信じる者には、どんなことでもできるのです

聖書本文;マルコの福音書9:14~29 メッセージ題目;信じる者には、どんなことでもできるのです  改めましてみなさま、今年もよろしくお願いします。   2020年。今年のみなさんのお祈りの課題は何でしょうか。取り組まなければ。あるいは、これが必要だ。それを手に入れること、そうなることはみこころにかなっている。しかし、努力だけではどうにもならない、そこで、私たちは信仰を働かせるのです。 本日の本文に登場する父親も、まさにその「信仰」という問題を抱えていました。このときイエスさまは、十二弟子のトップ・スリー、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて山に登っていらっしゃいました。そのときイエスさまは栄光に御姿が変わり、モーセとエリヤが現れてイエスさまのご最期について会話を交わすという、驚くべき、またおごそかな時間となりました。このできごとは、人の子の復活まで秘めておきなさい、と、イエスさまは弟子たちを戒められました。 一方で、残された弟子たちは、ひとつの問題に直面していました。口をきけなくする霊に取りつかれた息子から悪霊を追い出してほしい、弟子たちは父親からそのように懇願されましたが、できませんでした。そこにイエスさまがやってこられ、子どもから悪霊を追い出されて一件落着、すばらしいことが起こされたわけでした。 しかし私たちは、このできごとの背後にあった、信仰と不信仰についての問題、また祈りの問題について、特にイエスさまのみことばから学ぶ必要があります。 まず、19節、最初のイエスさまのみことばを見てみましょう。イエスさまは何とおっしゃいましたでしょうか。…… イエスさまはついその直前に、もはや歴史上の人物ですらあったモーセとエリヤが現れ、ご自身のご最期について話し合われるということを経験されたばかりでした。イエスさまは、十字架の死に向かって備えをするのみで、また、その備えをなすべく、弟子たちをよりいっそう整えるという段階にあられました。 ところが、弟子たちは何をしていたのでしょうか。イエスさまがご不在ならば、イエスさまのわざを代わりに行うべく霊的な権威が委ねられていたというのに、弟子たちには悪霊を追い出すことができなかったのです。それで、この悪霊追い出しをイエスさまがなさらなければならなくなったわけです。 イエスさまは嘆かれました。まことに不信仰な時代だ! 問題は、不信仰にありました。人の不信仰は、十字架の贖いの死に向かって進むべきイエスさまの歩みをとどめるかのようでした。イエスさまにとっては十字架という、もっと大事なことがあるのに、この程度のこともあなたがたは信仰によって解決できないのか! イエスさまが問題にされたのは、だれの不信仰だったのでしょうか? それは弟子たちであり、また、この少年の父親の不信仰でもありました。そして、この記事を読む私たちひとりひとりの不信仰も、同時に問題にされるのです。問題は、不信仰にあります。 しかし、イエスさまは彼らが不信仰だからと、見捨てるようなことはなさいませんでした。「その子をわたしのところに連れて来なさい」、そのように言ってくださり、子どもにみわざを行うことを宣言されたのでした。 この父親には、イエスさまならばなんとかしてくださる、という、わらにもすがる思いのような、わずかな信仰がありました。イエスさまが戻ってくるや、つかまえました。からし種ほどの信仰があれば、その人の信仰は、空の鳥が巣をかけるほどに大きくなるように、成長させていただける、そのようにイエスさまはおっしゃいましたが、この父親の信仰も、大きいとは言えず、からし種のような大きさ、けし粒にも満たないほどの小ささだったかもしれませんが、イエスさまが大きくしてくださり、その信仰に応えて、イエスさまはみわざを行なってくださったのでした。 その子の状態はひどいものでした。20節に語られているとおりです。子どもがこのようならば、親の気持ちはどれほどつらいことでしょうか。しかしこの父親は、イエスさまの話を聞きました。イエスさまならば、必ず助けてくださる! イエスさまが来られたと聞いた父親は、矢も楯もたまらず、子どもを連れて駆けつけました。 イエスさまは、いつから子どもがそのようなのかと父親に尋ねられました。父親は、それが幼いときからで、子どもに取りついた悪霊は彼のことを殺そうと、何度でも火の中や水の中に彼を投げ込んだ、と語りました。もちろん、イエスさまは全能なるお方ですから、子どもにそういう過去があったことはすべてご存知です。それでもイエスさまが、父親にそのいきさつを尋ねられたのは、それが悪霊の働きであり、したがって神の御手によってのみ解決されるべき問題であることを、父親にあらためて認識させ、受け入れさせるという目的があったからだと言えます。 私たちもやみくもに祈ればいいわけではありません。何を祈っているのかもわからないで、どうやってお祈りを聞いていただけるのでしょうか。私たちの願っていることを具体的に聞いていただくこと、そのことが必要になります。みなさんそれぞれのお祈りの課題を具体的にノートに記録されることをお勧めします。そして、それを毎日読んでお祈りすることをお勧めします。 ともかく、この父親はイエスさまに、子どもの様子を伝えました。しかし、このことをイエスさまに伝えるにあたり、父親の態度がイエスさまに取り扱われることになりました。「しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」父親はこう言いましたが、イエスさまはそのことばと態度を問題にされました。 そうです。これは不信仰だったのです。いったい、子どもが悪霊につかれている状態、精神的に病気の状態であることが、みこころにかなったことでしょうか。それは神の子イエスさまによって、いやされてしかるべき状態でした。イエスさまは、そんな悪い状態を放っておくようなお方では決してありません。父親は、みこころに反する病や悪霊憑きを放っておかれるかもしれないなどと考えて、イエスさまに対して十分な信仰を働かせてはいませんでした。それをイエスさまは問題にされました。 信じる者には、どんなことでもできるのです。イエスさまは父親に、そう語られました。それは、私がこの子に愛を注いで、いやす神であることを、あなたは信じなさい、そうおっしゃっているということです。 私たちがイエスさまに対して信仰を働かせるということ、これが、イエスさまの愛と直結していることを、お分かりになったと思います。あなたのことを愛しているよ! あなたにわたしは、わざを行うよ! それによって、わたしがあなたを愛していることを、はっきり教えてあげるよ! さあ、わたしの愛を体験して! 信じてほしい! 果たして父親は、イエスさまのこの威厳に満ちたことばに、心が動かされ、悔い改めました。信じます。不信仰な私をお助けください! 父親は、自分が不信仰であることを叫びつつ認めました。そして、イエスさまにすがりました。 私たちも、信仰が形ばかりで、ほんとうのところはイエスさまを信じていない、そんな者であることを、ときに認めざるを得なくなるときがあります。そんなとき、私たちのすることは、自分が不信仰であることを認め、悔い改めてイエスさまにすがることです。そうするとき、イエスさまは私たちの生きる現場に、実際に働いてくださいます。それは、私たちを愛してくださり、私たちのことを心配していてくださるからです。イエスさまは、不信仰から信仰に立ち帰る私たちに、必ずみわざを行なってくださいます。 かくして、イエスさまはこの子にみわざを行われました。悪霊を追い出されました。悪霊は最後の悪あがきをしました。暴れるだけ暴れて、この子から出ていくと、この子は死んだようになりました。この子の存在すべてが悪霊に支配されていたことの証拠とも言えましょう。悪霊が出ると、文字どおり彼は空っぽになりました。 しかし、イエスさまがその子の手を取って起こされると、その子は立ち上がりました。イエスさまの御手によって、その子はもはや悪霊とは関係のない、神の人となったのです。そうです、人は悪に支配されていたならば、その悪と縁を切ったとき、まるで死んだようになるでしょう。しかし、その人の生きがいは、悪に戻ることではなく、イエスさまという新しい主人に従うことです。そうするならば、その人は生きるのです。こんにちを生きる私たちは、まさにそのように人々から悪の縁(えにし)を断ち切り、イエスさまというまことの神さまに立ち帰らせ、その人を永遠に生かすことです。 しかし、弟子たちには解決すべき問題がありました。イエスさまにできることが、自分たちにできなかった。それでは、イエスさまの弟子としてふさわしくないことになります。もっとストレートに言ってしまえば、無能、ということになります。この問題を解決しなければなりません。彼らはイエスさまに、自分たちには霊を追い出せなかったのはなぜでしたか、と尋ねました。 すろと、イエスさまはお答えになりました。この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。 イエスさまは弟子たちの、何を問題にされたのでしょうか? 祈らなかったことです。もし、弟子たちがちゃんと祈っていれば、この悪霊は彼らにも追い出せていた、ということを語っておられるわけです。 ここでも、信仰ということが問題にされたわけでした。弟子たちは、自分たちの力で悪霊追い出しをしようとしていました。実際、弟子たちには経験がありました。彼らが命じると、悪霊どもも言うことを聞く、ということを、実際に体験していたので、今度もきっとできるはずだ、と、彼らが過信していた可能性もあります。しかし、主のみわざに用いられるということは、経験があればだれでもどんなことでも可能である、ということではありません。イエスさまは、祈りが必要だ、とおっしゃったのです。 それでは、なぜこの働きをする上で「祈る」必要があったのでしょうか? それは、まず、自分たちの力ではできないことを認識し、しかしそれでも、この悪霊追い出しは神さまのみこころであるから、イエスさまの弟子として必ずできるという信仰に立ち、神さまの力を求める必要があったからです。 ただし、この働きは、何を差し置いても、この子どもに対する愛が必要でした。愛なきミニストリーは、たんなる「人間的な作業」にすぎません。自分も神さまの愛をいただいている者として、その愛をもって熱く子どもを愛する、ここに、信仰を働かせる余地が出てまいります。私たちにとっても、だれかのために祝福を祈ったり、いやしを祈ったりすることにおいても、このように相手を熱く愛する愛が必要で、しかし愛を十分かつ具体的に施しきれない自分であることを認め、神さまに祈る、しかし、みこころにかなうことだから必ずくださると信じて祈る、その祈りが必要となるわけです。私たちの信仰が、愛とともに問われることになります。 ある聖書の写本では、この部分に、「祈りと断食」と書かれています。それを見ると、断食の祈りというものの効果を見ることができます。しかし、注意が必要です。私たちの祈りが聞かれ、主がみわざを行われるのは、どこまでも、私たちの信仰が応えられるゆえです。一生懸命の祈りとか、断食しての祈りとか、そういうことを「行い」として実践することで、祈りを聴いていただけると思ってはなりません。それは、私たちの行いを正当化することです。 私たちには経験があると思いますが、長い時間をかけてお祈りすることは簡単なことではありません。とても体力がいります。大声で祈るとなるとなおさらです。断食ともなりますと、どれほどの体力を消耗するかわかりません。しかし、そうやって一定の時間をかけて努力して祈ったとき、罠となるのは、それだけいっしょうけんめい祈ったということに対し、自分なりに満足を覚えてしまう、ということです。それは信仰による祈りではなく、自分の正しさによる祈りということにならないでしょうか。 しかし、それならば、「祈りによって」、あるいは「祈りと断食によって」とイエスさまがおっしゃったことばは、矛盾しているのでしょうか。そういうことではありません。私たちは信仰を働かせるならば、何を差し置いても祈らなければという思いが生まれます。そして、祈るのです。祈るという行為を積み重ねて神の心を動かす、ではなく、神さまのみこころに動かされて祈るようになる、というわけです。これは、体験した人ならわかります。 時にその祈りは、断食の祈りに促されることがあります。私は断食というものについて、このように考えています。祈らなければ、という御霊の思いに支配されるあまり、食べ物ものどに通らない、祈るしかない、祈ろう、となって、結果として断食の祈りとなると考えます。そういうわけで断食の祈りは、したからといって偉いわけではありません。。 イエスさまは人を救うという目的を掲げて、時には断食もものともせずに、つねに父なる神さまと交わる祈りをささげていらっしゃいました。その祈りの対象が、たとえばこの子どもでありました。そしてイエスさまの祈る対象は、私たちひとりひとりでもあるわけです。イエスさまは今もなお、父なる神さまの右の座で私たちひとりひとりのためにとりなして祈ってくださっています。 このイエスさまと交わりを欠かさぬとき、私たちもまた、イエスさまが祈られたように、祈りに一生懸命になるように導かれます。時にそれは、食べ物ものどを通らないような祈りになるかもしれません。それでも、祈れるならば、私たちはしあわせではないでしょうか? それだけ、私たちが信仰を働かせる領域が拡大することになり、私たちを愛してくださっている主は、私たちの信仰の祈りに応えてくださいます。

信仰の年

聖書箇所;ヘブル人への手紙11章6節 メッセージ題目;信仰の年  みなさん、今年もよろしくお願いいたします。  今年初めのメッセージはどの箇所から語るのがふさわしいか、私は昨年末、先週から祈り求めておりましたが、この2020年、原点に帰ることを目指したらいかがだろうか、と考え、さきほどお読みした箇所から選ばせていただきました。  信仰、これは大事です。義人は信仰によって生きる、ともみことばは語っています。私たちもイエスさまの十字架を信じる信仰によって義人とされた者として、信仰によって生きるのです。それでは、聖書の語る信仰とは何か、ということを、改めまして、この箇所から学んでまいりたいと思います。  今お読みした箇所はヘブル人への手紙の11章6節のみことばですが、ヘブル人への手紙は11章に入ると、特に信仰というものを読者に説き聞かせ、その実例として旧約聖書の人物をたくさん挙げて説き起こす形になっています。  まず1節を見てみますと、信仰というものの定義について語っています。信仰とは何か。それは、望んでいることを保証するものであるということです。  望んでいること、私たちもいろいろなことを希望します。では、私たちは何を希望するのでしょうか。どのような希望が本物なのでしょうか。それは何よりも、神さまのみこころにかなう希望です。  自分の望んでいることは神さまのみこころにかなっている。そのように信じきることのできる人は幸いです。では、その希望がみこころにかなっているということを、私たちはどのようにして受け入れることができるのでしょうか。それは何よりも、聖書のみことばによって吟味することによってです。みことばどおりであると知るならば、私たちの心には平安が生まれます。その平安を抱いて、私たちは揺れ動くことなく希望を持ちつづけるのです。  この1節のみことばはさらに、次のように続きます。信仰とは、目に見えないものを確信させるものである、ということです。 もし、目に見えているならば、つまり、当たり前のようにして起こることならば、私たちは何も、特別な希望を持つ必要はありません。当たり前とはかぎらないこと、とても当たり前ではないことでも、神さまがかなえてくださると確信して、希望を持たせるもの、それがまことの信仰であるというわけです。   2節のみことばを見てみますと、むかしの人々はこの信仰によって賞賛された、とあります。新約聖書も含めてよろしいと思いますが、聖書の人物を測る物差しは、「信仰があるか否か」という点に尽きます。それは、私たちにとっても同じことではないでしょうか。このことにつきましては、のちほど見てみたいと思います。   3節のみことばを見てみましょう。見えるものは見えるものからつくられたものではない、と語ります。現代という時代は、進化論に代表される唯物論がまことの信仰にとって大きな壁となっていますが、その唯物論的な考えは、この初代教会の時代にすでに存在し、まことの神信仰に大きな脅威となっていたことを見ることができます。つまり、この聖書の書かれた時代の問題は、私たちの時代の問題と共通していたわけですが、いつの時代においても、創造主なる神さまの存在をみことばへの信仰から認めることのできる人は幸いであると言えます。この神信仰から、私たちの信仰のすべてが始まるからです。   そこで、6節、本日お読みした本文にまいります。信仰がなければ、神さまに喜ばれることはできない、と語っています。よく、神さまは私たちの存在そのものを喜んでくださる、などということばを、私たちはたやすく口にしてしまいがちのようですが、このみことばを見てみると、信仰のない人のことを神さまは喜ばない、とはっきり語っています。   信仰とは何でしょうか? イエスさまが私たちの身代わりに十字架について、私たちを父なる神の怒りから救い出してくださったことを信じることです。私たちはそのままでは、神の怒りを受けるべき罪人でした。神に喜ばれるなど、とんでもないことでした。そこから救い出してくださったイエスさまに、救いの根拠と信頼を置く、これがまことの信仰です。   しかし、ひとたびその信仰を持つべく導かれたら、神さまの怒りは、神さまの喜びへと変わります。信仰によって神さまと和解した私たちのことを、神さまが喜んでくださるのです。  さて、このみことばは、「神に近づく者は」と展開します。信仰によって神に喜ばれている者が、神に近づくことができるのです。神さまの立場になって考えてみましょう。私たちがもし、神さまの喜びという存在になっているならば、神さまは私たちに対し、ご自身にもっと近くに来てほしいと願っていらっしゃるのではないでしょうか? そのみこころに応答して、私たちは神さまに近づくのです。  しかし、神さまに喜ばれている者として神さまに近づくには、条件があることもこのみことばは語ります。まず、神がおられることを信じなさいと語っています。  神さまはおられます。私たちはもちろんそう信じ、そのように告白するでしょう。しかし、私たち自身の生活を振り返ってみたいと思います。私たちはどれほど、神さまがおられることを普段の生活の中で信じているでしょうか?  神さまは、私たちの遠くにおられるのではありません。私たちとともにおられるのです。私たちが信じるべきは、神さまがこの世のどこかに、私と関係ないけれどもおられる、と信じることではありません。神さまは、いつでも、私とともにおられる、一緒におられる、そう信じることです。  考えてみましょう。天地万物を創造され、すべてを司っていらっしゃる神さまが、ほかならぬ私のことを選ばれ、ともにいてくださるのです。これ以上素晴らしいことがあるでしょうか? このお方がともにおられることを考えないで生きるなんて、人生最大の損失です。しかし、神さまがともにおられるということを信じぬくならば、その人はどれほど人生が祝福されていることでしょうか。このお方が私たちの味方なのです。何者も私たちに敵対することはできません。  そして、6節をさらに見てみましょう。神さまが、ご自分を求める者には報いてくださるお方であることを信じなければならない、と語っています。このことを信じるためには、大前提として、神さまが生きて働いておられるお方であることを信じ受け入れる必要があります。多くの人にとっては、神さまは単なる空想の産物でしかないかもしれません。あると思えばあり、ないと思えばない、という。しかし、まことの神さまは、私たち人間がどう考えようとも、存在され、そして、みわざを行なっておられるお方です。  聖書を見てみましょう。どれほど多くの奇蹟の記事が書かれていることでしょうか。このことをもってしても、神さまは生きて働かれるお方だということがわかります。私たちが神さまを信じるということは、聖書の時代にこれだけのみわざを行われたお方が、同じように、私たちの生きるこの時代にもみわざを行ってくださると信じる、ということです。  私たちは聖書をお読みするとき、むかしはむかし、今は今、と、無意識のうちに分けて考えて、もうそのような奇蹟はこんにち起こることはない、などと考えたりしてはいないでしょうか? それは信仰的な読み方ではありません。同じお方が、同じ全能さをもって、私たちの生きるこの世界においても働いてくださる、私たちはそう信じ受け入れる必要があります。  そして、神さまが全能のみわざをおこなってくださるそのみわざは、ほかならぬ「私のため」、ということを、私たちは信じる必要があります。もし私たちが神さまを求めるならば、その信仰にしたがって、神さまが「ほかならぬ私に」みわざを行なってくださる、このことを信じることです。私たちのことを振り返ってみましょう。私たちはイエスさまを信じ受け入れてから、どれほど多くのみわざを体験させていただいたことでしょうか?  それは、神さまが私たちひとりひとりに特別に目を注がれ、私たちを神の子どもとしてふさわしく取り扱ってくださった、ということです。 全能のみわざを、ほかならぬ私のために用いてくださった、ということです。あなたを特別に選んで、特別に働かれたのです! どれだけすごいことでしょうか? 私たちはその素晴らしさに気づいていますでしょうか?   そこでこの2020年、私たちは信仰をもって神さまに近づいている者として、具体的に求めるべきことがあるのではないでしょうか? いろいろあると思います。私の人生にこのみわざを起こしてください! 私は信じます! そのように願い、具体的に祈るべきことを祈り求めましょう。  繰り返しになりますが、目に見える望みは望みではありません。少し努力すれば必ず達成できることならば、何もこの時間に祈る必要はありません。そうではなく、経済的な必要でもいいですし、努力してもなかなかどうにもならない人格の欠けが整えられることでもいいです。絶望的に思える家族や友人の健康でもいいでしょう。とにかく、祈りましょう。神さまは、その祈りがみこころにかなうものである以上、聞き届けてくださり、かなえてくださいます。  私自身を見るならば、できない、としか思えないでしょう。しかし、イエスさまならば、できないことがあるでしょうか? 何でもできるのです。信仰をもって祈ってみましょう。

みことばを宣べ伝えよう~大宣教命令に学ぶ

聖書箇所;マタイの福音書28:18~20 メッセージ題目;みことばを宣べ伝えよう~大宣教命令に学ぶ 今年の年間テーマは「みことばを宣べ伝えよう」でした。みなさんはどれくらい、みことばを宣べ伝えることができたでしょうか? 私たちクリスチャンにとって、みことばを宣べ伝えること、伝道とは、使命であり、取り組むべきことです。その召命に、この年の終わりに立ち帰り、次なる年こそみことばを宣べ伝えるものとして整えていただくべく、今日みことばをともに学んでまいりたいと思います。  さきほどお読みしたみことばは「大宣教命令」と呼ばれるもので、イエスさまがこの地上を去られるにあたって、弟子たち、ひいては私たちを含むすべてのクリスチャンに遺されたみことばです。伝道に召された私たちは、特に今日のみことばから学ぶことで、主が私たちのことをどのような立ち位置に置いてくださっているか、確かめてまいりたいと思います。   まず、大前提といたしまして、このみことばの原語どおりの構造からしますと、第一に「行って」、第二に「バプテスマを授け」、そして第三に「教えなさい」はすべて分詞であり、これらすべてが主たる動詞である「弟子としなさい」を修飾している形になります。つまり、イエスさまの大宣教命令は、「弟子づくり」が最もメインになる命令であり、「行くこと」、「バプテスマを授けること」、「教えること」はすべて、「弟子づくり」の側面を示したものと言えるわけです。   第一に、私たちは「行って」弟子とすることが求められています。   このとき、弟子たちはまず、聖霊を受けるまで待機することが求められました。しかし、ひとたび聖霊を受けたならば、エルサレムにはじまり、ユダヤとサマリアの全土、そして地の果てにまで証人となるべく遣わされました。この働きはもちろん、十二使徒で完結するものではなく、その後を引き継いだ世界中のすべてのキリスト教界が、2000年にわたって実践しつづけたもので、その歴史の果てに私たちの教会があることになります。  さて、それでは、私たちはこの地に遣わされて、それで終わりなのでしょうか? 決してそうではありません。聖霊なる神さまは、なおも私たちを遣わそうとしてくださっています。  しかし、私たちはもしかして、聖霊の導きによって「行く」ということを、何か特別なことのように捉えたりしてはいないでしょうか? ある日突然聖霊さまが霊感に示して、遠いアフリカの国に行くように導かれるとか? そういうことも、ない、とはいいませんが、しかし、私たちが普段の生活の中で体験する聖霊さまの導きは、もっとさりげないものです。考えてみましょう。私たちに生活できる環境があるということは、私たちのことを未信者とのふれあいの現場という「宣教地」に、聖霊さまが送り出してくださっているということです。みなさんはそういう意味で、聖霊の強い力に促されて世界宣教に出ていった初代教会の働き人たちと、何ら変わるところがないのです。  要は私たちが、聖霊なる神さまによって遣わされているという自覚を持ち、聖霊の満たしをいただいてこの世界に出ていくことです。私たちの教会がディボーションと聖書通読を奨励しているのはなぜでしょうか? 聖書を学ぶことで自分の霊的ステージを上げて、ほかの人と差をつけるためでは、決してありません。みことばに耳を傾けることで聖霊なる神さまの御声と導きに敏感になり、今日はだれに遣わされているのか、今日はどこに遣わされているのか、その自覚をもって一日の働きに取り組むためです。聖霊に遣わされる体験を毎日できるなんて、これ以上素晴らしい生き方があるでしょうか!  私たちは聖霊の宮です。聖霊の器です。自分を低く見積もってはなりません。私たちは神さまの働きに用いていただけるのです。そういう者にしてくださるために、今日も神さまは私たちに、みことばによって強い動機づけを与えてくださいます。従順にお従いし、用いられる祝福をいただいてまいりましょう。  第二のポイントです。私たちは「バプテスマを授けて」弟子とすることが求められています。  私たちはなぜ、それぞれの生活の現場に「行く」必要があるのでしょうか? それは「バプテスマを授ける」ためです。  バプテスマを授けるために必須なのは、信仰告白に導くことです。自分が罪人であるゆえに、このままでは神の怒りに触れる存在であることを自覚させること、その罪の罰をイエスさまが十字架の上で身代わりに受けてくださり、私たちを神の怒りから救い出してくださったこと、イエスさまを受け入れるなら私たちは神の子どもとなり、永遠のいのちが与えられ、天国に入れられること、このことを私たちは、大好きな隣人に宣べ伝えるのです。このことを宣べ伝えてこそ、その人は信仰告白に至ることができます。  問題なのは、私たちがなかなか、そのようにみことばを宣べ伝えることができない、ということではないでしょうか。気になる人がいれば、辛うじて教会に連れてくることならできる、しかし、実際にみことばを宣べ伝えるのは私ではなく、牧師のすることではないか……そのように考えてはいないでしょうか?  しかし、牧師がいちいちみことばを伝えるのは不可能です。みなさんひとりひとりがみことばを伝えなければ間に合いません。そういう点で、私たちは「何を伝えるか」を明確にしておく必要があります。クリスチャンという存在は、日本の社会にはあまりいませんので、珍しがられる存在だということはみなさんも体験していらっしゃるでしょう。それを利用して、私たちの信仰について分かち合うのです。 もちろん何よりも、私たちの生活がすべてにおいて主にお従いするものとなり、主に対してするように人に対してすることを普段から実践することで、人々の前でよい証しを立てておくことが必要になります。そうでなければ、私たちがいかにみことばを宣べ伝えたくても、そのことばを聞いてくれる人などいない、ということになってしまいます。  さて、このみことばは「バプテスマを授け」とあります。これについてもしっかり見ておきましょう。人にバプテスマを授けるには、信仰告白に導くことが必要になることはこれまで見てきたとおりです。しかし、信仰告白に導いてそれで終わりではありません。「バプテスマを授ける」ところまで導くのです。  バプテスマを授けたならば、その人は単に信仰告白したにとどまらず、キリストのからだなる教会のひと枝に加わります。つまり、伝道そのものが宣教における完成形なのではなく、伝道して人を教会に主体的に参加させることが宣教の完成であるわけです。  しかし、この「バプテスマを授ける」という働きは、教会員一人ひとりがそれぞれの場所で担うものではありません。さりとて、バプテスマを授けるのは牧師だから、牧師の働きなのか、というと、それも正確ではありません。「バプテスマを授ける」働きは、教会全体が担う働きです。  そういう意味でいえば、さきほど取り上げた「行って」というのも、教会に属する働きの一環であると言えます。一見すると、私たちは個人個人がそれぞれの持ち場に行っているように見えますが、私たちはキリストのからだなる教会のひと枝ひと枝としてそれぞれの持ち場に行っているわけです。そう考えますと、私たちの家庭も、職場も、学校も、地域社会も、みな教会の「出張所」ともいうべき存在ということになります。  「バプテスマ」に話を戻しますと、人を信仰告白に導き、教会のひと枝に加えることは、教会全体が取り組むべきことです。私たちそれぞれにだれか伝道の対象となっている未信者がいるとしたら、それはその人だけが霊的責任を負うべきではありません。教会全体が責任を負うのです。その伝道対象者の救いのために、教会全体が祈るのです。いざその人が教会にやってきたら、みんなして迎え入れるのです。食事をしてもてなすのです。とにかく、この関係づくりの働き、関係を深める働きは、教会の一部の人が担えばそれで終わりなのではありません。教会全体がひとつとなって、バプテスマに至るまでひとりの人のたましいの責任を担うのです。  そのようにして群れに加わった新しい人が、今度は次の人を迎え入れるべく教会全体でチームをなしていきます。こうして、教会は量的にも質的にも成長することになるのです。  私たち自身を振り返ってみましょう。私たちも教会の働きによって、バプテスマを受けて教会のひと枝に連なる恵みに導かれたのでした。今度は私たちの番です。私たちが次の人にバプテスマを授け、主の弟子とすべく出ていくのです。  第三のポイントにまいります。私たちは「教えて」弟子とすることが求められています。  「エクレシア」の訳語として日本語では「教会」が充てられていますが、改めて見てみましても、よく訳したものだと思います。文字通り「教える会」または「教わる会」です。何を教わるのか、といえば、私たちは聖書のみことばを教わるのです。  それでは私たちは、なぜ聖書のみことばを教わるのでしょうか? 人よりも霊的な知識を増し加えて、いけ好かない人になるためであっては決していけません。私たちが、愛する人になるため、仕える人になるため、そのためにみことばを教わるのです。これが、弟子の歩みです。私たちはイエスさまを信じてバプテスマを受ければ、あとは惰性で教会に通うのではありません。日々みことばを学ぶことで、主のみこころをこの地上に、隣人に対する愛という形で実践するのです。  ここに、私たちが弟子として訓練されるべき理由が生じます。私たちは訓練されずに、どうやって愛することを具体的に実践するのでしょうか? 私たちは訓練されずに、どうやって主のみこころとそうではないものを区別することができるでしょうか?   みなさんが、こんなにも忙しい中で教会にいらしていることの意味をもっと考えなければと思います。私たちは、みことばから教わりたいのです。訓練を受けて、キリストの弟子になりたいのです。そこを履き違えてはなりません。  今年の日曜礼拝はこれで終わりです。しかし、数日経てば元日礼拝をお迎えします。新たな気持ちで、ともに主にお仕えしてまいりましょう。この年末年始が守られ、新年、みこころにかなう歩みを私たちがしていくことによって、イエスさまの再び来られるその日に備えるものとなりますようにお祈りします。

これぞ福音

聖書箇所;イザヤ書53章6節 メッセージ題目;これぞ福音  みなさん、あいさつしましょう、メリー・クリスマス! クリスマスおめでとう、という意味ですが、それでは私たちにとって、クリスマスとはなぜ、めでたいものなのでしょうか? 今日はそのお話をしたいと思います。 みなさんにお伺いしたいと思います。もし自分が今日この世を去ることになったとしても、自分は間違いなく天国に入ることができる、そのような確信に至ったことはありますでしょうか? みなさまならどうお答えになりますでしょうか? もし、その話をぜひ聞いてみたい、という方は、続けて耳を傾けていただければと思います。正しい答えをもう知っています、という方は、ぜひ初めての方にもその答えがわかるように、メッセージを聴きながらお祈りしていただければと思います。 では、もうひとつ質問させていただいてよろしいでしょうか? 「それでは、もし仮に、仮にですよ、今日あなたがこの世を去ることになったと想像してみてください。天国の入口には神さまが立っています。そして神さまがあなたにこう問いかけられたとします。『もし、あなたがこの天国に入れるとするならば、それはいったいなぜだと思いますか?』」今のみなさまなら、どのようにお答えになるでしょうか? よい行いをすること、でしょうか? いい人になること、でしょうか?  しかし、聖書はほんとうのところ、そのことについてどう語っているのだろうか? それが知りたい、という方は、ぜひ、この話を終わりまでお聞きいただければと思います。  まず、天国というものについてお話しいたします。聖書の語る天国とは、無償のプレゼントです。プレゼント、それはただだから、プレゼントです。努力の報いとか、それを受ける資格があるから受けるものではありません。 プレゼントなのですから、私たちはそのために何か特別に努力したりする必要はありません。することはただ、受け取ることだけです。このことについては、聖書が人間について何と語っているかを理解すると、よりはっきり理解できます。  人間とはどんな存在であると、聖書は語っていますでしょうか? 聖書は人間を、罪人、と呼んでいます。罪人、という表現をお聞きになった方もいらっしゃると思います。みなさんは罪というと、どのようなことを連想しますでしょうか? 人のものを盗んだり、人を傷つけたり、そのようなこともたしかに「罪」です。しかし聖書が語る罪はそれだけではありません。しなければならないとわかっているのにしない、これも罪です。人に親切にしなければならないときにしなかった、学生だったら、勉強しなければならないのにしない、とか。そういうことも聖書は、罪と語っています。  それだけではありません。心の中で犯す罪というものもあります。あいつなんていなくなってほしい、と、心の中でのろうことも。男の人の場合は、いやらしい思いを持って女の人を見たり、とか。そういうことも聖書ははっきり、罪、と語っています。 そういうことまで罪に含めるとしたら、どんな聖人君子のような人であっても、まことに罪人というしかないのではないでしょうか。  それでは、この罪は、なんとか努力してよい行いをすれば帳消しにできるのでしょうか? しかし人間は、よい行いをしたからといって天国に行けるわけではありません。この問題については、次に聖書が神さまというお方について何と語っているかを理解していただくと、より明確に理解していただけます。 まず、神さまは愛なるお方です。神は愛です、と聖書は語っています。神さまは愛ですから、私たちをさばきたくないのです。 しかし、神さまは正義なる方でもあります。だから私たちの罪をさばかなければなりません。しかし、そうだとすると、いったい私たちのうちで、さばかれずに済む人などいるのでしょうか? 義人はいない、ひとりもいない、これが聖書の宣言です。だれもさばかれなくて済む人はいません。しかし、神さまは愛なるお方です。私たちをさばきたくありません。 方法はあるのでしょうか? あるのです。この問題を解決するため、神さまはイエス・キリストを送ってくださいました。 キリストとはどのようなお方でしょうか。無限なる神さまであり、また、人です。人となってこの世界に来られた神のひとり子、それがイエスさまです。 イエスさまは何をしてくださったのでしょうか? イエスさまは、十字架の上に死なれ、そして死からよみがえることによって、私たちの罪の代価を支払い、天国に私たちの場所を買い取ってくださったのでした。 しかしイエスさまは、十字架で罪を背負って死なれて、それで終わりではなかったのです。イエスさまは十字架にかかって3日目に復活されました。そして、天に昇られて、今は父なる神さまの右の座で私たちのためにとりなして祈ってくださっています。 イエスさまがこのようにしてくださったことで、神さまと私たちの間に隔ての壁となっていた罪が取り除かれました。そして、私たちは神さまと和解し、つながる道が開かれました。 では、このプレゼントを、私たちはどのように受け取るのでしょうか? 聖書は、信仰によってそれを受け取ると語ります。私たちを救いに至らせるまことの信仰とは、救いの根拠と信頼をイエス・キリストに移すことです。 では、天国というプレゼントを受け取るのにふさわしい信仰は何を含むのか、明確に4つのポイントにまとめると、次のとおりになります。 一番目は、救いの根拠と信頼をキリストに移すことです。これは、すでに椅子のたとえでみなさんにお伝えしたとおりです。 二番目は、復活し、今も生きておられるキリストを、救い主として受け入れることです。イエスさまは単なる歴史上の人物ではありません。十字架に死なれましたが、復活され、今も生きていらっしゃいます。このお方が自分のことを罪から救ってくださる救い主であると受け入れるのです。 三番目は、キリストを人生の主として受け入れることです。救われたらそれで終わりではありません。心の中心にキリストをお招きし、キリストに人生を導いていただくのです。 そして四番目は、悔い改めることです。悔い改めるといっても、「ああ、自分はなんて愚かなことをしたんだ、バカバカバカ!」などと自分を責めることとはまったくちがいます。それは「悔い」であって「悔い改め」ではありません。「悔い改め」とは、罪深い自分を悔いて、罪のない神さまに向きを改め。方向転換することです。 いかがでしょうか? クリスマスとは、このようなみわざを成し遂げてくださったキリストが来られたことをお祝いする日です。私たちも心からキリストをお迎えするとき、人生には大きな祝福が訪れます。

インマヌエルを祝う

聖書箇所;サムエル記第二6:12~23 メッセージ題目;インマヌエルを祝う クリスマス、私たちの救い主、イエスさまの誕生をお祝いする日です。来週日曜日はいよいよ、クリスマス礼拝の日です。その日私たちは、どんなに喜ばしく礼拝をおささげすることでしょうか! イエスさまのお誕生を預言したみことば、イザヤ書7章14節は、このように語ります。 「それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女がみごもって いる。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」インマヌエルとは、神はわれらとともにおられる、という意味です。神の子イエスさまは肉体を取って人となられ、人々の間に住まわれました。まさに、ともにおられる神であり、このお方がお生まれになることが、イエスさまがお生まれになる700年以上も前に預言されていたのでした。 この、ともにおられるイエスさまのお誕生をお祝いするのがクリスマスですが、私たちはともにおられるイエスさまの、その臨在の御前に、どのような姿勢で進み出るべきでしょうか? さきほどお読みいただいたみことばは、一見するとこの「インマヌエル」なるイエスさまと関係がないように見えますが、実は大いに関係があります。そのことを以下説明したいと思います。 ダビデが運び入れたのは、神の箱というものでした。神の箱は、神の臨在の象徴です。モーセの時代に、神の律法にしたがって、すでにつくられていました。これは礼拝の対象となる偶像のようなものではありませんでしたが、イスラエルはこの神の箱をとても大事にしておりました。 神の箱とは神さまの臨在そのものとも言うべき存在でした。単なる象徴を超えた存在です。そういう点で神の箱とは、インマヌエル、神はわれらとともにおられる、と唱えられるイエスさまの予表、さきがけとも言える存在です。 このたび迎えるクリスマス、それがインマヌエルなるイエスさまのお誕生をお祝いすることであるならば、私たちもそのお祝いに馳せ参じる礼拝者として、このダビデの祝宴から学ぶことができます。この祝祭を巡る3つの立場から、私たちはいかなるお祝いをするのがふさわしいか学びたいと思います。 第一にダビデの立場、それは「礼拝に導く人」です。 この祝祭を主導しているのは、祭司のような宗教指導者ではありませんでした。ダビデでした。ダビデが王としてのリーダーシップを発揮しつつ、この祝祭を導いていたのでした。 しかし、ダビデは王としての権威をまとった形で、この祝祭を導いていたのではありませんでした。亜麻布のエポデを身に着けていた、とあります。王服ではありません。祭司としての服装です。祭司、つまり礼拝者として、神さまの臨在の前に出ていっていた、ということです。 しかし、このエポデは祭司が身に着けるようなきらびやかなものではなく、亜麻布でできていました。亜麻布のエポデといえば、まだ幼い日のサムエルが祭司の見習いとして身にまとっていたものでもあります。つまり、王さまとはいえ、子どものような礼拝者、主に仕える者としての姿勢を、その服装からして存分に示したのでした。 あなたがたは、王である祭司、というみことばが、ペテロの手紙第一にあります。王である祭司、これが私たちなのです。まさに、王であり祭司である姿で神さまの御前に出たダビデの姿は、この私たちの象徴とも言えます。 さて、では、主の民を祝祭に導くダビデの立場は、教会に当てはめればだれになるでしょうか? 私はここで、祝祭に導くダビデとは、私たちひとりひとりであると申し上げさせていただきたいのです。今申し上げましたとおり、あなたがたは王である祭司、と語られている以上、私たちは王の役割を果たし、祭司の役割を果たす存在です。そんな私たちは、このダビデを模範とするのです。そのダビデが民を導いて、率先していけにえをささげ、力のかぎり喜びおどるならば、私たちひとりひとりこそが人々を祝祭に導く存在と言えるはずです。 イエスさまのお誕生、インマヌエル、主が私たちとともにいてくださる、ということは、私たちにとって、人々を喜びに巻き込みたくなるほどの大きなできごとです。あの、民に率先して跳ね回るダビデは、私たちの目指す姿なのです。このクリスマス、すでにイエスさまによって救われている者たちとして、人々を喜びに導き、喜びに巻き込む礼拝を率先してささげる私たちとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。 第二の立場です。それは民の立場、ともに礼拝をささげる人々です。 ダビデはこの、主の箱を運び入れることを、ひとりで行なったのではありません。イスラエルの全家とともに、群衆とともに行いました。つまりこれは、王家の祝福にとどまることではなく、イスラエル全体の祝福ということであったのです。イスラエルはこの祝福をいただいているものとして、ダビデの町に集まり、ともにこの祝祭に参加したのでした。 ともに礼拝をささげる人たちも、いろいろな人たちがいました。神の箱を担ぐ祭司たち、角笛のような楽器で賛美を盛り上げる人たち、祭壇をつくる人たち……しかしなんといっても、だいじなのは、ともに礼拝をささげ、盛り上げる群衆たちでした。ここでわかることは、礼拝において奉仕者とともに大事なのが、そのものずばり、「礼拝者」の存在、ということです。 私たちは普段の生活において、自分が礼拝者であるという意識を持っていますでしょうか? 当教会は何年にもわたって、聖書通読を奨めてまいりましたが、それは、普段の生活においても、私たちがみことばの前に整えられ、きよい、生きた供え物として人生を送ることを願っていらっしゃる神さまのみこころにお応えすることを目指すからです。私たちの生き方そのもの、それが礼拝というわけです。 その礼拝の究極のかたち、それが、今こうしてともにおささげしている礼拝です。安息日として、この日曜日、主の日を聖別し、しっかり礼拝をおささげすることで、私たち主の民がともに礼拝者の群れとして整えられるのです。 さて、このように神の箱の前で歓声を上げた民のことをもう少し考えてみましょう。彼らはひとりでは、このような礼拝をささげることはできませんでした。ともに! これが大事なのです。礼拝は、ひとりでつくるものではありません。もちろんそれは、礼拝というものが信徒のみなさんのいろいろな奉仕を必要としているということでもあります。しかしそれ以前に、礼拝開始の時間からともに礼拝をささげる、このことがとても大事であると、あらためて申し上げさせていただきたいのです。あえて多くのことを要求することはいたしません。ともにその場に座り、礼拝をささげるだけで充分です。インマヌエルなるイエスさまがともにいてくださっているという喜び、それを礼拝という場でみなさんが体験してくださるならば、こんなにうれしいことはありません。 第三の立場、それは、ミカルです。礼拝をささげず、冷笑的になる人です。 ミカルは、このパレードが入ってきたとき、どこにいたのでしょうか? 窓から見下ろしていた、とあります。高い所にいて、そこで心の中でダビデのことをさげすんでいたわけです。まさに、上から目線です。そしてミカルは、ダビデを心の中でさげすむにとどまりませんでした。戻ってきたダビデに、言い放ちました。20節です。…… ミカルとはもともと何者だったのでしょうか。先王サウルの王女です。サウル王の王女として、蝶よ花よと愛でられてきた人です。それだけプライドもありました。かつては勇士として名を馳せるダビデに惚れて結婚した者でしたが、その愛情はサウル王家の王女としてのプライドに勝つことはありませんでした。裸踊りする王さま? くだらないわ! ダビデは、そんなミカルの心を見抜いていました。それで、このように言いました。21節です。……ダビデは、ミカルの父親であるサウル王、そしてミカルの属する家系を精いっぱい尊重しつつ、それでも私を王として選んでくださった神さまの御名をほめたたえ、喜び踊るのであると語ります。 それに続きダビデは、ミカルのさげすむことばを引き取るようにして、逆説的なことを語ります。22節です。……私は神さまの前に、もっと、もっと、子どものようになるだろう。あなたはますます、そんな私のことをさげすみ、卑しめるだろう。しかし、あなたの言うところの女奴隷たちは、そんな私のことをますます敬うのである。 女奴隷たちは、自分が低くされていることをよくわかっています。そんな彼女たちは、神さまが素晴らしいあまり、自分のところにまで、いや、自分より低いところにまで下りてきてくれるダビデのことを、なんてすばらしい王さま! と、敬わずにはいられないのである、ということです。その尊敬の念は、王女であり、王妃であることを鼻にかけて、夫である王のことも見下すようなプライドの塊ミカルには、決して湧き上がってこないでしょう。 23節、6章を締めくくるみことばによれば、ミカルには死ぬまで子どもがなかった、とあります。当時のイスラエルの常識からすれば、子どもがないということは恥でした。神さまの祝福が臨んでいない、ということを象徴するようなことです。このことは、2つの可能性を考えさせます。ひとつは、このミカルの発言がきっかけで、神さまはミカルから子をなすという祝福を取り去られた、ということ、もうひとつは、このできごとをきっかけにダビデとの間の愛情がすっかり冷め、もはや夫婦関係を持つどころではなくなってしまった、ということです。 しかしいずれにせよ、このようなことを考えるミカルから、ダビデとサウルの血を同時に引く子どもが生まれなかったことは事実であり、それは考えようによっては祝福でした。このようなミカルに育てられた王子は、いったいどのような子どもに育つでしょうか。それが長じてイスラエルを治める王になったら、イスラエルはいったいどうなったことでしょうか。 さて、ミカルにおける、神の臨在インマヌエルに対する冷笑的な態度、これはなんと、約1000年後に、そっくり同じ場所、ダビデの町で繰り返されることになりました。ダビデの町、そう、それはベツレヘムです。この時もダビデの町は、人々であふれていました。しかしそれはイエスさまのお誕生をお祝いするためではなく、ローマ帝国の住民登録という、至って人間的な用件を人々が済ますためでした。この人々はみな、その本籍地がベツレヘムにあったということは、先祖はこのダビデの町の人だったということであり、この神の箱が運び込まれたとき、その盛り上がる群衆の中に、彼らの先祖はいたということになります。しかし時が下り、ほんとうのインマヌエルなるイエスさまがベツレヘムに来られたとき、人々は宿屋の部屋を譲ってあげることさえしませんでした。暗くて汚い馬小屋に、救い主を追いやったのです。 これが、人というものの姿です。救い主が生まれようと、神さまがインマヌエルの恵みをくださろうと、人はとても冷笑的なのです。ダビデの町ベツレヘムで、インマヌエルなる神の臨在を前にしても冷笑的な態度を取ったミカルは、1000年後の、イエスさまを受け入れなかったベツレヘムの人の姿であり、さらにそれから2000年後の私たちの姿ではなかったでしょうか。ほんとうならインマヌエルの恵みの前に喜びおどるべきなのに、喜ぶこともせず、心が覚めてしまっている。関係ないよ、勝手にやれば? という態度になってしまっている。私たちはいつの間にか、そんな中で、ただ年中行事だからという理由で、惰性のようにクリスマスをお祝いすることで済ませてはいなかったでしょうか? イエスさまは、そんな私たちなのをすべてご存知の上で、それでもそんな私たちを赦すため、十字架にかかってくださるために、この世界に生まれてくださいました。何と大きな愛でしょうか! そして、なんともったいないことでしょうか! これほどまでに私たちは神さまに愛されています。こんな私たちと、イエスさまは一緒にいてくださいます。インマヌエルの恵みです! このクリスマス、ともに喜びましょう!

罪人の企てと神のご介入

聖書箇所;創世記11章1節~9節 メッセージ題目;罪人の企てと神のご介入 なぜ世界にはさまざまな言語があり、それを身に着けるのはとても難しいのでしょうか? 聖書はちゃんとその理由、というより、そのいきさつを語っています。それが今日のみことば、バベルの塔にまつわるできごとです。 さあ、それでは本日の本文を、いつものように3つのポイントから学んでまいりたいと思います。 第一のポイントです。罪人の企ての動機は、「名をあげる」ことです。2節を見てみますと、彼らはシンアルの地に土地を見つけて住んだとあります。このシンアルの地というのは、10章に登場する「ニムロデ」という人物によりつくられた王国を含む場所です。つまり、この創世記11章のお話は、ニムロデが王国を立てたことに端を発します。 ニムロデという人物は、「主の前に力ある猟師ニムロデのように」という慣用句を生むような人物だったと創世記10章は語ります。以前の翻訳では「主のおかげで」と訳されています。しかしこの「主の前に」とか「主のおかげで」ということばは、ニムロデが謙遜に主にお従いする者であったという意味ではありません。むしろその逆で、ニムロデは神への反逆者でした。ニムロデという名前が「反逆する者」という意味を持ちます。 どのように反逆したのでしょうか? ニムロデは地上で最初の勇士であったとありますが、勇士ということは、戦争を行う人間です。ニムロデは地上で最初の勇士、というわけですから、つまりニムロデは、ノアの子孫として主にあって平和を保つべき人類の世界に戦争をはじめて持ち込んだ人間、ということになります。それほど、神のみこころに不従順で、反逆した人物、というわけです。 その、ニムロデの治めた地が、のちにイスラエル王国を滅ぼしたアッシリア、ユダ王国を滅ぼしたバビロンにつながっていることが、すでに創世記10章に示されているのを見ると、ニムロデとはまさしく、神さまに反逆する者の根源、権化ともいうべき存在です。しかし、かの慣用句は、そのような主への反逆により権力を得た者も、所詮は全能なる主の御力によってその力が許されているにすぎない、ということです。地上の権力者、恐れるべからずです。 さて、ニムロデの建てた町に集まった者たちは、何を話し合ったのでしょうか? 3節と4節です。 彼らは町を建てたのみならず、塔を建てました。ジッグラトという、宗教的な施設のことであろうということが、聖書学者たちの間で一致しています。これは巨大な建築物ですが、創世記におけるもうひとつの巨大建築物というと、なんといってもノアの箱舟です。しかし、ノアの箱舟とこの塔には、決定的な違いがありました。それは「神さまが命じられて建てたものか否か」ということです。神さまが建てろとおっしゃらなかったのに、人は建てたのです。その理由は、「自分たちのため、名をあげるため」であり、「全地に散らされないため」でした。 その目的は完全に、神さまへの不従順です。人は、神さまの栄光を現すために生きる存在なのに、自分たちのため、自分たちの名をあげるために取り組んでいます。それも、地に満ちよ、という、神さまのみこころに反抗して、全地に散らされず、ひとつにくっついていようとするためです。 その結果彼らがしたことは、天地万物をおつくりになり、治めておられる神さまではない宗教的な存在に届けと、偶像の神殿をつくることでした。そして、どういうわけだかそのような偶像の神殿は、壮麗、壮大になるものです。実際、煉瓦とアスファルトという新技術で立てられたその塔は、相当な威容を誇ったことでしょう。 しかし、それがどんなに素晴らしくても、目的が神への反逆であり、神ならぬ自分の栄光のためであるならば、それをみことばは、罪、と呼びます。このときシンアルの人々は、自分たちは素晴らしいことをしているつもりになっていたかもしれませんが、していたことは罪の行いそのものでした。 私たちはどうでしょうか? 何の目的で生きていますでしょうか? 私たちは何に優先順位を置いて生活していますでしょうか? 神さまは私たちの生きる目的、生き方そのものをご覧になります。私たちの働きがほんとうに主のみこころにかなうものとなっているか、どこかで立ち止まって祈りつつ、主に問いかける時間が必要です。私たちは主に愛されているかぎり、主はもし、私たちの生き方ならびに生きる目的が間違っているならば、必ず気づかせてくださり、主の栄光を現すという正しい生き方に立ち帰らせてくださいます。 第二のポイントです。神のご介入される方法は、人を罪により一致させないことです。6節と7節のみことばをお読みします。……人とは、その企てることでできないことはない存在である、と神さまは語っていらっしゃいます。人とは、かくもすごい存在です。 しかし、ここで神さまが語っておられるおことばをもう少し詳しく見てみますと、「このようなことをし始めたならば」とあります。そうです、「このようなこと」ということばがだいじになります。つまり、「天に届くような巨大なジッグラトを建てて、創造主なる神さまに反抗する」企てを人が始めたら、それをとどめることはできない、ということです。そういう目的で人が知恵と技術を結集したら、何でもできてしまう、ということです。 人間の知恵と技術というものは偉大なものに思えてきます。いみじくも神さまが、できないことは何もない、とおっしゃったとおりにすべてが進んでいることを、私たちはこの21世紀という時代に生きていて、いよいよ実感させられています。しかし、人はいったい、その知恵と技術をどこに、何のために用いようとしているのでしょうか。 この塔を建てた人々の時代から、その知恵と技術を先鋭化させて一致する試みは、すでに始まっていました。しかし神さまはそこにご介入されました。それは「ことばを混乱される」ということを通してでした。 この、シンアルの地に塔を建てていた者たちにとって、ことばとは、神さまへの反逆をともに成し遂げていくために互いをつないでいた、コミュニケーションの手段、絆ともいうべきものでした。ことばを介して塔の建て方を話し合い、ことばを介して塔を建てる目的を確認し合っていたわけです。神さまはことばなるお方です。ことばとは実に、神さまと交わりを持つための手段であり、人々が神さまにあって交わりを持つための手段です。それが、人が神さまに反逆し、そのために互いを一致させるための手段として用いられたということならば、神さまのなさることは、いまや罪の絆として用いられてしまったことばというものに、混乱という名のくさびを打ち込むことでした。 それは、神さまのさばきというよりも、神さまの愛のゆえでした。人が罪によって一致するならば、またもやノアの洪水前夜のような罪に満ちあふれた世界が展開することになることは充分予想されます。しかしもはや、神さまはそんな世界を破滅的なさばきで打つことをしないと、ノアと契約を結ばれた以上、滅ぼすわけにはいきませんでした。するとますます、人は罪にまみれ、神さまと愛の関係を結ぶことなど決してできないまま増え広がることになります。神さまが人のことばを混乱させられたのは、人が罪によって一致し、神さまに反逆したまま生きつづけることのないようにされるためでした。 罪というものは、人を一致させるすさまじい力があります。あの、振り込め詐欺を行う者たちの悪知恵とチームワークの巧妙さをご覧ください。凄まじすぎて見ているだけでうすら寒いものを感じます。それは半グレのレベルにとどまらず、私たちの生活するあらゆる領域で、そのような不正による一致、罪による一致というものを見ることができるのではないでしょうか? それでは私たちは、何をもって一致するのでしょうか? 私たちがもし、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢という罪の性質で一致して教会形成をするならば、主のみからだとしてとてもふさわしくない共同体をつくってしまうことになります。それは、とても人間的に過ぎる共同体であったり、いわゆるカルトのような強迫観念に満ちた不健康な共同体であったりします。私たちが一致するのは、日々お読みするみことばによって、そして、日々私たちを祈りへと導く聖霊なる神さまによって……それによって私たちは一致する必要があります。神さまはそのように一致する私たちに、かぎりない祝福を与えてくださると信じていただきたいのです。罪による一致を捨てて、みことばと御霊による一致へと日々導かれる私たちとなることができますように、主の御名によってお祈りいたします。 では、第三のポイントです。罪人の企ては、神のご介入に最終的に負けます。8節、9節をお読みしましょう。……そうです。人は、罪により一致し、その場で創造主なる神さまに反逆しつづける罪の生活をすることを希望しましたが、神さまはそんな彼らのことを散らされました。 これにより神さまのみこころである、生めよ、増えよ、地に満ちよ、というご命令は達成されることとなりました。このご介入によって、人は全地に散るものとなり、そこで子どもを産んで増えるからです。しかし、神さまのご介入は、それ以上の効果をもたらしました。それは、罪によって一致しようとする人の企てが壊されたことです。 神さまはこのお取り扱いをなさるために、人のことばを混乱させられました。では、ことばとは何でしょうか。人と人とをつなぐコミュニケーションの道具です。ことばが通じなければ、人はどんなに一致してことを行おうとしても、できません。それ以前に、ことばの通じない者と何か一緒に事を行おうと思うものでしょうか。こうして人は、もはやバベルの塔を一緒に建てようと考えるのをやめ、ことばの通じる者どうしで集まり、全地に散って行ったのでした。 このことからわかるのは、神さまに反抗しようとして一致する人の企ては、最終的には神さまのご介入によって壊される、ということです。 この世界には、聖書に啓示された神さまのみこころを壊そうとする試みが、たくさん存在します。技術革新は日々なされていて、それはとても素晴らしいことのように思えますが、それが神さまのご栄光を現すという目的でなくてなされているとしたらどうでしょうか。 私たちはそういう世界に生きている現実を認める必要がありますが、とはいいましても、私たちはそのような環境に生きていることを、過度におっかながる必要はありません。なぜならば、大多数の人を一致させているそれらの反キリスト的な企ても、まことの神さまの御手にかかればあっけなく崩れ去るものであるからです。 終わりの日になると、私たちはキリストの名のゆえに苦しむことも、今まで以上に多くなるでしょう。しかし彼ら反キリストは、からだを殺せても、たましいを殺すことのできない存在にすぎません。 私たちキリストにつく者は、彼らを恐れてはなりませんし、また恐れる必要もありません。主は、からだもたましいもゲヘナで滅ぼすことのできるお方です。彼ら反キリストが、この世界に対して悪のかぎりを尽くし、好き勝手なことをしようとも、最終的には神さまが彼らのからだもたましいもゲヘナで滅ぼしてしまわれます。恐れるべきは、そしてお従いするべきは、この絶対的な権威を持っていらっしゃるお方、神さまです。 新聞やニュースでは、世界や日本の残酷な現実、また、何が起こるかよくわからない現実を毎日見せつけられます。それは私たちをとても不安にさせるでしょう。しかし、私たちは不安なままでいなくてよいのです。大波の上を歩かせてくださるイエスさまを見つめて近づくならば、私たちは安全です。人の企ても、この世のありとあらゆる環境も、永遠なる神さまの前にはすべて有限、限りあるものです。 私たちがそれでも何か、言いようもない恐れに取りつかれているならば、イエスさまを見つめましょう。イエスさまはこの罪の世界から私たちを救い出し、神さまのものとしてくださいました。それゆえにイエスさまは私たちひとりひとりに、「恐れるな」と言ってくださいました。イエスさまの御声を聞きましょう。この世のあらゆる企て、罪人の企ては、永遠なる神さまのご計画の前には完全に負けます。今私たちはディボーションで、ヨハネの黙示録を毎日読んでいますが、これは人の終末意識をあおって恐怖に陥れる書物ではなく、神さまの完全な勝利を高らかに宣言した書物です。神さまの勝利、キリストの勝利は、私たちのものです。確信を持って歩み出し、日々の歩みにおいて、絶対的な勝利を体験しましょう。

神の子となる特権

聖書箇所;ヨハネの福音書1章9~13節 メッセージ題目;神の子となる特権 聖書では、光とはイエスさまのことを指し、また、イエスさまという光をこの闇の世に照り輝かせる私たちのことを指しています。この「光」をめぐって、三者三様の立場がこのみことばに登場します。順を追って見てみましょう。   一番目に、光を照らすお方、イエスさまです。9節のみことばをお読みします。……世を照らすことは、主のみこころでした。この世はいつも、人の思い図ることは悪に傾きます。それは、人が罪人だからです。罪を犯すから罪人なのではありません。罪人だから罪を犯すのです。  このような世界は、それこそノアの時代の洪水のような全地球規模の災害により、何度滅ぼされたとしても当然でした。しかし神さまは、ノアと結ばれた契約ゆえに、この地をそのような破滅にあわせることをなさらないと約束されました。その代わりにしてくださったこと、それは、ひとり子イエスさまという光によってこの地を照らしてくださることでした。   イエスさまは、すべての人を照らすまことの光であると聖書は語ります。イエスさまという光によって、この世界の暗やみに閉ざされていた人々は照らされ、まことのいのちの道を歩みます。  そのように、神さまが人々をイエスさまという光で照らされるのは、この世界が暗やみのままであってはいけない、というみこころゆえでした。考えてみましょう。私たちの子どもたちが、光を避け、暗やみの中に生きることを、果たして私たちは望むでしょうか? 神さまのみこころも同じことです。光をつくられた主は、ご自身が愛をもってつくられた人間たちが、イエスさまという光のうちを歩むことを願っていらっしゃいます。 人は神のかたちにつくられているので、神さまのみこころどおり、この世をよくしていきたい本能が与えられている。その現れとして、医学においても産業においても哲学においても、優秀な指導者が現れ、この世が決定的に悪くなるのを防いできた、とも。それでも人の努力で世の中をよくしていくには限界があります。 といいますのも、やはり人の心の思うことは、はじめから悪であるとおり、人の力ではこの世をよくしていくには限界があるからです。神さまはそのような世を憐れんで、まことの光であられるイエスさまを送ってくださり、この世を明るく照らすというみこころを示されたのでした。 しかし、このように世界をイエスさまという光によって照らしてくださった神さまのみこころを、人はどのように受け取ったのでしょうか? 二番目に、光を拒んだ存在、世について見てみましょう。まず、10節を見てみましょう。……そうです。この世は、イエスさまという光を知らなかったとあります。   知らなかったのはなぜでしょうか? イエスさまではないものを、光と見なして生きていたからです。といいますよりも、そういうイエスさま以外のものを光と見なして生きる方が、彼らには都合がよかったからです。イエスさまの時代の宗教指導者たちをご覧ください。あれだけ聖書に通じていたはずの人々が、いざ神の御子イエスさまを前にしても、そのお方がまことの光であることがわからなかったのです。彼らは頑なになり、民衆がイエスさまのことを救い主と言おうとも、このお方が神の子であることを、頑として認めませんでした。   彼らにとって光とは、自分たちの教え、言い伝えであって、それらの物は一見するととても神がかっていて、有難い教えのように思えます。しかし実際のところは、人を立て上げるどころか、人を罪に閉じ込め、落ち込ませる教えです。それでも、その教えの中に民衆を閉じ込めておくかぎり、宗教指導者たちは安全です。イエスさまはそんな彼らのことを偽善者と呼ばれ、天国の鍵を持ち去ったと激しく非難されました。   そのようにしてイエスさまがわからなかったということは、どのような結果を生んだのでしょうか? 11節です。イエスさまはユダヤに来られました。神さまを王とすることに誇りを持った国、神の民であることに誇りを持った民のところです。しかし彼らはそのアイデンティティに反して、結局のところ、神の子なるイエスさまを受け入れなかったのでした。彼らは、一時(いっとき)はイエスさまを救い主と受け入れたように見えましたが、彼らのしたことは、声を合わせてイエスさまを十字架につけるようにと訴えたことでした。彼ら群衆こそがイエスさまを十字架につけたようなものです。 民がイエスさまという光を受け入れない、それはまさに、イエスさまを十字架につけて亡き者にしたほど拒絶したということです。しかし、このようにイエスさまを拒絶するということは、その時代にかぎったことではありません。イエスさまの時代以来2000年にわたって行われてきた宣教のわざにおいて、いったいどれほどの人が、イエスさまを拒絶してきたことでしょうか? しかし、世の勢力が支配しているかぎり、イエスさまという光に照らされることを人々が嫌がるのは当然のことなのです。  いえ、過去や現代だけのことでしょうか? 未来においてもそうなのです。今私たちは、毎日のディボーションのみことばで、ヨハネの黙示録を通読しています。ヨハネの黙示録は、第一義的には迫りくるローマ帝国の滅亡を預言した書物ですが、巨視的に見れば、これが私たちの生きるこの世界の終わりを預言した書物であることを疑うクリスチャンはいないでしょう。このヨハネの黙示録を見ると、どれほどの災害に合おうとも人々が決して悔い改めない、その頑なな様子がこれでもかと描写されています。全知全能なる神さまが未来を見通されたレベルにしてそうなのです。私たちはそれでも世の終わりのリバイバルを願いつつ宣教に励むものですが、世界は最後までイエスさまを拒絶する者たちで満ちることもまた、私たちは受け入れる必要があります。   しかし、それなら私たちは絶望したままでいなければならないのでしょうか? 決してそうではありません。三番目、光を受け入れた存在、私たちについても、聖書は語っています。12節をお読みしましょう。……ご覧ください!「神の子どもとなる特権」です! 全知全能なる神さまを「お父さん」と呼べること、それはどれほどの特権でしょうか!  そして、天のお父さんのものは、みな私のもの、ということにもなります。すごいことです。私たちは、天の御国の王子、王女であり、やがてイエスさまとともに御国を継ぐ者です。   しかし、この御国の世継ぎはだれでもなれるものではありません。この方、つまりイエスさまを受け入れた人、すなわちその名を信じた人、その人が神の子どもにしていただけるのです。   イエスさまを受け入れるということは、イエスさまが神の子であるとか、人の罪のために十字架にかかったとか、そういうことを単なる情報、インフォメーションとして知っていればいいのではありません。「私」が罪人であることを認め、「私の罪」のためにイエスさまが十字架にかかって死んでくださったことを信じ受け入れるのでなければ、ほんとうの意味でイエスさまを受け入れたことにはならないのです。  しかし、人がひとたびイエスさまを受け入れるならば、その人は神の子どもになります。罪が完全に赦されます。過去の罪、現在の罪、未来の罪が赦されるのです。永遠のいのちが与えられ、天国に入れられます。それだけではなく、この地上の生涯を、神の栄光を現して生きようという、何よりも素晴らしい目的が与えられます。  信じるということは、何か難しいことをすることではありません。それこそ、ただ信じることです。しかし、このただ信じることはなんと難しいことでしょうか。私たちはこうして信じることができましたが、それが素晴らしいからと人々に伝道しようとすると、私たちはどんなに、この特権を得られることがやさしいことをいっしょうけんめい伝えたとしても、聞いてもらえないことなどしょっちゅうです。  その秘密は、13節で語られています。……信仰を持たせてくださる、すなわち救いに導いてくださるということは、完全に神さまのご主権の領域です。もし、救いというものが血筋によって得られる者だとするならば、その血筋に生まれた人と生まれなかった人との間に、人間的な差別をもうけてよいということになってしまいます。また、単なる欲望や意志によっても信仰を持つことはできないことをこのみことばは語ります。ただ、神によって、神さまの恵みによって人は信仰を持ち、神の子どもとしていただくのです。  そういうところから、私たちは個人的な回心の体験というものがどうしても必要になります。私たちはみな、聖霊なる神さまによって、イエスさまの十字架を信じる信仰に導いていただいた存在です。私たちはほんとうの意味で家族です。私たちはこの地上においても、天国においても、永遠に変わることのない家族です。 私たちはこの地上を生きるかぎり、神さまを父とする家族としての役割を果たしてまいりたいものです。また、その家族の一員としての生き方を、隣人を愛するという生き方をもって全うしてまいりたいものです。学校でも、職場でも、近所づきあいにおいても、私たちが神の家族、神さまの子どもらしく振る舞うならば、いつしかその愛は隣人に伝わっていきます。その中から、主に召された人は特別な恵みを受けて、イエスさまを信じ受け入れて神の家族に加えられます。  私たちは祈ってまいりましょう。私たちが隣人を愛する人になれますように、また、その隣人とともに、同じキリストのからだなる教会を形づくるビジョンを思い描けますように。主がこのお祈りを聞いてくださると、信じて祈ってまいりたいものです。  イエスさまは、この世を照らす光として来られました。しかし、人はその光を拒みました。罪人ゆえに、その行いが悪く、イエスさまに照らされたくなかったのです。私たちもそのうちのひとりではなかったでしょうか? しかし、私たちはあわれみをいただいて、イエスさまを信じ受け入れる信仰を聖霊なる神さまに与えていただき、天の神さまを父と呼ばせていただく立場、神の子どもとならせていただきました。ほんとうにもったいないことですが、この貴い立場にしていただいたことにただひたすらに感謝し、この一週間も、そして生涯、神の子どもらしく、光の子どもらしく、ともに歩んでまいりましょう。

契約を告げる虹

聖書箇所;創世記9章1~17節 メッセージ題目;契約を告げる虹 今日は虹のお話です。本日お読みいただいたみことばには、そのものずばり、虹が登場します。虹は雨上がりのときにかかります。今日お読みいただいたみことばでも、まさに雨上がり、洪水の過ぎ去ったあとに神さまがかけてくださると約束されたのが、この虹だったというわけです。本日のメッセージでは、「神さまが虹というものをどのように見なされたか」、これを取り上げたいと思います。 第一に、虹とは神さまと人との間の契約のしるしです。 8節から11節をご覧ください。……神さまはノアとの間に契約を立てられました。それは、人はもはや大洪水、それも全地を覆うような激しい大洪水によって滅ぼされることはない、というものです。神さまはノアのゆえに、ノアにつく家族、子孫、そしてすべての生き物との間に結んでくださいました。 私たちが現在、大きな洪水によってことごとく滅ぼされることもなく、こうして生きているのは、神さまがノアとの間に立ててくださった契約によることです。私たちの住む世界の罪深さを思うならば、私たち人間は何度でも大洪水によって滅ぼされなければならなかったのではないでしょうか。しかし、神さまはそうはなさらず、今もなお、私たちのことを忍耐してくださっているのです。 人間は、特にノアのように罪深い世に対して良心を痛めるような善良な人は、この世界の終わりを思っておびえることもあるでしょう。しかし、神さまはそんな人間のために、ひとつのしるしを見せてくださると約束してくださいました。それが、空にかかる虹であったということです。 創世期以来、神さまが人との間に契約を結ぶ場面は数多く登場します。しかしそれは基本的にはすべて同じもので、神さまが一方的なあわれみによって人をご自身の民にしてくださり、まことのいのちを保障してくださる、というものです。 その契約の根底にあるものは、何かをした、という、人の行いによって満たすものではありません。ただ、神さまの側から示してくださる恵みを受け入れ、神さまを信じる、それが人としてすることでした。 それでは、現代を生きる私たちにとっては、この「虹」にあたる象徴は何でしょうか? それはほかでもありません、「十字架」です。私たちは、イエスさまの十字架による罪の完全な赦しを信じる信仰によって救っていただきました。十字架とは、神さまの側で人間に示してくださった契約の条件です。あなたのすることは、ただ信じること、信じることさえすれば、神さまといのちの契約を結んだことになります。あとは私たちのすることとして、神さまのみこころに従順にお従いすることです。 虹の話に戻ります。私たちはここで、「神さまは」虹というものをどのようなみこころでおつくりになったかを考える必要があります。神さまが十字架を信じる信仰によって救いに定められた、そのような者たち、まさに私たちのような者たちが虹を見るとき、私たちが、この大洪水の滅びを免れさせていただいた、救いに定められた者たちであることを思い起こすことを、主は願っておられるということです。人は虹を見て、不思議だと思ったり、美しいと思ったりするだろう、またその虹にいろいろな意味づけをするかもしれない、しかし、あなたたち神の民は、ここでどうか、十字架を信じる信仰によってわたしとの間に結んだ契約を思い起こしてほしい、その神さまのみこころを受け取りたいものです。 ともすると私たちは、神さまとの間に結ばれている契約の絆を忘れてしまいがちなものです。しかしそんな私たちが契約を思い起こせるように、神さまが虹をかけてくださるわけです。 虹がかかるのは、晴れのあとに雨、そして晴れとなるときです。順風満帆のように行っていた人生に思いもかけない土砂降りのような事態が起こると、私たちは神さまの恵みを見失い、わが身を呪いたくはならないでしょうか。しかしその後で、神さまが虹をかけてくださるように、苦難の中から救い出してくださる神さまは、愛しているよ、あなたのことを覚えているよ、と、私たちに虹のしるしを見せてくださいます。創造主なる神さまは、なんと粋なお方でしょうか! 神さまをほめたたえます。 第二に、虹とは神さまが起こしてくださるものです。13節、14節をお読みします。……このことばの主語は、「神」です。虹を起こしてくださる主体は、神さまです。 聖書を見てみますと、天候というものは偶然に巡っているものではなく、神さまが主体的に動かしていらっしゃるものだということがわかります。イエスさまのことばを見ると、神さまはよい人にも悪い人にも太陽を昇らされる、雨を降らせられる、とありますが、これは、あなたの敵を愛し、あなたを迫害する者のために祈りなさい、という教えの根拠となる象徴的な意味ももちろんあります。しかし、それ以前に、神さまは晴れや雨のような、普遍的な天候さえも司って、善人も悪人も養われる、ということを語っているわけです。 そのような中で、虹。もちろん、科学的に虹の成り立ちを説明することもできるでしょう。しかし、その虹を見て、創造主のご存在に行きつける人は、果たしてどれくらいいるでしょうか? 私たちは聖書のみことばが、天地万物を司っておられる創造主のご存在とみこころとみわざを啓示する書物であると信じ受け入れ告白する以上、虹というものもまた、神さまご自身が人間を滅ぼすまいとお定めになった、そのみこころを示すためにおつくりになったものだということを、はっきり認め、告白する必要があります。 そういうことからすると、世の人たちがこの森羅万象を見る視点から、私たちはなんと自由になる必要があることでしょうか! うちの教会は、聖書の記述が真理であることを前提に、創立以来長年にわたり、唯物論的な世界観に戦いを挑みつつ教会形成をしてきました。唯一の神さまがすべてに主権を持っていらっしゃることを前提にした、聖書の世界観に立った教会形成の伝統は、この教会においてしっかり受け継いでいきたいと願わされています。 あらゆるものは神さまが創造された。それも、特別なみこころをもって創造された。虹は特に、滅ぼさないというみこころを如実に示すシンボルである。そのことを私たちはしっかり、記憶しておきたいと思います。 第三に、虹とは人が見るものであるのと同時に、神さまがご覧になるものです。15節をお読みします。……見てください! 虹とはまず、神さまがご覧になるものなのです。虹がかけられる究極の目的は、人間の側にあるのではありません。神さまの側にあります。このことからわかるのは、神さまが人間との間に結ぶ契約は、究極的には神さまの主権によって結ばれるものである、ということです。 天国に招き入れられるには、神さまの基準に達した義人でなければいけないのです。しかし、そんな人などいるのでしょうか? あのノアも、この9章の終わりの部分を見ると、泥酔して裸で寝入るなど、とても義人とは言えないような醜態をさらしています。それが人間というものです。義人はいない、一人もいない、まことに、人間はみな罪人です。 それなら、だれが天国に行けるのでしょうか? 神さまのあわれみをいただいて、正しくないのに正しくしていただいた人だけです。どうすれば正しくなれるのでしょうか? 私たち罪人の身代わりに十字架で罪の罰を受けてくださった、イエスさまの十字架を信じること、これだけです。しかし、このような単純なことさえも、人はしようとはしません。ただ、神さまのあわれみによって選ばれた人だけが、イエスさまの十字架を信じるように導かれるのです。 そうです。神さまと契約を結ぶ人は、神さまによって特別に選ばれた人だけです。人間の側でももちろん、永遠のいのちを得るために、天国に行くために頑張るでしょう。しかしだからといって、それで神さまに選んでいただけるかどうかということは別問題です。人の救いはどこまでも、神さまの主権にかかっています。 ヨハネの福音書1章12節と13節には、このようにあります。……そうです。イエスさまの御名を信じるということは、それぞれの人が神さまご自身によって信仰告白に導かれることによって、初めて可能となることで、神さまはその信仰をご覧になって、私たちをもはや罪人としてではなく、わが子として受け入れてくださるのです。 人はときに、自分がほんとうに救われているかどうかわからなくなるときがあるでしょう。神さまの愛を見失ってしまうとき、どうしても悪い習慣から抜け出せないとき、兄弟姉妹を愛していない、自己中心の自分に気づかされるとき……しかし、そのような私たちでも、神さまによって、イエスさまを信じる信仰に導かれたことは事実です。私たちが神さまから遠ざかってしまったように思えることがあったとしても、神さまが私たちのそばから遠ざかってしまわれることは、決してありません。わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない、と、神さまご自身が言ってくださったとおりです。 私たちがこうして礼拝の場に導かれたのは、日常生活に追われていては見逃してしまうような「虹」を見せていただくことに等しいです。礼拝とは、神さまの側で私たちのために用意してくださった、神さまにまみえる場です。神さまご自身が救われた民と契約を結んでくださっていることを、神さまご自身が思い起こしてくださる、私たちの思い以上に、神さまが私たちに思いを注いでくださっている、それが「虹」をかけてくださった理由であり、いまこうして礼拝の場を備えてくださった理由です。 私たちはどうでしょうか? 振り返ってみて、神さまの側で私たちを決して忘れていらっしゃらない、お見捨てにならないということを、つい忘れ、がっかりしてしまっているようなことはないでしょうか? 今日この礼拝の場は、神さまの側でそんな私たちのことを決してお忘れになっていない、お見捨てになっていない、変わらずに目を留めて愛してくださっていることを思い起こさせていただく場です。

箱舟と救い

聖書箇所;創世記8:1~22 メッセージ題目;箱舟と救い 数週間ぶりに、ノアの箱舟についてお話しします。今日の箇所、創世記8章は、ノアの箱舟生活の後半、そして箱舟から出た後のお話です。今日の箇所を3つのポイントから学んでまいりたいと思います。 第一のポイントです。神さまはノアのために、滅びの水を引き上げられました。 創世記7章を読んでみますと、水は150日間増えつづけたとありましたが、8章に入ると、この水の源が閉ざされ、減りはじめることになります。大雨は降らなくなり、地下水は湧き出さなくなりました。もう水が増えることはなくなりました。あとは、太陽の光に照らされて乾くだけです。箱舟はアララテの山地にとどまりました。そしてさらにしばらくすると、山々の頂が現れはじめました。回復は始まり、順調に進んで行ったのです。 みなさん、ここで少し、私たちは考えたいことがあります。150日間、増えつづける水と豪雨の中、荒波に翻弄されつつ、どこに行くともしれぬ漂流を続けた箱舟の、その中にいたノアたち8人の家族は、どのような気持ちでいたことでしょうか? 150日というと、実に5か月です。今から5か月間波に翻弄されながら、箱舟の中に閉じこめられた生活を送りなさい、と言われたら、私たちにできるでしょうか? しかし、ノアとその家族には、それ以外に滅びを免れる方法はありませんでした。いかにそれが、先が見えないようなことであろうとも、それが神さまのみこころである以上、お従いするばかりでした。 主はときに、御民に対し、生き残るために必要な道をお示しになります。この洪水の場合は、箱舟の中に入ることでした。 また、エジプトに寄留していたイスラエルが救われるためには、過越の食事を食べ、家族ごとに羊をほふり、その血を鴨居と2本の門柱につけるということをする必要がありました。イスラエルはこの主のさだめに従順に従ったゆえに、さばきを過ぎ越され、いのちが守られたのでした。 もっと後の時代になると、シリアのナアマン将軍のケースを挙げることができるでしょう。ナアマン将軍のツァラアトは、ヨルダン川に7回身を浸すという主の方法に従順に従うことによっていやされ、きよめられたのでした。 罪からの救い、けがれからのきよめ、これらのものは、人間的な方法を用いてもかないません。人間は、よい行いをしたり、哲学を極めようとしたり、宗教にのめり込んだりして、なんとか自分がきよめられ、救われることを願い、取り組みます。しかし、人が救われるためには、神さまの側でよしとされる方法で神さまに近づかなければだめなのです。神さまの求めていらっしゃる基準を外れるならば、人間の側でいかに努力しても、決して救いに到達することはできません。 その、神さまの方法に従うということは、自分にとっては納得のいかない方法と思えるかもしれません。ナアマン将軍はヨルダン川に身を浸しなさいというエリシャからの伝言に一度は腹を立てましたし、長い漂流生活の中にいたノアも、どこかで不安な思いに駆られたとしても不思議はありません。聖書の中で、使徒の働きにあるパウロの難船の記事を見てみると、読むだけで船に乗る者たちの不安が伝わってきます。ノアもそういう心境になっていなかったかと思わされます。それでも、人がどう思おうと、神さまの救いの方法ははっきりしています。その道を通して、私たちは救いに至るのです。 ここまで来れば、私が何を申し上げたいかお分かりだと思います。そうです。ほんとうの救いは、イエスさまの十字架を信じる信仰によってのみいただくことができます。これ以外に道はありません。 ただし、イエスさまの十字架を信じる信仰というものは、一生かけて達成していくものです。生涯、その生活を通して、イエスさまと深く交わり、イエスさまのみこころをこの地上に現わしていくべく、徹底して、自分を打ちたたいて、イエスさまのあとにしたがって重い十字架を背負ってついていくのです。それがいやで、信仰を捨てた人のなんと多いことでしょうか。願わくは主が、その人がイエスさまを受け入れた過去を持つという事実を覚えて、救ってくださればと願わずにはいられませんが、その人が現実に今、ともに教会形成、キリストのからだなる教会を立て上げる貴い働きに献身していないということは事実なわけで、その人は確実に、ほんとうの意味での祝福を何にももらえていないことになります。 私たちはどうでしょうか? ノアの箱舟の中のようなあてどもない生活に絶望して、信仰の歩みから落伍する者が現れないようにと願います。また、ノアの箱舟の中にいるかぎり、動物の世話をするような仕事があったように、私たちもこの教会という共同体においては、この労働力をもって、あるいは財物をもって、主と共同体にお仕えする役割をみな持っています。 私たちは、自分の属する教会とはいかなる場所か、ちゃんと理解していますでしょうか? イエスさまの救いもたずさえないでこの教会のメンバーに居座ろうということでは、まるでそれはイエスさまのたとえにあったような、礼服も着ないでずかずかと婚礼の宴に居座る者のようです。私たちは即刻悔い改めなければなりません。 救いを完成する道がいつ終わるかは、主だけがご存知です。私たちのすることは、その中で主の完全な救いを待ち望みつつ、その生活を主におささげし切って、救いを達成すること、これに尽きます。 第二のポイントです。神さまはノアのために、生命力を芽生えさせられました。 水は確実に減りはじめました。水かさが増さなくなり、かえって減り続けていることが、感覚的にもわかりました。山の頂も現れはじめました。そこでノアは、果たして地上波どうなったかと、カラスを放しました。するとカラスは、行ったり来たりしながら戻ってきました。 カラスは、モーセの律法によれば、食べてはいけない汚れた鳥ということになっています。また、私たちの一般常識では、カラスはゴミ捨て場をあさるような害鳥で、また、縁起の良くない鳥という扱いを受けています。カラスはサタンの象徴であるという聖書解釈もありますが、それについては、今日は詳しく扱いません。この場合、はっきりしているのは、カラスはまだ出たり戻ったりしていたので、羽を休める場所はなかった、ということです。 これに続いて放たれたのは、鳩、でした。鳩はカラスとちがい、きよい鳥に属します。神さまにいけにえとしておささげするにふさわしいくらいきよい存在です。ノアは、この鳩に関しては丁寧に扱ったようで、土地が乾かず、休み場がないために行ったり来たりしていた鳩を、ノアは箱舟の中から手を伸ばしてとらえ、また中に入れました。 ノアはその1週間後、もう一度鳩を放します。すると鳩は、オリーブの若葉をくわえて帰って来ました。これは、もう箱舟の中にいるあらゆるいのちが地に降りる準備が万端整いました、ということを知らせる、よき知らせでした。神さまはこの大洪水の中においても、オリーブを守っておられました。 オリーブが、聖書において特別な存在であることはみなさんもご存知でしょう。ダビデが詩篇23篇で吟じた、羊を牧するむちと杖、これはどちらも、オリーブの枝からつくります。そうだとすると、オリーブとは、牧するイエスさまと牧される羊なる主の民との間を結ぶ、絆、交わりの象徴とも言えるでしょう。 また、オリーブの実は、それを搾ってつくる油がとても価値のあるもので、いのちを保つ源とも言えるものです。このオリーブ油は、もう残りが一切出てこない、かすになるまで何度も搾ります。ゲツセマネの園は、まさしくオリーブの油を搾る場であり、そこでイエスさまは血の汗を流してご自身をささげ切るお祈りをされ、十字架へと進んで行かれたのでした。 こうしてみると、オリーブというのはただたまたま鳩が飛んだらそこに生えていた植物ではなく、聖書的に見て、主の深いみこころを知らせる存在であったことがわかります。そう、キリストが、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられたと第一コリントみことばにあるように、洪水に滅ぼされて死に満ち満ちた世界に萌え出でたオリーブは、闇の中に輝き、闇に打ち勝たれたキリストを象徴しています。 そして、鳩です。聖霊が鳩のような姿でバプテスマをお受けになったキリストの上にとどまられ、公生涯が始まったということを考えると、鳩は、キリストを証しする聖霊なる神さまの象徴です。聖霊の象徴である鳩が、キリストの象徴であるオリーブの若葉を船に持ち込んだということは、ノアの箱舟に象徴される神の共同体、救いの共同体……すなわち教会は、キリストを証しする聖霊によってまことの希望を得る、ということを表していると言えましょう。 ノアは鳩のくわえたオリーブを見て、何を思ったでしょうか。終わったんだ! 救われたんだ! その喜びに満ち満ちたのではないでしょうか。私たちもそうなります。ただし、それが実現するのは、私たちがこの地上の歩みを終え、天国に移されたときです。それまで私たちはこの地上で、キリストの救いを完成させる働きにひたすら励むのみです。この地上の働きは、時にとても苦しくて、いつ果てるとも知れぬ苦しみに、音を上げてしまいそうになることもあるでしょう。しかし、あのノアの箱舟生活には、オリーブの若葉という名の、終わりを告げるうれしい知らせが届いたのです。私たちも終わりの日には、必ず天国に入れていただきます。その日を目指し、恥ずかしくなく御前に立てる私たちとなりますように、日々励んでまいりたいものです。 第三のポイントです。神さまはノアのために、礼拝の機会を与えられました。 ノアは、3度目に放った鳩がもう戻ってこないのを見て、もうこの地がいのちを迎え入れる準備が整ったことを知りました。しかし、実際にノアが箱舟の外に出るには、もう少しの時間が必要でした。ノアはしかし、自分で出る時期を判断して外に出たのではありません。神さまのご命令が下されたのを知って、そのみことばに従順に従ったゆえに、この601年目の第二の月の27日に外に出たのでした。箱舟に入り、主がうしろの戸を閉じられてから、実に1年以上の月日が経っていました。 一年ぶりに降り立った地面! もうそこには、すでに草も萌え出でていたことでしょう。そこに、待ってましたとばかりに降り立つ動物たち! 私たちがノアだったらと考えてみましょう。どんな気持ちになるでしょうか? しかしノアは、ここで神さまに礼拝をおささげしました。きよい家畜、きよい鳥からいくらかを取って、それをささげものとしておささげしたのでした。その家畜や鳥は、ノアにとっては、大洪水に揺られる箱舟の中で、一年にわたって寝食をともにした特別な存在です。しかしノアは、まずすることは、この大事な存在の血を流すことで、神さまにいけにえをおささげすることだと信じ、すぐに実行に移したのでした。 神さまは、怒りの波、それこそ怒涛をもって地をことごとく滅ぼされました。ノアは、この罪人に対する神さまの怒りをなだめるため、いのちの血を流し、いけにえとしました。そうです。神さまは私たち罪人に、死をもって滅ぼし地獄に投げ入れるという権威をお持ちで、私たちは罪人である以上、神さまは怒りを注がれ、地獄の火の池で永遠に焼かれて滅ぼされるにふさわしい存在です。 しかし、神さまはノアのいけにえを受け入れられ、人類を一切滅ぼすことをもはやしないことを宣言されました。罪人であることを知ってもなおです。ここに、神さまのご慈愛と忍耐を見ることができます。 この世界は、やがて過ぎ去ります。イエスさまは十字架の死から復活され、天に昇られましたが、再びこの地に来られることを言い残されました。あれからそろそろ2000年になろうとしています。人々はますます混迷する社会に翻弄され、怖じ惑っていますが、この世界の果たしてどれくらいの人が、イエスさまが再び来られ、この世をさばくということを本気で信じ、その日を待ち望みつつ祈っているでしょうか? 私たちはどうでしょうか? イエスさまが天に昇られてからこのかた、世界はつねに終わりの時でした。しかし、2000年間イエスさまがいらっしゃらなかったからと、これからもいらっしゃらないということにはなりません。明日いらっしゃるかもしれませんし、今日いらっしゃるかもしれません。いえ、こうして礼拝中にいらっしゃったとしても、不思議はありません。さあ、その時私たちは、どうしますか? にっこり笑ってお目にかかれる準備はできていますか? ノアのいけにえを受け入れられた神さまがおっしゃったとおり、人は幼いときから悪、罪人です。しかし、神さまがノアに礼拝の機会を与えてくださったように、私たちには今なお、神さまを礼拝する道が開かれています。イエスさまの十字架の血潮によって、私たちは大胆に神さまに近づくのです。 神の怒りから救われ、天国に入れていただく。その救いを完成する一生ものの歩みは、とてもきびしいものです。しかし、それでも主は、私たちをつねにみそばに置いてくださいますゆえに、喜びがあります。聖霊なる神さまがこの教会という共同体に教えてくださる、イエス・キリストの恵みにつねにとどまりつつ、この地上の歩み、イエスさまがやがて来られるまでの歩みを、進めてまいりましょう。 ★お祈りの中で、みなさまにお尋ねしたいと思います。自分は救っていただいた喜び、はじめの愛を忘れていました、礼拝の感激をなくしていました、主よ、私はいまいちど、あなたさまに献身いたします、私がさらに真剣に礼拝をささげる者となるために、自分の時間、財物、持ち物を優先的に、あなたさまを礼拝するために用いてまいります、そのように願われる方は、右の手を挙げてください……。

十二弟子と私たち

聖書箇所;マタイの福音書10:2~4 メッセージ題目;十二弟子と私たち  先週も、みなさまのお祈りによって送り出され、韓国に行ってまいりました。私を霊的にはぐくんでくれた韓国教会から、私はさらにパワーをいただいて、より一層仕えてまいりたいと願う所存でございます。牧師のペ・チャンドン先生がどれほど、信徒が整えられて主の弟子となっていくかということに牧会の生命をかけられ、取り組んでこられた、その生の声をあらためてお聴きすることが、このセミナーのすべてであったと言えるかもしれません。これは、技術や方法論の問題ではなく、教会が教会らしく立て上げられていく生の姿であり、これにあらためて触れることができたのは、弟子訓練のビジョンを思い描く私にとって、またとない力となることでした。  そこで本日は、主のみこころである弟子訓練というものについて、特に、イエスさまが召された十二弟子にスポットを当てながら、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書を照らし合わせつつ、見てまいりたいと思います。  本日は、十二弟子の共同体をイエスさまが結成されたその目的を探り、やはり私たちもイエスさまの弟子として、このイエスさまが弟子たちを召されたそのことから何を学ぶことができるか、見てまいります。  十二弟子の共同体の性格、その1は、イエスさまが選んだ人々、ということです。まずは、マタイの福音書10章1節をご覧ください、「イエスは弟子たちを呼んで」とあります。イエスさまご自身がお呼びになったのです。  では、どのようなシチュエーションでお呼びになったのでしょうか? このときイエスさまにはすでに、たくさんの弟子たちがついてきていました。このイエスというお方はただものではない、ぜひとも学びたい、そういう人がいっぱいいたというわけです。  しかしイエスさまは、その大勢の弟子たちの中から、特別に十二弟子をお選びになりました。それはどういう人たちだったのでしょうか? マルコの福音書、3章13節の表現によれば、それは「ご自分が望む者たち」でした。そうです。イエスさまが、この男はわたしの弟子にふさわしい、と見込んでくださった12人が、選ばれて、十二弟子となったのでした。  そうです。イエスさまのスカウティングです。おそらく、イエスさまにぞろぞろとついて来ていた者たちは、イエスさまのことを尊敬していたでしょうし、また愛してもいたはずです。しかし、イエスさまはだれでも彼でも選ばれたわけではありませんでした。特に12人という小グループを結成され、この者たちを3年かけて訓練することで世界を変えるという、驚くべきことをなさったのでした。  ただ、イエスさまは、この12人を何のお考えもなしにお選びになったのではありません。むしろその逆です。ルカの福音書6章12節を読めばわかるとおり、イエスさまはこの12人を選ぶために、一晩山にこもり、父なる神さまのみこころを徹底的にお尋ねしつつ、慎重にお選びになったのでした。  ここでしかし、私たちは疑問に思わないでしょうか? イスカリオテのユダを、イエスさまはこの祈りの中でお選びになったというのだろうか? お分かりになっていてもなお、イエスさまはなぜお選びになったのだろうか? もちろん、ユダをお選びになることは父なる神さまのみこころでしたし、イエスさまも従順に従われました。ユダがどういう人間で、最後にはどのようなことをしでかすか、すべてを見通される御目によって知っておられた上でのことです。ユダを十二弟子の共同体に迎え入れ、3年も寝食を共にせよだなんて、それはイエスさまにとって、どれほど大変な決断だったことでしょうか。しかし、イエスさまはそれでもあえてユダも選ばれ、十二弟子の共同体に迎え入れられたのでした。 イエスさまの弟子だなんて、私はそんなにしっかりしていないよ、私はそんな柄じゃないよ、そうお考えになりますでしょうか? しかし、大丈夫です。大事なのは、私たちの資質ではありません。イエスさまが召されたかどうかです。ご覧ください。十二弟子は、自分が一番だと喧嘩するような人たちです。あの最後の晩さんのとき、この期に及んでもそんなことを言い合っていたような、どうしようもない者たち、それがイエスさまの弟子です。しかしそれでも、イエスさまが選んで召された以上、イエスさまの弟子であることに変わりはありません。 私たちのことも、イエスさまは弟子に取ってくださいました。群衆にはたとえで難解に語られたみことばの意味を、イエスさまは懇切丁寧に説明してくださいましたが、私たちは聖書を読む気になりさえすれば、その難解なたとえの解き明かし、みことばの奥義をちゃんと知ることができます。また、そのみことばを聴き、守り行うことで、弟子としての歩みを全うすることを目指す、その共同体である教会に、私たちは召されています。そうです。私たちもイエスさまに召されている弟子なのです。十二弟子をモデルにして歩むことに、何ら不都合はないのです。このアイデンティティをしっかり自分のうちに保って、主にお従いする歩みを果たしてまいりたいものです。 十二弟子の共同体の性格、2番目は、イエスさまがそばに置かれることがその目的だった集団です。 マルコの福音書3章14節、ここに、イエスさまが十二弟子を召された理由をはっきり、「彼らをご自分のそばに置くため」と記されています。みことばをよくご覧ください。「彼らがご自分のそばにいるため」ではありません。「彼らをご自分のそばに置くため」とあります。主語はどこまでも、イエスさまなのです。 イエスさまはなぜ、十二弟子をご自分のそばに置かれたのでしょうか? それは、イエスさまが十二弟子に、特別な愛を注がれることそのものに目的があったからでした。ヨハネの福音書、13章1節をご覧ください。彼らとはだれでしょうか? これは、十二弟子との最後の晩さんにつづくみことばであることを考えると、世の人々を愛されることは特に、十二弟子に愛を示されることによって実現していたことがわかります。 イエスさまが十二弟子を愛されたのは、模範を示すためだったとか、働きを移譲するためだったとか、そういう具体的な理由は二の次です。わたしはおまえたちをそばに置いて愛す! これこそが目的です。私たちクリスチャンは、主の弟子として召されている以上、イエスさまがみそばに置いてくださった存在です。わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。そのように語ってくださる主は、私たちを引き寄せ、わたしは決してあなたを離れず、またあなたを捨てない、と言ってくださいます。 私たちはときに、自分の愛のなさに絶望します。自分を見ていると、神さまへの愛がない、そのように落ち込むこともあるだろうと思います。しかしそれでも覚えておきたいことがあります。それは、私たちがイエスさまを離れるような思いになっても、イエスさまの側では、決して離れることはない、ということです。 さて、イエスさまがそばに置かれる対象ですが、それは私たちクリスチャンひとりひとりももちろんなのですが、「彼ら」と複数形になっていることにも注目したいと思います。そう、イエスさまがみそばに置かれるのは、共同体です。しかし、十二弟子という共同体は、さきほども申しましたとおり、いろいろ問題を抱えていました。完璧とは程遠い状態にありました。それでもイエスさまは、弟子たちというこの共同体と、徹底してともに時間を過ごされたのでした。 彼らは、イエスさまのお姿から、実に多くのことを学びました。彼らは単に本のようなものが与えられて、それを読んで頭で理解することで働きのために整えられたのではありません。生きたお手本であるイエスさまがともにいてくださることによって……それこそ、同じ釜の飯を食べ、同じ空気を吸うことで……数多くのものを吸収していったのでした。 教会という共同体は、その存在そのもので、イエスさまを証しする存在です。教会とはイエスさまがその十字架の血潮により買い取られた、神の宮、キリストの体です。どれほど貴重な存在でしょうか! この教会を、イエスさまはみそばに置いてくださったのです。しかし私たちの側では、その大事な事実を見失って生きてはいないでしょうか! 私たち教会は、いま私たち自身が考えているよりも、はるかに素晴らしい存在です。私たちが何者かを知るには、私たちが一緒になって、ともにおられるイエスさまとお交わりを持つことです。イエスさまとお交わりを持つならば、私たちはこの世から神さまの側に分かたれている者としてふさわしく、ともにキリストの似姿として整えられる恵みをいただきます。私たちはともに、その存在がイエスさまを証しできるようになるのです。 お互いをご覧ください。お互いは、イエスさまがそばに置いてくださった、とても大事な存在です。この仲間たちをイエスさまは、一緒にみそばに置いてくださったのです。そう考えてお互いを見ると、心から愛したい思いがわき上がってこないでしょうか? そうです、それでこそ教会、キリストのからだです。 十二弟子の共同体の性格、第3は、イエスさまが働きをゆだねられた人々です。 マタイの福音書10章1節に、次のようなことばがあります。……これは、すごいことです。この権威を十二弟子は、イエスさまから与えられたのです。しかし、霊どもを追い出す権威は、霊どもの上に君臨して威張るためではありません。人をいやすため、つまり、神さまの最高傑作である神のかたちである人間が、その本来の創造の目的にふさわしくなるため、それに取りついている悪霊を追い出し、いやしてあげるのです。目的は悪霊そのものにはなく、あくまで人のいやし、そして人をおつくりになった神さまのみこころにあります。 悪霊を追い出すということばを聞くと、何やらものすごくおどろおどろしいものを想像するかもしれません。それこそむかしのホラー映画のような世界ですとか。たしかに、そのような目に見える形での悪霊追い出しというものは存在します。私も以前、リバイバル運動に傾倒していた頃は、そういう働きのお証しを結構聞いたものでした。個人的にはそういう世界があることを信じています。 しかし私たちは、なにも特別なことを考える必要はありません。人を悪霊の働きに引きずり込む要素というものは、こんにち私たちが住む社会にはうじゃうじゃしています。インターネットなどはその典型でしょう。インターネットで匿名の掲示板の汚らしい表現や軽薄なゴシップを見て憂さを晴らしたり、ポルノを視たりします。そういうことをしなくても、だらだらといろいろなサイトを視つづけて、貴重な時間をつぶしてしまったりします。 もし人がきよめられていないで、悪霊のなすがままになっているならば、自分の罪の性質にしたがってインターネットにアクセスし、見聞きしてはいけないものにおぼれます。そうしているうちに、ますますその人は、悪霊の支配を受けるようになります。スマートフォンなどは、悪霊の支配に自ら身をゆだねるために持ち歩くものに成り下がってしまうのです。インターネット以外にも、深酒の習慣、薬物、ギャンブル、買春(かいしゅん)、買い物中毒、いかがわしい宗教、おまじないや占いのようなオカルト……あるいは、世の中に不義に対して何とも思わない無関心、自己中心……悪魔と悪霊はいろいろな方法を用いて、人間を支配しようとします。 そうです。人はその罪の性質を肥え太らせる、悪い霊の支配に晒されています。そのなすがままになり、そこから離れるのもとても難しくなっている人もいるでしょう。そういう悪魔と悪霊の支配から人を自由にする、これが私たち教会のすることです。人をこのように、この世に存在するあらゆる媒体を使って支配しようとする悪魔と悪霊の支配から解き放つには、その人に福音を伝え、聖霊の満たしによってそのようなあらゆる悪から自由になるようにする必要があります。御霊の願うことは肉に逆らい、肉の願うことは御霊に逆らいます。御霊に満たされているならば、その人はもはや、肉に属するものにおぼれて悪霊の支配を受けることはありません。悪霊はその人から追い出される、ということになります。 イエスさまが、弟子である私たちに伝授してくださった福音の力は偉大です。私たちが今知っているよりも、はるかに偉大で、また力があります。私たちはこの福音によって、この世をキリストから遠ざけ、ひとりでも多くの人を滅びに引きずり込もうとする悪魔と悪霊の支配から人を救い、自由にするのです。 もちろん、人が悪霊を遠ざけるべく変化し、成長するのは、一瞬で起こることではありません。福音を伝えたらそれで終わり、ということならば、私たちは日曜日ごとにこうして教会に集まる必要などないわけです。毎日聖書を読む必要もなくなります。そうではないのだから、私たちは毎日ディボーションをするのですし、毎週日曜日には教会に集まって神さまを礼拝し、また励まし合うのです。お互いのために祈り合うのです。まずは……私たちは福音宣教によって、人から悪霊を追い出せる、そう信じるところからスタートしましょう。私たちは必ず用いられます。信じていただきたいのです。 私たちは、イエスさまに選ばれています。イエスさまがそばに置いてくださっています。そんな私たちは、イエスさまに遣わされて、福音の力で人を自由にする使命と、またそれにふさわしい力をたえずいただきます。イエスさまが、できる、と見込んでくださったから、私たちにはできると信じていただきたいのです。ハデスの権勢も打ち勝つことのできない教会のひと枝ひと枝とされた私たちは、この事実をしっかり心に刻み、そのイエスさまの召命に忠実に歩めるように、日々みことばをお読みし、お祈りし、またお互いの交わりを欠かさないで、整えられてまいりましょう。