生きることはキリスト
このご時世……人々は前にもましてますます、新聞やテレビやインターネットから情報を得ようとしたりする一方で、その情報の真偽、良し悪しを、自分の頭で確かめる必要がますます生じています。 私たちは何を信じ従うのでしょうか? 変わらないお方である主とそのみことばを信じお従いします。それでは私たちがみことばに従うことを、このようなご時世にあって、どのように実践することができるでしょうか? 聖書はいろいろなところで、私たちにその生き方をする上での指針を示していますが、今日は特に、ピリピ人への手紙のみことばから学んでまいりたいと思います。 今お読みしたみことばの中で、特に強調したいのは、21節の箇所です。私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。聖書を読みはじめて間もない人がもし、この箇所を読んだとしたら、ちょっと難しさを覚えるかもしれません。しかし、この箇所は、私たちクリスチャンの人生にとって、またとない指針となるみことばです。 まずは、「死ぬことは益です」というみことばの意味を考えてみましょう。パウロはこの手紙を書いたとき、獄中にありました。多くの聖書学者の見解では、ローマの監獄にいたということで、それはそのまま、もはや釈放されることなく、処刑に向かって進むのみということを意味していました。パウロはもちろん、釈放されてピリピ教会の信徒たちに再会することを希望し、またそうなるようにと信徒たちに告白しています。 そのような中でパウロが、死ぬことが益であると語るのは、どのような意味があるでしょうか? 何よりもそれは、23節にあるとおり、世を去ることになるならば、キリストとともにいることになる、ということを意味します。 人がこの世を去るということは、悲しくも寂しいことです。その感情まで否定すべきであると言いたいのではありません。しかし、私たちにとって大事なのは、死ぬということは終わりを意味するのではない、ということです。そればかりではありません。あれほどお目にかかりたいと恋焦がれた、イエスさまにお会いできるということです。 私たちはこの世界を生きながら、実際は天の故郷にいずれ帰ることをたえず意識しながら生きる者です。だから、世の富や欲に執着しているならば、それを捨てることをしていく必要があります。私たちの日常を点検してみましょう。私たちは天国に行く準備ができていますでしょうか? 天国に行く前にやり残していることがあるから気がかりだ、ですとか、天国に行くことよりももっと関心のあることが目の前にある、などとなっていないでしょうか? ただ、もちろん、このようなことを申しましても、この地上で好きなことを一切すべきではないというわけではありません。私が神学生の頃、私に、趣味を持つべきだとおっしゃった宣教師の先生がいらっしゃいました。もしかすると、教職者が趣味を持つことに対しては、厳しい視線を投げかける方もいらっしゃるかもしれません。しかし私は、教職者が長持ちして働きをするためには、徳を引き下げるものではないかぎり、ふさわしいかたちでの息抜き、休息は必要だと考えます。これは、パウロが教え子のテモテに言ったところの、「少量のぶどう酒」に当たるものだと考えます。 それでも、「少量のぶどう酒」は、どこまでも、主の宮なるからだを立て上げるものであり、そういう意味では、天国と関係あるものであるべきでしょう。私たちにとっての趣味のような快いこと、コーヒーを飲んだりドライブをしたりおいしいお店に行ったりすることも、天の御国を見上げる私たちをこの地上で支えるために必要なことであるのみで、それ以上のものであってはいけません。すなわち、そのような快楽そのものを生きる目的とすることは、私たちクリスチャンにとってふさわしいことではありません。 それでは私たちは、この世に対する執着を一切捨てて、死ぬことを究極の目標とするしかないのでしょうか? いいえ、死ぬこと、すなわち天国に行くことは私たちが積極的に受け入れるべき「結果」でこそあれ、死ぬことそのものを「目的」として、生き急ぐような真似をしてはいけません。なぜでしょうか? それは、24節にあるとおりです。……パウロが「あなたがたのため」と言ったまさにそのこと、それは、キリストのからだなるピリピ教会とその信徒たちが保たれ、成長することです。 初代教会は、質量ともに大きく成長する希望にあふれていた一方で、ユダヤ主義者やローマ帝国といった敵の存在によって、つねに滅亡と隣り合わせという危機に瀕した状態で、宣教と教会形成を続けなければなりませんでした。その中で彼らが保たれるためには、彼らが主とそのみことばにしっかりとどまり、みことばの栄養を得て成長すること、愛においてひとつとなることは必須でした。しかし、何よりも、その群れの霊的責任を担える存在を、どうしても必要としていました。その霊的責任を負う者、それがパウロです。 霊的責任を負う人にその群れの霊的存在の存亡がかかっているということは、旧約聖書でもしばしば見ることができます。サムエル記第二に収録されているエピソードです。イスラエルの統一王国時代、ダビデは息子アブサロムとの戦争に巻き込まれました。そのとき、ダビデ王は自ら戦場に赴こうとしました。しかしダビデ王は兵士たちから、あなたはわたしたちの一万人にあたります、と、必死に引き止められました。いざというときに出て行って責任を取ろうという態度、素晴らしいリーダーシップですが、同時に、そのようなリーダーが守られるように、従うべきことを従い、自分たちも責任を分かち合おうとする態度、これは従う立場の者たちの、いわば「フォロワーシップ」というべきものです。 そのフォロワーシップが充分に育つまで、牧会者は充分に群れに気を配り、その群れの霊的な監督としての責任を果たすために、必要なみことばを語り伝え、とりなして祈る必要があります。もちろん、信徒ひとりひとりが究極的につながるべきはイエスさまであり、それは決して牧会者であってはならないのですが、だからといって、牧会者の責任が免除されるのではありません。むしろ、だからこそ、信徒がイエスさまとしっかりつながり、イエスさまに従うものとなるために、牧会者はますますその責任を全うする必要があることになります。 パウロが、なお生きることを願ったのは、いつか生きてピリピ教会に戻り、再び群れを指導できるようになることを祈ったゆえで、25節、26節を見てみますと、パウロが生きてピリピ教会の信徒に再会することで、ピリピの信徒にとってそれが信仰の前進と喜びとなることが語られています。しかし、結局のところそれはかないませんでした。ならばパウロは、根拠のないことを言って空元気(からげんき)をつけさせようとしたのでしょうか? そうではありません。パウロは、ピリピの信徒たちがパウロに再会するその希望よりさらに高い次元にある、パウロが来ようと来なかろうとピリピ教会の信仰が前進し、喜びが増し加わることを祈っていたと見るべきです。 それでもパウロが、この肉体にとどまることが、あなたがたのためにはもっと必要です、と言ったことは、いろいろな意味を含んでいます。まずそれは、パウロこそが、ピリピ教会に格別の重荷を覚えて祈る人であるゆえ、たとえあなたたちに会えなかろうと、まだまだ死ぬわけにはいかない、ということでもありました。 しかし、それ以上のことがあります。パウロはまだ、のちに新約聖書を完成させる書簡となる、たとえばテモテやテトスへの牧会書簡をまだ書き送っていませんでした。つまり、聖書が完成された形でのちの2000年の教会を霊的に養うためには、パウロはここで死ぬわけにはいかなかったのでした。パウロは、ピリピ教会も含めたすべての教会を霊的に生かすために、いのちが取り去られて天国に行くことを願う一方で、生きつづけることを主に祈り求めたのでした。まことに、パウロがまだ天国に行かないで生きつづけたことは、その後歴史上、世界中に存在した、すべてのキリストのからだなる教会のためでした。パウロの祈りはすべての教会を生かすことにつながりました。 私たちはなぜ生きるのでしょうか? パウロは、はっきりわれわれの生きる理由を語っています。「生きることはキリスト」なのです。キリストが生きるように生きる。私の生きていることは、キリストが生きていることそのものである。みなさん、ここまで言い切れるでしょうか。いや、私は罪人ですから……こんな言い訳は、このことばの前には一切通用しません。 私たちはもちろん、ときには肉の弱さのゆえに罪を犯すものです。しかし私たちは、その罪を犯す自分をほんとうの自分、変わることのない自分だと考えてはなりません。私たちにとってのほんとうの自分自身とは、将来天国にて、キリストに似た者として完全に栄光の姿に変えられる姿であり、その完成された姿に向けて私たちは日々変えられます。ほんとうの自分に、日々近づくのです。間違っても、きよめられていない自分、罪人の自分を、ほんとうの自分だと考えてはなりません。 しかし、私たちがキリストの似姿として日々きよめられるには、条件があります。キリストをわが心のうちに救い主、人生の主として迎え入れ、心の王座に座っていただいてそのご支配をいただくことです。私たちクリスチャンはときに、心の中にキリストを受け入れていることは確実でも、その心の中心にキリストが座ってはおらず、相変わらず心の中心を罪深い自分自身が占めつづける、ということがあるものです。私たちがこうして週に一度礼拝をおささげするのは、そういう自分であることに気づかせていただき、イエスさまのはじめの愛から、どこからどのように離れたか思い出させていただき、悔い改めて初めの行い、すなわち、自分を捨ててイエスさまを信じる信仰に立ち帰らせていただくためです。 悔い改めというと、「悔い」ということばの否定的なイメージに引きずられて、何やらよくないこと、などと誤解したりしてはいないでしょうか? でも悔い改めとは、自分の罪の醜さをまじまじと見つめて、ああ、私ってなんて汚いの、愚か者なの、と、うじうじ落ち込むことでは、ありません。それは「悔い」です。悔い改めはむしろその反対で、そんなうじうじさせる自分の醜さ、汚さから、まことのきよい光そのもののイエスさまへと完全に目を向け、目を離さなくすることです。イエスさまに向けて視線を固定するのです。いざイエスさまに向けて視線を固定してしまえば、もう自分の醜さのようなものを見ることはできなくなります。 まことに、ふさわしい聖徒の生き方とは、悔い改めに次ぐ悔い改めを通して、どんどんキリストの似姿に変えられていくことです。その生き方をともに目指し、キリストが歩まれたように、教会に対して、この世に対して愛と真実の歩みをなす、こうして私たちは、生きることはキリスト、となるのです。 しかしまた、死ぬことも益です。パウロの死は、殉教でした。その死によって、キリストというお方はいのちをかけてまでお従いすべきお方だということが、堂々と証しされたのでした。そして聖徒たちは、自分のためにいのちを捨ててくださったキリストのその十字架を、パウロの殉教を通してどれほど如実に実感したでしょうか。パウロの死は、神の栄光となり、聖徒たちはいよいよ迷わずに教会を立て上げました。そしてその歩みが、こんにちの私たちの歩みへとつながっているのです。 私たちもいつかは天国に行きます。しかしどうか、消極的な理由から天国を希望する者にならないでいただきたいのです。こんな、ウイルスと放射能に冒された世界、愛のない世界に生きていても、何にもならない、生きていても死んだほうがましだ、そんなことを考えて、それで天国行きを望むのでしょうか? しかし、そういう人は、肉体が死ぬことを夢想しようと、益になどなりません。同じ死ぬにしても、肉体が死ぬのではなく、そんな変な価値観を抱えてさまよう自我がキリストとともに十字架につけられて死ぬべきです。そうすれば、復活のキリストがその人のうちに生き、もはやつまらない聖書解釈で生きるのではなく、ほんとうに生き生きと喜びにあふれた、それこそキリストがともに歩まれる信仰生活を送れるようになります。もうそういう人は、けっして、消極的な理由から「死にたい」などと口にすることはなくなるはずです。 私たちが宣べ伝えるキリストは、この世界から人を取り去って天国に入れてくださるお方だといえばそうなのでしょうか、それはキリストというお方のあまりに表面的な領域でしかありません。いま現実に苦しむ人たち、そうです、いま日本はコロナウイルスで苦しんでいますし、震災や台風などの災害からまだ完全に復旧したわけではなく、それで苦しむ人もたくさんいます。経済的に困窮する人もたくさんいます。社会はあちこちがほころんでいます。世界に目を向けたら、さらに悲惨な生活をしている人が大勢います。そのような人々を救い、人々とともに歩み、この世界に神の子なるキリストが愛をもって統べ治めてくださる神の国を立て上げる、キリストはそういうお方ではなかったでしょうか。 そう考えるならば私たちのうちには、自分たちさえ救われればいい、天国に行ければいい、何をしても許される、という考えは生まれてこないはずです。世の光、地の塩として、主がおつくりになった世界に対して、キリストが歩まれた愛の歩みを、いのちあるかぎり力いっぱいなし、いのち果てる日に喜びあふれて天国に凱旋する、そういう歩みに献身したいものです。その歩みにより神の栄光を豊かに現す、そのような私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。