはブランデーの水割りを少し口に含ませてやるのだそうです。そうすると羊は少しずつ元気を取り戻します。 そのように、あふれる杯は私たちを力づけ、元気づけます。それでは、その杯に注がれたぶどう酒とは、私たちにとってどんなぶどう酒でしょうか? そう、イエスさまの十字架の血潮です。イエスさまの十字架の血潮の添えられた食卓、それを羊飼いなる主は私たちのために備えてくださいます。羊飼いなるイエスさまご自身が私たちのために十字架にかかって死んでくださった、ゆえに私たちは罪赦され、神さまとともに歩むことが許されています。私たちはイエスさまの十字架の血潮によって、私たちに取りついた死に至る罪が洗い流され、まことのいのちの力をいただくのです。 私たちはこの牧者なるイエスさまを前にして、「私はいつまでも、主の家に住まいます」と告白できますでしょうか? 心底告白できますでしょうか? いざ、私たちの心が問われたら、それはとても難しいと思います。これだけの告白をしたダビデでさえ、バテ・シェバに関わったときには、主が自分の羊飼いであることを拒否したくらいです。いわんや私たちのような俗物は、どれほど主に、自分の羊飼いでいていただくことは難しいことでしょうか! しかし、あきらめないでいただきたいのです。主は私たちがこのような頑迷な羊、愚かな羊であることをすべてご存じの上で、なお私たちのことを諦めずに導きつづけていてくださいます。私たちのすることは、牧者なるイエスさまから目を離さないこと、これだけです。 具体的に、牧者なるイエスさまから目を離さないために私たちがすること、それは、牧者なるイエスさまが牧してくださっているこの群れ、水戸第一聖書バプテスト教会という群れから、離れないことです。ここから離れる選択をしてしまうなら、それはイエスさまを見失う選択に一歩近づくことを意味しています。 もちろん、いまは以前に比べ、この礼拝堂にともに集うことが相当に難しくなっています。それをすべて突破してここに来なさい、と言いたいのではありません。それぞれの事情がおありなのは仕方ないことです。それもすべてイエスさまはご存じです。しかし、そうは申しましても、どうかご自分が、この水戸第一聖書バプテスト教会という羊の囲いに属するひとりであることだけは、お忘れにならないでいただきたいのです。 最後に、あらためて自分自身に尋ねてみましょう。「あなたにとって、だれが羊飼いですか?」世の中の何ものも、自分を満たすために人を利用し、ついには見捨てる、自分のことしか考えない存在です。しかし主イエスさまはちがいます。私たちが豊かにいのちを得て、いのちを保つことで、ご栄光をお受けになるお方です。私たちがキリストによっていのちあふれる生き方をするとき、主は喜んでくださるのです。主の素晴らしさが輝くのです。 私たちは自分自身を見るとき、無力な羊のように思えてならないかもしれません。それはそうです、なぜならそのとおりだからです。しかし、私たちはイエスさまという牧者によって養っていただく羊です。強くしていただいています。守っていただいています。私たちはこの大いなる牧者を誇りとしています。そして……牧者なるイエスさまもまた、私たち羊のことを大いに誇りとしてくださっている、ゆえにどんなときでもケアしてくださり、守ってくださる……このことを忘れないでまいりたいものです。